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【幸せは塔の上】

私はSFが好きなので、SF風な作品を書いているのですが上手くいきません。

あくまで「SF風」です。

ただ、この作品は割合にSFになっていると思います。

登場人物の存在や行動の全てがSFな世界観の中に部品のように収まっている、という点で。

まるで塔を作る建材のように。


私達のいる世界には「タワー」と呼ばれる構造物がある。

空に輝く星の存在を当然と思うように、私は生まれた時からその存在を当然のものとして認識しているので、「タワー」が存在しない世界というものが想像できないが、客観的に描写するとすれば、それは北の方角に天高く聳える物体だ。具体的には空に向かって黒い線が地面から直立している光景を思い浮かべてもらえれば良いと思う。

ただ、高いというのは比較に用いる言葉だ。誰もその頂上を見て、高さを確かめた者はいない物体に対して「高い」という言葉を使うのはおかしいかもしれない。そして、「タワー」は至る所に存在する。だが、タワーは一つしかない。


私の住んでいた町からも「タワー」が見えた。高層ビルの柱の向こうに聳え立つ、巨大な黒い物体。幅が100m近くあるビルの10倍ほどの太さがある。そして、その先端は空の彼方に続き、消えている。視線を横に傾ければ、それは空を縦にニ等分する黒い線のように見えるだろう。

私は小さい頃からこの光景を見ていたので、「タワー」はビル群の向こう……都市の中心部にあるのだろうと思っていた。だが、全く別の場所……たとえ世界の裏側からでも「タワー」が故郷と同じように見えると知ったのは、かなり大きくなってからだ。現在ではそのように見える理由を理解しているが、以前は不思議でしょうがなかった。彼はそれまでに唱えられた何通りかの仮説を聞かせてくれたが、私にはチンプンカンプンだった。今から考えると彼は私が困っている様子を見て楽しんでいたのかもしれない。その仮説達は複雑な上、既に間違っているとわかっているので、ここでは紹介しない。

この惑星上のいかなる場所でも「タワー」はその場所から北の方角の離れた場所(感覚的には数十キロ程度の距離)にあるように見え……そして、実際にはどんなに進んでも近づくことができないということだった。私の場合、異なる位置にいる人間からは「タワー」の位置が異なって見えることは、「タワー」の存在する位置を飛行機がすり抜けているのを見たときに納得できた。当然、飛行機の乗客からは「タワー」の位置はもっと北に見えるはずだ。

ちなみに「タワー」の先端は空を越え、宇宙に飛び出していることが確認されている……だが、それがどこにつながっているのかは不明だった。そして、いかなる場所から見たとしても、その場所から見える「タワー」は実は同一のものなのだ。……少なくとも彼はそう言っている。


私はどうも昔からあれが好きではなかった。その巨大さや雄大さに心引かれる者は周囲にも多くいたが、そうは思えなかった。私達は普通、「タワー」を見上げて生活している。だが、逆に考えれば、「タワー」はこの地上から宇宙につながっている。そして、その端は宇宙の彼方に続く。……あれは塔ではなく、奈落の底へと続く「穴」なんじゃないか、との疑問が私の頭の中から離れない。


そして、その考えを笑わずに聞いてくれたのは彼だけだった。


始めて出会った時、私は科学省の職員で、彼は「タワー」に対する学術調査隊のメンバーだった。彼は政府が催した調査隊の壮行会に出席しており、面白くなさそうに壁際でぼんやりと何処かを見つめていた。もしかすると、空想の中でタワーを見つめていたのかもしれない。世界のどの場所からでも見えるタワーは同じものだが、彼に見えるタワーだけは別のものだから。そして、彼はふと私に目を向け、私達はその場で恋に落ちた。

彼はタワーに魅せられた人間の1人だった。そして、その中でもトップレベルに優秀な人間に違いない。彼は物理学の若き天才であり、その他幾つかの博士号を持つ人間だった。それらの知識や才能も全て小さい頃からの夢……タワーに到達するという夢を叶えるために費やしていた。

そして、彼はタワーの中に入った。

始めて出会ってから3年後、全世界から選抜されたタワーへの調査隊が組織され、彼は若くしてその副隊長に選ばれた。大抜擢ではあるが、タワー内に到達するための技術は彼が作り上げたものであることを考えると当然と言えるだろう。調査隊の隊長は彼の恩師である人物であった。

探査機を送り込むことに成功した後で、調査隊はタワー内に入ることに成功した驚いたことに、タワーの内部は人類の居住に可能な環境であったそうだ。ただ、それ以外の条件は、外界とはかけ離れたものであったらしい。


「タワーの中は外から見えるよりも遥かに巨大なんだ。そして、真っ暗だ。でも、中に小さな光が見える。まるで地平線の彼方に見える小さな太陽のようにね。タワー内は外界の物理法則が通用しない。重力場が狂っていて、左右や上下の違いもはっきりしない。だから、詳しいことはわからないが、個人的にはあれはタワーの先端を示しているのだと思う。つまり、地平線の向こうじゃなくて、タワーの先端だ。タワーの中をあの光に向かって進めば、タワーの上へと向かうことができるんじゃないかとね」

 最初の調査から帰った時、彼はそう言った。そこに行くのか、とベッドの中で私は尋ねた。

「それが僕の夢だ」

彼は私の様子に気付いたのだろう。私を抱き寄せた。

「泣かないでくれ。これだけは譲れないんだ。……僕の夢は塔の上にあるんだよ」

……でも、きっと帰ってくる、約束するよ、と彼は言った。


そして、1年間、彼等はタワー内を探索し続けた。

彼を含めた調査隊がまず向かったのは北極だ。正確には地軸の存在する場所。北極の探検が行われるようになってから、地軸の位置に見えるタワーは移動しないことがわかっている。私は史学科出身の人間なのでタワーの歴史について多少は詳しい。私達の文明の近代化は、まず北を目指すことからはじまった。あらゆる文明で「タワー」は信仰の対象となり、それに関する神話が語られてきた。多くの場合、タワーが神の世界への入り口であり、北に向かって進みつづければ、いつかタワーに到達できると信じられていたのは興味深い事実だと思う。

多くの者がタワーを目指し、途中で力尽きた。中世以降、タワーへ向かうための航海技術や、極寒地での探索に必要な科学技術が発達し、近代化がもたらされた。この星で科学技術を早い時期に発達させた国が北半球に多いのも、地軸への距離が短く、その分、到達への可能性が感じられたためという説まである。今から100年ほど前、初めて人類は北極の地軸へと到達した。そして、タワーに触れることができないことを発見した。虹を突き抜けるのと同じで、向かっていたつもりがいつの間にか通過しているのだ。それによって、タワーはあくまで虹と同じく、幻影のようなものでしかないと考えられた。この考えは長く続き、私も小さい頃はそう教わった。触れることができないことがわかり、それまで文明を支配していたタワーへの信仰とタブーは弱まり、代わりに科学技術への信仰が発展することになる。当時の哲学者はこう言った。「天に触れることはできない。そこには何もない」、と。

それから人類は月へも到達した。月に降り立った宇宙飛行士は、初めて月にそびえるタワーを肉眼で見ることになる。


タワーが別の次元に存在しているのではないかという考えが生まれたのは、約50年前のことだ。それまでにタワーの周囲では空間がほんのわずかに歪んでいることが観測されていた。たとえば、タワーの横に見える星の位置に微小のズレが生じるのだ。当初は観測ミスではないかと考えられていたが、ある科学者が、空間に関する新たな理論を提唱した。それは質量と空間の関係に関する理論であり……要するに莫大な質量を持った存在が、別の次元に存在しているために、この世界の空間にも影響しているのだという。

