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公爵令嬢セリーヌはいかにして国を救ったか

正しくあらんとする公爵令嬢が王子に説教をしていたら国を傾けてしまいました

作者: 国府宮清音

 初春の風が吹き抜ける入学式の日。

 平民の少女は、震える肩を隠すように張りながら、王子の隣で朗らかに笑っていた。

「これからも、よろしくお願いします、王子様!」


 それは、春めいた希望と期待に満ちた、あまりにも晴れやかな笑顔だった。

 その笑顔が視界に焼きついた瞬間、胸の奥がわずかに痛んだのを覚えている。

 その痛みが何を意味するのか、当時の私は知る由もなかった。


 私の名は、セリーヌ・ド・ラヴェル。ラヴェル公爵家の長女にして、この国の第一王子の婚約者という立場にあった。

 王家と公爵家を結びつける「存在」として、ただそうあるようにと育てられてきた私にとって、平民の少女が王子の隣で微笑むことなど、決して許されることではなかった。


 身分の差を説き、穏やかに諭そうとする私に、王子は困惑したように告げた。

「彼女は特別な存在なのだ。だからこそ、庇護が必要なのだ」

 その言葉に、誰も逆らうことなどできなかった。

 それほどまでに、あの少女の笑顔には抗いがたい力が宿っていた。


 “努力家で純粋な平民の少女”。周囲は皆、彼女をそう呼び、惜しみない称賛を送った。

 誰もが彼女を讃えれば讃えるほど、私の視線は冷たさを増し、彼女が王子の隣に立つことに拭い難い違和感を覚えるようになった。

 彼女の笑顔を見るたび、胸の奥がざわめいた。私には理解し得ない、あの無垢な笑顔が、王子の心を確実に奪っていくのが解ったからだ。


 だからこそ、私は「悪役令嬢」になったのだ。


 彼女を遠ざけるため、私はあえて冷徹な言葉を選んだ。

 規律を、秩序を、守るようにと告げるたび、周囲の視線は容赦なく私に向けられた。

 それは、冷たい視線であり、嘲笑であり、そして憐れみだった。

 「セリーヌ様は嫉妬深い」

 「婚約者の座を守るために必死なのだ」

 降り注ぐ全ての声が、私を確固たる悪役へと変貌させていった。


 ――もし、あの時、私がもっと早くに真実に気づけていれば、この未来は変わったのだろうか。

 今となっては、言っても詮無いことかもしれない。

 けれど、私は心から王子の幸せを願っていた。この国の平穏を願っていた。

 それは、紛れもない事実だ。誰にだって、胸を張ってそう言える。


 しかし、それがどれほど虚しい願いだったのかを悟ったのは、私がこの学園を去る、まさにその日だった。

 


 これこそが、私、セリーヌ・ド・ラヴェルの物語。誰にも届くことなく、ただ私だけが知る、ひそやかな物語なのだ。



***



 庭園には、白いバラが誇り高く咲き乱れ、朝露に濡れた花弁が陽光をきらめき返していた。

 その中心で、イサベル・モンターニュが朗らかに笑っている。平民でありながらも、その卓越した頭脳を高く評価され、特別推薦枠でこの学園への入学を許された才媛だ。

 見た目は、実に愛らしい。素朴で純粋な笑顔は、男性陣の庇護欲を強く刺激すると評判だった。


「王子殿下、こんなに美しい庭園で学べるなんて、夢のようですわ!」

 この国の王太子であるルシアン・ド・ヴァロワ殿下は、優しく、全てを包み込むような微笑みを浮かべていた。

 二人の間に確かな絆が生まれつつあるのは、もはや誰の目にも明白だった。


 自然と、長い溜息がこぼれる。

 あれほど進言したというのに、殿下は何も理解していない。

 たった二ヶ月で、二人は自ら、暴走する馬車へと乗り込んでしまったのだ。


 殿下と彼女が行動を共にするようになったのは、それこそ入学式の朝、私たちが校門をくぐり抜けたときからだった。

 学園に足を踏み入れたものの、式典の場所がわからず左右を見回していたイサベルを見つけ、殿下は気さくに声をかけたのだ。

「もしかして、君がイサベル・モンターニュかい?」

「へ……?」

 気の抜けた、しかし愛らしい声で、不思議そうに殿下を振り返るイサベルは、誰もが油断してしまうほど愛嬌に満ちていた。

 殿下が彼女を一目で気に入ってしまったことについて、その時の私は特段、責めるつもりはなかった。


「はい、私がモンターニュですが……」

 及び腰で、おどおどと振る舞うイサベルに接する殿下の態度は、最初こそ迷子に対する警備兵のようであったが、やがて孤児院の僧侶のように優しくなり、ついには一人の若い男性のそれへと変わっていった。そこに王国第一王子としての顔がなかったのは、本当に残念でならない。

 婚約関係は政治的な理由によるものであり、その立場さえ弁えていれば、個人の恋愛は自由だ。どうぞ、好きなようにすればいい。

 ただ、そこは第一王子としての立場をわきまえ、自らの言動がどのような意味を持つのかを深く考えた上で行動しているのだと、私は信じて疑わなかった。

 まさか、その場の感情のままに動き、きらきらと輝く金髪をなびかせていたとは、その時の私には思いもよらなかった。

 

 それ以降、殿下は常にイサベルと行動を共にするようになった。

 だから私は早い段階で、婚約者がいる身としてそれは疑念を招く行為であるし、次代の王となる者として、常に平民のみを傍らに置くのはいかがなものかと進言した。

 しかし、殿下は私の言葉を否定するように首を横に振った。

「彼女を一人にしておくのは、良くないと思うんだ」

 周囲の貴族子弟の中には、彼女を快く思わず、侮蔑の眼差しを向ける者もいるだろう。あからさまに態度に出す者がいることは想像に難くない。

 

「……それは、平民なのですから。それを承知の上で、彼女は入学しているのではないでしょうか?」

 貴族と平民の間には、高くそびえる壁が存在する。

 その壁をあえて越えてくるからには、それによって生じる様々な障壁を受け入れ、あるいは跳ね返す覚悟があってしかるべきではないだろうか。

 もちろん、あえて平民に対する不快な感情を口や態度に出す必要はない。しかし、自然と滲み出てしまうことはある。

 

