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アクロス・ノア 涙が海にとけるまで  作者: フジアキ
第三章 零れる前に
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第三十六話

「――驚きました」

 その大地の上に、アースターは立っていた。

 体の至るところが塩に侵されながらも、彼が立つ場所だけは、大地が塩に変化していなかった。聖槍の力を高出力で放つことで、辛くもエルノアの一撃を防いだのだった。それでも、体の一部は塩に侵されてしまっていた。

 その横にいるグライダムに至っては、顔の半分は塩に侵され、左足は完全に塩と化していた。

「まさか、聖剣の能力がここまで凶悪だとは。さながら、不浄を清めるための権能……」

 権能の規模は聖鎚・フェルヴァーツェンのものが広大だ。一方で、武器としても兵器としても使用できる柔軟性が聖槍・グレングルムにはある。では聖剣には何があるか。その神威を受けたアースターには断言できた。こと対人戦において、絶対的なまでの殺傷能力――すなわち、エルディンの枯渇による森羅万象の鏖殺。最も人類の脅威足りえる神器。それが聖剣だ。

 想定外だ。ロジェンカ流の経典の解釈では現れることのない聖剣。その力が、これほどまでに圧倒的であると誰も思わなかった。

 アースターが横にいるグライダムを見る。体の半分を塩に変えられた彼をこのままにするのは不味いだろう。しかし、戦況を鑑みれば今なら制圧が可能だ。立ながら事切れた王女。戦意喪失した勇者。倒れている近衛騎士。聖槍の力を用いずとも勝利を収めることができる。

 不穏なのは、エルノアが突き刺した聖剣が未だ輝きを放っている点だった。これほどまでに凶悪な力を持つ聖剣が、未だ目覚めている状態だとすれば、不用意に衝撃を与えるのは愚策だ。

「……撤退します。行けますか」

 そうグライダムに問うと、彼は首を縦に動かした。

 晴也のほうを見る。一面白く塗りつぶされた大地を見て呆けている彼を見ると苛立ちが募る。果たしてエルノアほどの人が、本当に命を落とすほどの価値がこの男にあるのか。アースターには見受けられなかった。

「我々は一度退きます。できることならば、あなたには自ら、その首を差し出していただきたい。さすれば、我々は最大限の譲歩を下すでしょう」

 晴也に向けてそう言うと、アースターはグライダムの体を抱える。そして、二人の体が赤雷の瞬きに包まれると、一瞬でその姿を消した。


    *


 目の前のエルノアの勇姿に、晴也は見惚れてしまっていた。

 晴也の中のエルノアは、聡明で美しい少女だった。しかし、目の前に立っていたエルノアの姿は、勇敢でたくましかった。

 選ばれていないはずのエルノアが、晴也の腰に収められていた聖剣を引き抜き、それを担って見せた。そして、それを地面に突き刺してその光景を作り出した。

 まるで、あらゆる不浄を清めたかのような世界の姿に、晴也は呆然と眺めることしかできなかった。

 ゆらりと晴也の顔に何かがかかる。聖槍が呼び寄せた赤雷まとう暗雲が去り、太陽の光が地上に差していた。それを受けたエルノアの体から伸びる陰だった。

「エルノア、さん」

 かすれたような声で晴也が彼女を呼ぶ。しかし、いつもの優し気な声は返ってこない。

 ゆらりと、晴也の顔にかかる陰が揺れる。否、陰だけではなく、エルノア自身の体も傾き、そしてそのまま地面に倒れた。

「――エルノアさん!」

 叫ぶように晴也は彼女を呼び駆け寄る。それでも返答はない。倒れるエルノアの体を抱え上げると、その冷たさに驚く。

 彼女の顔を見る。瞳を閉じた彼女の表情は、何かに満足したように笑っていた。嫌に白い顔が、晴也に嫌な予感を告げていた。

「ま、待ってくれ。おい、ふざけんなよッ」

 晴也は慌ててエルノアの呼吸を確かめた。呼吸はしていない。心拍を確かめる。胸に強く耳を押し付けても鼓動は聞こえない。

 晴也は慌てて心臓マッサージをする。正しい方法など知らない。それでも、止まった心臓に対してできることを、晴也はそれしか知らなかった。

「クソ、クソッ、クソ!」

 絶え間なく胸部を圧迫しながら悪態を吐く。果たして自分が正しい処置をしているのかわからない不安。諦めて何もしなかったことへの後悔。自分のしてきたことが通用しないとわかった絶望。それらがない交ぜになった晴也の胸中の混乱は、やがて雫となって零れそうになる。