その物理学者は幼い頃から、タワーに魅せられた人物だった。科学者には……私の考えでは特に男性に、このようなタイプが多く。彼も、その恩師も同じタイプだった。彼の恩師であるリッチハイカーという教授は、その物理学者の弟子であり、その理論をさらに発展させ、空間を操作するための理論の基礎を作った。そして、ついにタワーのある次元と私達の空間を結び付けることに成功したのが彼というわけだ。

 この三代にわたる師弟の間には、私にも入れない絆のようなものを感じる。それはロマンに魅せられた男達の物語であり、そんな男は常にこの世界ではない、別の次元にある場所を見つめているのだ。


1年間、私は彼がタワー内の何所にいるのかを考え続けた。タワーの内と外では物理的な概念が異なることは理解していた。だが、あの彼が進み続けているのだ。恐らくはかなりの所まで到達しているのではないかと思っていた。それこそ科学省がある高層ビルよりも高い位置に。

私は昼休み、よく屋上の展望室に登り、タワーを見つめた。彼は北極から出発したが、世界のどの場所からも見えるタワーが同一の物であることを考えれば、ビルから見えるタワーは彼が登っているタワーということなのだろう。

私はタワーを見上げ、彼のことを考えた。

彼の夢は空の上、あのタワーの先端にある。

だが、地上にいる私の夢はそこにはない……いや、そのはずだった。


「天越・空也が帰ってくるわよ」

 その女は言った。

 その日、私は「重要な用件」とやらで、最上階の会議室に呼び出された。内容を聞いても「重要な用件」としか言われなかった。そして、会議室には一人の女がいた。黒いスーツを身にまとった華奢な女だ。黒い髪が腰の辺りまであり、随分と若い。大きな目と人形のような容姿が逆に年をわからなくしている。上級学校の生徒と言われても違和感がないだろう。女は部屋の長机に腰掛けていた。椅子の上にではない。机の上に、だ。

「……失礼ですが、どなたでしょうか?」

「私は城旗丸乙女。通りすがりの国家公務員よ」

 子猫が喋ったら、こんな感じだろうという感じの声だった。

「不思議そうな顔をしているわね。でも、なんにせよ。今の貴方よりは天越・空也に近い場所にいるわ」

「本当ですか? クーヤ……天越氏が帰ってくるというのは」

 二人だけの呼び方をしてしまって、慌てた。だが、彼の名前を聞いて、みっともないほどに私の心は高鳴った。

「隠さなくていいわよ。貴方達の関係はこちらでも把握しているから。……じゃなきゃ、こんな所に呼び出さないわ」

 城旗丸乙女の口調はやはり子供っぽかったが、私にとってはショッキングな言葉だった。

「関係だなんて、そんな……」

 城旗丸乙女はため息をついた。

「何をグダグダ言っているのよ。空上・勇太。貴方がゲイの女役だろうが、私には何の興味もないし、この件にも何の関係もないのよ。重要なのは、天越・空也が帰ってくるってことよ」

 彼女はそう言った。


 彼は……天越空也は、自分が同性愛者であることを隠そうとはしない人間だが、私はそうではない。彼は多くの困難とハンディキャップを乗り越え、他人が到達できないほどの業績を作った人間だ。自分が同性愛者であることなど、ただの事実以上の何物でもないのだろう。だが、私は違う。自分が男しか愛せないことに気づいたのは、彼がそうであったように幼い頃だが、それから私はその事実を誰にも伝えようとはしなかった。空也と出会った時も、言葉で伝えたわけではない。……ただ、そうであることがお互いにわかっただけだ。空也以外に同性の恋人を作ったこともないし、理解してくれる友人を持ったこともない。ずっと一人で、自分と向き合ってきた。……空也にとっては同性愛者であることは、自分の特徴の一部分でしかないが、私にとってはある意味、自分の全てだ。

 

「何を考え込んでいるのよ」

気がつくと城旗丸が顔を覗きこんでいた。小さい頃に大切にしていた舶来の人形のような大きな目と小さな唇をしている。私がもし女に生まれていたら、こんな女になりたかったと思う。実際の私は身長が180センチもあるし、肌も浅黒い。上級学校時代にバスケットボールの全国大会に出場したことをクーヤは羨ましがるが、私が体育会系クラブに入っていたのは、同性愛者であることを隠すためだ。

「……いえ、貴方の話を信じてよいのかと思ったので」

 私は動揺を隠しながら話題を戻した。一応は科学省でも、それなりのポジションにいるのだ。特にタワーの探索に関するプロジェクトのメインスタッフになっているのは、空也の恋人だからではない。

「探索隊から、帰還の報告は受けていません。定期連絡さえ、まだ1週間先なんですよ」

 この一年、全くタワー内部との連絡が取れていないわけではない。私が空也の安否をそれほどには心配していなかったのも、そのためだ。定期連絡は一ヶ月に一回で行われ、それも僅かな文字のテキストしか送れない。時空のズレを超えるために莫大なエネルギーを通信には必要とするためだ。だから、通信の内容も隊員の安否を伝えることに限られてくる。通信の発信源から探索隊の位置を特定することも試みられているが、今のところはタワー全体から電波が発せられているようにしか観測されない。内部と外部では物理的な基準が異なることは前にも述べたとおりだ。ただ、通信文の最後にはこう書かれていた。

「我々は、上昇を続けている。どこまでも続く塔の中を」

 ……節をつけて通信の内容を城旗丸乙女が口ずさんだ。通信の正確な文章は公表されていない。この女がそれを知ることができるポジションにいることは間違いないようだ。

「現在、北極付近に国連軍が集まっていることは知っているかしら。極地探索用の原子力潜水艦が20隻」

「気候が悪化するから、北極基地の人員を退避させるためで……」

「嘘よ」

 乙女は微笑んだ。謎めいた……というよりは男をからかう笑みだ。

「本当はそんな目的じゃない。集まっている潜水艦も77隻だし」

「そんなに?」

「そう。極地に長期滞在できる船はほぼ集まっていると言ってもいいわ」

「何のために?」

「北極を封鎖するためよ」

「…………何のために?」

 乙女は私の耳に顔を近づけた。普通の性的嗜好を持つ男だったら、間違いなく興奮する仕草に違いない。

「決まっているじゃない。貴方の恋人を北極から出さないためよ」

 驚いて出した私の大声に、城旗丸乙女は耳を押さえた。


「3週間前、探索隊からの連絡が途絶えたの。定期連絡が来なかったのね。それがそもそもの始まりよ」

「ちょっと待ってください。先月の連絡は問題なく来たじゃないですか。貴方もさっき言った内容のものが」

「ああ、国連は情報を制限しているのよ。あの通信も実は一ヶ月遅れで公開しているの」

「本当ですか?」

「それに通信の発信源を特定するのも、ある程度はできているの」

「……知らなかった」

「いつだって知らないのは、恋人だけってわけね。まあ、この国でもその辺りを知っているのは、ほんの一握りだけど」

「……貴方は誰なんです?」

「言っているじゃない。貴方と同じ、国家公務員よ」

 城旗丸乙女は悪戯っぽく微笑んだ。私はだんだん薄気味悪くなってきた。

「連絡が来なかったから、北極基地は大騒ぎになったらしいわ。対応策がいくつも考えられた。再び空間をつなげることも考えられたけど、タワーの中に入ることが何故かできなくなっていたそうよ。……でも、そうしているうちに、連絡が来た」

