第一話
本作品に興味を持っていただき、ありがとうございます。
この作品のコンセプトは「なろう的設定で、どれほどなろう感をなくすことができるのか」です。
そのため、文章表現が少し硬いかもしれない点をご了承ください。
思わず飲んでしまった塩辛い水を吐き出した。
鼻の中に塩水が入ったのか、ツンと痛んで涙が出そうになる。それを必死に耐えながら、呼吸を必死に整える。
晴也には理解不能な事態だった。何せ、ついさっきまで東京のど真ん中で、学校へ向かっていたはずなのだ。それがどうして、溺れているような目に遭うのか。
何度か咳き込みながら、呼吸を落ち着かせるように深い呼吸をする。心臓の鼓動が煩く感じるほど、体は生きていることを喜んでいる。現金な体だ。普段は健康なんてクソ食らえというような不摂生をしているというのに。
呼吸が落ち着き始めると、周囲に注意が及んだ。見慣れない場所だった。辺りにあるのは森ばかりで、今自分がいるのは、湖のような場所の中心に建っている、真っ白い塔のような建物の上であった。
「何が、どうなってるんだ」
訳がわからない。そう思いながら、四つん這いから上体を起こす。そんな晴也の目の前には、剣が突き刺さっていた。
まるで漫画で見るようなブロードソード。金色の柄に、艶のある純白の刀身。光というものを剣という形にしたような威容を放ったそれを見て、晴也は思わずそれに手を伸ばした。
手を伸ばそうとして、自分が何かを握っていることに気づいた。
自分の右手を見ると、誰かの手を握っていた。緊張からか、非常に力強く握っていることに気づいて、慌てて晴也はその手を離した。
晴也が手を握っていた人物は、美しい金髪をした端麗な少女だった。
その少女の金髪が、天然ものであると晴也はすぐに思い至った。頭髪を金色の染めている同級生を見たことがあるが、そんなものとは比べ物にならないほど鮮やかで、それ自体が輝いているような美しさがあった。
それに勝るとも劣らないほど整った顔立ち。目鼻立ちがしっかりしたヨーロッパ系というよりは、アジア系――日本人的な幼い顔立ちで親近感を覚えた。そして何より、その顔立ちと、異様なほど美しい金髪という組み合わせに、違和感を覚えなかった。あるいは、違和感を覚えさせないほど魅力的、ということだろうか。
そんな少女に見惚れていると、その少女が全く動いていないことに気づいて、晴也は恐る恐る少女の肩に手を伸ばした。
「そ、その……大丈夫、ですか?」
肩を揺らしても、少女は反応しなかった。改めてそんな少女を見ると、肌が異様に白いことに気づいた。人間味のない、無機的な白い肌。もしかして、と晴也は慌てて少女を仰向きに寝かせ、少女の呼吸を確認した。
「い、息してないっ」
きっと自分と同じで、いきなり水の中にいて溺れてしまったのだろう。そして、水を飲んでしまった。
こんなとき、どうすればいいのか。晴也は咄嗟のことで考えが上手くまとまらなかった。
周囲に助けを求めるように辺りを見渡すが、他に人など見つけられず、自分しか少女を助けられないと悟り、晴也は絶望に顔を染めた。
落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせ、一つ大きな呼吸をすると、改めて晴也は少女のほうを見た。
「と、とりあえず、肺に酸素を送らなくちゃいけない、から……俺にできるのは、人工呼吸!」
これがもっと別の人間なら、すんなりとその答えに辿り着いたのだろう。そんな自己嫌悪に陥りながらも、とにかく少女を助けなければ、そんな思いに急かされ、晴也は学校で実施された救命講座で習った人工呼吸の手順を思い出していた。
「えっと、呼吸の有無を確認して……あと、気道を確保。顎を持ち上げて、額を抑えて、鼻を塞ぐ。その状態で、口から強く息を吹き込むッ」
