出発
8月15日。
手を広げると、陽光の手触りをギシギシと感じるような気がするぐらいによく晴れていて、気温も高い日だった。
新東京国際空港の無機質なエントランスに、俺は立っていた。
俺は大学の二回生で、ボランティアサークルに所属している。毎年外国で合宿をしていて、今年はチェコへ向かう。活動内容とは大して関係無い。ただのレクリエーションだ。まあ第二言語にドイツ語を選択している部員が多いってのもある。じゃあなぜドイツにしないのか? 最終判断を下す顧問に訊いてみないとそこは分からない。
「点呼取るぞ。荒俣ー」顧問谷田が名前を呼ぶ。
「はい」俺は返事した。下の名前は斎だ。ついでにルックスはと言うと、目は若干奥目で二重、瞳は黒。細めの眉に、髪は短髪で、平均的な鼻の形、唇は少し分厚い方だと思うけど、鱈子唇って程でもない。あと、メタルフレームの眼鏡を掛けてる。色は暗めのシルバーで、レンズとツルの先が繋がっていないやつ。フローティングタイプとか言ったかな。
「神代ー。佐田ー。藤井ー……」顧問谷田は名前を呼んでいく。
「ゼミの奴に土産頼まれたよな。お前何買う?」和久井という同級生が言ってきた。
「名産品だろ」
「水かビール辺りになるか。じゃ俺はあれ、あのあれ……何だっけ?」
「俺に聞かれてもな」
「まあいいや。向こう行って決める」
「食い物が一番無難だけどな」
「そうだな」
俺を含む集団は飛行機に乗り込んだ。
座席表を見て、自分の席に座った。
「何か持って来た?」と俺は隣の席の神代に言った。何かというのは、要するに機内での暇つぶしをする道具である。
「そりゃまあ、一応は」彼は言った。
「何?」
「トランプとあと、PSP」
「定番」
「別にいいだろ」
「文句は言ってない」
「そうか。ポーカーやるか?」
「OK。賭けは?」
「無し。旅行でいくら使うか分からないからな。何か賭けるなら帰りだ」
「了解」
俺は前の座席の背中に付いているテーブルを下ろし、通路を挟んだ隣の座席に座っている和久井に声を掛けた。
「強制参加?」彼は言った。
「二人じゃ面白くない」
「まあそうか。ミカちゃんもやる?」隣に座る女に訊いた。中央席の一番向こう側に居る松山という男は既に眠っていた。
ミカは首を振った。「ルール知らないの」
「分かった。それじゃ賭けは……」
「無しだって。聞いてたろ? 金無くなったら困る」俺は言った。
「物質じゃなきゃいい。ミカ、勝った奴の頬にキスしてよ」
「えー?」
「頼むよ。ここ皆寂しい独り身なんだし。俺なんか先月振られたばっか。チェコに着いたらアイス奢るから」
「うーん……」
「頼む」
「パフェなら」
「OK! じゃ始めよう。最初から三人だからドローは無し」
神代がカードを配った。俺は一枚もカードを交換する事が無かった。口角が上がるのを堪える。
「本当にいいのか? 荒俣」と和久井。
「多分な」
「じゃ出すぞ」と神代。
俺はフォーカード。他の二人はツーペア。
「あー、クソ」和久井が嘆いた。「こいつの為にパフェ奢るのかよ」
ミカの唇が頬に触れた。離れてからも少しの間、その部分は微かに熱を帯びていた。
「もう一回だ」神代はカードを回収して、シャッフルした。
二回目は和久井がフラッシュで勝利。女神のキスを受けて上機嫌だった。
「間接的に俺と頬ずりしたな」俺は言った。
「やめろよ。ゲイかお前は」
「そんなわけないじゃないの」
「オネエ言葉」
「おい、トランプ持って来たの俺なのによ」と神代。
「じゃあ頭撫でてあげる」ミカは手を伸ばした。
「ありがとう。俺ソフトMなんだ」
飛行機のタイヤが地面と接触する振動で、目が覚めた。ポーカーを終えてから、いつの間にか眠っていた。
「着いたか」俺は誰に言うとも無く呟いた。荷物棚に指先が触れそうな程に大きく体を伸ばし、顎が外れるかと思う程の欠伸をした。
「起きた?」隣の神代は言った。
「ああ、おはよう」俺は言った。
「おはよう、ね。まあ、一般的には深夜って呼ばれる時間帯だがな」
「は?」確かに外は真っ暗だった。時計を見ると、AM11:40とある。
「ああ、時差か」機内の時計はAM4:17を示している。「猟師が起きるような時間帯だな」
「だな」
外の様子を表現してみると、何というか、「密度の濃い闇」みたいな、そんな感じだ。滑走路とターミナルの電気以外は全て闇。黒過ぎるほどに黒い。
「時差ボケが心配だな」
「そうだな」
飛行機が完全に停止して、シートベルトの着用ランプが消えた。
「乗り換えだ。一時間程空くから、少しロビーで休め」寝起きで頭がボサボサになった顧問谷田が、声を若干詰まらせて言った。
オーストリア、ウィーン・シュベヒャート国際空港。ここからプラハ行きの飛行機に乗り換えである。寝起きで記憶が飛んでいて、ここでは何を話したのかすら覚えていない。
約五十分後。
先程よりも小さな機に乗り込む。シートベルト着用のサインが出て、すぐに離陸した。小さい分揺れも大きい。
「どの位で着くんだった?」隣は和久井に変わっていて、俺は彼に訊いた。
「一時間位だろ。隣の国だし」
「そうか」
目が覚めると、シートベルトはいつの間にか外されていた。
窓外には、早朝のドナウ川が見えていた。
「ああ、起きたか」和久井が言った。
「また寝てた」
「昨日何時に寝たんだ?」
「一昨日」
「あ、そうか。何時だ?」
「三時」
「何でそんな遅いんだよ」
「分からない。荷造りを終えてからずっと目が冴えてた」
「ほう。空港出た後はホテルに直行だったか」
「そうだな」
「バス?」
「と電車」
「疲れるな」
「まあこのぐらいの人数でバス会社から一台チャーターするわけにもいかないだろ」
「まあ……そうだな」サークルの全体人数は二十人程だった。
AM8:23、ルズィニエ空港に到着。
「今からガイドさんのマイクロバスに乗って、三十分ぐらいか。そのぐらいの時間でプラハ市営地下鉄に着く。そこからは列車。空港内でコルナとユーロ、半分ずつ両替してから出発する。迷子になるなよ」顧問谷田の話が終わると、俺達は待合所の椅子から立ち上がった。
空港を出ると、言った通りマイクロバスが止まっていた。俺らが乗り込んで、最後に顧問谷田と副顧問土井が乗り込んだ。
「それじゃ頼む」副顧問土井が言った。
「分かりました」
運転手は日本人だった。
「今回このバスで世話になる、木田良隆だ。君らの先輩」顧問谷田は言った。発車した後も彼らは仲良く喋りながら運転していた。わざわざチェコという微妙な国を選んだのは、この為だろうと勝手に想像した。