「連絡は通常のテキストによるものだったけど、量が桁外れだった。一般に知られているのとは違って、実際は通信できるテキストの量もこの一年でかなり多くなっているのだけど、その時の通信では、その何倍もの量が送られてきたわ。それも通信文ではなく、話し言葉で。まるで誰かがレコーダーか何かに吹き込んだ内容をそのままテキスト化したようだった。内容はこうだったわ。探索隊はタワー内で更に位相を変化させることに成功した。それによってタワー全体に影響が出て、内部の環境が変化し、外界との連絡も途絶えた。その時の影響で、探索隊のメンバーの半数が死亡。だが、探索隊は新たな段階に進むことができた」

 乙女はちらりと私を見つめた。

「安心しなさい。貴方の恋人は無事よ。さっきから言っているようにね。この時の変動でも無事だったらしいわ」

 まあ、それが問題の一部なのかもしれないけどね、と城旗丸乙女は言った。

 

「彼に何が起きたんですか?」

「正確には、彼が何を起こしたか、よ」

 謎めいた微笑を浮かべながら城旗丸乙女は人差し指を横に振った。ただ、全てにおいて謎めいた女なので、ひょっとするとその仕草に大した意味はないのかもしれない。

「一週間前、北極の基地に天越空也が現れた。職員が食堂で昼食を食べていると、突然、テーブルに座っていたらしいわ。あ、正確にはテーブルに、ではなくて、付属の椅子にね」

 どうでもいい所を乙女は訂正した。

「その場にいた職員が触れたけど、確かに生身の肉体だったそうよ。彼は言ったわ。時間がないんだ、とね。まだ、タワーから離れるのは難しいんだ、と」

「そして、どうなったのですか?」

「そのまま彼は基地の司令官と二人で何かを話し合ったそうよ。私もこの時の内容は把握していない。国連の上層部は口が堅くてね。でも、確かなのは、この時の話が決裂したってこと。気がつくと、再び椅子に座っていたそうよ」

 食堂のね、と乙女は付け加えた。

「彼は言ったわ。主要国はタワーの秘密を独占しようとしている。タワーは誰のものでもないんだ、とね」

 格好いい台詞だと思わない? と乙女は言った。ちょっと、笑えるけどね、と。

「このことには戒厳令が敷かれたけど、人の口に戸は立てられないわよね。特に北極基地には民間の科学者も多いし」

「……クーヤはどうなったんです?」

 思わず声が出た。

「彼なら消えたわ。現れた時と同じようにね。その後、細かな分析が行われて、その時、今までとは全く異なる変動がタワーに起こっていたことが明らかになったわ。詳しいことは私にもわからないのだけど、タワー全体の存在がほんの一瞬、かき消えるような変動だったそうよ……あんな大きなものなのにね」

 乙女は軽く首をかしげた。

「でも、一つだけ確かなのは、天越空也が帰ってきたってことよ。もう一つ確かなのは、彼が何らかの知識と力を手に入れたってことね。それこそ、タワーの存在、その根源にかかわるような何かを」

「そんなことって」

「各国はそう思っているわ。だからこそ、北極を封鎖しようとしている。我が国の首脳もすでに特殊部隊を乗せた潜水艦を発進させた。ちょっと、後手に回っちゃったけどね」

「彼一人のために、そんな……」

「ことはそれくらいに大事なのよ。貴方が思っているよりは、タワーのことは解明されているの。……その危険性もね」

 ただ誤算だったことは、もっともタワーについて詳しい人物が国連に敵対したってこと、と乙女。

「そんな……敵対するって決まったわけじゃ」

「力を持った人間に対して他の人間が思うことに、バリエーションは少ないわよ」

 乙女は小さく笑った。ポケットから小さなヤスリを取り出して、つめを研ぎ始める。

「……どうして、ここに来たんです?」

 しばらく……恐らくは数秒、呆然とした後、私は呟いた。

「どうして、機密情報を私に教えるんです? 私が彼の恋人だから教えてくれるってわけでもないでしょう?」

「貴方が天越空也の恋人だからよ」

「え?」

「各国は北極を封鎖しようとしている。でも、それじゃあダメよ。相手は超常の力を持っている相手なのよ。私達の持っているセンサーで捕らえられるとは思えない」

「まさか……」

「いいえ、私はそう思うの。もし、タワーについて科学者たちが考えているが正しければ、それくらいのことはできるはずよ」

 乙女は爪を研ぐのをやめ、私に近付いた。

「だから、彼を追っても無駄なのよ。タワーを出た彼が最初にどこに向かうのかを考えなきゃ」

 普通の男には、たまらなく魅力的だろう声でこう囁く。

「天越空也は帰ってくるわよ……貴方の元にね」


 私は部署の部屋に戻り、デスクに座った。……正確にはデスクの椅子に。

 そして、大きくため息をつく。窓の外にはタワーが見えた。いつも見つめている光景だが、今日はあまり見たくはなかった。元々、人数が少ないせいもあるが、今日の部署は一段と閑散としていた。部屋の外で電気配線の工事をしているのが、返って静けさを増している。皆、私の知らない所で、北極の事態への対応でも行っているのだろうか? 知らぬは恋人ばかり、ということなのだろうか? 

 クーヤの声が聞きたかった。だが、それと同時に彼のことを知るのが怖かった。彼がどうなっているのか、知るのが怖かった。でも、少し……クーヤが帰ってくるのは私の所だ、という乙女の言葉が嬉しかったりもした。


 あの後、城旗丸乙女は私に名刺を渡し、去っていった。クーヤが接触を取ってきたら、教えて頂戴ね、と言い残して。名刺には「国家公務員 城旗丸乙女」とだけ書かれていた。後、携帯電話の番号も。

何者なんだ? と私は考えた。見た目や言動の印象は、金持ちの女子学生と言った感じだ。生意気だが、根は素直そうな箱入り娘。私はあんな女が嫌いだ。……だが、その一方であのタイプは私の憧れでもあった。私はずっと自分が男に生まれてきたことに違和感を持っていた。そして、できることならば、あのような……我がままで華奢な、お人形のような少女に生まれてみたかった。この後、奇妙な縁で深い関係を持つことになる女のことを私は考えた。そして、私があの女の姿になってクーヤに愛されている姿を想像した。

 電話が鳴ったのは、その時だ。


 デスクの上に置かれた電話は外線を示していた。省にかかってくる電話は受付が応対し、内線でこちらにつなぐのが普通だ。外線のランプは内部から外部に直接かける時にしか光らない。私はとくに考えるでもなく、電話を取った。正確には受話器を。そしていつもの習慣通り、部署名を告げた。

「やあ、ユータかい?」

 電話から聞こえてきたのは、クーヤの声だった。一年前と変わらない、優しげな声だ。砂漠の砂に水を注ぐように、その声は耳の奥に染み渡った。

「静かに。君の部屋は盗聴されている」

 彼は言った。もっとも、驚きすぎて声は出せなかったが。

「今日の3時に、いつもの店で。……会いたかったのは僕も同じだよ」

 電話は切れた。

 私は彼の名前を呼ぼうとして……咳き込んだ。


 本当に帰ってきたんだ……私はデスクに……いや、椅子に座り込んだまま考え込んだ。電話の声の近さから言って、この国に戻っていることは間違いないようだ。誰にも知られることなく、帰ってきたというのか? あの城旗丸乙女が言うとおりに彼はタワーの超常の力を手に入れたというのか?

