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アクロス・ノア 涙が海にとけるまで  作者: フジアキ
第三章 零れる前に
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第二十八話

 エルダフィートと他国との交流は、十数年前に起こったジェーンの悲劇以降ほとんど途絶えていた。それでも、エルダフィートにはか細いながら他国との繋がりが存在している。それが、商人だ。

 外国からエルダフィートに入るのはかなり厳しい審査を通り抜けなければならない。且つ、入国したらしたで、常に騎士に行動を見張られてしまう。しかし、王に認められた商家であれば、厳しい審査の目も幾分か和やかになる。

 マーケリィにしてみればその帰国は想定外だった。イーブラム商会は彼の祖父の代――ジェーンの悲劇が起こる前からガグランダとの親交が深い。そして現在は、ガグランダの得意先として様々な注文をエルダフィート内で果たす、間者やその仲介としても機能している。

 戦争が近いとなれば、エルダフィートは外部の様子が気になり、商家を取り入れ情報を聞き出そうとするだろう。そうしてエルダフィートで得た情報を、ガグランダは聞き出そうとするだろう。つまり、商家にとってこれは商売の勝機であった。

「……それが、どうしてこうなるのやら」

 マーケリィにとっての誤算は二つ。一つは、ガグランダが想像以上にイーブラム商会を気に入っていた点だ。一国からのお墨付きなど、商人にしてみればありがたいことだが、今回に限ってはそれが裏目に出てしまっている。そしてもう一つは、今回の計画に、こうも深く関わることになるとは思いもしなかった。

「どうかしたのか、マーケリィ殿」

 頭からつま先まですっぽりと頭巾を被った男がそう口にする。ここ数日で何度も聞いたその声は、紛れもなく英雄のものであった。

 聖鎚――フェルヴァーツェンの担い手、ルーフィド・ジェーロ。そんな傑物が、イーブラム商会の馬車に乗っているなど、名誉あることなのか厄介ごとだと思うべきなのか、もはやマーケリィにはわからなかった。

「ルーフィド殿。あまり外にお姿を見せないように。我々の存在が露見すれば、その時点で計画は破綻してしまいます」

 そしてもう一人。静かにそう口にした男の名は、アースター・ヴァイン。聖槍・グレングルムの担い手である聖人だ。

 彼らを秘密裏にエルダフィート内に移送する。それがガグランダからイーブラム商会に任された依頼だった。

 情報の売買ができると思ったが、まさかこれほどの大役を任されるとは。祖父あたりならば大喜びするだろう。だが、商人として生まれ育ったマーケリィは危機感を覚えていた。

 つまりこれは、ガグランダに与した一勢力だ。金に雇われた程度のことならばそれでもよかったが、これは金銭の絡む商売というよりも、信頼の絡む交渉であった。エルダフィートの隣国で、エルダフィートの商家が商えているのはひとえに、ガグランダからの信頼があったためだ。それを失くせば、もはやイーブラム商会は二度と国外で取引することはできない。

 それを盾にされた交渉――無粋に言えば、脅迫だ。商会の棟梁として、多くの商人を抱えるマーケリィには、その提案を飲む以外に選択肢はない。

「だが、この辺りに人の目はないぞ? 何日も窮屈な思いをしたんだ。少しくらい開放的な気分になってもいいだろう?」

 そう言ってルーフィドが頭にかぶっていた頭巾を外した。笑う彼の口元から見える鋭い犬歯が、彼を狼と思わせる。狼を被る者。ジェーロという部族の名の語源は、確かその辺りだったはずだ。彼の血筋には、あるいは獣にまつわる何かが秘められているのかもしれない。

「もう少しの辛抱です。検問を越えれば、少しくらいは顔を見せても問題ないでしょう」

 聖人と英雄の顔は割れている。それはエルダフィートとて変わらない。しかし、その認識が国民にまで及んでいるかと言われればそうでもない。外部との接触が絶無である国民らにとって、聖槍や聖鎚の担い手というのは、もはやおとぎ話の登場人物と同格なのだ。

「少しくらい異国情緒っていうものを味わいたいんだ。田舎者にとっては、初めての外国なんだからよ」

「それでしたら後日、別の国を案内しますよ」

「家族もいいのか?」

「ええ。これが終われば、あなたは先勝の英雄となるのですから」

 部族の英雄が、戦勝の英雄に変わる。そうなれば確かに、ルーフィドの価値も上がるだろう。あるいは、ジェーロ族はそれが目当てなのかもしれない。そうやって公国での部族の価値を高め、発言権を得る。そうやって中央政治に携わろうとしているのかもしれない。