 それは、公爵と伯爵の間、あるいは伯爵と男爵の間でも起こりうること。貴族と平民であれば、なおさらだ。

 そこに殿下が特別に配慮する意味があるのだろうか。

 この先、学園を卒業して彼女がどのような道を歩むのかは解らないが、選んだ道に貴族がいれば、同じような目に遭うはずだ。


「いやいや。だからと言って、こちらがわざわざ招聘して入学してもらった相手に、そのような思いをさせることこそいかがなものかと私は思うよ」

 私が招聘したわけではないが、学園、つまり貴族側が招聘したとは言えるだろう。

 だから、殿下が共にいることで、少なくとも表立って口に出す者は減らせる。

 そして、共にいる相手が殿下であることで、平民に対しても誠意を示せる。ただそれだけだ、と殿下は仰った。


「誠意、ですか……」

 どこか詭弁めいたものを感じた。

 しかし、いかなる経緯であれ、平民たちは息を凝らし、こちらの出方をじっと見つめているのは確かだ。

 こちらの世界に飛び込んだ平民を、貴族がどのように扱うか、彼らは固唾をのんで見守っている。

 それに対して殿下が対応するのはある意味正しいのかもしれない。

 それによって、少なくとも彼らを大事に扱っているという表明にはなるだろう。だから私は、この時点でそれ以上食い下がることはなかった。


「……セリーヌ様、お声がけなさらないのですか?」

 バラ園で楽しげに語り合う二人を見て、側仕えの少女がそっと囁いた。

 私は、軽く首を横に振る。私に何を求めているのだろう。あの場に踏み込んで、良いことなど何ひとつない。

 

 私はセリーヌ・ド・ラヴェル。公爵家の長女として生を受け、この国の第一王子、ルシアン・ド・ヴァロワの婚約者として育てられてきた。

 国を支え、家を守るため、王子の隣に立つことは、私の義務であり、誇りであったはずだ。

 だが、この学園に入学してから、全てが変わった。

 やはり、この関係はどこまでいっても政治的な繋がりに過ぎないのだと、嫌でも悟らされた。

 

 平民の出でありながら入学を許され、王子の隣で微笑むイサベル・モンターニュ。

 努力家で、礼儀正しく、ひたむきで、そしてまっすぐに王子を慕う彼女を、今はまだ多くの生徒が眉をひそめ、鼻をつまんで軽んじている。

 しかし、殿下の態度が変わらなければ、いずれ風向きは変わるだろう。

 王子と平民の少女の純愛は、やがて美談のように語り継がれるようになるはずだ。その時、私はどうなる?

 

「……構わないわ」

 そう、吐き捨てるように告げて、再び歩き出す。

 私は、ただ廊下を歩いていただけのこと。たまたま、二人の姿をお見かけしたので、ほんの少し見ていただけに過ぎない。

 王子の隣で微笑む彼女を見ていると、胸の奥が凍りついていくのを感じる。

 やはり、あの少女は遠ざけなければならない。この国の秩序を守るため、そして王子の未来を守るために。

 それが、私の果たすべき役目となるだろう。

 

 だが、一体どうやって?

 正攻法で通用するだろうか。これ以上強く進言すれば、疎んじられるのは確実だ。

 しかし、それ以外に打つべき手が、今の私には思いつかない。私は、少しばかり自分の才能を過信していたのかもしれない。

 このような局面で、的確な解決策を見出せずして、何が未来の“輝ける”王妃だろうか。

 

 時間が経つにつれ、こんな声が周囲から聞こえるようになった。

「セリーヌ様、またイサベルさんに何か……?」

 昼下がりの回廊で、控えめな、しかし確かな声が私に届いた。

 振り返ると、数人のクラスメイトの令嬢たちが、私を見るなりすぐに目を逸らした。

 

「何か、御用かしら?」

「い、いえ……」

 小さく震える肩、そして逸らされる視線。ついに、始まったのだと悟った。

 私に対し、心からの笑顔で話しかけてくる学生は、もうほとんどいなかった。

 殿下の婚約者である以上、表立って私を無視することはできないから、最低限の挨拶だけはする。

 しかし、その目は冷たい水面のようで、貼り付けたような笑顔の裏に隠された感情が透けて見えた。

 

「またイサベルさんに意地悪をしたのかしら」

「婚約者の座を守るために、平民の娘を苛めているんだわ」

 そんな声が、まるで鋭い刃のように、毎日私の背中に突き刺さるようになったのだ。

 誰もいない夜の部屋で、私は鏡に映る自身の目を見つめて呟いた。

「あなたは、間違ってなどいない。この国のため、そして殿下のために、最も大切なことをしているのよ」



***



 学園の中庭。昼下がりの空気は爽やかで、咲き誇る白薔薇の甘やかな香りが風に乗って、あたりを満たしていた。

 その光景の中心で、私と殿下は向き合っていた。

 その場の雰囲気は、とても「爽やか」などとは言い難いものだった。

 

「イサベルに、あまり厳しく接するな、セリーヌ」

 殿下は、そう告げた。それどころか、私に反論の隙すら与えまいと、先んじて私の口を封じようとするに至ったのだ。

「ですが、あの者の口ぶりはあまりにも不敬にして不遜。殿下との身分を弁えぬ言葉遣いは、決して許されるものではありません!」

 私の声は、我知らず大きくなっていた。

 近くにいた学生たちが、その場で足を止め、一斉にこちらに視線を向ける。

 確かにイサベルは平民であり、貴族の作法に精通しているわけではない。普段は気を付けていたとしても、ふとした拍子に零れてしまうこともあるだろう。

 

 しかし、彼女の場合は、常にそうだった。話し方は、まるで同等の相手であるかのように遠慮がない。

 気軽に呼び止め、腕や背中に触れ、時には無邪気に物をねだり、甘えるような仕草で媚びを売る。

 それが許される人間など、少なくともこの学園の中には、誰一人として存在しないのに。

 

「平民の立場でここまで努力しているのだ。少しは、大目に見てやってはくれないか」

「そのような……ご自身が何を仰っているのか、おわかりになっていらっしゃいますか?」

 殿下は、ご自身で、ご自身の価値を軽んじているのだ。

 自らの権威を揺るがしていると、なぜおわかりにならないのだろう。

 殿下は思わず顔をしかめ、私から視線を逸らした。

 殿下のこのような表情を知っているのは、私だけだろう。そんな、全く自慢にもならないことを考えていた。

 もはや私の言葉は届かないようだ。殿下の心は、遥か遠くに旅だってしまった。

 

