僕、はじまりのはじまり
彼女は閉店5分前にやってきた。控えめに空けられたドアから入った隙間風に僕は身震いをした。外では12月の雨粒が静かに地面を濡らしていた。
彼女は店内を義務的に見回してから僕のほうへと歩いてきた。そして小さな声で僕に言った。「このコを買い取ってください」
彼女の足元には、ビーグルが小さく座っていた。雨に濡れたそのからだは小刻みに震えている。
彼女は続けた。「どうしても手放さなきゃいけなくなってしまったんです」
「いや、でも…」と僕は答えた。「うちはペットショップなんで、買い取りはしてません」
「でも他に頼めそうな場所が思いつかないんです」と言って彼女は頭を下げた。「お願いします」
彼女はしばらくの間、そのままの姿勢で下を向いていた。髪がかけてある彼女の左耳はイタリアの美術館にあるオブジェのようにみえた。
「理由を教えてもらってもいいですか?」
「手放さなきゃいけなくなったんです」彼女は顔をあげて、同じ言葉を繰り返した。
僕は彼女の口から発せられるであろう次の言葉を待った。
彼女の年齢は三十歳くらいだろうか。うっすらと化粧をしている。それは自然に、そして上品に、ほのかな色味を彼女の肌に与えていた。スカートの前で重ねられている手は、左耳とセットで彫られた芸術品のようだ。長いまつげが上下に何度か揺れた。とても上品なまばたきだ。全ての作業を放り出してでも、その仕草を眺めていたい気持ちになる。彼女はもう一度まばたきをしてから、僕の目を見て言った。「お願いします」
僕は鼻で小さくため息をした。彼女にはどうしても犬を手放さなければいけない事情があり、そしておそらくペットショップに犬を持ちこむのは彼女にとって最後の手段だったはずだ。僕が断っても、彼女がなんらかの方法で犬を手放すことに変わりはないだろう。
僕はもう一度小さくため息をついてから言った。「もしよかったら、コーヒーでもどうです?ちょうど2軒となりに喫茶店があるんで、少しだけ事情を聞かせてくれませんか」