 泣く権利などない。そう自分を責めながら、今度は人工呼吸をする。大きく息を吐くたびに、胸が上下するのを見ると、しっかりと空気が届いていると確信できた。

 何度か繰り返して、再び心臓マッサージを行う。しかし、そう言った行為とは裏腹に、エルノアはもう助からないことを見せつけられる。

 何かが割れるような音が、エルノアの脚から響いた。そちらを見てみると、そこには塩と化したエルノアの脚が砕けていた。

 それを見れば、晴也とて認めざるを得なかった。エルノアはもう助からない。助からないところまで命を落としてしまったのだと。

 脚だけではない。聖剣の力に体が耐えきれなかったのか、彼女の体の至るところは未だに塩となり続け、そこから崩れていた。次第に人の形が崩れている様を見て、胸部を圧迫する手は止まり、溜まっていた涙は一気に流れ落ちる。

「なんで、こんなことに……」

 理由などわかりきっている。自分が最後まで戦わなかったせいだ。聖槍を使いこなすアースターを前に諦めてしまった自分が全て悪い。そんな後悔が晴也に涙を流させる。

「エルノア、様……?」

 目を覚ましたジルバが、地面に横たわるエルノアと、そのすぐ横で蹲り泣きじゃくる晴也を見て、慌てて体を起こして駆け寄る。

 痛む体に表情を顰めながら、ジルバがエルノアを見る。塩となり崩れる四肢。満足げな表情と白い彼女の顔を見て、既に亡くなったことを確信したジルバの瞳には涙が浮かんでいた。しかし、今は涙を流すべきではない。そう裾で濡れる瞳を拭うと、周囲を確認する。聖剣の能力によって塩と化した大地。そこに敵の姿はない。しかし、こういった事態になれば、ガグランダはすぐにでも動き出すだろう。ともすれば、エルノアの死を悼む時間すら今は惜しい。

「……行くぞ」

 蹲る晴也に対してジルバが言い放つ。

「行くって、どこにだよ」

「城だ。聖人が国内に潜伏していることを知らせる必要がある。……もっとも、間に合わないと思うがな」

 ここからどれだけ急いでも、王城に戻るのに半日はかかるだろう。アースターが王国内にいるのがガグランダの何かしらの策だとすれば、このような大きな動きを見せたことは、ガグランダの侵攻の先触れと考えるのが妥当だ。そうなれば、戦争はすぐに始まるだろう。

「――お前はっ」

 そんなジルバに対して、晴也が叫ぶ。

「お前は悲しくないのかよ! エルノアさんが死んで、そのことに涙すら流さないのかよ!」

 晴也の言葉にジルバは思わず拳を握る。そして、睨みつけるように晴也を見る。その眼光の強さに、晴也は視線を逸らした。

「……エルノア様を悼むのなら、今は動け。彼女の犠牲を無駄にするな。それが、お前がエルノア様に対してできる最大限の報いだ」

 そう言うと、ジルバはエルノアの美しい金髪に触れる。

 もはや、体は全て塩と化していた。残った頭も、すぐに塩となり、エルノアという形は崩れるだろう。その美しい金髪も、やがては白く砕ける。

 ジルバはそんなエルノアの金髪を一房切り取り、それを懐に収めて立ち上がる。そしてそのまま歩き出した。

「おいっ、待てよ! ……クソッ」

 晴也を無視して進むジルバに悪態を吐きながら、地面に突き刺さった状態の聖剣を引き抜こうとする。しかし、聖剣に触れた瞬間、今まで感じなかった僅かな熱に思わず手を放す。

 いきなりのことを混乱しつつも、ゆっくりと聖剣を掴む。未だに熱は感じるが、他の人が言っているほど高熱は感じなかった。

「何なんだよ、一体」

 そんな戸惑いを口にしながら、晴也は聖剣を引き抜き、鞘に収める。

 振り返り、横たわるエルノアの姿を見る。もはや全身が塩と化した彼女の体は、崩れた部分から吹く風に乗っていた。


    *


 グリムシャニスの上空に赤雷が打ち上がってから、ルーフィドとマーケリィは安宿に借りた部屋の中にいた。

 緊急事態となれば、何かしら動かなくてはならない。しかし、一体どのような状況なのか確認しなくては、その行動がどう転がるかわからない以上、こうしてアースターの帰りを待つ以外にやることはなかった。

