第四話
馬車に乗っていて最初に思ったことは、思った以上に揺れるということだった。
地面の凹凸がダイレクトに車体に伝わり、体を断続的に揺らし続けている。晴也は乗り物酔いをしない性質だったが、些か慣れない揺れ方に、少しだけ気分を悪くしていた。
「あの、シオタ様。大丈夫ですか?」
顔の青い晴也の様子に気づいたエルノアが、俯き気味の晴也を覗き込むようにしてそう訊ねた。
「だ、大丈夫です。ちょっと気持ち悪いだけですから……」
何とかそう告げると、エルノアは体を起こし、隣に座るジルバに声をかけた。
「ジルバ、あなた水筒は持ってる?」
「ええ。騎士の標準装備の一つです」
「貸してください」
エルノアのその言葉に、ジルバは一瞬だけ顔を顰めたが、すぐに懐から革製の水筒を取り出してエルノアに手渡した。水筒を受け取ると、エルノアは飲み口の栓を開けて晴也に手渡す。
「シオタ様、お水です。少しずつお飲みください」
「あ、ありがとう……ございます」
水筒を受け取り、晴也はゆっくりと水を飲んでいく。水は生温く、爽快感は薄かったが、それでも気持ちの悪さは随分と落ち着いたように思えた。
少しだけ気分が紛れた晴也は、エルノアに水筒を返した。
「ジルバも、その……ありがとう」
ジルバに対して礼を言うのは、少しだけ拒否感があった。しかし、実際に水筒を持っていたいのはジルバで、その彼女に礼を言わないのは、単に感じの悪い人間でしかない。
晴也の言葉に、ジルバは視線を逸らした。嫌みの一つでも言われると思っていた晴也からしてみれば、少し意外に思えた。これも、この場にエルノアがいるおかげかもしれない。ジルバは彼女のいるところでは、随分としおらしい。思えば、先の言い合いだって、エルノアがいなくなって起こったことだ。
まるで、先生に隠れて喧嘩をする学生のようだ。そう考えると、彼女の見え方が少し変わってしまうように思えた。
「どうします? 御者にもう少しゆっくり進むようにお願いしましょうか?」
「いや、大丈夫です。馬車にもだいぶ慣れたので」
エルノアの提案に晴也は少し強がって見せる。実際、馬車の揺れにはだいぶ慣れ始めていた。これ以上悪くなるということはないだろう。
「それよりも、これから行くエルンティカって、どういう所なんですか?」
これ以上心配させないようにと、少し強引に話題を変えた。実際、気になっていたことだ。
確かに晴也は、その場所に現れたのかもしれない。しかし、聖剣と塩の柱がある湖であること以外、自分はその場所のことを何も知らないのだ。
晴也の質問にエルノアが答えた。
「神湖エルンティカとは、神がこの世界の中心を定めるために、涙を落した場所とされているんです。その涙によってできた湖が神湖エルンティカと言われています」
俄かには信じ難い話だ。しかし、何も根拠がないとも言えないとも感じた。涙が湖になったというのは大仰だが、あの湖の水は塩水だった。最初、この世界に現れた直後の晴也は、海の中にいると錯覚していたくらいだ。
ともかく、これから向かう場所は、そんな曰くがついた、いわば聖地と言えるような場所であることは何となく掴めた。
「じゃあ、聖剣は? どうして涙が落ちた場所に聖剣なんて物があるんですか?」
「お前は本当に何も知らないのだな」
続けた晴也の質問に、ジルバが呆れたようにそう吐き出した。仕方ないだろうと口にしようとしたが、それよりも先にエルノアが晴也の質問に答えた。
「聖剣とは、簡潔に言えば神の体なのです」
「神の体?」
「はい。神はこの世界を創る際、自らの体を道具に作り替えたそうです。空を創るために腕を槍に。大地を創るために足を鎚に。そして、世界の中心を定めるために涙を剣にした。つまり、エルンティカを作った涙は、いわゆる涙ではなく――」
「剣に作り替えられた涙ってことか……」
それ故に、エルンティカの底には聖剣が沈んでいる。誰もがそう信じ、そして実在した。しかし、思ったほど物騒な言い伝えがある訳ではないとも感じた。天地を作ったとかいう槍や鎚よりも、世界の中心を定めたという伝承は、行ったことが随分と曖昧に思える。
落胆にも似た晴也の感慨に気づかないエルノアが続ける。
「そんな風に、神がその御身体を道具に作り替えた物を、我々は神器――エルレイクスと呼んでいます。つまり、聖剣とは神器の一つなのです」
真に神様の涙が剣となったものならば、人知を超えた力を有しているだろう。エルノアが説明した伝承では、聖剣にどのような力があるのか想像できないが、それこそ魔法のような力が宿っているに違いない。
そんな物を引き抜きに向かう。思い付きで言っておいてなんだが、そんなことができる自信が晴也にはなかった。しかし、できるできないではなく、やらなくては無価値だ。エルノアという味方を失う羽目になる。右も左もわからないこの世界で、味方がいないという状況だけは避けたい。