「セリーヌ……もしかして君は、イサベルに嫉妬しているのか?」

 その言葉が耳に届いた瞬間、私の頭の奥で、何かがプツリと切れる音がした。

「嫉妬……ですって?」

 私の視界の端で、イサベルが小さな身体を抱え込むように立っていた。

 ダークブラウンの髪が風に揺れ、その黒真珠の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。

 

「殿下……私のせいで、セリーヌ様とお争いになるなんて……」

 小さく震える声。その言葉に、周囲の学生たちは一斉に同情の視線を向けた。

「イサベル、大丈夫だ。気にする必要はない」

 殿下が優しく微笑みかけるその姿は、私の胸を鋭く切り裂いた。

 

「殿下は、ただ誠意を見せるだけと、以前は仰いました」

 私の足が、がくがくと震え始めた。

「今も見せているさ。さあセリーヌ、これ以上イサベルに辛く当たるのはやめてくれ。もう、これ以上は見過ごせない」

「……辛く、ですか?」

「君が冷静さを欠いているように見えるだけだ。嫉妬のあまり、ね」

 

 私は、何も言い返すことができなかった。もはや、この場で何を言葉にしても全く意味がないのだと、思い知らされてしまったから。

 私が、嫉妬している?

 冗談ではない。たとえ、私が殿下を憎からず思っていたとしても、公私の区別は明確につける。

 それが、将来の王妃として義務付けられた者の、唯一あるべき姿だからだ。

 閨以外での言動は、その全てが政治的な意味を持つと。幼い頃から、そう厳しく教え込まれてきた私の言葉を、殿下は「嫉妬」の一言で片付けた。

 これほどの侮辱があって、たまるものか。

 

 だが、同時に悟ってしまった。何を言い返したところで、もはや何の意味もないのだと。

 この場で、殿下が私を嫉妬していると、これほど見当違いなことを口にする。

 これが王族としてどういった意味を持つのか、それすら思い至れないのであれば、もはや私の言葉は届かない。

 

 しかし、それでも私は殿下の婚約者なのだ。婚約者である限り、当然果たすべき義務がある。

 この先のことを思うと、気が重いのは確かだ。

 だが、それでも張らねばならぬ意地がある。

 なぜなら私は、栄えある公爵家の娘なのだから。どんな逆風が吹こうとも、貴族には貴族の、公爵令嬢には公爵令嬢としての揺るぎない誇りがある。

 為さねばならぬ義務が、そこにあるのだ。

 

 ある日のこと。礼儀作法の授業で、私はイサベルの明らかなミスを指摘した。

「そこは、もう一歩、下がってくださいまし」

「あ……すみません」

 私は、ただ純粋に、誤りを教えていただけだ。

 歴史と伝統によって幾世紀にもわたり洗練されてきた礼儀作法は、頭のてっぺんから足の先まで、その場所や角度が厳密に定められている。

 そうある方が美しく、そして機能的でもあるがゆえに、そうなのだ。

 その足の位置にも、そこにある明確な理由が存在する。詳細は不勉強にて知らないが、そうであるなら、そうであるべきなのだ。

 だというのに。

 

「また、セリーヌ様がイサベルさんに意地悪をしているわ」

 そんな囁きが聞こえてくれば、私には立つ瀬もない。

「あの程度のミス、わざわざ指摘する必要があるのかしら」

 しん、と周囲が静まり返った。慌てた教師が、私の正当性を説明しようとする。だが、その弁明は、かえって痛々しく響くだけだった。

 何かが、根本的におかしい。私はそう感じた。

 

 貴族が平民のミスを指摘した場面で、他の貴族が平民の味方につくなど。そんなことが、ありえるだろうか。

 イサベルが“努力の人”という評価を得ているのは知っている。

 だからと言って、教室のほぼ全てが、平民である彼女の側に立つだろうか。

 

 貴族が、同じ貴族と平民を天秤にかけ、平民を選ぶなどということが、果たしてありえるだろうか。

 本来ならば、天秤にかけること自体、あってはならない。

 今回も、私は何も間違ったことは言っていないというのに、だ。

 

 他の生徒たちは、私の抱く危惧を、まるで理解していないのだろうか。

 彼女の存在が、いかにこの貴族社会にとっての「脅威」となり得るかを。

 

 王子との、あまりにも近すぎる距離感を諫めた時。

「平民だから無礼だと、そう言いたいのね」

 と陰口を叩かれた。

 無言で二人の様子を見つめているだけなのに。

「セリーヌ様が睨んでいるわ」

 と、そう噂された。

 

 周囲の者たちが、私から少しずつ、しかし確実に離れていく。

 それを肌で感じるたび、私は息が詰まりそうになった。

 なぜ、私が悪いことをしているという結論になるのか。

 王子に相応しい振る舞いを教え導くのは、婚約者である私の役目だ。

 この国の伝統と秩序を守り抜くことは、公爵家としての「務め」なのだ。

 

「セリーヌ様、イサベルさんをお呼び出しになるのは、もうおやめになられた方がよろしいかと……」

「……どういう意味かしら?」

「王子殿下も、お心を痛めていらっしゃいますし……もう、ただ見守って差し上げるだけでも……」

 見守るだけ? あの、目に余る行状を?

 私の立場も、役目も、公爵令嬢としての誇りも、その全てを捨てて、ただ傍観しろと?

 

 私の近くにいてくれた、最後の友人の言葉だった。

 すでに彼女も、私と視線を合わせようとはしなかった。

 最後に残った、ほんの少しの良心とでも呼べるものをそこに置き、彼女は私からゆっくりと離れていく。

 

 こんなことが、本当にあり得るのだろうか。

 誰もがイサベルを受け入れ、無条件に支持している。

 平民の娘が、王子の隣にいることの危うさを、この学園の誰もが感じないのだろうか。

 この国の、揺るぎない秩序を乱すことになるのが、なぜわからないのだろうか。

 

 なぜ、彼らはあんなにも無邪気な顔ができる。

 なぜ、肩を組んで輝かしい未来を語ることができる。

 私は、もはや寄って立つべき道標を完全に失ってしまった。

 一体、何がどうなっているというのだろう。

 