 まさか、そんなことが……。

「電話線、つなげますね」

 廊下で配線工事をしていた業者が入ってきて、部屋のパネルを開けながら言った。小柄な中年の男だ。

「何って?」

「だから、電話の修理が終わったと言ったんですよ。……つながらなかったでしょう?」

 工事業者の男は私に言った。それから男は電話機を持った私を不思議そうに見つめた。

 私は曖昧に笑って受話器を置き……それから、3時までに時間がないことに気がついた。


> 

 全ての恋人たちにとって、大切な店や場所というのは必ずあるだろう。そこがなければ二人の関係まで消えてなくなりそうなそんな場所だ。駅前から少し離れた路地にある喫茶店は私達にとってそんな場所だった。そこのオープンテラスに天越・空也は座っていた。正確にはオープンテラスに置かれた10ほどの小さなテーブルに付属した椅子に。


タワーに史上初めて到達した人間とか、100年に一度の天才だとか、多くの肩書きとは彼・・・・・・クーヤは少し合わない外見をしているかもしれない。小柄で(私の肩あたりまでの身長だ)、眼鏡をかけている。実際にはかなり鍛えているのだが、かなり痩せて見える体格。全体的にはインドア派の理工系の学生と言った印象だろうか? おまけに私が何度言っても服装はチェック柄のシャツとジーンズで、おまけにシャツの裾はジーンズにいつも入れている。スポーツマンに見せたいのなら、黒縁の眼鏡くらい外したらどうかと私は言うのだが、外見に関しても彼はマイペースだ。

 この時もクーヤは普段どおりの格好で、オープンテラスの椅子に座っていた。チェック柄のシャツの裾をズボンに入れて、分厚い黒縁の眼鏡をかけて座っていたのだ。あまりに普段どおりだったので、私は自然に手を振って、近寄ろうとして・・・・・・それがおかしいことに気が付いた。何故なら、彼はつい先日(一週間前? 昨日?)まで北極にある謎の物体の中にいたのだ。それなのに彼は週末の昼過ぎに少し寝坊してやってきたのと同じ格好と態度をしている。

「早く来いよ。・・・・・・幽霊でも見たような顔をしているぞ」

 立ち上がりながらクーヤが手招きした。私がそれに逆らえるはずもなく、考えるよりも早くに私は彼の腕の中に吸い込まれていた。普段ならば、人前でこんなことをするのは嫌なのだが、この時はそんなことが気にもならなかった。彼の匂いや感触が出発前と変わらないことも嬉しかった。一瞬の間、私は時を忘れた。そして、この後、この瞬間を何度も何度も思い返すことになる。ただ、私がこの時、わずかな違和感を覚えたのも確かだ。ごく自然だが、自然すぎておかしなことに。


「元気にしていたかい? 相変わらず、安月給でこき使われているんだろ?」

「誰かみたいに、いきなり北極に行ったりはしないけどね」

 私は軽口を返し……彼の顔に触れた。

「本当にクーヤ?」

「僕は僕だ……少なくとも、この世界ではね」

「……私は貴方が変わらないでいてほしい」

「相変わらずの安定志向だ。でも、そんな君がいるからこそ、僕も旅に出られるのかもしれない」

「待たされる人間の気持ちもしらないで……」

 私は微笑んだ。

「でも……どうやって戻ってきたの?」

「君に会いたい一心さ。シェイクスピアも言っている。恋の翼で、この塀を乗り越えたってね」

「北極からどうやって戻って来たのかって聞いているの。北極は今、封鎖されているんでしょう?」

「情報が早いね。城季丸のお嬢さんから聞いたのかい?」

「彼女……一体、何者?」

「城季丸財閥の一人娘さ。あそこはタワー探索に関して裏で金を出していてね。情報も色々知っているってわけさ」

「どうして、大財閥の一人娘なんかが動いているの?」

「それは彼女自身がタワーに関心があるからさ。もちろん、財閥全体もタワーに関する情報を知りたがっているが、その中心になっているのが彼女さ」

「何故?」

「それは彼女自身の問題だ。僕だって詳しくは知らない。……ああそうだ。彼女が国家公務員だと言うのは本当だよ。九割九分、コネだが後の一分は僕が家庭教師をしたからね」

 人の縁ってのは単純だよ、と彼は言った。それが縁で財閥がスポンサーについてくれたんだからね、と。

「じゃあ、あの女が言ったことは本当なの?」

「彼女がどんなことを言ったのかは知らないが、大筋は合っているだろうね」

「タワーの探索はどうなった?」

「多くの犠牲が出た。成功とは言いにくい」

「……でも、何かを得たんでしょう?」

「得るもの……ね。何か得ることと、失うことは紙一重だ」

 クーヤは自分の右手を見つめた。冒険者というよりはコンピューターのプログラマーのような色の白い手。何の変哲もない手だが、私は違和感に気が付いた。何の変哲もないという不自然さに。

「その手……」

「これが僕の失ったものさ」

 彼はそう言って、私に右手をかざしてみせた。


 クーヤの右半身は生まれつき麻痺している。神経の伝達がうまく行えない障害だ。動かすことができるのは、小さい頃に手術を受け、埋め込まれたインプラントの電気信号で筋肉を動かしているためだ。小さい頃からの鍛錬と技術の進歩によって今では一見支障なく体を動かすことができる。それでもよく見れば右半身の発達が不十分で、手足も少し短いことがわかるし、これはその手に抱かれたことがある人間にしかわからないだろうが、動作に独特のぎこちなさがある。そして、先程、彼が抱きしめた時に感じた違いがなんだったのかを私は理解した。そこに何が足りなかったのかを。


「君には知って欲しい。タワーの中で僕が何を見たのかを」

 何を失い、何を得たのかをね、と彼は小さく微笑んだ。

「僕らはタワーの中に侵入した。前回の調査で内部が人間の生存に適した空間だということはわかっていた。それまで人類が到達したことのない空間……しかも、異なる時空にある空間なんだ。酸素があるというだけで不思議だろう。だが、調節したかのように、この地球上と同じ大気と重力が存在する。だから、僕達は自らタワー内に入ることにした。……その時から考えていた仮説からしても、実際に人間が入って探索を行うことは必要だろうと思ったしね」

「仮説?」

「それに関しては、また後で言うよ。少なくとも、その時に僕や教授が考えていた仮説はある程度正しかった。だから、1年前、再びタワー内に入った時に内部の状況が大きく変わっていたことにも、それほどには驚かなかった」

「変わっていたって?」

「そこは、まさしく<塔>の中だった。……巨大な塔のような建造物の中と言ってもいい。いや、巨大な塔状の建造物の中に入ったと想像した時に思い浮かべる風景が現実にあったといってもいい。それまで、タワーの内部には上下や左右という基準がなかったはずなんだが、僕達が突入すると同時に上下の概念ができた。まさにタワーというのに相応しい状態へね」

 私は彼の言葉に違和感を持った。まるでタワーに意思があって、クーヤ達に望む光景を見せているように聞こえる。

「僕達はとりあえず、その<塔>を登ってみることにした。仮設を検証するにもデータが必要だからね」

「危険はなかったの?」

「教授の年齢を考えると体力的な不安はあったが、結果的にタワーを登ること自体に問題はなかったよ。むしろ教授が一番元気だったと言ってもいい。教授はよく行っていた。このタワーの中では求める意思の強さで全てが決まるとね。……あの人は古い人間で、気力で何事も解決すると信じているところがあったんだが、今回に関しては正しかったといってもいい。いや、元々、教授とタワーは相性が良かったんだ。だからこそ、教授はあんなにもタワーに惹きつけられたのかもしれない」