「緊張なさってるんですか?」
晴也のことを見て、エルノアがそう訊ねる。
緊張、とは別物なのだと思う。聖剣に対しての緊張を晴也は抱いていなかった。晴也はその後のことに対して、緊張ではなく恐怖を抱いていた。
抜けなかった後の恐怖。抜けた後の恐怖。どちらの未来が待ち受けているにしろ、それがとても恐ろしかった。何せ晴也にとって、ここは異世界。未知の世界なのだ。そんな場所での身の振り方なんて晴也は知らない。
そんな弱音を口にすることができれば楽になれただろう。しかし、それはできなかった。まだそんな近しい間柄でないというのもそうだが、何より、それが彼女に失望を与えてしまうのではないかと恐怖している。唯一の味方である彼女に見放されれば、それこそ晴也は、この世界での足掛かりを完全に失うことになるのだ。
それは、未来への恐怖以上に恐ろしいことだった。
僅かに震える晴也の手に、エルノアが触れる。彼女の細い指の感触や、温かな体温は、不思議と心が弛緩するように安心感を覚えた。
「大丈夫です。どんなことになっても、私が責任を持ちますから。シオタ様が思い詰めることはないんです」
どこまで行っても彼女は誠実で真摯だ。晴也が彼女を味方につけようとしていたの、彼女の王女という立場が、この世界を知るには都合がいいと思ったからだ。しかし、僅かな時間しか接していないとしてもわかってしまう。それくらい、彼女は真っ直ぐなのだ。そんな彼女が味方であれば心強い。心のどこかで、そんな風に思っていた。
今はそれを強く実感している。あるいは良き政治家というのは、こういう人のことを言うのかもしれない。王女と政治家では少し違うかもしれないが、それでもこんな人がいれば、担ぎ上げたくもなる。
「……ありがとう、エルノアさん。ちょっと落ち着いた」
そう言うと、彼女は笑みを浮かべて手を離した。エルノアの体温が感じられなくなり、若干の物悲しさを覚えつつ、それを誤魔化す様に両手を組んだ。
その後、しばらくは他愛のない会話が繰り広げられた。晴也から何か話題を提供することはできなかったが、エルノアは湯水の如く様々な話題を口にし、朗らかな笑みを浮かべていた。それを見ると、思わず晴也も口元が緩み、ジルバも強張っていた表情が僅かに柔らかくなる。
「私には妹がいるんですけど、シオタ様にはご兄弟とかいらっしゃらないんですか?」
「俺は一人っ子なんでいないですね。欲しいなって思ったことはありますけど」
そんなことを言うと、兄弟がいる人は必ずやめておけと言ってくる。隣の芝は青いと言うが、これに関してはそう言うことなのだろう。
「エルノアさんの妹さんって、どんな人なんですか」
晴也がそう訊ねると、ジルバはまるでその話題に触れるなと言わんばかりに睨みつけ、エルノアは少し困ったように笑った。どうやら、妹の話はし難い話題だったらしい。
「そうですねぇ。妹のエルメリアは、なんて言うか……無邪気なんです。行うこと全て、彼女からしてみれば悪気はないんでしょうけど、人によってその行いがすごく、何か悪だくみしているように見えてしまう、そんな子なんです」
「それは、なんて言うか……」
それを聞くと、すごく損をしている人だと思った。やることが全て何か悪事を働いているように見えるとは、そんな人だと逆に興味がそそられる。
もし機会があれば会うこともあるだろう。そんな風に胸に留めておきながら、とりあえずこの話題を変えようと、ずっと引っかかっていた疑問を口にした。
「そう言えば、エルノアさんにも、その妹さんのエルメリアさんにも、あとこれから行くエルンティカにも、エルって言葉がついてるんですけど、これって何か意味があるんですかね?」
今のところ、この世界に来てから聞いた名称のほとんどに、エルという言葉がついている。二つ程度ならなんとも思わなかったが、数多くの物に、それも人や地名、国名問わずついているのだから、気にしないというほうが難しい。
「ああ、そうですね。シオタ様は異世界からいらしたので知らなくて当然です」
エルノアやジルバたちからしてみれば、エルという言葉は誰もが知っている意味の言葉だった。それを知らないと言われ、一瞬だけ呆けてしまったが、すぐにエルノアは納得したようにそう口にした。
異世界から来た。エルノアはひとまずそれを信じることにしていた。しかし、実際に一般常識を知らないとなると、彼が異世界人であるということを自覚せざるを得なかった。
「エル、というのは、正確には称号なんです」
「称号?」
