再来する儀式
午後の光が傾き、別館の空気は静かだった。
ケインはもうここにはいない。
港の倉庫で働いているという噂だけが、風のように届いていたが、
メイはそれを確かめようとはしなかった。
彼女は、静かに暮らしていた。
紅茶を淹れ、窓辺に座り、ムージュンと時折会話を交わす。
それだけで、日々は過ぎていった。
だがその日、扉が唐突に開いた。
「失礼!」
ブーンシューンが、勢いよく入ってきた。
その後ろには、オグリーン夫妻が続いていた。
「……また来たのね」
メイは、紅茶を置いてため息をついた。
「今回は違います!」
ブーンシューンが、眼鏡を押し上げながら言った。
「“ムージュンを消す方法”が、ついに見つかりました!」
ムージュンが、暖炉のそばでわずかに眉をひそめた。
「前回の儀式は、湿度と顎角度の不備により不完全でした。
しかし、我々はついに“記憶干渉型霊的除去術式”の理論的再構築に成功したのです!」
「また、何か始める気ね」
「ええ。今回は“本物”です。
名付けて――“多層記憶共鳴式・第二型”!」
「第一型は?」
「失敗しました」
ブーンシューンは即答した。
「“失敗”って、あなたたち、前回“成功の兆しがあった”って言ってなかった?」
「兆しはありました。
ただ、兆しは兆しであって、結果ではないのです」
「……つまり、何も起きなかったってことね」
「それを“何も起きなかった”と断定するのは、観測者の傲慢です」
「“傲慢”って言葉、あなたが使うと説得力あるわね」
オグリーン夫人が、香を焚き始めた。
オグリーン氏は、無言で床にチョークを走らせる。
その動きは妙にリズミカルで、なぜかステップを踏んでいた。
「……何してるの?」
「“霊的導線の舞踏的活性化”です」
ブーンシューンが即答した。
「動きがないと、霊も退屈するので」
「“霊が退屈”って、あなたたちのことじゃないの?」
「それもまた真理です」
オグリーン氏が、顎をしゃくれさせた。
そして、アイーンの姿勢をとる。
「顎角度、完璧です」
彼は、誰にともなく呟いた。
「“完璧に意味不明”って言ってるわ」
メイが、ムージュンの言葉を代弁した。
ムージュンは、何も言わなかった。
だが、その目は、わずかに細められていた。
「では、始めます」
ブーンシューンが、詠唱を始めた。
「エル・ナヴァ・セリオ……ムル・アスファ・レイ……」
オグリーン夫人が、香を焚きながら円の外を回る。
その手には、なぜか干からびたカエルの足と、銀のスプーンが握られていた。
「このスプーンは?」
「“記憶の味覚的媒介”です」
ブーンシューンが即答した。
「記憶は味と結びついています。
甘い記憶、苦い記憶、しょっぱい後悔。
それらを一つに――」
「“それ、今考えたでしょ”って」
「否定はしません」
香の煙が部屋に満ち、鈴が鳴り、石が置かれ、カエルの足が円の中心に添えられた。
オグリーン氏は、顎をしゃくれさせたまま、円の中で回転していた。
「……回ってるのは、何の意味が?」
「“霊的遠心力”です」
夫人が即答した。
「回ることで、記憶の中心が浮き上がるの」
「“浮き上がってるのは、あなたたちの理性”だって」
「理性は、霊性の敵です」
ブーンシューンが真顔で言った。
沈黙。
何も起こらなかった。
石は割れず、煙はただ漂い、カエルの足は転がりもしなかった。
スプーンは、床に落ちてカランと鳴った。
「……今の、何?」
オグリーン夫人が声をひそめた。
「“何も起きてない”って」
メイが言った。
「“でも、それが一番正しい反応だ”って」
ブーンシューンは、眼鏡を外して息を吐いた。
「……失敗です」
「また?」
「“また”ではありません。
“まだ”です。
次こそは、必ず」
「もう来なくていいわ」
メイは、静かに言った。
「私の中には、もう“誰か”がいるから。
それで、十分なの」
ブーンシューンたちは、やや不満げに引き下がった。
オグリーン氏は、最後まで顎をしゃくれさせたまま、
「遠心力が足りなかったな……」と呟いていた。
扉が閉まると、部屋には再び静寂が戻った。
香の残り香がまだ空気に漂っていた。
床には、転がったスプーンと、踏みつけられたチョークの粉。
儀式の痕跡だけが、滑稽な演劇の終幕のように残されていた。
ムージュンは、暖炉のそばに立っていた。
だが、いつものように静かに佇んでいるというより、
“立ち尽くしている”ように見えた。
メイは、紅茶を口に運びながら、彼を見た。
「……あなた、少し動揺してる?」
ムージュンは、すぐには答えなかった。
その沈黙が、いつもよりわずかに長かった。
「……あれだけ滑稽なものを見せられて、
動揺しない方が不自然だ」
言葉は平静だったが、声の調子が微かに硬かった。
彼の視線はメイを見ていなかった。
暖炉の火でもなく、床のスプーンでもなく、
どこか“見えないもの”を探しているようだった。
「でも、あなたは笑ってない」
ムージュンは、目を伏せた。
そのまま、片手をそっと胸元に添えた。
まるで、そこに何かが“ずれた”ような違和感を覚えているかのように。
「……彼らの言葉は、意味を持たない。
だが、意味のない言葉ほど、時に深く刺さる」
「刺さったの?」
「……少しだけ」
その答えは、彼にしては珍しく、曖昧だった。
ムージュンは、ゆっくりと歩き出した。
だが、その足取りは、ほんのわずかに不均衡だった。
いつもなら音を立てずに移動する彼の足音が、
床板を一度だけ、きしませた。
「……君の中に、僕はいる。
それは変わらない。
でも……」
「でも?」
「君の中に、僕“だけ”がいるとは限らない。
そう思った瞬間、僕は……少し、寒くなった」
メイは、何も言わなかった。
ただ、紅茶のカップを置き、ムージュンの方を見つめた。
ムージュンは、暖炉の火に背を向けた。
その影が、壁に長く伸びていた。
いつもより、少しだけ、細く、揺れていた。