必死になって講座の内容を思い出しながら、晴也は少女の気道を確保し、少女の口を覆うように口を密着させ、勢いよく息を吹き込んだ。
晴也が息を吹き込むと、少女の胸が大きく上下する。しっかりと肺に空気が送られている証拠だ。
大きく二回ほどそれを繰り返す。しかし、少女に変化はない。そのことに焦りを感じながら、晴也は再び人工呼吸をする。
何度かそれを繰り返していると、突如少女が水を吐き出すように咳き込んだ。
いきなりのことで、晴也の口に水が入ったが、そんなこと気にも留めずに、息を吹き返した少女の姿に晴也は僅かに破顔した。
「やった。だ、大丈夫ですか。聞こえますか!」
何度か咳き込む少女に対して、晴也は彼女の肩を叩きながらそう訊ねる。落ち着き始めた少女は、晴也の胸元を掴みながら、ゆっくりと顔を上げた。
まるで淡い海のような、綺麗な碧眼だった。不純物を感じさせない透明な瞳に、晴也は思わず動きが止まってしまった。
「エルノア様!」
晴也の背後から、女性の声が聞こえた。振り向いてみると、そこには濡れた衣服をまとった、深いブルーの髪をした少女が駆け寄っていた。
駆け寄り晴也を弾き飛ばすと、少女はエルノアと呼んだ金髪の少女を抱きしめた。
「ご無事ですか、エルノア様!」
その少女の呼びかけに、エルノアと呼ばれた少女は反応を示さなかった。紺碧の瞳は虚空を覗くばかりで、意思のようなものを感じさせないほど虚ろだった。
エルノアの瞳が僅かに動いた。視線が晴也に向く。晴也を見ると少女は、僅かに口元を動かし、そのままゆっくりと瞳を閉じた。
「え、エルノア様? ……気を、失われたか」
瞳を閉じたエルノアの容態を確認した少女は、他に異常がないかをつぶさに調べ、傷のようなものがないのを確認して安堵の息を吐いた。
少女は抱いていたエルノアをゆっくりと横たわらせると、流れるように立ち上がり、晴也のほう睨みつけた。そしてゆっくりと晴也に近づき、腰に佩いていた物を引き抜いた。
「ひぃっ」
抜かれた物を見て、晴也は思わずそんな悲鳴を上げた。剣だ。刀身に閃く鋭さを見て、確信する。それは本物の剣であると。
それが晴也の首元に突きつけられる。触れている訳ではないのに、冷ややかな死の恐怖が、首筋から全身に伝い、体温が下がったように思えた。
「貴様は何者だ。どうしてここにいる。エルノア様に何をしたッ」
眉を顰め、表情を赫怒に染め、憤りを吐き出すように少女がそう叫ぶ。
「俺は何も……」
誰かに怒られるようなことはしていない。心がそう叫んでいた。しかし、剣を突きつけられ、死の恐怖が全身を凍てつかせ、上手く喋れなかった。
そんな晴也の様子に舌打ちをした少女は、僅かに逡巡すると、晴也に突きつけていた剣を鞘に収めた。
「悪いが今は、貴様に構っている暇はない。気を失ってもらうぞ」
そう言うと少女は、剣の柄を握っていた右手を晴也に掲げた。すると、その右手の周りに仄明るい光の粒のようなものが集い始める。
唐突な現象に晴也は目を剥いていると、少女は呟くように妙な言葉を口ずさんだ。
「――フィンク」
意味不明な単語だった。しかし、それを口にした途端、少女の右手に集っていた仄明るい光の粒が弾けるように消えた。その瞬間、晴也の全身に何かがのしかかっているかのような気怠さが襲い、次第に瞼が下がっていく。
まるで、無理やり眠りにつかされているかのようだ。
どれだけ必死に抵抗しようと、晴也はのしかかってくるそれに抵抗することはできず、何時しか、瞼を閉じ、意識を手放してしまった。
何が何なのかわからない。意識を手放す寸前、晴也はただただ、そう思うばかりだった。
*
エルノアが目を覚ましたのは、それから三日ほど経ってからだった。
