嫉妬と不誠実のあいだで
夜は深く、再生会の余韻はすっかり冷めていた。
眼鏡とワイングラスが散らばったサロンに、二人だけが残っていた。
ケインはソファに沈み、シャツのボタンを外したまま、天井を見上げていた。
メイは暖炉の前に立ち、グラスを手にしていたが、もう飲んではいなかった。
「……でさ」
ケインがぽつりと口を開く。
「さっきの声、“メ”って、やっぱり……ムー……なんとか、じゃないの?」
「“ムーなんとか”って何よ」
「いや、名前ちゃんと覚えてないんだけど……ムージュン? だっけ?」
「……よくそれで話を切り出せたわね」
「でも、一度だけ見たことあるんだよ。
あの別館の前で。
お前が鍵を開けてるとき、後ろから来て、何も言わずに入っていった」
「……それ、いつの話?」
「たぶん、三年前。
俺がまだ“ただの友達”だった頃」
「……そう。
じゃあ、あなたは“ただの友達”のくせに、私の家を見張ってたのね」
「違う。たまたま通りかかっただけだよ。
でも、あいつ……なんか、変なやつだった」
「変?」
「静かすぎた。
まるで、空気を吸ってないみたいだった。
それに、目が……なんていうか、全部見透かしてくる感じでさ」
「……ああ、あの目ね」
「お前、ああいう男が好きなの?」
「“好き”って言葉で片付けられるほど、単純じゃなかったわ」
「……でも、惹かれたんだろ?」
「ええ。
あの目に、私の“嘘”が全部映ってる気がして、
逆に安心したの。
“この人には隠せない”って思える相手って、
ある意味、楽なのよ」
「……俺には、隠してることばっかりじゃん」
「あなたには、隠せるからよ。
あなたは、私の嘘に気づかないふりをしてくれる。
それが、優しさでもあり、残酷でもあるの」
「……俺、あいつに勝てないのかな」
「勝ち負けじゃないわ。
ムージュンは、もうこの国にすらいない。
どこか遠くで、別の人生を生きてる。
でも、記憶って、距離じゃ消えないのよ」
「……連絡、取ってるの?」
「取ってない。
番号も、住所も、もう知らない。
でも、あの目だけは、今でも時々、夢に出てくる」
「……俺の目は?」
「あなたの目は、現実的すぎるの。
“今ここにいる”って主張してくる。
だから、時々、うるさい」
「……それ、褒めてる?」
「皮肉よ。
でも、たぶん明日も見たいと思う。
それが、いちばん厄介なのよ」
沈黙。
「……俺たち、ほんとにダメな恋愛してるな」
「ええ。
でも、ダメな恋愛ほど、やめられないのよ。
だって、正しい恋愛って、退屈でしょう?」
「……それ、お前の小説のセリフ?」
「違うわ。
でも、書いてもいいかもね。
“正しい恋は退屈。間違った恋は、物語になる”」
「……俺たち、物語になってる?」
「ええ。
でも、ハッピーエンドにはならないわ」
「……なんで知ってんの、そういう言い方が一番刺さるって……」
メイはグラスを置き、テーブルの上の眼鏡に目をやった。
それは、ブーンシューンが置き忘れていったもの。
左右で色の違うレンズ、鼻あてには小さな鈴。
「……あの人、これ忘れてったのね」
「ブーンシューン? ああ、あの眼鏡……」
「なんか、気味が悪いわ。
まるで、“見ろ”って言われてるみたい」
「……かけてみる?」
「やめて。
今夜はもう、誰の顔も見たくない」
「……俺の顔も?」
「あなたの顔は、もう見飽きたわ。
でも、たぶん明日も見たいと思う。
それが、いちばん厄介なのよ」