「はい。私達エルダフィートの民が信ずる神の名前、エルシェンディカより肖ったものなんです。そこから、エルという言葉には、神聖な、神に縁ある。そんな意味合いの言葉になったんです」
「えっと、つまりエルノアさんの場合、本名はノアで、エルは本当の名前じゃない?」
「はい。両親から授かった名はノアです。そして、神に見初められた王族としての血が流れているために、エルノアを名乗ることを許されているんです」
つまり彼女の名前は、呼ぶだけでも彼女を敬った言い方になるということだ。名前の時点でそれだけのことをするということは、エルダフィート王国の王族というのは、この国にとってとても偉大な存在ということだろう。
目の前にいる人は、この世界でとても尊い身分の人。本来なら自分のような人間が顔を見ることも叶わない相手なのだと改めて実感して、先ほどとは別の緊張が体を強張らせた。
「あんまり緊張しないでください。自分でも仰々しいとは思うんです」
慌てたようにそう言ったエルノアは、晴也の緊張をほぐす様にそう言った。しかし、それに対してジルバが口をはさむ。
「エルノア様。仰々しいなどという事はありません。エルノア様が神に縁があるというのは事実です」
「もう、ジルバはまたそうやって。私はそんな大層な人間じゃないわ」
ジルバの言葉に、エルノアは首を振って否定する。そんなエルノアに対して、ジルバのほうも頑なに意見を曲げようとしない。
エルノアはジルバのことを姉妹のように思っていると言っていたが、そのやり取りを見ると、本当に仲のいい姉妹のように見えた。その一方で、本当の姉妹仲はどうなのか。そんな疑問が一瞬過って、それを口にするのは野暮だと、考えを捨てた。
出発してから随分と時間が経った。最初は太陽が真上にあったが、今は大きく傾き、空は夕焼けに染まり、陰はその背を伸ばしている。
それを見ると、エルンティカは随分と遠いのだと思い、少しだけ焦っていた。こんなにゆっくりと進んでいた、本当に大丈夫なのか。漠然とそんな不安が晴也を急かしていた。しかし、目の前のエルノアやジルバからはそのようなものを感じなかった。思えば、移動に数時間しかかけないのは、技術が発展している地球だったからだろう。技術の発達は生活を便利にするが、その一方で人からゆとりを奪っているのかもしれない。
郷に入っては郷に従え。晴也も気分を落ち着けるように、背もたれに身を預けた。
そこからもうしばらく進むと、馬車の窓から差し込んでいた夕日が突如遮られ、車内が少しだけ暗くなった。外を見てみると、どうやら馬車が森の中に入ったようだった。
「殿下、そろそろです」
馬を手繰る御者がそうエルノアに告げる。エルノアは短く礼を言うと、すぐに晴也とジルバに話した。
「そろそろエルンティカに着きます。シオタ様、ジルバ、準備を」
いよいよ、と言ったところだ。ここで、晴也は自分の価値を示す。この世界で自分は価値があるのかないのか。
改めてそう思うと、やはり緊張してしまう。震える体を抑えるように拳を握り、それをもう片方で覆った。
そんな晴也の様子を見たジルバは、一つ溜息を吐いて言った。
「お前がそこまで緊張する必要はない。そもそも私を含め、多くの人間が、お前に対して期待などしていない。失敗したところで、お前への評価など変わりはしない」
ジルバのそれは嫌味ったらしいものだった。確かにそれは事実で、口にされれば癇に障るようなものだ。しかし、今の晴也にはそれが少しだけ心地良かった。失敗しても大丈夫、今と何かが変わるということはない。その事実を口にしてくれたジルバに、晴也は心の中で少しだけ感謝した。
そこから少し進むと、開けた場所に出た。目の前には大きな湖。その中心には真っ白い柱がある。ここには見覚えがある。ここは晴也が現れた場所、エルンティカだ。
馬車が止まる。完全に停止すると、ジルバが馬車の扉を開き外に出ると、次に降りようとするエルノアに手を差し伸べる。そう言う仕草を見ると、彼女は立派な騎士なのだと思い知る。
降りたエルノアを追うように、晴也も降車する。すると、三人のことを見つけた一人の騎士が、慌てた様子で駆け寄って来た。
「え、エルノア殿下! いらっしゃったのですね」
「ご苦労様です、ガートルン。首尾はいかがですか?」
エルノアのその言葉に、ガートルンの表情は暗く落ち込む。彼から塩の柱のほうへ視線を移せばその理由は瞭然だった。塩の柱の上には、数名の人が何か作業をしていた。あそこには聖剣があって、そこで作業をしているとなれば、聖剣を引き抜くことは未だできていないということだ。
ガートルンの態度から進捗を確認したエルノアは、「そうですか」と短く言い、こう続けた。
「作業に当たっている人員を、一度塩の柱から引き下げてください」
