現実の来訪者
扉が、音もなく開いた。
ノックはなかった。
だが、その沈黙の侵入は、部屋の空気を一変させた。
「……あら。ずいぶん静かね」
その声は、よく通る。
そして、よく知っている声だった。
ケインの妻が、そこに立っていた。
黒い外套を脱ぎながら、彼女は部屋を見渡した。
その目は、何も問いかけていない。
だが、すでにすべてを見ていた。
彼女の視線は、まずメイに向けられた。
次に、ケインへ。
そして、暖炉のそば――ムージュンの立つ空間を、何の興味も示さず通り過ぎた。
彼女には、見えていなかった。
最初から、何も。
「……どうしてここに」
ケインが立ち上がる。
声が震えていた。
「あなたが、ここにいる理由と同じよ」
彼女は、微笑んだ。
「“確かめに来た”の。
あなたが、まだ私のものかどうか」
メイは、ソファに座ったまま、何も言わなかった。
ムージュンは、暖炉のそばに立っていた。
その姿は、まるで舞台の袖に立つ俳優のように、静かで、確信に満ちていた。
「あなたが、メイさんね」
「……ええ」
メイは、静かに答えた。
「初めまして。
でも、初めてじゃない気がするわ。
あなたの香り、彼の上着から何度も感じてたから。
……ねえ、あなた、彼のどこが好き?」
メイは答えなかった。
妻は、笑った。
「私は、彼の全部が好きよ。
嘘をつくところも、黙って逃げるところも、
優しくするふりをして、誰のことも見ていないところも。
ぜんぶ、愛してるの」
ケインが何かを言おうとした。
だが、妻はそれを制した。
「いいの。
言い訳は、もういらないの。
私は、あなたたちの“言葉”じゃなくて、“沈黙”を見に来たの」
沈黙。
「あなた、何をしていたの?」
「……話せば、誤解だってわかる」
「誤解?」
彼女の声が、わずかに震えた。
「あなた、今、“誤解”って言った?」
「……俺は、ただ……」
「“ただ”? “ただ”って何?
“ただ”彼女と会って、
“ただ”この別館にいて、
“ただ”私に何も言わずに、
“ただ”裏切っただけ?」
ケインは、言葉を失った。
「あなたね、私のことを“安全な場所”だと思ってたでしょ。
“戻れる場所”。“許してくれる場所”。
でも、違うのよ。私は、あなたの“墓場”よ。
あなたが逃げ込んで、死んでいく場所」
「……そんなつもりじゃなかった」
「じゃあ、どんなつもりだったの?
“つもり”で人を傷つけて、
“つもり”で嘘をついて、
“つもり”で愛したの?」
「……俺は、君を愛してる」
「だったら、どうしてここにいるの?」
沈黙。
「あなたがここにいるってことは、
私じゃない誰かを選んだってことよ。
選ばなかったくせに、選ばれたつもりでいた。
それが、いちばん卑怯なのよ」
彼女は、ケインの胸元を掴んだ。
その手は細く、冷たかったが、力はあった。
「私ね、あなたが他の女と寝ても、
まだ私の名前を呼んでくれるなら許せると思ってた。
でも、あなたは私の名前を忘れてた。
それが、いちばん許せないの」
ケインは、目を逸らした。
だが、彼女はそれを許さなかった。
「見なさい。
私を見なさい。
あなたが裏切ったのは、私じゃない。
“あなたがなりたかった自分”よ」
そして、彼女は手を振り上げた。
平手ではなかった。拳だった。
ケインの頬に、鈍い音が響いた。
彼はよろめき、椅子に倒れ込んだ。
「あなたの顔を見るたびに、私は“信じた自分”を思い出すの。
それが、いちばん痛いのよ」
彼女は、ケインの足元にあった杖を蹴り飛ばした。
その音は、まだ暴力ではなかった。
だが、予兆だった。
そして、彼女はふっと微笑んだ。
「でもね、私はあなたを捨てないわ」
ケインが、顔を上げた。
「……え?」
「あなたには、これからも稼いでもらわなきゃいけないの。
家のこと、家族のこと、私の生活。
あなたが壊したものは、あなたの手で修理してもらう。
一生かけて」
「……それって……」
「許すってことじゃないわよ。
私は、あなたを許さない。
でも、離れない。
あなたは、私のものだから」
その言葉は、甘くも優しくもなかった。
ただ、確かだった。
「あなたは、私の夫だった。
でも今は、“私の労働力”よ。
せいぜい、死ぬまで働いて償いなさい」
扉が、音を立てて閉まった。
その音は、今度こそ、決定的だった。
メイは、ムージュンの方を見た。
ムージュンは、頷いた。
「……これで、ひとつ終わったわね」
「いいえ」
メイは、静かに言った。
「これは、あなたが始めたことよ。
私じゃない。
でも、私が終わらせる」
ムージュンは、微笑んだ。
その笑みは、どこか誇らしげだった。
ケインは、床に伏したまま、何も言わなかった。
だが、彼の中で何かが崩れ、何かが沈んでいく音がした。
扉が閉まったあとも、部屋の空気はしばらく動かなかった。
ケインは、床に膝をついたまま、何も言わなかった。
頬にはまだ、妻の拳の余韻が残っていた。
メイは、ソファに座ったまま、ゆっくりと息を吐いた。
ムージュンは、暖炉のそばに立ち、何も言わずにケインを見ていた。
だが、数分後――
再び、扉が開いた。
「……言い忘れてたわ」
妻が戻ってきた。
その顔には、もう怒りはなかった。
代わりに、冷たい決意だけがあった。
「あなた、これからの予定を伝えておくわね」
ケインは、顔を上げた。
その目は、まだ何かを期待していた。
「明日から、あなたは港の倉庫で働いてもらうわ。
朝四時に起きて、荷揚げ作業。
昼は港の食堂で配膳。
夜は帳簿整理。
休みは月に一度。
給金はすべて私が管理する」
「……それは、冗談だろ?」
「冗談に聞こえる?
私は本気よ。
あなたが壊したものは、あなたの手で直してもらう。
それが、あなたの“償い”」
「……そんなの、まるで……」
「蟹工船? そうね。
でも、あなたは“蟹”じゃない。
“馬”よ。
一生、私のために荷を引く馬」
ケインは、言葉を失った。
「あなたが愛した女のことは、忘れなくていいわ。
むしろ、忘れないで。
その記憶を背負ったまま、働きなさい。
それが、あなたの罰」
ムージュンが、メイに何かを囁いた。
メイは、静かに頷いた。
「彼が言ってるわ。
“これは、現実の呪いだ”って」
妻は、ケインに近づいた。
その声は、優しさすら帯びていた。
「私は、あなたを捨てない。
でも、許さない。
あなたは、私のもの。
だから、死ぬまで働いてもらうわ」
ケインは、ただ頷いた。
それ以外に、できることはなかった。
妻は、最後にメイを見た。
「あなたには、感謝してる。
あなたがいたから、私は彼の“本当の顔”を見られた。
でも、もう十分よ。
彼は、私のものに戻る。
“自由”を失ったかたちでね」
そして、彼女は去った。
今度こそ、扉の音は静かだった。
メイは、ムージュンの方を見た。
ムージュンは、微笑んだ。
「……これが、現実の裁き」
「ええ」
メイは、静かに言った。
「そして、私たちは――記憶の中に残る」
ケインは、立ち上がれなかった。
だが、彼の背中には、すでに“荷”が乗っていた。
それは、愛の重さではなかった。
労働の重さだった。
──そして、彼の人生は、
その日から“労働”という名の罰として続いていく。