意識を取り戻した彼女は、王城の私室にある寝台に横になり、天蓋を呆然と眺めながら、どうして自分がここにいるのか整理し始めた。
儀式をしていた。そこまでは覚えている。国が支度を進めていた方法とは別の方法ではあったが、エルノアが独自に始めた儀式のほうが、成功率は高かったはずだ。
結果がどうなったか、覚えていない。けれど、どことなく覚えているのは、誰かに助けられたということだった。
寝台から体を起こして自身の『力』の巡りを確認する。すると、『力』の巡りが随分と悪いのが見て取れた。
儀式中に何か、予期せぬ事態が起きたのだろう。そう察したエルノアは、再び寝台に身を委ねた。
思えば、ゆっくりと寝台で寝転がるのも久方ぶりに思える。ここ最近は、公務に加えて、儀式の準備のためにお清めをして、気を抜ける機会が全くなかった。
目が覚めたのなら、現状がどうなっているのかの確認をしなくてはいけない。国の王女としての義務感がエルノアの頭の中で煩く鳴り響いている。しかし、少女エルノアの寝台への欲求が、それを黙らせていた。
せっかくの機会だ。少しだけ、寝台に甘えてしまおう。そんな風にしていると、エルノアの寝室の戸が叩かれた。その強さの感覚でわかった。エルノアの近衛騎士、ジルバだ。
「失礼します」
エルノアの返事を待たずに、近衛のジルバが寝室の中に入ってくる。青い髪を後ろで結んだだけの、無造作な髪型をしたジルバの姿に、エルノアは思わず溜息を吐き、名残惜しさを感じながら、寝台から体を起こした。
「エルノア様! 意識が戻られたのですね」
起きたエルノアの姿を見たジルバが、感極まった様子で破顔し、エルノアのもとに駆け寄った。
そんな彼女の様子を見ると、もう少し眠っていたかったという不満が吹き飛んだようだった。何だかんだと、自分はジルバという人間が好きなのだろう。そんなことを思いながら、それを悟らせないよう、小さく嘆息をする。
「あなたはいつも、間が悪い。狙っているの?」
「えと、何か失礼を……?」
「いえ、こちらの話です」
それだけ告げると、エルノアは寝台から立ち上がろうとする。それを見て、ジルバは慌ててエルノアを止めようと肩を抑えた。
「いけません、エルノア様。まだ横になっていないと」
「『力』の巡りは随分と良くなったし、しばらく眠っていたのでしょう。流石にこれ以上、他の方々に迷惑を掛けられない」
儀式の成否も気になるところだ。正直な話、父である国王や、神殿の連中と顔を合わせるのは気が引けた。何せ、準備をしていた儀式とは別のものを、エルノアの独断で行ってしまったのだ。その上、結果が失敗であったら、エルノアは大目玉を食らうだろう。
せめて、何かいい成果が出ていることを願う。そう思いながら、エルノアはジルバに訊ねた。
「ジルバ。私、気を失う前のことをあまり覚えてないのですけど、儀式はどうなったの?」
そう訊ねると、ジルバは言い難そうに視線を逸らした。やはり、あまりいい結果にはならなかったようだ。
そのことに、これからがみがみと神殿の連中などに小言を言われるのだろうと参っていると、ジルバがこう口にした。
「目的である、聖剣の顕現。これには見事成功しました。それと同時に、神代の建造物と思われる塩の柱も同時に顕現し、想定以上の成果を得られました」
ジルバのその報告は、エルノアが想定する最悪の事態――なんの成果も得られなかったというものからかけ離れた、大成功と言えるものだった。
それを聞いて、エルノアは思わず跳ね上がりそうになるのを必死に堪えた。結果は良好だったが、ジルバの表情を見るに、現状は思わしくないというのが窺い知れたからだ。
「……何か、良くないことが?」
