三度の視線
その日のムージュンは、どこか違っていた。
暖炉のそばに立つ姿はいつもと変わらないはずなのに、
その肩の線が、わずかに沈んでいた。
「……疲れてるの?」
メイが尋ねると、ムージュンは少し間を置いて答えた。
「……少しだけ。
誰かと話していた」
「誰と?」
「……君の中にいる“誰か”と。
名前は、言わなくていい」
メイは、何も言わなかった。
だが、その沈黙が、答えだった。
ムージュンは、目を閉じた。
そのまま、しばらく動かなかった。
まるで、何かを押しとどめるように。
「……君に頼みがある」
「なに?」
「眼鏡を――かけないでくれ」
メイは、少しだけ笑った。
「どうして?」
「君が“見る”たびに、僕は揺れる。
君の視線が、僕を確かにする。
でも、同時に、僕を“誰かと並べる”」
「それが、怖いの?」
「……そうだ」
ムージュンの声は、かすかに震えていた。
彼が感情を露わにすることは、滅多になかった。
だが今は、必死だった。
「君の中に、僕だけがいればよかった。
でも、君は“見る”ことで、僕を分解する。
君の視線が、僕を“比較対象”に変える」
「……それでも、私は見るわ」
メイは、机の上に置かれた眼鏡を手に取った。
ムージュンが、わずかに身を乗り出した。
「やめてくれ。
お願いだ、メイ。
君が僕を見なくなってもいい。
でも、他の誰かを“見えるようにする”のはやめてくれ」
メイは、何も言わず、眼鏡をかけた。
一度目。
空気が、わずかに揺れた。
ムージュンが、息を止めた。
二度目。
部屋の輪郭が、ほんの少しだけ歪んだ。
暖炉の火が、音もなく跳ねた。
ムージュンは、目を伏せた。
三度目。
その瞬間、メイの視界に――
ケインが、いた。
暖炉のそば。
ムージュンの立っていた場所の、すぐ隣に。
彼は、黙って立っていた。
何も言わず、ただ、メイを見ていた。
ムージュンは、顔を上げた。
その視線の先に、ケインがいた。
二人の男が、並んでいた。
どちらも、言葉を持たなかった。
だが、メイには、彼らの沈黙が聞こえていた。
彼女は、眼鏡を外さなかった。
ただ、二人を見比べていた。
そこは、どこでもなかった。
暖炉の火は燃えていたが、熱はなかった。
窓はあったが、外の景色はなかった。
家具は揃っていたが、重さがなかった。
それは、メイの記憶の中にある“別館”だった。
ムージュンは、暖炉のそばに立っていた。
その姿は、いつもと変わらないように見えた。
だが、彼の影は、わずかに揺れていた。
「……ここは、君の中の場所か」
声がした。
振り返ると、ケインがいた。
彼もまた、暖炉のそばに立っていた。
ムージュンと、わずか数歩の距離。
だが、その距離は、永遠のように遠かった。
「君か」
ムージュンは、静かに言った。
「君も、ここに来たのか」
「来たんじゃない。
見られたんだ。
彼女が、僕を見た。
だから、僕はここにいる」
「……同じだな」
「そうだ。
君も、彼女に見られている。
だから、君もここにいる」
沈黙。
「君は、真実を信じているんだろう?」
ケインが言った。
「信じているというより、
僕は“真実であること”そのものだ。
彼女の中にある、歪められていない記憶。
それが、僕の輪郭だ」
「……それは、ずいぶん都合のいい立場だな」
「都合ではない。
選ばれたわけでも、作られたわけでもない。
ただ、“残った”だけだ」
ケインは、苦笑した。
「君は、彼女の中で“正しさ”の象徴でいたいんだな。
でも、彼女はそんなに整った人間じゃない。
彼女は、わがままだ。
気まぐれで、矛盾していて、
時に、嘘を愛する」
ムージュンは、目を細めた。
「君は、嘘をよりどころにしている」
「そうだ。
僕は、彼女にとって“都合のいい記憶”でしかない。
でも、それでもいい。
彼女が僕を必要とするなら、
それが嘘でも、僕はそこにいる」
「それは、存在の偽造だ」
「でも、彼女はそれを望んだ。
君のように“正しすぎる記憶”は、
時に彼女を傷つける。
君は、彼女の中で“正しすぎる”んだよ」
ムージュンは、黙った。
「彼女は、君の沈黙を愛しているようでいて、
その沈黙に飽きている。
彼女は、僕の嘘を嫌っているようでいて、
その嘘にすがっている」
「……君は、彼女を理解しているつもりか?」
「理解なんてできない。
でも、僕は彼女の“矛盾”に寄り添える。
君は、彼女の“理想”にしかなれない」
ムージュンは、暖炉の火を見つめた。
その火は、記憶の中のものだった。
だが、今は少しだけ熱を帯びているように感じた。
「……君の言葉は、正しくない。
でも、彼女の中では、正しさより“必要”が優先されることがある。
それが、僕には理解できない」
「それが、君の限界だ。
君は、彼女の“真実”であろうとするあまり、
彼女の“弱さ”を見落としている」
沈黙。
二人の影が、わずかに重なった。
だが、すぐに離れた。
「君の輪郭が、少し曖昧になっている」
ケインが言った。
ムージュンは、自分の手を見た。
指先が、わずかに透けていた。
「……彼女の中で、僕の“かたち”が揺れている」
「それは、彼女が“選ばない”ということだ。
君でも、僕でもない。
ただ、記憶として、並べておくということだ」
ムージュンは、静かに頷いた。
「それでも、僕はここにいる。
君も、ここにいる。
ならば――」
「ならば、争う必要はない」
「……いや。
争わなくても、消えることはある」
ケインは、何も言わなかった。
二人は、再び沈黙した。
その沈黙は、メイの記憶の中に、静かに沈んでいった。




