触れられないものに、触れようとする
朝の光が、別館のサロンに斜めに差し込んでいた。
昨夜の儀式の余韻は、まだどこかに残っているようだった。
空気は静かで、少しだけ湿っていた。
まるで、何かがまだ終わっていないことを、部屋そのものが知っているかのように。
ケインは窓辺に立ち、コーヒーをすすっていた。
メイはソファに座り、カップを手にしていたが、口をつける気配はなかった。
ムージュンは、暖炉のそばに立っていた。
彼女にしか見えないまま、静かに。
「……なあ、昨日の儀式、やっぱり詐欺だったよな」
ケインが、笑いながら言った。
その笑いは、どこか自分をごまかすような響きを含んでいた。
「“湿度が足りなかった”とか、“しゃくれの角度が3度足りない”とか……
あれ、真顔で言うから余計に笑えるんだよな」
「ええ、そうね」
メイは微笑みながら答えた。
その声は柔らかいが、どこか遠くを見ているようだった。
「……でも、ちょっとだけ、信じた?」
「……信じてないわ」
メイは、また微笑んだ。
そして、瞬きを2回した。
ケインは、ふっと視線をそらした。
その仕草は、どこか拗ねた子どものようだった。
「……今、またした」
「何を?」
「いや、いい。……気のせいかも」
彼は、カップを置き、ソファの背に手をかけた。
そのまま、メイを見つめる。
「……なんかさ、君って時々、俺のこと子ども扱いしてない?」
「してないわよ」
「ほんとに?」
「ほんと」
メイはまた微笑んだ。
そして、また瞬きを2回した。
ケインは、黙ったまま、視線を落とした。
その沈黙の中に、言葉にならない不安が滲んでいた。
そのとき、ノックもなく、メイドが入ってきた。
銀のトレイに、紅茶とミルクと、レモンの輪切り。
「お飲み物をお持ちしました。ミルクティーでよろしかったでしょうか?」
「ありがとう」
メイが受け取る。
「ケイン様も、どうぞ」
「ありがとう。……砂糖2つで」
「かしこまりました」
メイドがトレイをテーブルに置こうとしたとき、
メイがふと、暖炉の方へカップを傾けた。
「あなたも、飲む?」
その声は、ごく自然だった。
まるで、そこに“誰か”がいるのが当然であるかのように。
メイドが一瞬、手を止めた。
ケインも、眉をひそめた。
「……誰に言ったの?」
「え?」
「今、“あなたも飲む?”って」
「……あなたに決まってるじゃない」
メイは、また微笑んだ。
そして、瞬きを2回した。
ケインは、黙ったまま、メイドの方を見た。
メイドは、困ったように微笑んで、会釈して部屋を出ていった。
ムージュンは、微かに笑った。
「君は、やっぱり嘘が上手い」
「ええ。
でも、あなたの前では、
少しだけ、下手になるのよ」
ケインは、そのやりとりを黙って見ていた。
彼には、メイが誰と話しているのか、もうわかっていた。
ただ、それを認めたくなかった。
「……なあ、メイ。
君、今……誰を見てる?」
「あなたよ」
「嘘だ」
「どうしてそう思うの?」
「君の目は、俺を通り抜けてる。
まるで、俺の後ろに誰かがいるみたいに」
「……そう見えるのね」
「見えるよ。
君の言葉も、間も、呼吸も……全部、誰かと合わせてる。
俺じゃない“誰か”と」
メイは、何も言わなかった。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
ケインは、ゆっくりと歩き出した。
暖炉の方へ。
メイの視線の先へ。
ムージュンは、動かない。
ただ、静かにそこに立っている。
ケインは、立ち止まった。
メイの目の前。
ムージュンの“すぐそば”。
「……ここに、いるのか?」
誰にともなく、そうつぶやいた。
「ここに、誰か……いるのか?」
メイは、目を伏せた。
「……ケイン、やめて」
「やめられないよ。
君が、俺じゃない誰かを見てる限り、
俺は、そこに手を伸ばすしかない」
彼は、手を伸ばした。
空気を裂くように、ゆっくりと。
ムージュンの肩のあたりへ。
そこに、何もないはずの空間へ。
メイが、息を呑んだ。
ケインの指先が、ムージュンの“輪郭”をなぞる。
何も感じない。
だが、何かが“ある気がする”。
「……冷たいな」
「何が?」
「空気が。
ここだけ、少しだけ……冷たい」
ムージュンは、ケインを見ていた。
その目に、怒りも、憐れみもなかった。
ただ、静かな観察者の目。
「……君は、彼に触れようとしてる」
「ええ。
でも、彼には触れられない。
だって、彼は“私の中”にいるから」
沈黙。
ケインは、ふとテーブルの上に目をやった。
そこには、昨夜ブーンシューンが置き忘れていった眼鏡があった。
左右で色の違うレンズ。鼻あてには、小さな鈴。
「……これ、かけたのか?」
「ええ」
「見えたの?」
「……何が?」
「“誰か”が」
メイは答えなかった。
ケインは、眼鏡を手に取った。
しばらく見つめてから、ゆっくりとかけた。
チリン――
鈴が鳴った。
彼は、暖炉の方を見た。
ムージュンの立っている場所を、じっと見つめた。
「……何も見えない」
眼鏡を外す。
もう一度かける。
チリン――
「……やっぱり、何も」
三度目。
チリン――
「……くそ」
彼は、眼鏡をテーブルに乱暴に戻した。
「俺には、見えないんだな」
「ええ。
彼は、私にしか見えない」
「……ずるいな」
ケインは、手を下ろした。
「……君の中にいるなら、
俺は、どうすればいい?」
「わからない。
でも、あなたがそこにいる限り、
私は、彼をここに置いておける」
「……それって、俺が“鍵”ってこと?」
「ええ。
あなたがここにいる限り、
彼は、ここに“いられる”」
「……それ、ひどいな」
「そうね。
でも、私、そういう女なのよ」
ケインは、何も言わなかった。
ただ、暖炉の火を見つめていた。
その炎の向こうに、ムージュンが立っていた。
彼は、微かに笑った。
そして、メイはその笑みを見て、
ほんの少しだけ、目を細めた。
それは、懐かしさでも、後悔でもない。
ただ、そこに“いる”という事実を、
静かに受け入れた女の顔だった。
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