 きな臭い動きだ。政治は商人には切り離せない要素の一つだが、できることならば関わらずに過ごしたいと思わざるを得ない。

 などと考えていたマーケリィがふと、思い出したことを二人に訊ねた。

「そう言えばおふた方とも、エル……レイクスはどうしたんです? 確か計画ではお使いになったと記憶していたのですが」

 エルレイクスというのはエルダフィートでの言葉だ。共通言語で神の器と言えばレイクスで通じる。そこに、エルダフィートでは尊いやら神に属するやらを意味するエルという言葉がくっついて用いられる。

 ロジェンカ教徒であるアースターやルーフィドは、エルダフィートの言葉が会話の中に混じると少し機嫌が悪くなる。司教であるアースターはともかく、敬虔とも言い難いルーフィドがそのような態度をとる意味はマーケリィにはわからなかったが、二人との会話は細心の注意を払うものだった。彼らの機嫌を損ねて仕事を放棄されたら堪ったものではない。

「ああ。貴殿は知らないのですね」

 マーケリィの言葉に、アースターは忘れていたと言わんばかりにそう口にした。

「レイクスに選ばれた人間にとって、レイクス自体を持ち運ぶ意味はないんだよ」

 続けてルーフィドがそう口にした。それ自体を持つことに意味がない。マーケリィにはその言葉の意味がわからなかった。聖槍や聖鎚がなければ、幾ら彼らが選ばれた人間とはいえ、その神に等しい権能を振るうことは叶わないだろうに。

「まっ、それもエルダフィートの中に入ればすぐにわかることさ。心配するなよ」

 そう言ってマーケリィの背中をルーフィドは強く叩いた。あまりの強さに背中がジンジンと痛み、思わず涙目になりながら、マーケリィは焦らず馬の手綱を持ち続けた。

 こんな豪放さを、神が気に入ったということなのだろうか。かと思えば、アースターはどこか物静かで敬虔な信徒。レイクスに選ばれる基準が、マーケリィにはわからなかった。

 しばらく馬車が進むと、ようやく検問所が見えてきた。いうなればそこから先が、エルダフィートだ。

「お二方、奥にいて頭巾を被っててください」

 マーケリィの言葉に、ルーフィドは少しだけ嫌そうな顔をして渋々と頭巾を被り、馬車の奥へと入っていく、そこで横たわった。その隣には、物静かなアースターが座りながら俯いている。そんな様子を見れば、まるで眠っているようにも見えた。

「――停まれ」

 検問所に着くと、すぐに騎士が馬車の前に出る。ゆっくりと馬を止める。

「ここから先はエルダフィート王国だ。入りたくば入国の目的と身分。それから荷物を改めさせてもらう」

「お世話になっています。自分、エルダフィートの商家でイーブラムと申します。此度は商売を終え、商品の補充と、手に入れた外国の品をグリムシャニスで売ろうと考えています」

 高圧的な騎士も、下手に出てエルダフィートの人間であることを示せば、すぐに厳めしい顔を破顔させる。

 エルダフィートの商人が国外に出るとき、必ずエルダフィートの人間であることを証明するための証明書が発行される。その形はその時々によって異なるが、マーケリィが前回出国した際は、小さな金属板に魔法の術式を刻んだものだった。

 懐からそれを取り出して騎士に渡すと、騎士はすぐに懐から対応する魔法の道具を取り出し、金属板に施されている魔法の術式を読み取る。

 何でも、魔法でその証明書の中に、何時出国した何者かという情報が保存されているそうだ。魔法のことなどからっきしなマーケリィにはよくわからないが、その機能が誰にでも扱える簡単なものであれば、外では高値で売れることだろう。惜しむらくは、それが魔法研究所で開発された、世に出回らない逸品という点だ。

「三年前に出国した、イーブラム商会のマーケリィ・イーブラムですね」

 その問いにマーケリィは笑みを浮かべたまま頷く。すると、途端に騎士のほうも笑みを浮かべ、柔らかな口調と親し気な態度をとるようになった。

「おかえりなさい、マーケリィさん。今回は随分と長い出国でしたね」

「ええ、本当はもっと早くに帰ってくる予定だったのですが、向こうでも色々なものを得ることができたので。それに――」

 ガグランダの小間使いとして動いていたなどと言えば、親し気な態度を取り始めた騎士は、すぐさま腰に佩いた剣を引き抜き、瞬く間にマーケリィの首を跳ねるだろう。あるいは、それよりも早くアースターやルーフィドが、超人的な能力を以てこの騎士を殺すだろうか。