「また、セリーヌ様が平民の娘に嫉妬しているわ」

「身分を笠に着て虐めているのよ」

 そんな声が、絶え間ないさざ波のように押し寄せ、そのひとつひとつが、ちくりちくりと私の心を刺し続けた。

 私がどれほど国の秩序を守ろうと、王となるべき心構えを説こうと、そのひたむきな努力は嫉妬というたった一言で、無慈悲に踏み潰されてしまうのだ。

 

 しかし、もし私がここで諦めてしまえば、殿下を正せる者が、この国からいなくなってしまう。

 このような状態で王位を継がせるなど、あってはならない。

 それは、私自身の名誉にも関わる、由々しき事態なのだ。

 できる限り、殿下の誤りを正さなければならない。それができるのは婚約者である私しかいないのだと、私は己に言い聞かせた。

 重い体を引き摺るように登校し、二人へ、何度となく口うるさく小言を言い続けるのだ。

 

 振り返れば、そこにあったはずの友人たちの笑顔も、優しい視線も、いつの間にか失われていた。

 誰も、私に声をかけようとはしない。

 皆が、私の脇を通り過ぎ、殿下とイサベルを取り囲んでいく。

 イサベルを取り囲む温かな輪の中で、殿下は優しく微笑んでいた。

 

 孤立――。

 それが、他ならぬ今の私の、唯一の立場だった。



***


 

 「私は、ただ……努力しているだけ、なのに……!」

 イサベルの声が、か細く震えた。ぽろり、ぽろりと、大きく潤んだ黒い瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。

 学園の廊下は昼休みだというのに、異様な静けさに包まれていた。私たちを取り囲むように、生徒たちが無言で集まっている。


「セリーヌ様、そこまで仰らなくても……」

「イサベルさんは、どれほど苦労されてここまで来られたことか……」

「まさか、悪役令嬢が本当に存在するなんて……」

 めまいがするほどの既視感。いつもの光景だ。私がイサベルに注意を与えようとすると、周囲はまるで示し合わせたかのように、我先にと彼女を庇う。

 そして、決まって陰口を添えるのだ。


「イサベル、あなたのその言葉を、信じられない理由があるのです」

 震える声を必死で抑えつけ、私は何とか言葉を紡いだ。

「私はこの国の秩序を守るべき立場にある。平民であるあなたが、このまま王子の側に居続けることが、本当に許されることなのか、私は――」


「どうして……私を、いじめるのですか……っ!?」

 イサベルが両手で顔を覆い、小さな身体を震わせながら、その場で泣き崩れた。

 なんだ、これは……なぜ、泣く?

 貴族と平民の架け橋になりたいと、努力だけが取り柄だと、いつもそう言っていたではないか。

 それが、わずかな疑念をぶつけられた程度で、泣き出すなど……。

 そんな弱さで、一体何ができると言うのか。


 周囲から、またしても、ため息や小さな咎める声が漏れ聞こえてくる。

「……あんなに泣かせることないのに……」

「これだから、身分だけ高い令嬢は……」

「かわいそうに、イサベルさん……」

 私の胸は、言いようのない痛みに苛まれた。

 彼女はこれからも、そうやって泣き続け、誰かに助けを乞うつもりなのだろうか。

 自分に都合良く、誰かが手を差し伸べてくれることを、信じて疑わないのだろうか。

 そう、まさに今、この時のように――。


「セリーヌ」

 背後から呼びかけられた声に、私はゆるりと振り返る。

「殿下……」

 そこに立っていたのは、険しい顔で私を射抜くような視線を向ける、ルシアン殿下だった。

 その青い瞳は、かつて私が誇らしく思っていた頃の柔らかな輝きを失っていた。

 突き抜けるように蒼かった空の色は、今やどんよりと曇り、底なし沼のように濁っている。


「もういいだろう。イサベルを、これ以上泣かせるのはやめろ」

「殿下……私には、確たる証拠があるわけではありません。ですが、彼女は――」

「セリーヌ」

 殿下の声が、一段と強くなる。

「……そろそろ、この婚約について、考え直す必要があるかもしれないな」

 周囲が、一瞬の静寂の後、どよめきに包まれた。そして、歓声にも似た声が上がる。

 イサベルが、泣きながらも小さく息を呑む音が、私の耳にはっきりと届いた気がした。


 この人は、一体何を言っているのだろう。これではあまりにも、あまりにも……。

 かつては、あれほど聡明で頼りがいがあったというのに、今では深い溜息しか出てこない。

 もう一度だけ、幼子に諭すかのように、私は言葉を選んだ。

「……殿下。私が、この立場にあるのは、この国の未来を守るため。そして、あなたのためでもあるのです」

「そのために、無関係の人間を傷つけるのか?」

「秩序を乱す存在がいるのならば、それを止めるのが、私の役目でございます」


「本当に、そうか?」

 もしかすると殿下は、王がいて、貴族が支えるというこの国のあり方そのものに疑問を抱いたのかもしれない。その先駆けとして、あえてこのような行動に出ているのかもしれない。

 しかし、たとえそうであったとしても、私が信じてきた、この国のあり方だけは決して捨てられない。

「私は、ただ、私の役目を果たすのみです」


 私がそう言い切ると、殿下は苦しげに目を伏せた。

 そして、未だ泣き続けているイサベルを庇うように、そっとその肩を抱き寄せる。

 私は、ひとり、その場から去った。


 