 そんな折だった。部屋の窓がひとりでに開くと、窓の外から赤い閃光が瞬く。稲妻の轟音が室内に響き、思わず目と耳を塞いだマーケリィに対して、ルーフィドは帰って来たアースターの様子を見て目を見開いた。

「……誰にやられた」

 アースターは軽傷だった。塩の結晶が体を侵し続けるが、体内のディンを活性化させることで、その浸食を食い止めることができた。一方で、グライダムのほうは重症だった。顔の半分と左足が塩と化していた彼は、今や腰回りと首が半ばほど塩と化していた。

 ただ事ではない。ルーフィドは緊急事態の程度が非常に厄介な段階であることを悟る。

「勇者と戦闘しました」

「勇者にやられたのか?」

「いえ、これはそちらでなく、後から来た王女が放った聖剣の一撃です」

 王女が聖剣を使う。アースターの言葉の矛盾に眉を顰めたルーフィドだが、今はそれよりも、グライダムの処置が必要だと思考を改めた。

「しかし、この塩は何だ。体が塩に置き換わってるのか? クソッ、治療できるような魔法使いがいればよかったんだか」

 ルーフィドはその手の魔法を扱えない。そして、アースターも魔法を扱うことはできない。レイクスに選ばれた人間は、基本的な魔法を扱うことができなくなってしまう。この場で魔法が使えるのはマーケリィだけだが、マーケリィも傷を癒すような高等な魔法は扱えないと首を横に振った。

「そもそも、何故エルダフィートの第二騎士団長が、アースター様と一緒にいるのです?」

 マーケリィにはそれが不思議だった。計画の中核を担わされているとは言え、マーケリィはガグランダにしてみれば敵国の人間だ。そんな人間に、計画の全容や王国内の協力者について語るはずがなかった。

「彼は、我々の協力者です。ですが、今回の件で公になるでしょう」

「そんなことはいい! 今はこいつをどうやって癒すかだ」

 ルーフィドの叱責に、誰もが口をつぐむ。しかし、沈黙が場を支配しようと、彼らの胸裏に焦りが騒ぎ、それが苛立ちとなって思考を鈍くした。

 そんなときに、部屋の扉が叩かれる。来客だ。

 室内の全員が心当たりを視線で訊ねるが、誰もが首をひねるばかりだった。

 対応するかどうか検討する余地もなく、再び扉が叩かれた。警戒しながらルーフィドが扉を開ける。

「どうも、ガグランダ公国の皆さん」

 その男がそう口にした瞬間、ルーフィドは男の胸倉に掴みかかり、そのまま全体重をで突撃し廊下の壁に激突させる。男が苦悶の表情を歪める。そんな男の胴体に拳を一撃叩き込むと、胸倉を引き寄せ、男を部屋の中へと押しやった。

 部屋の中に放られた男は、予期せぬ強烈な前後移動に足がもつれ、床に倒れ込む。そんな男の腹部にルーフィドは蹴り叩き込み、蹲る男の腕の関節を締めあげ、片足の膝裏を踏みつけて拘束する。

「――何者だ」

 ルーフィドがそう誰何する。しかし、それは男に向けてではなかった。自らの背後で、その首筋に刃を突きつける、影の男に対してだった。

 首筋を射す冷たい刃の感触。英雄と呼ばれたルーフィドが気づかないほどの気配の隠匿。暗殺者としての質の高さが窺い知れる。その反面、首に刃を突きつけられていることをルーフィドはさして気にしていなかった。

「ガグランダより差し出された間者」

 影の男――ヴァストンが端的にそう答える。

「なるほど、お仲間か。じゃあ、なんでこんなことをする?」

 ガグランダからの間者であることがわかると、途端にルーフィドの警戒が半減する。ヴァストンから見て無防備とも言えるようなその態度は、しかし言い得ぬ迫力に刃を引いた。

「彼は我々の味方です。騎士ではなく、貴族側からエルダフィートを瓦解させるために通じた蟻です」

「見てたんなら、もっと早く助けてくださいよ」

 ヴァストンの言葉に、男は苦痛に掠れた声でそう告げた。

 エルダフィート内に協力者がいることは把握していたが、まさか二人もいるとは思わなかった。否、マーケリィがルーフィドとアースターの二人を連れて容易に国内に入れたことを考えると、為政側にも内通者がいる見るべきだろう。

