私のために、あなたたちを
二人は、そこにいた。
ムージュンは暖炉のそばに、ケインは窓辺に。
どちらも、言葉を発さず、ただ静かに佇んでいた。
メイは、部屋の中央に立っていた。
彼らを見ていた。
まるで、舞台の観客席から俳優たちを眺めるように。
「……ねえ、あなたたち」
彼女は、ゆっくりと口を開いた。
「私、ずっと考えてたの。
どっちが“本物”か、どっちが“正しい”か、
どっちが“私にふさわしい”かって」
ムージュンは、目を伏せた。
ケインは、何も言わなかった。
「でもね、もうどうでもよくなったの。
私、どっちも欲しいのよ。
あなたの静けさも、あなたの嘘も。
あなたの正しさも、あなたの弱さも」
彼女は、笑った。
その笑みは、どこか子どものようだった。
「私、わがままなの。
選べないの。
選びたくないの。
だって、選んだ瞬間に、もう一方が“いなかったこと”になるでしょ?
それが、いちばん嫌なの」
ムージュンが、わずかに顔を上げた。
「君は、記憶を“保存”しようとしている」
「そうよ。
私は、あなたたちを“保存”したいの。
私の中に、私の都合で、私の好きなかたちで」
ケインが、初めて口を開いた。
「それは、僕たちを“使う”ってことか?」
「ええ。
私は、あなたたちを“使う”わ。
寂しいときに、あなたの沈黙を。
苦しいときに、あなたの嘘を。
都合よく、気まぐれに、勝手に」
彼女の声は、静かだった。
だが、その静けさは、どこまでも自己中心的だった。
「でも、それが私なの。
私の記憶は、私のもの。
私の感情も、私のもの。
だから、あなたたちも、私のもの」
ムージュンは、何も言わなかった。
ケインも、黙っていた。
「あなたたちは、私の中で生きてる。
でも、私のために生きてるの。
それが、私の選択」
彼女は、椅子に腰を下ろした。
まるで、舞台の幕が下りるのを待つ観客のように。
「だから、お願い。
黙ってそこにいて。
私が必要なときに、思い出せるように。
私が、私のために、あなたたちを残すから」
沈黙。
ムージュンは、ゆっくりと目を閉じた。
ケインは、窓の外のない景色を見つめていた。
そして、メイは、紅茶を一口飲んだ。
それは、彼女の記憶の中で、最もわがままで、最も正直な瞬間だった。
ケインが、ゆっくりと歩み寄った。
「でも、それが彼女なんだよ。
わがままで、矛盾してて、
でも、ちゃんと“見てる”」
「……見ている?」
「そう。
君も、俺も、ちゃんと見てる。
だから、俺たちはここにいる。
それだけで、十分じゃないか?」
ムージュンは、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「……君の中で、僕は“真実”でいたかった。
でも、君が“嘘も残したい”というなら、
僕は、君の中で“真実の一部”にしかなれない」
「それでも、いてくれる?」
ムージュンは答えなかった。
だが、その姿は、消えなかった。
その沈黙を破るように、ケインがふっと笑った。
「……ほら、君はまた瞬きを二回した」
メイが、少し驚いたように彼を見た。
「え?」
「君、考えごとをするとき、必ず瞬きを二回するんだ。
昔からそうだった。
“何かを決める前”の癖。
俺は、それを何度も見てきた」
メイは、目を伏せた。
そして、ゆっくりと瞬きをした。
一度。
二度。
「……そうだったかしら」
「忘れてもいいよ。
でも、俺は覚えてる。
君が忘れても、俺の中では、君はそうだった」
ムージュンは、静かにそのやり取りを見ていた。
彼の表情は変わらなかったが、
その影が、わずかに揺れた。
メイは、ケインの方を見た。
「あなたは、私の“癖”を覚えてる。
でも、私はあなたの“嘘”を覚えてる。
それでも、あなたはここにいるのね」
「そう。
君が“見てる”限り、俺はここにいる。
たとえそれが、都合のいい記憶でも」
ムージュンは、目を閉じた。
「……君は、記憶に“温度”を与える。
それが、僕にはできないことだ」
メイは、二人を見比べた。
そして、静かに言った。
「だから、私はあなたたちを“両方”残すの。
私のために。
私のわがままのために」
「……君はまた瞬きを二回した」
ケインの声は、どこか懐かしさを含んでいた。
メイは、わずかに笑った。
「あなた、そういうところだけはよく覚えてるのね」
「忘れられないんだよ。
君が何かを決めるとき、必ずそうするから。
俺は、いつもその瞬間を見てた。
君が何かを“選ぶ”ときの顔を」
ムージュンが、静かに言葉を挟んだ。
「だが、君は今、何も選んでいない。
選ばずに、並べている。
それは、決断ではなく保留だ」
「そうよ」
メイは、あっさりと認めた。
「私は、決めたくないの。
だって、どちらかを選んだら、
もう一方が“いなかったこと”になる。
それが、いちばん怖い」
「それは、優しさか?」
ムージュンの声は、低く、静かだった。
「違うわ。
ただの自己保身よ。
私は、私の感情を守りたいだけ。
あなたたちを守りたいんじゃない。
私が、傷つかないようにしたいだけ」
ケインが、少しだけ笑った。
「それでもいい。
君がそういう人間だってこと、俺は知ってる。
君は、いつだって自分のためにしか泣かない。
でも、俺はそれが嫌いじゃなかった」
「……それ、褒めてるの?」
「わからない。
でも、君のそういうところが、
俺をここに縛りつけてるんだと思う」
ムージュンは、メイを見つめていた。
その目は、どこか遠くを見ているようだった。
「君は、僕たちを“記憶”として扱っている。
だが、僕たちは“記憶される存在”である前に、
“誰かだった”」
「それは、あなたたちの問題よ」
メイは、きっぱりと言った。
「私は、あなたたちを“誰か”として見ていない。
“私の中にあるもの”として見てるの。
それが、私のやり方」
「君は、記憶を所有することで、
過去を支配しようとしている」
「そうよ。
私は、過去に支配されたくないの。
だから、私が支配するの。
あなたたちを、私の中で」
沈黙。
ケインが、ふっと息を吐いた。
「……君は、変わらないな」
「変わらないわよ。
だって、変わったら、あなたたちが“知らない私”になるでしょ?
それも、怖いの」
ムージュンは、目を伏せた。
「君は、記憶の中でさえ、孤独を恐れている」
「ええ。
だから、あなたたちを残すの。
私が、私のために、私の記憶を並べておく。
それが、私の選択」
ケインは、窓辺に戻った。
ムージュンは、暖炉のそばに立ち続けた。
そして、メイは、椅子に深く腰を下ろした。
「……ねえ、あなたたち。
私が死んだら、あなたたちも消えるのかしら?」
誰も答えなかった。
だが、その沈黙が、答えだった。