「セリーヌ様、どうか、どうかイサベルさんを、これ以上は――」

 声をかけてきたのは、私の側仕えの侍女だった。

 そうか、ついに、彼女までが……。

 長い赤毛の髪を揺らしながら、怯えにその身を震わせ、それでも懸命に私を制するように、責めるような目で私を見つめている。


「……あなたまで、私を責めるというの?」

「イサベルさんは、平民でいらっしゃいますが、本当に一生懸命に勉強し、努力されていらっしゃるのです……!」

「努力なら、私だってしているわ!」

 私の声が、廊下に響き渡り、空間の空気を凍りつかせた。

 そんなつもりはなかった。私自身、もう感情を抑えきれなくなっていたのだろう。

 侍女はびくりと肩を震わせ、一歩、たたらを踏むように後ずさった。


「努力してきたのは、私だって同じよ! 幼い頃から、言葉遣いも、立ち居振る舞いも、その全てが完璧であるよう、絶えず求められ、鍛えられてきたのよ!」

 私の目から、熱いものが滲み出てきた。

「私は、ただ自分の立場を守りたいわけじゃない! 未来の王太子の隣に立つ者として、この国の間違いを見過ごすわけにはいかない。ただ、それだけなのよっ!」


 その時、背後で誰かが、深い溜息をついた。

「セリーヌ」

 振り返ると、そこに立っていたのは、またしてもルシアン殿下だった。

「もう……いいだろう」

「殿下……!」

「お前が言っていることは、ある意味では正しいのかもしれない。だがな、お前がその正しさを振りかざすたびに、イサベルが苦しむのだ」


「私は……」

「イサベルが涙を流すたび、皆がお前を悪者だと糾弾する。それで、本当にいいのか?」

 その言葉が、鋭い刃となって、私の胸に突き刺さった。


「お前は……一体、何のために戦っている?」

「それは、この国のためで――」

「本当にそうか?」


 王子の、一点の曇りもない青い瞳が、私をまっすぐに射抜く。

 やはり、殿下は……。私の言葉は、喉の奥で詰まって、何も出てこない。


「もう一度、よく考えてみるんだ、セリーヌ」

「……殿下?」

「もし、その態度を改めないのであれば、その時は……」

 ルシアン殿下は、そこで言葉を区切った。だが、その続きを口にしなくても、私にははっきりとわかった。


 婚約破棄……。

 その可能性が、急に現実味を帯び、私の胸を深く抉り取った。それを厭うわけではない。ただただ、あまりにも無念だった。


 その夜、私は自室の机に座り、日記帳を開いた。ペンを持つ手が、小刻みに震えている。

 私は、間違ってなどいない。

 そう記そうとした文字が、視界を覆う涙で滲み、インクが紙の上で広がる。

 机の上に置かれた花瓶の水面が、微かに揺れた。花瓶の中で揺れるのは、あの時、イサベルが泣きながら殿下に庇われていた姿の幻だ。

「私は……間違って、いない……」

 か細い声で、その言葉を口にしてみる。それでも、胸の奥で冷たい塊が、じわじわと大きくなっていくのを感じた。


 私は、守らなければならないのだ。

 王子を。この国を。そして、私自身を。

 たとえ誰に嫌われようと、どれほど悪役だと呼ばれようとも。この覚悟だけは、決して捨ててはならないのだ。

 ペン先がカリカリと、日記帳を刻む音だけが、静まり返った暗い部屋の中に響いていた。


 私はまだ、負けていない――。

 そう記した、その瞬間。窓の外で一陣の風が吹き抜け、テーブルの上の灯りが、大きく揺らめいた。

 やるしかない。やるしか、ないのだ。



***



 ドレスの裾を踏まぬよう、私はゆっくりと大階段を下りていった。

 煌めくシャンデリアの光が降り注ぎ、ゆったりとした優雅な音楽が流れる中央で、ルシアン殿下とイサベルが踊っていた。

 イサベルの纏う淡いピンクのドレスが、花びらのように軽やかに翻るたび、周囲からは感嘆にも似た拍手が沸き起こる。

 彼女の笑顔は、あまりにも無垢で、清らかだ。まるで光を宿したかのように、そこにいる全ての人々の目を惹きつけてやまない。


 もう慣れたけれど、誰も咎めようとしないのね……。

 平民の娘が、この公の場で王子と踊るなど、本来ならば許されるはずのない行為だ。

 けれど今、周囲の貴族たちは皆、咎めるどころか笑顔で彼女を見守っている。

 ただ一人、私だけが、その光景に冷たい視線を向けていた。

 

「悪役令嬢」

 誰かの囁きが、まるで私を指すかのように、どこからともなく聞こえた気がした。

 踊りが終わり、イサベルは小さく可愛らしくお辞儀をする。

 殿下は優しく微笑んでその手を取り、その甲にキスを落とした。

 彼女の頬は薄紅に染まり、喜びで輝く瞳で王子を見上げていた。

 私は、いつしか階段の中ほどで足を止め、二人の様子を無表情で眺ていた。


「ありがとう、イサベル」

 ルシアン殿下の甘い声が、会場に響き渡る。彼女ははつらつとした声で返答をして、満面の笑みを浮かべた。

 ふと、イサベルと視線が合った。彼女は、まるで勝利を確信したかのように、殿下に何事かを囁く。殿下は静かに頷くと、私を見上げた。

 

「セリーヌ。次は君と踊ろう。さあ、こちらへ」

「……はい」

 私に拒否権など、あるはずもない。私は頷き、再び階段を降り始めた。


 ……不思議なことだった。殿下に対して、心なんて欠片も残っていないはずなのに。

 未だに、婚約者を持つ貴族としての体面にこだわっているというのか。

 婚約者に配慮していると、周囲に示すための行動なのか。

 もしそうであれば、それは完璧に成功している。

 周囲の貴族たちの目には、殿下が取る行動の全てが素晴らしいものだと映ってた。


 イサベルが、私に向かって満面の笑顔で手を振っている。

「セリーヌ様、さあ、早く!」

 階段を登ってきた彼女は、まさに私の目の前まで辿り着いた。その時だった。


「きゃっ――!」

「えっ!?」

 淡いピンクのドレスがふわりと大きく揺れ、イサベルの身体が、突然、階段の上で大きく傾いだ。

 会場にいた誰もが息を呑む音が、流れる音楽の隙間を縫うように、はっきりと聞こえた。


「イサベル!!」

 ルシアン殿下の、切羽詰まった叫び声が響き渡る。

 イサベルの身体は、まるで糸が切れた人形のように階段を転がり落ち、そのピンクドレスが夜会の煌めく光の中で、無残にも花びらのように舞った。


「イサベル! しっかりするんだ!」

 殿下が必死の形相で駆け寄る。イサベルの額からは一筋の血が滲み、真っ青な顔で小刻みに震えながら、殿下を見上げていた。

「どうして……私は、なにもしていない、のに……」

 泣きながら震えるイサベルの掌が、まるで私を告発するかのように、階段の上の私へと向けられた。


「どうして、と問いたいのはこちらよ……」

 叫びたかった。

 イサベルが突然、自らバランスを崩したかと思った瞬間、あえなく階段を転げ落ちたのだ。

 意味も状況も理解できず、私はただ呆然とイサベルを見返すことしかできない。

 

