嘘をつかないで
夜は深く、再生会の余韻はすっかり冷めていた。
サロンには、メイひとり。
暖炉の火は小さくなり、部屋の隅に影が伸びていた。
テーブルの上には、ブーンシューンの忘れた眼鏡が置かれている。
左右で色の違うレンズ。鼻あてには、小さな鈴。
どこか道化めいたその形が、今は妙に不気味に見えた。
メイはそれを見つめていた。
触れようとはせず、ただ、じっと。
「……見ろって言ってるの?」
誰にともなく、そうつぶやいた。
眼鏡は、何も答えない。
ただ、そこにあるだけ。
「……バカみたい」
メイは立ち上がり、暖炉の前をゆっくりと歩いた。
グラスの中のワインはもう空で、火は静かに揺れている。
「“死者の声”なんて、結局、誰かの都合のいい嘘。
ブーンシューンの余興。
……それに、まんまと乗せられた私たち」
彼女は眼鏡に手を伸ばしかけて、止めた。
「……でも、もし。
もし、ほんの少しでも“何か”が残っていたとしたら……」
手が、眼鏡に触れた。
「……一度だけ。
それで何もなければ、笑って終わりにできる」
メイは、眼鏡をかけた。
チリン――
鈴が鳴った。
風は吹いていない。
誰もいない。
なのに、確かに鳴った。
視界が、少しだけ褪せる。
色が沈み、輪郭が滲む。
だが――誰も、いなかった。
「……やっぱり、ただの小道具ね」
眼鏡を外す。
何も変わらない。
「……何を期待してたのよ、私」
彼女はソファに腰を下ろし、眼鏡を膝の上に置いた。
しばらく、火を見つめていた。
「……でも、もし、もう一度だけ試したら……」
彼女は自分の言葉に苦笑した。
「“もう一度だけ”って、何度使ったかしら。
恋愛でも、別れでも、後悔でも。
“もう一度だけ”が、いつも一番、厄介」
それでも、手は眼鏡を取っていた。
「……二度目は、ないと思うけど」
再び、かける。
チリン――
また、鈴が鳴る。
今度は、少しだけ長く。
暖炉の火が、ふっと揺れた。
空気が、わずかに冷たくなる。
だが、やはり誰もいない。
「……期待した私がバカみたい」
眼鏡を外しかけて、手が止まる。
「……三度目の正直、って言うじゃない」
彼女は立ち上がり、部屋を一周するように歩いた。
眼鏡を手に持ったまま、窓の外を見て、また戻る。
「……もし、これで何もなかったら、
もう二度と、あなたのことなんて思い出さない」
それは、誓いというより、呪いのようだった。
三度目の装着。
チリン――
その瞬間、空気が変わった。
暖炉の火が、また揺れる。
部屋の奥に、影が伸びる。
そして――そこに、いた。
黒いコートを着た男が、暖炉のそばに立っていた。
ムージュン。
彼は、メイを見ていた。
まるで、ずっとそこにいたかのように。
メイは、息を呑んだ。
声を出そうとして、出なかった。
彼は、変わっていなかった。
あの目。
すべてを見透かすような、静かな目。
「……ムージュン……?」
彼は、ゆっくりと口を開いた。
「嘘をつかないで」
その声は、低く、静かで、
それでいて、胸の奥を突くような響きだった。
メイは、眼鏡を外した。
彼は――そこにいた。
眼鏡をかけ直す。
彼は、変わらず、そこにいた。
「……幻覚? それとも、記憶?」
メイは、ゆっくりと近づいた。
手を伸ばそうとして、止めた。
「……触れたら、壊れそう」
彼は、微かに笑ったように見えた。
だが、それも確かではない。
「……あなた、ほんとにここにいるの?」
ムージュンは答えない。
ただ、メイを見ている。
その目は、あの頃と同じだった。
何も言わずに、すべてを知っている目。
「……私、あなたのこと、もう忘れたはずだったのに」
「嘘をつかないで」
もう一度、同じ言葉。
メイは、立ち尽くしたまま、何も言えなかった。
暖炉の火が、静かに揺れていた。
そして、彼は、そこにいた。
眼鏡を通さずとも、もう“視えて”いた。