「……それは、どういうことでしょう」
いきなりの命令に、ガートルンはその意図を掴めないでいた。聖剣の回収は早急に行われるべきだ。故に、手を止めるなというエルノアの命令を、ガートルンは呑み込むことができなかった。
神殿の連中を黙らせるためにこの場に来たのではないのか。ガートルンの心中はそんな風に渦を巻き始めていた。
「これから、聖剣を引き抜きます。どのような事態になるのかわからないので、念のためです」
「聖剣を、引き抜く? 一体どうやって……」
何かしら策があるのだろう、ガートルンはエルノアが聡明な人であることを知っていた。神殿で神学について学び、且つ星詠みとして先を読み解く力を持っている。あるいは、国と神殿が準備をしていたものではなく、彼女の独断で執り行われた儀式でなければ、聖剣は顕現しなかったかもしれない。
伝承の中の聖剣を、現実のものにした人。彼女の考えであれば、聞く価値はあるだろう。ガートルンは近くにいた騎士に、塩の柱で作業していた人員に戻るよう伝えろと命じた。
「それで、どのように聖剣を引き抜くおつもりで?」
この場を取り仕切る者として、先んじてそれを聞く権利を主張した。エルノアも隠すつもりはなく、彼女の隣で黙っていた晴也のほうを見る。
「その少年は……ファーディン・マグラーンが捕らえた賊? 何故彼が殿下と」
ガートルンとて、聖剣と塩の柱が顕現した瞬間はこの場にいたのだ。晴也が捕らえられたことも把握していた。賊として捕らえた人間が王女と行動を共にしている事態に、彼は思わずジルバのほうを見た。
「エルノア様のご配慮です」
視線に応じたジルバは、表情を変えることなく淡々とそう答える。答えになってないとガートルンは思わず表情を顰めると、エルノアが説明をする。
「ガートルン。彼こそが、私達の希望になるかもしれないのです」
「彼が、希望? それは……」
そこでエルノアは、晴也の素性とこれから行うことをガートルンに説明した。
説明する最中、エルノアの心中は晴也への申し訳なさで溢れていた。馬車の中で、あれほど緊張する必要はないと伝えておきながら、その口で彼を緊張させるようなこと横で言っている。
希望だとか、優秀だとか、聡明だとか。そう言う誰かを褒め称える言葉は、ときに人の心を圧し潰すものになることを、エルノアは知っていたというのに。
説明を終えたエルノアは、隣の晴也の方を見た。その幼い顔は、しかし、エルノアが思っていたほど緊張の色は見えなかった。本番に強いのだろうか。などと思いながら、エルノアは内心で安堵の息を吐いた。
「神の采配、か。しかし、彼が真実を言っているとも限らないでしょう?」
エルノアの説明を聞いたうえで、ガートルンはそう反駁する。
事実を言っているのに、自分のことを知りもしない人間に嘘を吐いていると言われるのは、やはり気分のいいものではなかった。思わず突っかかってしまいそうになる晴也よりも先にジルバが口を開いた。
「この際、真実か否かは問題ではありません。エルノア様の提案を、陛下がお許しになった。それ以上に彼を利用する理由はいらないでしょう」
「それは……」
ジルバの言葉にガートルンは言い返さなかった。表情を見れば、不満に思っているのはわかりきっているが、国王の言葉が、彼を強く縛り付けている。
言い返さなかったガートルンは、八つ当たりするように晴也を睨みつけた。小動物ならその視線だけで殺せそうなほど恐ろしい形相に、晴也は一瞬、呼吸をすることを忘れ、全身が強張った。
「……承知いたしました。ひとまずは彼のお手並み拝見とさせていただきます」
それだけ言うと、ガートルンはその場を後にし、他の騎士と共に作業の中断の説明を各所に行い始めた。
ガートルンがその場を去って、晴也は息をするのを思い出し、深く深呼吸した。
あの眼光には些か震えあがった。しかし、逆に実感することができた。この場には、自分に期待する人などいない。ジルバの言う通りなのだ。それならば、肩肘張ったりする必要はない。期待がないのなら、失うものもない。
いや、それは正確ではないかもしれない。
隣にいるエルノアを見る。彼女だけは、晴也に期待してくれているかもしれない。彼女の真摯な態度に裏がないとは思わない。それでも、その純然たる想いに対して、報いたいと思うのは、決しておかしなことではない。
何はともあれ、今は聖剣だ。それを天秤にかけて、自分の価値を量らなければ始まらない。
晴也は湖の真ん中にある塩の柱の、その頂上にあるあの剣に思いを馳せる。
その場からは陰も形も見えない聖剣が、どういう訳かこのときの晴也には、強く輝いているように見えた。
第四話を読んでいただきありがとうございます。
次話もよろしくお願いします。