 などと無駄な想像力を働かせながら、懐からあるものを取り出した。

「ちょいと野暮用がありましてね。そのせいで遅くなったとも言えますな」

 マーケリィが取り出したのは、一枚の紙だった。それを受け取った騎士は、そこに書かれていた内容を見て、目を丸くした。

「財務大臣からの命令書ですか!? 驚きました。国選商家(エルチェート)でもないのに……」

「まあ、国選が動くには少しばかり厄介な案件は、我々のような小さな商会に流れてくるんですよ」

「ははぁ。そう言う腹芸は胃に重いなぁ……それはさておき、荷物の検分は外せませんよ。こればかりは規則ですから」

「ああ、どうぞ。ただ、命令の都合で少々厄介なものを乗せているので、そこは大目に見てください」

 その言葉の真意を測りかねて思わず首を傾げた騎士だが、馬車の中で、眠りこけている二人の姿を見え驚いた。

「マーケリィさん、もしかしてこれが……」

「ええ。自分にはよくわからないんですがね、一昔前にガグランダに攫われた貴族の子弟だとか。彼らを見つけるのに、三年かかりましたよ」

「……ご苦労様です」

 騎士の労りの言葉は、マーケリィの胃を強くくすぐった。自分はそんな風に言われるようなことはしていない。そんな裏腹めいた内心が、彼の内側の臓物を焦がしていた。

 その後、ひとしきり馬車の中にある荷物を改めた騎士は、問題なしと口にして馬車の外に出た。

「それで、マーケリィさん。こちらで財務大臣にご連絡しましょうか? いくら命令書があっても、国選でもない商会がいきなり面通しを願っても、通らないでしょう?」

「ありがたい申し出ですが、今は遠慮しておきますよ。二人とも結構ボロボロなので、一度グリムシャニスのほうで身支度を整えてからご報告に上がりたいと思います。私も、些かこんなみすぼらしい格好で大臣の前に出る訳にはいかないので」

 そう言ってマーケリィは自分の格好を見せた。修繕の跡が目立つ着古した白袖。商うときは少しでも見栄えを良くするためによく手入れした黒袖と黒穿きをまとうが、一新できる環境があるのならするに限る。

「それもそうですね、わかりました。では、久方ぶりのエルダフィートを、ゆっくりと満喫してください」

 満面な笑みを浮かべて手を振る騎士に、マーケリィも手を振り返しながら検問所を越え、エルダフィート王国の中に入った。

「お二人とも、もう大丈夫ですよ」

 検問所を抜けてしばらくしてから、マーケリィは馬車の中の二人に声をかけた。

「……俺、商人は気安く信じないようにするわ」

 のそりと起き上がったルーフィドの第一声はそんなものだった。

「息するように嘘こける奴、信用できん」

 なんとも酷い言いようだ。などと思いながら、マーケリィは笑みを浮かべた。

「同感です」


    *


 晴也が西部へ行く許可は、思いの外簡単に出た。

 というのも、晴也を休ませたいというエルノアの意見だけでは反対意見が多すぎて、容易に許可は出なかった。しかし、反対勢力を黙らせたのが、魔法研究所所長のハーロゥだった。

「俺が城に出向く。久方ぶりに陛下のご尊顔を拝見したいし、いい加減ドクテルの野郎にも戻ってきてもらいたいからな」

 そこで、聖剣の詳細な能力を語る。ついでに試作品の魔法道具や魔法の武器の調整な改良をするということで、国は晴也の西部行きを認めた。

「ですが、意外です。まさかハーロゥが、研究の時間を削って城へ出向くなんて」

 エルノアの言葉に、身支度を終えたハーロゥが眉間に皺を寄せ、嫌そうな顔をする。

「わたしだった嫌さ。できることならば、ここにいてガラスを愛で、研究に没頭したい。……だが」

 そう言って、彼は晴也のほうを一瞬だけ覗き、すぐに視線を伏せてエルノアのほうを見た。

「今やりたい研究には、ドクテルの繊細な魔法の制御能力が必要だ。査問会だがなんだか知らないが、いい加減戻ってきてもらわないと困る」

 晴也が目覚めてから五日。それはつまり、査問会が開かれてからも五日が経過したということだ。査問会がこれほどまで長引いている背景には、やはりガグランダの手によって南部監視塔が掌握されていたこと。そして、王国内部にガグランダの手の者がいることが大きいだろう。