 会場にいた全ての視線が、一斉に私へと向けられた。

 ああ、これはもう、駄目だ。

 無数の視線が、まるで目に見えない縄となって私の首を締め上げる。

 もう、わけがわからない。まるで、見えない檻の中に閉じ込められたような、絶望的な気分だった。



 初夏の空気は心地よいはずなのに、私の心は全く冴えなかった。

 王城の大理石の廊下を歩くたび、私の靴音だけが、虚しく石壁に反響する。

 学園の寮ではなく、王宮へ。

 婚約者であるルシアン殿下からの呼び出しに応じ、私は一人でここへ来た。側仕えの侍女は嫌がっていたので、無理に同行させはしなかった。


 全てを理解しているはずなのに、私の胸は痛いほどに激しく脈打っていた。

 イサベルが泣きながら私を告発したあの日から、私に向けられる視線は、一本の針どころか、何本もの長槍へと変わってしまった。

 学園内では、私が通るだけで陰口の囁き声が起こり、かつて笑顔を向けてくれた令嬢たちも、私から目を逸らす。

 こんな日が来ることなど、最初から予想していたはずなのに……。

 だというのに、どうしてこれほど、心臓が軋むように痛むのだろう。


 重厚な扉の前で、護衛の騎士が深々と目を伏せ、ゆっくりと扉を開けた。

 蝋燭の灯が微かに揺らめく部屋に足を踏み入れた瞬間、温かな空気が私を包み込む。

 けれど、その空気は、どこか張り詰めていた。ルシアン殿下は、ただ一人、窓辺に佇んでいた。


「……セリーヌ」

 名前を呼ばれただけで、私の胸の奥が、ぎしりと軋む。もしかしたら、別の、穏やかな未来もあったのかもしれない。そう思いながら、私はそっとドレスの裾を摘み、深々と礼をした。

「お呼びに応じ、参上いたしました。殿下」


 私を見つめる殿下の瞳に、かつての優しい光は、もう宿っていなかった。

 それはまるで、冷たく凍てついた冬の湖面のように、ただ無機質な青を湛えていた。

「……座ってくれ」

 殿下が示した椅子に、私は静かに腰を下ろす。殿下は、ゆっくりと、しかし確実に、私へと歩み寄ってきた。


「イサベルのことだ」

 その言葉に、私の心臓が、ひときわ強く脈打った。

「彼女が泣いていたな」

「……存じております」

「お前が彼女を階段から突き落とした、と」

「私は、そのようなことはしておりません」

 震える声を必死で抑えつけ、私は断言した。私の名誉のためにも、この場ではっきりと否定しておかねばならない。


 あの時、私の目の前まで来たイサベルは、突然、自らバランスを崩して転落したのだ。

 周囲が言うような、私が彼女を押しただとか、足を出しただとか、そのような行為はしてない。

「イサベルは、お前が突き落としたとは言っていない。だが、お前が怖かったと泣いていた。お前が睨んだ瞬間、足がすくんだ、とな」

「睨んだなどと……!」

 笑顔を向けられたが、笑顔には慣れていない。

 感情の籠もっていない目を睨んだと称するのであれば、もはや何も言い返す術はない。


「お前は、変わったな」

 殿下の瞳が、非難するように細められる。

「昔は誰にでも優しかった。使用人にも、商人にも、下町の子供たちにも、常に笑顔を向けていたものだが、この学園に入学してからのお前は別人のように変わってしまった」

 

 いいえ、殿下。

 そう、叫びたかったが、もはや何を言っても無駄なことだと悟っている。私は唇を固く結び、その言葉を胸の内で否定するに留めた。

 変わったのは、殿下。あなたの方だ。

 突然現れた平民の娘に心を奪われ、王族としての矜持も、義務も、その全てを投げ捨てたのは、あなたではないか。

 王子として、自ら鼎の軽重を問い、その価値を貶めた。

 貴族でありながら、未来の王太子でありながら平民と恋仲に落ち、長年の婚約者である公爵令嬢を捨てようというのだ。

 これほど、自らを貶める行為が、他にあるだろうか。


「イサベルは、平民です。ですが、殿下は彼女を、まるで守るべきかのように庇い続ける」

「それがどうした、というのだ」

「貴族と平民の間には、厳然たる壁があります。そして、それは、あるべきなのです。……あるいは殿下は、その壁を取り除こうとされているのでしょうか?」

「そんな大層なことは考えていない。ただ、心から愛した者が、偶然平民だった。それだけのことだ」

 部屋の片隅の蝋燭の炎が、ゆらりと揺れた。私の心の灯火は、完全に消え去った。


 重い沈黙が部屋を満たす。殿下は静かに目を閉じ、長く、深い息を吐き出した。

「セリーヌ。俺は、お前を信じてきた。これまでの、どんな時も」

「……でしたら、今この時も、私を信じてくださいませ」

「だが、今回は違う」

 殿下の目が開かれる。その瞳には、諦めにも似た、しかし揺るぎない決意の光が宿っていた。

「イサベルの、その涙を、俺は信じる」


 何度目かの、深い、深い嘆息。

「……やはり、私のことを嫉妬していると。そうお思いでいらっしゃいますか?」

「それ以外に、俺には説明ができない」

 ああ、もう駄目だ。私の全てが、音を立てて崩れ落ちる。お父様。ご先祖様。できの悪い娘で、本当に、申し訳ありません……。

「……セリーヌ・ド・ラヴェル。そなたとの婚約を、これにて解消する」


「――承りました」

 私の口から出た声は、不思議なほど冷たく、乾いていた。殿下の瞳が、一瞬、微かに揺れる。

「勘違いしないでほしい。私はお前を憎んでいるわけではない。むしろ、これまでのことを心から感謝している。だが……」

「イサベルのため、ですか?」

「……国のために、だ」

 よく言う。私の全てを奪い去ろうとしているのは、目の前のイサベルのためだというのに。

 私は、手のひらに爪が食い込み、抉るような痛みを感じることで、込み上げてくる様々な感情を必死に堪えつけた。


「セリーヌ」

 席を立った私に、殿下が呼びかけた。

「お前の幸せを、心から願っている」

「ありがとうございます。殿下も、どうかお元気で。もはや、これ以上お会いすることはございません」

 蝋燭の灯りが、涙で滲む私の視界の中で煌めき、ルシアン殿下の姿がぼやけていく。

「お幸せに、ルシアン殿下」

 私は深々と頭を下げ、重い足取りで扉へ向かって歩き出した。私の背中に、呼び止める声は、もうなかった。

 こうして、私の物語は終わったのだ。……その時は、そう信じていた。


 重い扉を閉め、廊下に出た瞬間、私は堪えきれずに、息が苦しくなった。

 誰もいない、静まり返った夜の回廊で、私はたまらず壁に手をつき、その場でうずくまる。

  負けた……。平民の娘に、この、公爵令嬢たる私が……。

  喉の奥から、熱い嗚咽が込み上げてくる。必死に噛み殺そうとしても、次から次へと零れ落ちる涙は、もう止められなかった。

 これほど、屈辱的なことは、これまで一度としてなかった。

 それでも、二人が幸せを目指すのなら、私は黙って去ろうと思った。



***


 