 彼が自覚しているかは不明だが、彼もそんなタイプだ。精神主義というよりは頑固で、意志の強さで何事も解決できると思っている人間。そして、実際に生き抜いてきた人間だ。

「結局、そのまま2ヶ月ほど<塔>を探索した。まあ、塔と言うけど、横方向に移動しても、その外壁に到達することはなかったけどね。とにかく、僕達に残された選択肢は上を目指すことだけだった。だが、それも暫くして無意味だとわかった。どんなに移動しても結局、僕達は一歩も動いてはいなかったんだ」

「動けなかったの?」

「いや、そうじゃない。動いていることは動いているんだ。だが、上方向に無限に続いている場所で、どれだけ移動した所で意味はない。そうだろう。僕達には到達すべき場所がなかったんだ。……まあ、想定の範囲内というやつだったけどね」

 クーヤは身を乗り出し、人差し指を唇に当てた。これは彼が話をする時の癖だ。自分の発想をかたる時、話が核心に差し掛かると、悪戯っぽい仕草を見せる。悪巧みを話して聞かせる子供のように。

 

「僕は以前からタワーが人間の精神に影響を受けているのではないかと考えていた。つまり、人の精神とタワーはお互いに影響しあっているということだ」

「どういうこと?」

「幾つかの報告から、タワーの存在を感じ取れるのは人間だけではないかと考えられていた。つまり、人間以外の生物はタワーの姿を認識しないということだ」

 私は疑問を投げかけた。確か、渡り鳥などはタワーを避けて通るとの話を聞いたことがあるのだ。人間以外の生物もタワーを認識できるのだと思っていた。

「ああ、あの渡り鳥の話だろ? どの分野でも正しい知識が一般に伝わるのには時間がかかるね」

「じゃあ、あの話は嘘なの?」

「大体、北極圏・・・・・・それも北極点の近くを通過する渡り鳥なんて殆どいないんだよ。その生態を細かく調べた研究もね。大体の場合は天候が悪化すると、鳥の飛行ルートも変わる。それらが合わさって、鳥がタワーを避けて通るという話が生まれたんだ」

 クーヤはため息をついた。

「そもそも、北極圏には生物が殆どいないしね。この考えが間違っているとわかったのはタワーの付近に観測基地が建てられて動物が持ち込まれてからだ。もっとも、最初にタワーに到達した探検隊は犬ゾリを使用していたんだが、その犬達はタワーを見ても恐れなかった、との記録がある。話がそれたが、なんにせよ。タワーの存在を認識できるのは人間だけ……というよりは人間の脳の構造とタワーになんらかの関係があるということだ」

 そう言ってクーヤはしばらく黙り込んだ。会話の途中に突然黙るのは彼と話しているとよくあることだ。だが、それは彼の癖というよりは純粋に他人より思考する時の集中力が高い……もしくは、それだけ一つのことに没頭してしまうということだろう。私はこんな時は話し掛けないようにしている。なにせ世界最高の頭脳が考え事をしているのだ。中断させてしまったら、世界的な損失かもしれないのだ。

 だが、この時、沈黙した彼の顔に浮かんでいたのは、絶望としか言いようのない表情だった。自分が巻き込まれ……そして私が巻き込まれることのなる運命への絶望。それは全人類的な問題でありながら、結局は個人的な問題だった。

 

「僕達は以前から考えていた。タワーは人間の精神に影響されるとね。つまり、タワー内で僕らが見た<塔>は、登っている調査隊自体が作り出しているんじゃないかとね。僕らはタワーの中が塔のようになっていることを無意識のうちに考えていた。まあ、普通はそう思うよね。穴だと考えているのは知る限り、君くらいだ」

 クーヤは快活な調子に戻って話し始め、私にウィンクをした。

「だが、そうすると問題が出てくる。外から見たタワーには上限がない。だから、僕達が作り出した<塔>にも上限がなかったんだ。これを解決するには全く別のモデルを作り出す必要があったんだ」

「別のものを想像したの?」

「そう、僕らは新しいタワー内のモデルを考えた。そして選んだのがK3山脈だった」

「……高い山じゃない」

 そう、まるで塔のように切り立った頂が特徴的な世界最高峰の山脈だ。

「色々試してみたんだが、<塔>のイメージから離れると上手くいかないんだ。高いものを登るというイメージが、まず心の中にあって消し去ることができなかったんだ。それにタワーに入る前のトレーニングとしてあの山脈に調査隊全員で登っているんだ。だから、全員のイメージをまとめやすかったというのもある。……なんにせよ。試行錯誤を繰り返した後、僕らはタワー内にK3山脈を作ることに成功した。確かに高い山だが、それまでとは大きな違いがある」

「……頂上がある」

「そうだ。山には頂上がある。僕らは頂上にたどり着けば、何かが起きるのではないかと考えた……そして、実際にそれは起きた」


「何が起きたのかは、私も知りたいわ」

 傍らでしゃべる猫のような声がした。城季丸の声だ。

 横を見ると苦虫を噛み潰した猫のような顔で城季丸乙女が立っていた。そして、空いていた椅子に座る。

「話してもらうわよ。天越・空也。タワーの中で何があったのかを」

「やあ、乙女ちゃん。ひさしぶり」

「……今度、その呼び方をしたら殺すわよ」

 乙女は空也を睨みつけた。心なしか私と接していたときより態度が悪い。二人を見ていると、喧嘩は多いが仲の良い兄妹のような印象をうけた。

「殺してくれるって? 乙女ちゃん」

 空也の言葉に乙女は黙って右手を上げた。その途端、周囲の人間……同じオープンテラスに座っていた客や、近くにいたカップルまで……が、一斉に銃を取り出し、こちらへ向けた。

「わかった。もう二度と言わないよ」

 椅子から落ちかけた私とは対照的に、空也は軽く両手を上げただけだった。

「しかし、君らの手回しの良さにも恐れ入るね。普段からこれだけの人数を用意しているのか?」

「天越・空也。質問に答えなさい」

 平然とした様子の空也を乙女が睨みつけた。

「貴方はタワーの中で何を得たの? 探索隊はどうなったの? リッチハイカーの叔父様は生きているの? 答えてもらうわよ」

 空也はしばらく優しいと言ってもいいような視線で乙女を見つめ、少し目を伏せた。

「教授はタワーの頂上に到達したよ。タワーの頂上に到達した最初の人間になった。それは事実だ。……だが、あの人はもうこの世界にはいない」

「死んだの?」

「そのことは、これから話そう。……さっきの話は聞いていたろ? 僕達はタワーの内部に山を作った。それより重要なのは頂上を設定したことだ。終わりのない空間に到達点を設定したんだ」

「でも、タワーの中にいることには変わりがないんでしょう?」

 私が質問すると、不機嫌そうに乙女が睨んだ。

「わからないの? タワーの内部は一種の仮想空間なのよ。いわば、パソコンのプログラムのようなもの」

「そう、問題はプログラムを書き換えることだった」

 独り言のように空也が言った。私は二人の話に置いてきぼりにされていたし、クーヤは既に思考の中に没入しているようだった。タワー内が仮想空間だという話自体だけでも突飛なものなのに、二人はそれを当然のことのように話している。

「僕らはタワーの中に頂上……到達点を設定した。そこに辿り着けば、別のプログラム……もしくはタワーの基本構造にアクセスできるのではないかと考えた。基本的に、その考えは間違ってはいなかった。ただ、僕らは急ぎすぎた。もっと慎重に行動すべきだった」

