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20/23

物語の外へ

封筒は、ある朝、館のポストに届いていた。

白く、厚く、重い。

差出人の名前は、見なくてもわかっていた。


ケインの妻。

彼女は、ついに“現実”として動いた。


メイは、書斎の椅子に座り、封を切った。

中には、弁護士を通じて作成された書類。

「不貞行為に関する慰謝料請求」

金額は、現実的でありながら、容赦がなかった。


彼女は、しばらく何も言わなかった。

ただ、書類の文字を見つめていた。


「……そう来たのね」


誰に向けた言葉かはわからなかった。

だが、暖炉のそばに立つムージュンと、

窓辺に佇むケインが、静かに目を伏せた気がした。


「これが、あなたたちのやり方?」


ムージュンは答えなかった。

ケインも、何も言わなかった。


「私を、現実に戻すために、

 こんなやり方を選んだの?」


「君が戻らなかったからだ」

ムージュンの声は、静かだった。

「だから、現実の方から君を迎えに来た」


「……優しさのつもり?」


「違う。

 これは、君が“終わらせなかったもの”の代償だ」


メイは、書類をそっと机に置いた。

そして、立ち上がった。


「わかったわ。

 出ていく。

 この館からも、あなたたちからも」


ケインが、少しだけ顔を上げた。


「……怒ってる?」


「怒ってない。

 ただ、疲れただけ。

 あなたたちを“保存”し続けるのに、

 もう、疲れたの」


彼女は、荷物をまとめ始めた。

服と、ノートと、眼鏡。

それだけで十分だった。


玄関に立ったとき、館の扉がわずかに軋んだ。

まるで、最後の抵抗のように。


「さよなら」

彼女は、そう言って扉を開けた。


外の空気は、少し冷たかった。

けれど、それが心地よかった。


彼女は、歩き出した。

振り返らずに。


その背中を、誰かが見送っていた。

ムージュンか、ケインか。

あるいは、彼女自身の記憶か。


封筒は、受け取られた。

支払いは、滞りなく行われた。

それが、彼女にとっての“現実”だった。


メイは、姿を消した。

どこに行ったのか、誰も知らない。

ただ、ある日、書店に一冊の本が並んだ。


タイトルはなかった。

ただ、表紙にはこう書かれていた。


「これは、記憶と嘘と沈黙のあいだにいた、

 ある女と、ふたりの男の物語」


著者名は、記号のような筆名だった。

だが、読んだ者は、誰もがこう思った。


──これは、誰かの“本当の記憶”だ。


*


館の門を出たとき、メイは一度だけ立ち止まった。

振り返るつもりはなかった。

けれど、背中に残る気配が、どうしても消えなかった。


「……あなたたち、まだそこにいるの?」


風が吹いた。

春の終わりの風。

少しだけ、埃の匂いがした。


彼女は、そっと眼鏡を外した。

そして、ポケットにしまった。


「もう、見なくていいわ。

 あなたたちの姿も、声も、

 私の中にちゃんとあるから」


その言葉に応えるように、

館の窓が、ひとつだけ、かすかに揺れた。


中では、ムージュンが暖炉のそばに立っていた。

ケインは、窓辺に座っていた。


ふたりは、何も言わなかった。

ただ、静かに、彼女の背中を見ていた。


「……行くよ」


メイは、もう一度だけ深く息を吸い、

そして、歩き出した。


舗装されていない道を、

誰にも見送られずに、

誰にも追われずに。


彼女の足音が、土を踏むたびに、

館の中の空気が、少しずつ薄れていった。


ムージュンが、ふと目を閉じた。


「これで、ようやく“記憶”になれる」


ケインが、苦笑した。


「俺は、まだちょっと未練あるけどな」


「君らしい」


「でも、あいつが書くなら、

 俺たちはきっと、また誰かの中に現れる」


「それが、“物語”というものだ」


ふたりは、暖炉の火を見つめた。

その火は、もう熱を持っていなかった。

けれど、まだ、消えてはいなかった。


そして、館の奥の部屋に、

ひとりのメイドが現れた。


彼女は、何も言わず、

静かに掃除を始めた。


その瞬間、ふたりの男は、

まるで何事もなかったかのように、

また会話を始めた。


「……君、顎角度って信じる?」


「またその話か」


「いや、最近ちょっと気になっててさ――」


館の中には、静かな笑い声が響いた。


外では、メイの姿が、

もう見えなくなっていた。




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