「虫食いだらけだな、この国も」

 思わずそう吐き捨てたルーフィドの言葉に、男は笑いながら答える。

「大変だったんですよ。各所に根回ししたり、言いくるめてこっち側についてもらったり。危ない橋ばっかりです」

「だが、それを無事に渡り切るほどの狡猾さがある。……身近にはいて欲しくない人種だ」

「誉め言葉として受け取っておきます」

 のらりくらりと笑みを浮かべる男に、ルーフィドは舌打ちをする。

「それより、何故あなたがここに? いや、それよりもどうやって」

「お初にお目にかかります、聖人様。いえ、ここを把握したのは、単に調査の結果です。イーブラム商会か、そこに名を連ねる人間の名で、どこか宿を借りていないか確かめました。その上で商会の皆さんに、いきなり入った新入りはいないかと聞いて回り、ここを当てたのです」

 地道な調査。貴族的な身なりの男がするには些か汗臭い行いに、アースターは思わず唖然としてしまった。どこの国でも、貴族とは人を使う人間で、進んで労働を――特に肉体労働をするような人種ではないはずなのだ。

「御託は良い。何しに来たんだ」

「提案に、です」

 冷たいルーフィドの言葉に、男は笑いながら告げた。

「王城が良く見える位置と、南部へ移動するための足を用意しています。さらに、聖人様とグライダム君のその傷を癒すための術師も用意しましょう。如何です?」

「……お前、どこまで知っている」

 男はまるで、どのような形でガグランダがエルダフィートを攻め落とすのか把握しているような物言いだった。協力者に対して、ガグランダはそこまでの情報を開示していない。最小限の情報だけを与えていたはずだ。しかし、男は明らかに、これから先の動きを把握しているかのようだった。

「いえ、以前聡明なお方に、ガグランダが今の時期に攻めるのならどのような動きをするか訊ねたのです。そのとき、奇策としてエルダフィート内にお二人の内どちらかがいきなり現れると言っておられた」

 それを男なりに噛み砕き、より効果的にことを運ぶならどうするか。そう考えた結果、聖人と英雄の次の動きを予測できたというだけのことだった。

 男の言葉にアースターはゾッとした。秘密裏に進めてきた計画は、想定外ながら未だガグランダ側が有利を保っている。しかし、聖槍か聖鎚の力をエルダフィート内で使い、国内が混乱している内にガグランダが攻め入る。その策を、前もって想定していた。つまり、対策しようと思えば幾らでもできたことになる。その末恐ろしさに、何者かの掌の上にいるような錯覚を覚えた。

「ちなみに、そう言ったのは誰ですか」

 アースターがそう訊ねると、男が答える。

「エルダフィート王国が第一王女、エルノア様です」

 その名に、アースターは聖剣を振るった少女の姿が脳裏をよぎる。選ばれぬ身でありながら、命を擲って聖剣を振るった覚悟の女性。あるいは、純粋なまでに一人の男を想い抜いた願いの輝き。勇ましいだけではなく、そこまでの慧眼の持ち主だとは思いもしなかった。

「惜しい人を亡くした、ということか」

 思わず呟いたアースターの言葉を聞き、男の笑みが凍てつくのが見えた。しかし、すぐに表情は氷解して笑みを浮かべる。

「それで、いかがいたします? 私の提案に乗ります?」

「……この取引で、お前は俺達に何を求める? それを聞いてからだ」

「おっと、忘れていました。わたしがあなた方に望むこと。それは――」

 男は笑みを浮かべて告げる。そのとき浮かべた笑みは、貼りつけたようなものではなく、もっと狡猾で、欲をはらみ、歪んだような顔だった。

「王族殺害の手柄を、わたしに譲ってほしい。ただそれだけです」

 醜悪な笑みを浮かべながら、その男――オーセム・スーリロムはそう告げた。


第三十六話を読んでいただきありがとうございます。


これにて、第三章は終了となります。

次話から最終章である第四章となります。


次話もよろしくお願いします。


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