「何が起こったんだ?」

「防壁のようなものだ。僕らの設定した到達点は思っていた以上にタワーの基本構造にアクセスできるものだった。だが、基本的なものであればあるほど、プログラムには防壁が不可欠だ。僕らはみすみすそれに飛び込んでしまった」

 空也はため息をついた。

「結局、頂上へと辿り着けたのは、教授と僕だけだった。幸運か、偶然か、それとも想いの強さなのかはわからないが、僕らは何とか防壁をくぐりぬけた。だが、二人とも重傷を負っていた。歩くのもやっとなくらいにね。そして、教授は死んだ……彼の亡骸は僕が頂上に運んだ。誰がなんと言おうと、タワーの頂上に最初に到達したのは彼だ」

「クーヤは大丈夫だったの?」

「勿論、大丈夫じゃなかった。インプラントが壊れたのが厄介でね。右半身が全く動かなくなったんだ。僕は必死に這い進んだ。死にたくないと思ったよ。心の底からね。……自分がいつの間にか<頂上>に達していたことも気づかずに」

「何が起きたんだ?」

「まず、体が治っていた。完璧にね。まあ、完璧すぎた気もするがね」

 空也は右手をかざした。インプラントの助けがなくても動くようになった右手を。

「そして、僕は自分がタワーの頂上にいることに気がついた。そこの光景を表現することは難しいな。文字通り、この世界とは次元が違う……一つの空間に数十もの次元が重なっているんだ。そして、僕はタワーの正体を知った」

「正体?」

「タワーは一種のシミュレーターだ。様々に内部の環境を作り変え、それを実体験するための装置だ。もっと簡単に言えば、ゲーム機の本体だと思えばいい。仮想空間を楽しむためのね。そして、その効果はタワーだけでなく、この世界全体に広がっている」

「つまり、どういうことだ?」

「……この世界はタワーを中心として作られている仮想空間だ。タワーはこの世界を作った<何者か>が世界を操作するために作った装置なのだろう。ただ、タワーを作ったのは我々とは全く異なる存在だから、その本当の目的はわからないけどね」

「じゃあ、この世界自体が作り物だっていうの? 誰かがゲームを楽しむために作った」

 私は尋ねた。自分でも声が荒くなっているのがわかる。隣の乙女は黙ったままだった。恐らくある程度は知っていたのだろう。クーヤは私の問いをあっさりと肯定した。

「本来、タワーは別の時空に隠れて、この世界からは見えないはずなんだ。だが、それが何らかの原因でこの世界にその一部が現れたのだろう。モニターの画面にノイズが走るようにね。そのノイズは全ての人間に見える。なぜなら、それは世界の根源につながっているからで、そこに人間の精神もつながっているからだ」

「じゃあ、この世界は誰かに操られてきたっていうの?」

「いや、それはない」

 空也は答えた。

「僕はタワーのメモリー…少なくとも、メモリーに相当するだろう物を調べてみた。その結果、過去の一定の期間、タワーから世界への干渉は行われなかったことがしめされた。つまり、タワーは停止したままだ」

「一定の期間って、どれくらい?」

「物理的な基準が違うので一言では言いにくいのだが、少なくとも、我々が知っている歴史が始まってからは一度もない。つまり、我々の文明の発展にはタワーからの干渉はないんだ」

 空也はしばらく考え込んだ。

「まだ詳細はわからないが、過去……どれくらい過去なのかはわからないが……にタワーが用いられていたことは間違いない。タワーによって世界の設定が作られ、何かが試されたのだろう。メモリーによれば、今の科学技術では想像もできないような大規模な戦闘が行われた痕跡もある。だが、何らかの時点を境にタワーは使用されなくなった。その後は基本的なプログラムだけが働いて、状態が維持されている状態なんじゃないかと思う。内部の状態は自動的に……つまりは僕ら人類によってランダムに更新されているんだ。個人的には、この世界はもうすでに放棄されているのではないか、と考えている。すでに何らかのシミュレーションが行われて、それが終了した世界だ。……もっと簡単に言えば、やりつくした後のゲームソフト。ゲームがハッピーエンドで終わって、セーブデータだけが残してある……そんな状態なのかもしれない」

「魔王が倒されて、世界は永遠に平和になりました…メデタシ、メデタシ」

「そう、その後の世界だ」


「何もメデタクなんかないわ」


 黙っていた乙女が口を開いた。

「貴方は大事なことを黙っている。貴方がタワーで手にいれたもののことよ」

「何を手に入れたと君は思っているんだい?」

 空也の表情には生意気な生徒に向けるような優しさが浮かんでいた。

「貴方は全てを手に入れた。タワーの機能にアクセスできる権利をね。それは世界の全てを手に入れるのと同じ」

 乙女は空也を睨んだ。

「どうして、リッチハイカーの叔父様を助けなかったの? 貴方にはそれができたはずよ」

「死んだ人を生き返らせるなんて無理だろう?」

 私の反論を乙女は鼻で笑った。

「さっき、この男は自分の右半身を治したといったわ。この男の体の欠陥は先天的なものよ。この男のどの細胞にも右半身を正常に作る遺伝子は存在しない。あるのは正常な体というイメージだけ。それに基づいて、この男は自分の体を作ったのよ。つまり、この男は無から有を作ったのよ」

「よくそこに気づいたね」

 やはり彼の表情は、教師が生徒に向けるもののようだった。

「確かに僕はあの時、タワーの力を使った。それで僕の体を治した……いや、新しく作ったんだ。君がいうようにね。今の僕の体は完璧だよ。その気になればオリンピックで優勝できるんじゃないかってくらいにね。だが、だからこそ僕らは気づいた。タワーの力は危険だってね」

 空也は言った。

「タワーの力は人間が使うべきじゃない。あれは永遠に封じるべきだ」

「タワーの力を独り占めする気なの?」

「これは僕一人の決定じゃない。タワーの探検隊、13人、全員の決定だ。君の叔父さんも含めてね」

「どういうこと?」

「タワーの中では生も死も無意味だ。意思の強さだけが存在を決定する。リッチハイカー教授は生き返らないことを選択した。世界のこちら側にいるのは僕だけだ」

「叔父様はそんなことを言わないわ。わかったわ。貴方は他の隊員を殺し、力を独り占めしようとしているのね」

「君は昔からそうだ。見たいものしか見ようとしない」

 その時、私は一瞬、空也の姿がかすんだように見えた。水面に浮かんだ落ち葉が風に揺れ、プールのそこが覗くように、空也が座っている場所に別の人物の姿が見えた。それは白髪の初老の紳士だった。世界最高の物理学者であり、空也の師でもあるその人物とはタワーへの探索体の出発時に会ったきりだった。


 だが、乙女にはその姿は見えていないようだった。彼女が指図すると、周囲にいた人間がいっせいに立ち上がり、銃を空也に突きつけた。銃器の取り扱いに慣れている者で構成されているだろうに、必要以上に銃をきつく握り締めているのは彼らが空也を恐れているためだろう。乙女は残酷な笑みを浮かべた。

「世界に干渉するつもりがなければ、北極に閉じこもっていればよかったのよ。それを恋人に会いにこんな所までノコノコやってきたのが間抜けじゃない? 何? この男がそんなに恋しかったの?」