 しかし、それもそろそろ終わりを告げるだろう。どのようなことに議論をしているのかまではエルノアにはわからないが、査問会という名目で各騎士団長をこれ以上拘束することは、どのような大義名分があろうとも難しい。

「それで、これから西部のメンティア領に行くんだよな?」

 晴也の質問にエルノアが答える。

「はい。ハーロゥが船を使う許可を、神殿から川を渡る許可を出していただいたので、無事に川を渡れます」

「もっとも、神殿側の許可がなくても、勝手に渡れるがな。奴らの目も、こっちのほうまでは届かんから」

 付け足して呟いたハーロゥの言葉に、エルノアの眉がピクリと動いた。

 そんなエルノアの機微をいち早く察知したハーロゥは、すぐさま立ち上がり素早い動きで部屋の出口にまで移動した。

「それじゃあ、俺はこれから登城の準備をしなくてはいけないからな。後は勝手に川でも何でも渡ってくれー」

 あからさまな捨て台詞に、晴也は思わず笑ってしまった。一方のエルノアは、反省の見えないハーロゥの様子に深い溜息をついた。

「優秀なのはいいのですが、こうも問題行動が多いと、降格人事もあり得るというのに……」

「彼にとってはそれでもいいのかもしれませんね。下手な事務仕事がない分、そっちのほうが生き生きしそうだ」

「頭の痛くなる話ね」

 頭を抑える仕種は随分と迫真で、彼女がどれだけハーロゥのことで頭を痛くしているのか。その一端が見えた。

「……さて、シオタ様。ハーロゥも勝手に船を使っていいとのことでしたし、私達も支度をしましょう。ジルバ、グライダムを呼んできてください」

「わかりました」

 エルノアにそう言われて、ジルバは席を立ち部屋を出た。

 グライダムがいるのは施設の外だった。第二騎士団長の彼は、第四騎士団の巣穴である魔法研究所は居心地が悪いようで、基本的に外で見回りをしていた。

 施設の外に出てグライダムを探すと、近くの森の中にいた。森の警備をしているのかと思ったが、そう言う風にも見えなかった。彼は呆然と空を眺めていた。空の高い所には、鷹が一羽飛ぶのみで、目立ったものはない。そんな姿は隙だらけで、ジルバでも容易に首を取れる。そう思えてしまった。

「……首を取れる、とでも思ったか」

 ジルバのことを視界にも収めず、尚且つ彼女の思考を読んだかのように、グライダムはそう口にした。

 何らかの魔法かとも思ったが、エルディンの起こりは感じない。つまり、彼は一瞥もくれずにジルバを認識し、尚且つジルバの心を読んだということだ。

「ここで何をしているのですか、クーラレーン・バルトス」

「警備、と言っても今のを見られていたら信用しないか」

 ようやくジルバのほうを見て、グライダムは小さく溜息をつく。

「休憩していたんだ。森林浴は自分の趣味の一つでな」

「休憩って……」

 第二騎士団の団長にまで上り詰めた男が、こんな時間に仕事を放棄するなどジルバには考えも及ばなかった。

「団長というのは存外重労働だ。部下も少ない今ぐらいしか、十分に休息をとれる機会がなかったんだ」

「まさか、そのためにシャーンを査問会に送ったんですか?」

「そう言う訳じゃないが、それも理由の一つかもしれないな」

 それを聞いて、ジルバはグライダムの印象が少しだけ変わった。真面目な人間だと思っていたが、存外にそう言う部分もあって、少しだけ落胆した。

 あるいは、そういう遊びがあるほうが出世するのだろうか。頭の中にハーロゥのことを思い浮かべ、即座にあれは別枠だと否定した。

「それで、自分に何か用があるのか?」

 グライダムにそう訊ねられて、ジルバは本題を切り出した。

「そろそろ西部へ行くので、クーラレーン・バルトスをお呼びしろとエルノア様に言われまして」

 それを聞いてグライダムは短く声を上げて反応した。なんとも白けた反応だとジルバは首を傾げる。そんな様子を見て、グライダムは苦笑いを浮かべた。

「西部に行くとなると、拠点となるのはグリムシャニスだ。自分はあそこが苦手なんだ」

「……なるほど」

 その気持ちはわららないでもなかった。

 グリムシャニスはエルダフィート最大と言える商業都市だ。国内外の品物が集い、常に大金が流動している街。道を歩けば商人にぶつかり、話をしていればいつの間にか商売を持ちかけられる。街の至るところから品物を取引する声と、値引きを乞う怒号が響き渡る、眠らぬ街。故に不夜街。

