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とっくに、とっくに死んだ誰か


夜の屋敷は、静かだった。

ここは隠れ屋敷。ケインという男の正妻と子どもは全く知らない場所。

誰にも知られない“余白”のような場所。


書斎の暖炉には小さな火が灯り、ワインの香りが空気に溶けている。

メイは机に向かい、羽ペンをくるくると回していた。

その指先は退屈そうでいて、どこか鋭い。


ケインはソファに沈み、片足を投げ出してワイングラスを傾けている。

彼のシャツは少し乱れ、ネクタイは外されていた。


「何書いてんの?」


ケインがグラス越しに尋ねる。


「小説よ。あなたのこと」


「えっ、俺!?」


「嘘よ。あなたみたいな男、物語にしたら読者が途中で本を閉じるわ」


「ひどくない!?」


「現実って、だいたいそんなものよ」


そのとき、メイドのリサがトレイを持って入ってきた。

銀のポットとティーカップ、そして小さな焼き菓子の皿。


「お茶をお持ちしました。……あら、またワインですか?」


「“また”って言い方やめてくれない? 俺だってたまには……」


「“たまには”が毎晩続いてますけど?」


「……なんで知ってんの、そういうの……」


リサは無表情のまま、ティーカップを机に置く。

その動作は完璧で、どこか皮肉めいている。


「旦那様、グラスはお下げしてよろしいですか?」


「いや、まだ飲んでるし! ていうか、俺、旦那様じゃないし!」


「そうですね。旦那様は本邸にいらっしゃいますから」


メイがくすっと笑った。


「リサ、あなた最近、皮肉が冴えてるわね。

 ケイン、あなたは“誰かの旦那様”であって、“私の”ではない。

 その事実、ちゃんと受け止めてる?」


「……それ、地味に刺さるやつ」


「刺さるように言ってるのよ」


リサは焼き菓子の皿をそっと置き、メイの方をちらりと見る。


「で、今夜は何をなさるんです? また小説ですか?」


「ええ。ちょっとした実験をしようと思って」


「実験って……また俺をモデルにする気?」


「違うわ。今夜は“死者の声”を聞くの」


「……は?」


「記憶再生士を呼んだの。“ブーンシューン”っていう、ちょっと胡散臭い人だけど。

 死者の記憶を呼び出して、会話できるらしいのよ」


「え、それって……本当に出てくるの?」


「誰が出てくるかはわからない。匿名記録体。

 でも、もし面白い人が出てきたら――小説の題材になると思わない?」


リサが眉をひそめる。


「……また“物語のため”ですか」


「ええ。私はね、リサ。

 “とっくに死んだ誰か”の言葉を、もう一度聞いてみたいの。

 それが誰であっても、きっと何かが書ける気がするのよ」


「……それで、あの方々を?」


「ええ。オグリーン夫妻をお招きしたの。

 彼、医者でしょう? 科学的な視点から“記憶再生”をどう見るか、聞いてみたくて」


「……あの人、科学者っていうより、否定派の懐疑論者ですよ?」


「だからこそ面白いのよ。

 “信じない人”が“信じざるを得ない瞬間”って、物語になるじゃない」


ケインがソファから身を起こし、少し不安げに言う。


「……なんか、怖いな。

 俺、今夜“とっくに死んだ誰か”に嫉妬する羽目になりそうなんだけど」


「それはあなたが“とっくに死んだ誰か”より魅力がないって、自覚してるからじゃない?」


「……なんで知ってんの、そういうの……」


メイは羽ペンを置き、立ち上がる。

窓を開けると、夜風がカーテンを揺らし、部屋に冷たい空気が流れ込んだ。


「さあ、リサ。お客様を迎える準備をして。

 今夜は“誰か”が帰ってくるのよ。

 とっくに、とっくに死んだはずの、誰かが」


リサは一礼し、静かに部屋を出ていった。

ケインはグラスを見つめたまま、ぽつりとつぶやく。


「……俺、今夜、何か取り返しのつかないことに巻き込まれてる気がするんだけど」


メイは微笑んだ。


「大丈夫よ。あなたはいつも“巻き込まれる側”なんだから」



ケインはソファに寝転がり、クッションを抱えたままメイを見上げていた。

メイは机に肘をつき、羽ペンをくるくると回している。


「なあ、メイ。俺のこと、どれくらい好き?」


「……またそれ?」


「いや、たまには聞きたいじゃん。確認って大事でしょ?」


「そうね。じゃあ、答えるわ」


メイは立ち上がり、ケインの前にしゃがみ込む。

その目は真剣で、ケインは思わず息を呑む。


「あなたのこと、そうね――

 “朝の紅茶に入れた砂糖を、かき混ぜ忘れたくらい”には好きよ」


「……それ、好きって言う!?」


「甘いはずなのに、味がしない。

 でも、飲み終わったあとに底に溜まってるのを見て、ちょっとだけ後悔するの。

 “ああ、ちゃんと混ぜておけばよかった”って」


ケインはしばらく黙っていたが、やがて笑った。


「……それ、俺のことだよね?」


「ええ。あなたは“かき混ぜ忘れた砂糖”」


「……なんで知ってんの、そういう例えが一番効くって……」


メイは立ち上がり、ソファの背に腰を下ろす。

ケインの頭がちょうど膝に乗る形になった。


「でもね、ケイン。

 あなたの天使は、私だけよ」


「……え?」


「他の人には羽根を見せないくせに、私の前ではすぐ羽根を落とす。

 それが、あなたの悪いところで――

 でも、ちょっとだけ、かわいいところでもあるの」


ケインは顔を赤くしながら、膝の上でごろりと寝返りを打つ。


「……俺、今、褒められてる?」


「さあ? どうかしら」


「でも、俺も言いたいことあるよ」


「なに?」


「メイってさ、たまにすごく冷たいのに、

 急に“相思相愛すぎだよね”って顔するの、ずるいよ」


「……そんな顔、してた?」


「してた。さっき、俺がグラス落としたとき。

 “またやったの?”って顔しながら、拾ってくれたでしょ。

 あれ、完全に“私のバカな男”って顔だった」


メイは笑いながら、ケインの額に指を当てた。


「観察力だけはあるのね。

 でも、そういうのは小説に書かないでね。

 “私のバカな男”は、私だけのものなんだから」


「……はいはい。相思相愛すぎてごめんなさい」


「許すわ。今夜だけね」






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