 馬車にの内部は、ひどく静まり返っていた。朝霧に濡れた石畳を、馬車はゆっくりと、しかし確実に進んでいく。

 小さな窓から覗く街路樹が、ひとつ、またひとつと遠ざかるたび、私はもう二度と、ここへは戻れないのだと、胸に突き刺さるように実感した。

 

 私は、ルシアン殿下より婚約破棄を受けてすぐ、自ら学園を退学し、領地へと引き下がることを決めた。

 もとより、公爵令嬢として充分な教育を受けていた私に、学園で新たに学ぶことなど何もなかった。

 入学したのはひとえに殿下の側に侍るため。それゆえ、その役目を降ろされた私が、今後も王都に留まる理由などどこにもない。

 王太子の婚約者という大役を果たせなかった、行状不行き届きの娘が、一体どのような顔をして王都で過ごせようか。

 恥を知る身であれば、速やかにこの王都を去るべきだと、そう判断したのだ。


 婚約破棄の報せは、一夜にして王都中を駆け巡った。

 学園に退学を申し出た私に、令嬢や令息たちは、まるで待ち構えていたかのように、様々な言葉を投げかけてきた。

「悪役令嬢が、ついに陥落したぞ!」

「当然の報いね!」

 私は、それらの嘲りや非難を、平然と受け止めた。


 屋敷へ帰った私に、父はひとつだけ尋ねた。

「……お前は、本当にそれでいいのだな?」

 私は黙って頷いた。父の表情は普段と変わらず厳しいものだったが、その目の奥には、優しさが見え隠れしていた。

 意外だった。父もまた、人間らしい可愛いところがあるものだ、と思った。

 父はそれ以上、何も言わなかった。

 否、何も言わないでいてくれた。父は、慈しむように私の頬にそっと触れ、「母に似たのだな」と。それだけを静かに呟いた。


 その父の言葉が、あの時の私の心をどれほど救ったか、父は知らないだろう。

 そして今、私は、王都の城門を抜け、公爵領へ向かう。

 殿下からの愛を失い、追放される“悪役令嬢”として。


 この国で過ごした、煌めくような日々。

 ひたすら努力を重ねた日々。ルシアン殿下の隣で、共に歩む未来を信じた日々。

 口うるさい王太子妃に、殿下が苦笑いしながらもそれを受け入れ、前を向く。そんな、日々が来るのだと信じていた。

 その全てが、まるで儚い夢であったかのように、私の手の中で音もなく崩れ落ちていった。

 私がこの王都から姿を消したあと、殿下はきっとイサベルと共に、国民の圧倒的な信頼を集め、やがては王としてこの国に君臨するのだろう。

 

 私が悪役として憎まれ、歴史の表舞台から消え去ることが、この国の未来のためになるのだ。

 そう、強く信じなければ、私は、とても正気を保っていられなかった。


 

 馬車に揺られて数日。

 日が傾いたところで宿を取った。

 公爵家らしくその町一番の宿の二階。

 とはいえ、かつて、私の部屋であった場所より狭く、造りも粗末だ。調度品などあるはずもない。

 それは当然、ここが王都とは離れた、小さな町なのだから。


 ポツ、ポツと雨の音が聞こえた。

 小さな町に相応しく、ささやかな夕食。それでもここ数日の馬車の中で食べるものよりは随分ましなもの。

 殿下は、そのようなお考えを持ってらっしゃらなかったようだが、こういうところを、問われていたのだろうか。

 自然と、比べてしまうところ。

 王都と、町。部屋の広さ。食事の質。


 身分差という包み紙に隠された自分の心を、試されていたのかもしれない。

 誰にかなど解らない。強いて言えば、神様であるとか、お天道様であるとか。実は、ああは言っていたが、殿下だったのかもしれない。

 私は、試され、失格したのだ。

 未来の王太子妃として、未来の王妃として、平民に対する認識をそのまま当人にぶつけるその心根を。

 今にして思うと、とんでもないことだ。

 平民、いや、人に対して、貴方とは違うと言い放つ人物に、誰がついていきたいと思うだろう。


 そう思うと、残していた食事を慌てて最後まで食べてしまう。

 自分は、なんて醜い人間なのだろうと、泣きたくなった。

 食器の片付けを依頼し、今日はこれでそばにいなくてもよいと侍女に告げる。少しでも早くベッドに潜り込みたかった。

 ベッドの中で、一人、泣きたかった。


 雨音が強くなる。最初、その音は雨音だと思って気にも留めなかった。

 気にも留めず、ベッドに入ろうと思い、やはり違和感を覚える。

 雨音の中に、違うリズムの音がある。

 コンコン、コンコン。

 窓だ。何かが、窓を叩いている。

 ありえない。ここは二階なのに。そう思って窓を見る。


「ひっ」

 人影があった。窓が雨に濡れて良くは解らないけれど、どうやらフード付きのマントを纏った、人のようだった。

「うそ……よ、ね?」

 良くは解らないけれど、その顔に見覚えがある。人懐っこい笑顔。そこにいるだけで、自然と人が集まり、誰もが笑顔になる笑顔だ。

 私以外は。

 

 ふらふらと吸い込まれるように窓際に歩み寄り、窓を開ける。

「こんばんは。セリーヌ様」

「イサベル……」

 よっ、と一声、彼女は窓の枠に両手を掛け、体を上に持ち上げたかと思うと、足から部屋に入ってきた。それをスカートで成すのだから、色々な意味で私は目を丸くした。

 こんな場所に、彼女がいるという疑念を抱かせない衝撃があった。

 