「空也、逃げて!」

「そうはさせないわよ」

 乙女は隣の人間から銃を受け取ると、私に突きつけた。

「一緒に来てもらうわよ。先生。いくら貴方でも、これだけの人間を相手にはできないでしょう?」

「君は昔から無茶ばかりする。危険なものば持つべきじゃない」

 空也が小さく指を動かすと乙女の手から銃が消え、それと同じものが空也の手の中に現れた。

「君が扱うにしては大きすぎる。的をはずしたらどうする気だい?」

 銃は瞬時にバラバラになった。金具が机の上に落ちて音を立てる。そして、部品は更に崩れて金属の粉になった。

「何なんだ、こいつは!」

 乙女の部下が悲鳴を上げ、反射的に引き金を引いた。やはり必要以上に緊張していたのだろう。弾丸はクーヤの横をかすめ、向かいに立った男の足元に火花を散らした。

「何をしてるの!」

 乙女が叫んだが、トランプで組んだタワーが倒れるように、恐怖は一気に広がり、次々に引き金が引かれた。私は空也に向かって引き金が引かれるのを見た。そして、隣の者に押され、バランスを崩した男の手に握られた拳銃の銃口が自分の方を向くのも。そして、その黒い穴の奥を貫き、白い火花が放たれたのも。


「大丈夫かい?」

 思わず目を閉じた暗闇の中、空也の優しい声がした。そして何かが私の髪を撫でるのを感じた。眼を開けると空也がそばにおり、目の前の空中にある何かをつまんでいた。窓から入ってきた小さな蜂をつまんで逃がすように、空也は空中に浮かんでいる弾丸をつまみ、向きを変えた。

「よし、これでもう大丈夫」

 空也は寂しげに笑った。周りを見ると、信じられない光景が広がっていた。簡潔に言えば、私達二人以外の人間は完全に停止していた。停止というのは妙かもしれない。空気を吸うことは容易にできたし、日の光を皮膚に感じ取ることはできた。だが、それ以外の何らかの動きは感じ取れなかった。

「タワーの外で力を使うつもりはなかった。本来、僕がこちら側に来ることさえしてはいけないことなのかもしれない。だが、納得しておきたかったんだ。もう、自分が皆とは違う存在なんだってことを。……それに、もう一つ」

 彼の手が私の髪に触れた。再生された右手が。

「君に会いたかった。会ってこの手で触れたかった。一人の人間として君に会い、話をしたかった。だが・・・・・・やはり、僕はこの世界にはいられない」

「空也?」

 私はさびしげに眼を伏せた空也に声をかけた。

「貴方、どうする気?」

「今は二つのことを考えている。第一に、タワーは外から入れないように完全に閉ざす。今の状態ではまだ不十分だ。第二に、僕のことを含めてタワーに関して人間が持っている知識と情報を可能な限り消去する」

「・・・・・・どうして、そんなことをしなくちゃいけないの?」

「君も見ただろう。タワーの力は強大だ。タワーはこの世界の仕組み自体を変えられるんだ。物理的な法則さえね。タワーは世界に干渉するんじゃない。タワーこそが世界なんだ」


「どうして、そんなことをしなくちゃいけないの?」


 私は呟いた。口調に驚いたのか、空也がこちらを見る。

「どうして、空也がそんなことをしなくちゃいけない? せっかくタワーの頂上に辿り着いたのに、どうしてそれを捨てなくちゃいけないの?」

「この力は人間が使うには強大すぎる。僕だっていつかコントロールを失ってしまうだろう」

「貴方は強い人間よ。きっとタワーの力を使いこなせる。そうすれば、もっと、いろんなことができるようになるわ」

「そう思ってくれるのはありがたいけど、人の欲望には限りがないんだよ?」

「欲望だったら、私にだってある。かなえたくても、かなえられなかった欲望が」

「空太?」

「タワーの力は生物の存在自体を帰られるんだよね?」

「・・・・・・まあな」

「私のこと愛している?」

「ああ」

「でも、私達は男同士だ」

「そんなこと、まだ気にしているのか?」

「そうじゃない」

 私は言った。

「私は君の子供が欲しい」

「なんだって?」

「貴方はそう思わないだろうが、私は私達が愛し合った証が欲しい。たとえ私が死んでも、その記憶を受け継いでくれる存在が欲しい。でも、私の体じゃそれができない。でも・・・タワーの力だったら、それができる」

「空太。それはいくらなんでも・・・・・・」

「無理ではないよね? 君の体を再生したくらいだ。私の体を作り変えることくらいできるはず」

「どんな影響がでるかわからないぞ」

「そんなことはどうだっていい。貴方は自分が男で、男が好きなことに迷いがないけど、私はそうじゃない。私は自分の体が本来あるべき形じゃないって思っている。でも、どうすることもできなかった。でも、でも、タワーの力を使えば、それができる。今の体が間違っているんだ。それがどうなろうと構いはしない」

「空太・・・・・・君の気持ちもわかる」

彼は呟いた。

「でも、だからこそタワーの力は封じなければいけないんだ」

「空也、待って!」

 

 その瞬間、周囲の時間が動き出した。

 狭い空間で大勢が撃った弾丸は同士討ちの可能性があったが、空也が軌道を変えていたので誰にも当たりはしなかった。だが、大混乱になった。そのなかでいち早く動いたのは乙女だった。

「待ちなさい! 天越・空也!」

 乙女は歩き去ろうとする空也に気づき、その背中に叫んだ。

「貴方はタワーの力を独り占めする気なの?」


「乙女ちゃん。空太・・・・・・君達とこういう形で別れることになるとは残念だ」

 クーヤは振り返り、その表情が見えた。その表情を形容するのは難しい。神話の世界、バベルの塔が自分達の領域に迫ってくるのを見て、天上にいる誰かが浮かべた表情と同じものだろう。

「だが、君達に幾つかヒントを与えよう。タワーの力は人間の精神には干渉しにくい。人類のみはタワーの存在を認識できる。それはタワーと人の精神がつながっているからだ。だから、タワーでさえ、人の精神には干渉しにくい。そして、想いの強さこそが、タワーの中では力になる。それともう一つ。僕はタワーから帰ってきたんじゃない。この世界の全てはタワーの中にある。全ては移り変わっていく幻だ」

 そして、空也の姿は消えた。文字通り、空に消えるように。


「なんなのよ。あいつは・・・・・・」

 乙女は呆然と立ち尽くしていたが、力が抜けたように座り込んだ。

「なんなのよ。あいつは・・・・・・」

 彼女の肩が小さく震えた。それが泣いているのだとわかるまでには少ししかかった。

 乙女は小さなペンダントを握り締めていた。そのペンダントは中に写真が入っている。その写真の人物が、この幼さの残る女性が失った大切な人であることを、私が知るのは後になってからだ。

 この時の私はただ彼女の肩に手を乗せただけだった。振り返って私を見た瞳は涙のためにさらにその大きさが強調されていたが、今までなかった大人びた色を帯びていた。

「泣いちゃダメだ。手に入れたいものがあるんだろう?」

 乙女は何かに気付いたようだった。それは私達二人に共通した想いに関することだった。

 私達はその一瞬で自分達が空也に対して同じ位置に立っていることに気がついた。

「手に入れたいものがあるなら、求めなければ」 

 私は言った。……自分自身に。


 私達の望みが空の上にあるとしたら、空也は空に一番、近い場所にいる。そして、私達は空を見上げ、そこに辿り着こうとする。その物理的な位置関係は今も変わってはいない。

今、私達はタワーの中にいる。

財閥の力をもってしても、北極に人を送るのは困難だった。だが、私達が到着した頃は、タワーの周辺は大混乱の状態だったので、思ったよりはすんなりと潜り込むことができた。

