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誘う空席

掲載日:2026/04/03

 ーーくそが。


 だからこの時期は嫌いなのだ。

 四月。新学期。新生活。始まりという新しい煌びやかな響きに期待と不安を募らせる瑞々しい顔ぶれが紛れ込んでくる季節がきた。

 

 鬱陶しい。

 すっかり新鮮さなど擦り切れ錆びつきくたびれた社会人十年選手からすれば、四月なんて最悪の時期だ。


 年度末の忙殺。部署や配置換えでせっかく慣れた環境を崩されたり、年度を跨ぐ度に増す一方の業務量とプレッシャー。そのくせ給料の上げ幅は雀どころかミミズの涙程度。やってられない。それでも何度も嫌気が差しながら新たな活路を見つけることも抗うこともできず、歯車として働くことから抜け出せない毎日。

 

 ーー座ることすらできねぇのかよ。


 だから今年もこのざま。通勤電車における座席の確保は、一日を乗り切る為の重要なファクターだ。乗客の行動パターンを把握し、少しでも長く座れる席に当たりをつける。

 通勤電車の顔ぶれには俺と同じ歯車が多く存在する。もちろん乗った瞬間に座れるのがベストだがそうはいかない。なので次の駅、次の次の駅で降りる乗客に目星をつける。そうやって毎日をやり過ごしてきた。

 

 それが崩れ去るのが四月だ。

 乗客が増えればバタフライエフェクトのように他の乗客にも影響し、他の乗客の行動パターンも変わっていく。

 

 つまり、俺の安息が奪われる。

 たかが三十分。されど三十分。座ることが出来れば睡眠にもありつける。

 

 はぁ。心の中で溜息をもらす。今日は立ちっぱなしか。暗澹とした気持ちでつり革を掴みながらイヤホンから流れる音楽を聞き流す。


『次はー御陵ー御陵ー』


 ドアが開く。乗客が降り、御陵駅からも人間が乗り込んでくる。

 絶望的。微かな期待すら潰される。


 ーーん?


 すっかり諦めかけていた時、少し離れた長椅子にぽっかり空いた席が目に入った。

 周囲を確認する。不思議なことに誰もその席に座らない。

 空席の両隣を見る。サラリーマンとおばさん。至って普通。特にどちらも隣に座るのを躊躇うような人物ではない。


 俺は空席に向かって歩き出す。少し距離があるが関係ない。わざわざ離れた場所の空席に座りに行くことに恥じらって動けない者もいるだろうがかまうものか。座れるに越したことはない。


“こういう不自然にぽっかりと空いた席っていうのは、幽霊がいるんだよ”


 ふとどこかで聞いた記憶が思い起こされた。

 この席には見えない誰かが座っている。だから無意識にこの席に座ることを人々は避ける。


 馬鹿馬鹿しい。

 そんな迷信めいたもので無駄なエネルギーを消費してたまるか。俺は躊躇うことなく空席に腰を下ろした。


「あ、座った」


 誰かのそんな声が聞こえた気がした時には俺はどっしりとシートの上に座っていた。

 

 合致。


 妙な感覚だった。ただ座ったというより、自分の身体がすっぽりそこに嵌ったような、適合したような感覚だ。

 あまりにも自分の身体と一致している。自分の型にくり抜かれたピースに自分がばっちりはまるような、収まるべき場所に収まったような感覚。


「やっと座ったか」


 また声がした。驚くほどのフィット感に全身が包まれる。


「もう立たなくていいからな」


 言われた瞬間するりと自分の身体を何かが通り抜けた。席の底に沈んでいく自分とは逆に、席の中から外に出ていく何か。

 

 そうか。こいつがいたから誰も座らなかったのか。

 でも、じゃあ俺は何故座った?


「お前には無理だ」


 だからここでゆっくりしておけ。そんな声がした。


 ーーあぁ、あんたか。


 声の主が死んだ親父だとようやく気付いた。仲も良くなかったし、ろくに墓参りも行かなかったがこんな所で眠っていたのか。


 ーー何やってんだ親父。全然成仏してねぇじゃねぇか。

 

 親父の死因は過労死だった。平日も休日もない。文字通り親父は身を粉にして働き続け、そして死んだ。

 

 親父は全ての時間を仕事に捧げた。そして家族に全く時間を割かなかった親父を、俺も母親も認めなかった。親父の稼いだ金があったから生きていられたなんて感謝はどこにもなかった。

 

 自分が働くようになって、ようやく親父の凄さを実感した。自分の楽しみなど一切なく休まず働き続けるだなんて正気の沙汰じゃない。親父は狂ってた。常人の行動じゃない。

 やっとゆっくりできるな。

 親父に対してそう思えたのは、親父が死んでからだいぶ後になってからだった。

 

 でもまさか天国に昇らず、電車のシートの底に沈んでるだなんて。

 笑える。死んでからもずっと通勤電車に乗ったままだったなんて、結局あんたはまったく休めていなかったわけだ。


 ーーおやすみ。


 深い深い眠りにつくように、俺は永遠に空席の深海へと沈み続けた。








「新見、まだ帰らないのか?」

「はい。まだまだ仕事残ってるんで」

「いつも死んだような顔してたやつが一体どんな変わりようだ」

「変わりましたんで」

「は?」

「あいつとは変わったんで」

「……ま、まぁほどほどに頑張れよ」

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