 気の休まる場のない街だ。確かに、ジルバも苦手だ。しかし、常に泰然としているグライダムも苦手だとは思いもよらなかった。

「だが、これも仕事だ。殿下と勇者の身は必ず守ろう」

 不真面目なところは見受けられたが、それでも騎士団長としての実力は確かなのだ。第二騎士団として豊富な実戦経験と防衛のイロハ。味方としてこれほど頼りになる人間もいまい。

「よろしくお願いします」

 グライダムにそう頭を下げ、彼を連れてエルノアの元へ戻ろうとジルバが踵を返したところで、彼女の後ろからグライダムが告げた。

「それはそうと、ガグランダの間者と交戦したのだったな。ファーディン・マグラーン」

「ええ、それが何か?」

 足を止め、改めてグライダムのほうを振り向く。彼は変わらずそこに佇み、静かな語調でこう訊ねた。

「その間者は、エルノア様も遭遇している。違うか?」

「……そこまで報告はしていないと思いますが」

 エルノアとジルバが報告したのは、森の中でガグランダの間者、ヴァストンと遭遇し、ジルバが交戦したということだけだ。二人の間で、ジルバが遭遇した間者がエルノアの出会ったヴァストンであることはすり合わせたが、ヴァストンが間者であることを他に報告していない。故に、グライダムがその情報を知る由はないはずなのだ。

 果たしてどこでその情報を得たのか。ジルバは思わず警戒心を強める。

「我々の情報網を見くびってもらっては困る……と言いたいが、これは単に、監視塔騎士を尋問した際に得た情報を推察しただけだ」

 南部監視塔からエルノアらが抜け出た隠し通路の出口は、ヴァストンの潜伏場所の近辺だ。故に、ジルバは彼と遭遇した。ならば、先んじて抜け出していたエルノアと晴也が、彼に出会っていないとは考え難い。むしろ、二人に出会っていたから、ヴァストンはジルバと交戦する羽目になったとも言える。二度も人が通る場所を、他国の間者が潜伏場所に選ぶとは考え難い。

 グライダムの言葉を聞き、自分がはめられたことをジルバは悟った。どのようなはったりでも、ジルバのように反応してしまえば図星であることを明かしているようなものだ。

「まあ、そのことは別にどうでもいいんだが……個人的に気になる点がある」

「……なんでしょう」

「どうして、彼の手配書を交付しないのか。エルノア様が間者の顔まで把握しているのなら、人相書きをしたためてそれを王国中に手配すれば、潜伏できるような影はこの国から無くなるだろう。だが、それをしなかった。それが気になっただけだ」

 その明確な回答を、ジルバは持ち合わせていなかった。正常な判断ならば、そうすることが当然なのだ。ジルバも、エルノアならそうすると思っていた。しかし、その想像とは裏腹に、エルノアはその情報を伏せた。

 何かしら意図があるのだとジルバは考えている。そこは疑いようがない。何せエルノアは聡明なのだ。しかし、一抹の不安は心の内にこびり付く。

「……すまない。聞くべきは君ではなかったな」

 何時までも返答しないジルバに、グライダムはそう口にした。

 どれほど長い間黙っていたのか。ジルバには把握しきれていなかった。グライダムはそんなジルバの肩に手を置き、そのまま施設のあるほうへと歩いて行った。

 森の中で遭遇したガグランダからの間者、ヴァストン。エルノアは彼に世間話をし、道案内をしてもらったと言っていた。果たしてそこで、どんな会話をしたのか。あるいはその会話が、彼女の判断を誤らせているのではないか。

「――あり得ないな」

 あり得ない。エルノアがそのようなことで躊躇うことなどない。

 あってはいけない。自分がこのようなことで主を疑うなど。

 グライダムを追って、ジルバも施設へと戻る。

 彼の背中を見つめるジルバの瞳は、警戒という鋭い明かりが煌々と輝いていた。


第二十八話を読んでいただきありがとうございます。


次話もよろしくお願いします。


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