空也は結局、タワーを閉ざすことはしなかった。それどころか、進入を容易にさえしたようだ。各国は空也達が用いた装置のコピーを用いてタワー内に次々と探索隊を送り込んだ。だが、それらの探索隊は連絡を絶ち、帰ってはこなかった。探索隊は命を落としたというわけではないようだった。彼らが最後に本国と交わした連絡には決まって同じようなニュアンスがあった。


「タワーには全てがある。タワーに入った者だけがそれを得ることができる。その頂上を目指す者だけが」

 

これはある国の探索隊が最後に送った通信文のないようだ。

 私達が到着した頃には既に国家ではなく民間人で構成された探索隊までタワーに入っていた。大富豪や大企業の援助を受けた探索隊は、闇のルートで手に入れた装置を用いてタワーに侵入していた。もっとも、この場合は情報の少なさもあって進入自体に失敗する場合も多いようだったが。

手詰まり状態となっている主要国は、これらの動きを黙認していた。どんな人間であれ、中に入った人間からの情報が手に入れば儲け物・・・そう思っているのだろう。

 聞いた話では、ある独裁者は自ら探索隊を率いてタワー内に入ったという。本当かはわからないが、正しい決断ではある。欲望とは自らの手で求める物。そして、その願いが個人的なものであればあるほど、他人と共有などすることはできない。それがタワーに入った者達が連絡を絶った理由だ。

 本来、タワーを用いていた存在がどのようにタワーを使用していたのかはわからないが、空也の言うとおり、タワーは人間の欲望を露にするようだ。空也達がタワー内で意思を保てたのは彼らの望みが何よりもタワーの謎を解明することだったからだ。だが、既にタワーの謎は解かれた。今、タワーの中で意思を保つことは困難だ。


 私達はかなり遅れてタワーに到達したが、装備と情報面では優位に立っていた。私と乙女が空也と接触したと言う情報は既に広がっていたので、私達は逆に得た情報を提供することで、その見返りに各国からタワーでの活動に関する情報と許可を得た。

 さらに財団は空也達が用いた装置の試作品を所持していたので、それを最新の情報を元に改良した。

 私と乙女はタワーの頂点に到達するという目的でお互いに協力することになった。私は乙女の持つ財力が必要だったし、空也のことについては私が一番知っていた。私が空也にとって特別な存在であることは、乙女も認識したようだ。私も・・・・・・今でもそうだといいと思っている。


 タワーの中に入った私達は、自分達が巨大な塔の内部にいることに気付いた。

 遥か昔、人類が北極に到達する以前、北極に聳え立っているであろうと想像した「タワー」の姿とその構造図。それが実在の物となって私の前に立っていた。私はタワーに関する想像図を卒業論文のテーマにしていた。勿論、そのことはクーヤも良く知っている。このタワーの元になった絵は私の部屋に飾られていたからだ。……正確には私の部屋の壁に。

 

 私達はタワーの登ることにした。

 どうやら、空也はタワーを閉ざすことはやめたようだ。だが、その代わりにその過程に様々な障害を設置した。最初期に作られたテレビゲームのような設定だ。ただ、障害はそれほど突破するのが困難というわけではない。問題はゴールが全く見えないということと、このタワー中が生活するのに困らないということだ。最初、タワーを登るときに最大の障害となるのは食料の不足だろうと思っていた。だが、タワー内では食料は用意に手に入った。不思議なことに食用に適した植物がタワー内に自生しているし、動物までいる。乙女はそんなもの食べるのはいやだと言ったが……そんな者のためかレトルト食品の入った冷蔵庫まで置かれていた。それにタワーの中には部屋が無数にあり、その中には生活用品がそろっていた。また、物を生産するための自動機械が置かれた部屋もあり、必要なものはタワーの外よりも簡単に手に入る。

 だから、ところどころに設置されている障害を越えること以外は、タワー内を進むことに困難はなかった。だが、タワー内を当てもなく登り続ければ、いつしか気力が尽きてくる。快適な環境が用意されているとなれば尚更だ。

 いつしか登ることをやめ、天を見上げることをやめるときがやってくる。


 タワーの中には、登ることをやめた人間によってできた小さな集落が出来上がりつつあった。一番、最近見たのは「肉引き器」と名付けられた巨大な障害の前にとどまった者達によって作られた集落であった。そこにいる探索者は障害を安全に通過する方法を考案中だと言っていたが、実際はそこから動く気がないようだった。障害も突破するのはそれほど難しくはなかった。実際、私と乙女はそこを越えられたのだから。ただ、突破するのには、どうしても持っている荷物や装備を捨てた軽装で行動することが必要だった。勿論、「肉引き器」を越えた所でも同じような物が手に入ることは考えられたが、そうでない可能性もあった。

 私と乙女は一刻も早く、タワーの上を目指すことを主張したが、探索隊の他のメンバーはこれ以上、進むことを拒否した。彼らにはタワーの頂上を目指す確固とした目的がなかった。

 私と乙女は二人だけで進むことにした。私達二人の体力は……特に乙女のほうは低いものであったが、何とか障害を突破できた。ただ、体力的なダメージは大きく、服さえもボロボロになった。「肉引き器」より先には生活のための設備がほとんどなく、あっても貧弱なものであった。お嬢様育ちである乙女には耐えられない状況ではないかと思ったが、彼女はあきらめなかった。ただひたすらに上を目指し続けた。


 二人だけの旅は長く続いた……正確には今も続いている。

 先日、ある場所でタワーの下部システムに接触することができた。クーヤが接触したような根本的なシステムではなかったが、タワーの情報を幾つか知ることができた。その情報によるとタワーが作っている世界は私達のものだけではなく、類似した世界が幾つも平行して存在しているらしい。

 私はそんな世界に向けて今までの記録を送ることにした。その世界ではタワーは見えないかもしれない。そんな世界が存在することは充分考えられる。だが、それは見えないだけであり、世界の裏側にはタワーがある。いや、タワーこそが世界なのだ。


二人だけの旅は相変わらず終着点は見えないが、旅自体には大分、慣れた。最初の頃にあった感情的な衝突はなくなった。口に出すことはないが、私達はお互いを旅のパートナーとして認識し、信頼しあっている。最初は会話もたどたどしかったが、今ではお互いの内面的なものまで語り合えるようになった。私は彼女の高飛車な態度が許せるようになってきたし、時折見せる繊細な表情に戸惑うこともなくなった。

私達は何度か体を重ねた。私は自分に女性が抱けるとは思っていなかったし、彼女にしても私は性的な対象としては見ていなかったはずだ。ただ、それでも腕の中で眠る彼女を見ると愛おしさというしかない感情がこみ上げてくるのも確かだ。

旅を続けるということは、どこか心の中の深い闇に降りていく過程と似ている。このまま旅を続ければ私は自分でも気づいていなかった新しい自分に直面することになるだろう。もしかすると私は自分が願っていたのとは異なる形で人の親になれるかもしれない。


 だとすれば、私がタワーを登る理由とはなんなのだろうか?


 その疑問は私の中で日に日に大きくなり、足を止めさせようとする。だが、私も乙女も進むのを止めようとはしない。塔を見上げ、そこに近付こうとする。


いつか何かが手に入ると信じて。


 私達の幸せはあの塔の上にあるのだ。




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― 新着の感想 ―
[一言] はじめまして、あかふくもちと申します。 【幸せは塔の上】を拝読いたしましたので、お粗末ながら感想を書かせていただきます。 えー、実は私今日丁度友人との待ち合わせの時間を一時間勘違いしており…
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