夜勤
派遣会社の斡旋で、山間にある老人介護施設の夜勤に入ることになった。俺は二十九歳、仕事を転々としては長続きせず、ようやく見つけた「夜勤は楽で給料も悪くない」という言葉に釣られたのだ。
施設の名は「青楓苑」。築四十年を超えた古びた建物で、街から車で四十分以上かかる。送迎のバスを降り立つと、山から吹き下ろす冷気に背筋が震えた。
出迎えたのは看護主任の女性だった。五十代半ば、笑顔は作っているが目が笑っていない。彼女は俺に簡単な説明をすると、注意事項としてこう言った。
「夜中の二時を過ぎたら、三階の見回りは短めでいいです。……なるべく奥の病室には入らないように」
不自然な言葉に引っかかったが、初日から余計な質問をするのも気が引けて、俺は黙ってうなずいた。
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夜勤は午後八時から始まる。フロアにはもう一人、ベテランの介護職員がいた。彼女の名は内藤さん。二十代後半で、黒縁メガネの大人しい女性だった。
「新入りさん? あんまり怖がらないでね。夜勤は慣れたら楽だから」
そう言われ、俺は少し安心した。
だが、深夜一時を過ぎたあたりから、異変が始まった。
廊下の電灯がちらつき、誰もいないはずの浴室から水音が響く。耳を澄ますと、誰かが湯船に手を打ちつけているような、規則正しい水音だった。
「この時間に入浴なんてあるはずがない」
そう思いつつも、俺は内藤さんを呼んで確認した。
だが彼女は首を振り、声を潜めて言った。
「見に行かないほうがいい。……あそこはね、もう使ってないの」
確かに、浴室の扉には「使用禁止」と札がかかっていた。けれど、水音は確かに続いていた。
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そして二時。
俺は主任の言葉を思い出しながら三階の見回りに上がった。廊下は薄暗く、窓から差し込む月明かりだけが頼りだった。
奥へ進むと、空き部屋のドアが半開きになっている。誰も入っていないはずだ。恐る恐る覗き込むと、古びたベッドに誰かが腰掛けていた。痩せ細った背中。病衣のようなものを着た老人の姿。
「……入居者の人?」
声をかけた瞬間、その老人が振り向いた。
だが顔はなかった。目鼻口のない、のっぺりとした皮膚が張り付いているだけだった。
俺は息を呑み、背筋が凍りついた。
その顔のないものはゆっくり立ち上がり、こちらに歩み寄ってきた。足音はせず、ただ空気を押しつぶすような圧迫感だけが近づいてくる。
必死に後退しながら階段へ逃げようとした瞬間、背後から誰かに腕をつかまれた。
内藤さんだった。
「だめ! 見ちゃったのね」
彼女の顔も蒼白で震えていた。
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「ここにはね……昔からいるの。夜の仕事に入った人は、必ず一度は見るのよ」
彼女は俺を物陰に押しやり、息を殺すように囁いた。
「三階の奥は、最後まで亡くならなかった人たちが集められていた部屋。苦しんで、泣いて、助けを呼んでも誰も来なかった……だから、いまも夜になると人を呼ぶの」
廊下を漂う気配はしばらくうろついた後、やがてふっと消えた。
俺は全身汗だくになりながら、もう二度と夜勤などしたくないと思った。
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しかし夜明け前、さらに恐ろしいものを見た。
ナースステーションに戻ると、主任がそこに立っていた。にこやかに、しかし異様にぎこちない笑顔で。
「最初の夜勤で見てしまったのね。おめでとう」
その顔を見て、俺は息を止めた。
主任の口は笑っていたが、瞳が存在していなかったのだ。まっさらな皮膚の上に、眼鏡だけが掛けられていた。
「これであなたも、もうここから離れられない」
そう告げられた瞬間、背後の窓ガラスに反射した自分の顔を見た。
そこには、目も鼻も口もない「俺」が映っていた。
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夜勤明けのバスで街に戻ってからも、鏡を見るのが怖い。顔はまだある。だが、ガラスに映る自分がいつ消えるのか、それが恐ろしくてたまらない。
次の夜勤のシフトは、明日だ。
俺は行かないと決めている。だが、携帯に何度も施設からの着信が入る。
画面に浮かぶのは「青楓苑」の文字。
そして、聞こえてくるのは無機質な水音。あの浴室の、規則正しい音だ。
逃げられないのかもしれない。
夜職に足を踏み入れた者は、もう。