「最後に、どうしてもお話がしたくて」

 雨でぬれたマントを脱ぎ、足元に置いて私に笑いかける。

 それは、いつもの見知ったものではなく、早く何かを告げたいと思いながら出し惜しみをする子どものようだった。

「イサベル……」

 今頃は、ルシアン殿下と二人で、喜びを分かち合っているとばかり思っていた。

 まさか、わざわざ私を嘲りに来たというのだろうか。だとしたら、趣味の悪い。


「まずは、この中に入れてくださって、ありがとうございます」

 イサベルは、深々と頭を下げた。

 私が知る彼女の礼は、常にどこかぎこちないものだったが、その時の彼女の所作は驚くほどスムーズで、スマートだった。

「いえ……それで、話とは?」

 やはり、何か雰囲気が違う。胸に、強い違和感がつきまとう。


「どうしても感謝を伝えたくて」

 イサベルの顔には、今まで一度も見たことのないような、醜く歪んだ笑みが貼りついていた。

「感謝……?」

「あなたのおかげで、私は殿下の心をやすやすと奪うことができました」

「えっ? それはどういう……」

 勝ち誇った笑みに、虚を衝かれる。

「あなたが堅物で、まだ未熟だったからこそ、労せずして、この国を内側から崩せる」

「……何を、言っているの……?」

 私の頭は、その言葉の意味を理解することを拒んだ。

 だって、もしそれが真実だとしたら。

 私が信じてきた全てが、私の存在そのものが、否定されてしまう。


 イサベルは、嘲るように微笑んだ。いかにも人を馬鹿にしたように、片方の口角を醜く吊り上げて。

「私、実は隣国から送り込まれた、スパイなんですよ」

「なん……ですって……!?」

 その瞬間、私の世界の全てが、静止したかのように、凍り付いた。


「あなたは、たったひとつだけ、でも決定的に間違えたの」

「間違い」

 オウム返しをする。それしかできない。何も考えられないから、会話なんてできない。

「そう。あなたが、優しすぎた、という点よ」

 意味が解らない。優しいと、王子殿下の心が奪われ、国が崩される?

「どういう……ことなの……?」

 彼女はわざとらしく大きなため息をついた。やれやれと肩をすくめる。

「どうやら公爵家のお姫様は、恋というものを知らないようね」

 

 どこまでも高みから見下ろした顔だった。ああ、私は、こんな顔をしていたのだろうか。

「色々なお礼に、特別に教えてあげる。恋ってね、障害があればあるほど、かえって燃え上がるものなのよ」

 イサベルは、勝ち誇ったように、下品な高笑いを響かせた。

「どういう……」

 解らない。優しいと、障害があれば燃え上がり、殿下の心がイサベルのものとなり、国が崩される?

 ぴんときた。来てしまった。


「う……ぐぅ」

 胃の底から、形容しがたい感情がせり上がってきた。

 私は思わず口元を押さえる。

 自分が、この国のためにしてきたことが、ただの悪手だっただなんて。


 私は、自分の持つ権力を使わず、あくまで事態を小さくしようとした。二人の名誉のために。

 すなわち、くどくどとルシアン殿下に国の道理を説き、イサベルにつらく当たることで、嫌になった二人が自然に離れるようにと考えたのだ。

 本来なら、父や王に働きかけ、道理を説かせ、二人の仲を引き裂くことだって考えた。

 でもそれは二人の心を深く傷付けると思ったから、二人だけの問題にしようとした。

 

 しかしそれはむしろ逆効果となり、かえって二人の感情を、意図せず煽ってしまった。

 結果としてイサベルの計画を、加速させてしまっていたと。

「解ってしまったようね。そう。その聡明さを、私は障害だと思っていたの」

「障害」

「私の任務を妨げうるのは、あなた。そう思っていたわ」

「そんな……」

「あなたがいなくなれば、あとは簡単だわ。勝手にほだされ、説得されて。あなたの追放に喝采を挙げる馬鹿ばかりだもの」

 ぐらりと体が揺れた。イサベルはそんな私を支え、しっかりと立たせる。気を失えない私が恨めしかった。


「王子の信頼を失ったあなたは排除され、私は簡単に国の中枢に食い込むことができる。本当に助かったわ、セリーヌ様」

 彼女の笑みは、底知れぬ深さの夜の湖のように冷たかった。指を浸けただけで、骨まで凍り付いてしまいそうなほどに。

「これから私は、王子をさらに惑わせ、この国を内側からゆっくりと崩壊させていく。無意味な争いを始めさせ、国民を疲弊させ尽くし、最終的には、私の祖国に滅ぼされる」

 イサベルは、心底楽しそうに、愉悦に満ちた笑みを浮かべていた。

 そういえば、彼女の名前は、隣国でよく見かけるものだった。姓がこの国のものだったから、ただ隣国から流れてきた平民だと思い込んでいたが……。


 喉が、ひどく渇いて仕方なかった。

「なぜ……なぜ、私に、それを言うの……?」

 イサベルの歪んだ笑みが、さらに深まる。

「さっきも言ったでしょう。あなたに、感謝したかったのよ」

「感謝……」

「あなたが、こうして自ら王都を追放されてくれたおかげで、私の任務は、完全に成就する。本当にありがとう、セリーヌ様。あなたが悪役を演じてくれたおかげで、私の仕事は数年分早まったわ」


 私の目から、止めどなく涙が溢れ出した。

「ふざっ、ふざけないで……っ!」

「至って真面目な話よ」

「そん、な……」

「っと。あんまり帰りが遅いと殿下が心配するから、もう帰るわ」

 イサベルは、貴婦人のような完璧な所作で優雅にお辞儀をすると、再び足元のマントを手に取り、身に纏った。

「じゃあね、“完璧な悪役令嬢”さん」



 

「こんなのって、ない……」

 せめて、公爵であるお父様にだけでも、この真実を伝え、備えてもらうしかない。それくらいしか、今の私には、考えられなかった。


 なんということだろうか。

 私が退場することで終えたと思っていた物語には、続きがあったのだ。

 私がしていたことは、正しかった。

 私は、イサベルによって作り出された“悪役令嬢”だったのだ――。

続きの短編を書いてみました。

『追放された公爵令嬢が眼鏡をくいっとしたら世界が変わった件』(https://ncode.syosetu.com/n3859kz/)

よろしければどうぞ~

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いつもありがとうございます! 面白ーい! しっかりと書いてあるし、話的にもどんどん読み進めてしまいました。 イサベル、最後まで嫌なやつー! 『私は、ただ自分の立場を守りたいわけじゃない! 未来の王太子…
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