そう訊ねると、ジルバは少し考えてから、エルノアに状況の説明を始めた。
「まず、エルノア様の儀式により、聖剣と塩の柱の顕現がなされました。しかし、それに巻き込まれエルノア様は神湖エルンティカの水底に引きずり込まれ、意識を失いました」
『力』の巡りが悪いのは、自身が生命の危機に瀕していたため。その事実を知ったエルノアは、水に飲まれても生き残った自分の悪運に嘆息した。むしろそのまま沈んでしまった方が、王女としての義務も、星詠みの巫女としての務めも、全て放棄することができたというのに。
「エルノア様は意識を失われましたが……どうにか息を吹き返し、私を含め、医術に富んだ者、治療魔法に長けた者を連れて急ぎ王城に帰還し、治療を始めました。その後、エルノア様は三日間目覚めることはありませんでした」
「なるほど。私のことについてわかったわ。けど、良くないことはそれではないでしょ?」
そう追及すると、ジルバは「はい」と口にしてから言葉を続けた。
「エルノア様が気を失っている三日の間に、エルンティカに在留している騎士や魔法使いが、塩の柱に突き刺さった状態の聖剣を引き抜く作業をしましたが、どの方法も、芳しい成果を上げられず、聖剣の回収、という目的を達成させられないでいます」
「……そう。それは、良くないわね」
ジルバの報告をそう口にすると、憚ることなくエルノアは大きな溜息を吐いた。
やはり、現状はあまり思わしくない。全てが良き方向に向いているのなら、ジルバを黙らせてもう少し寝台でのんびりするつもりだったが、どうにも世界はそれを許してくれないらしい。
神様は人類に試練を与えている、神殿はそう説いている。それにしては、与える試練の比率が、個人に集約しすぎているようにも思える。
人類という存在が神様にとってちっぽけならば、もっとまんべんなく、試練を与えてもいいはずなのだ。それをしないというのは、全能の神だというエルシェンディカの権能も疑わしく思えてしまう。
エルダフィートの姫が、そんなことを思うべきではない。エルノアは自分の思考を、少女の物から王女の物へと切り替えた。
「ジルバ、着替えを用意して。やはり、のんびりとしていられる暇はなさそうです」
「……承知いたしました。病み上がりのエルノア様のお力をお借りしなくてはいけない我々を、お許しください」
なんとも仰々しい。しかし、本気でそんな風に思っているのだから、ジルバという少女は可愛らしいのだ。きっとそう言うところが放っておけないのだろう。ジルバの姿を眺めながら、そんな風に考えていた。
衣装棚の中から下着を、衣装部屋から礼服を取り出したジルバを見て、エルノアは再び呆れた。
「ジルバ。今は機能性を優先するべきです。礼服よりも、白襟と黒穿きを用意しなさい」
「はっ、ただいま」
エルノアの指摘に、ジルバは急いでドレスを衣裳部屋に戻し、衣装棚から畳んだ白襟と黒穿きを取り出した。
それを受け取ったエルノアは、それらを一度寝台の上に置き、自分は寝台から立ち上がった。
「お手伝いいたします」
「これくらいなら一人で着替えられます」
身に纏っていた薄手の寝巻の腰紐を解く。寝巻はエルノアの肌を滑るように床に落ちる。白く艶やかな肌。細く滑らかな四肢。同じ女性でありながら、別次元の魅力を有するエルノアに対して、ジルバは思わず生唾を呑み、視線を逸らした。
裸を見たくらいで視線を逸らしていて、本当に着替えの手伝いなどできるのか。傍目にジルバの様子を眺めていたエルノアはそんなことを考えながら、白襟に袖を通し、黒穿きの帯を締めた。
本来ならば、化粧をするべきだし、それ以前に湯浴み――せめて水浴びをして汗を流すべきところだが、事態は急を要する。唇に薄い紅を差し、香水をつける程度で済ませ、部屋を出た。
「ジルバ、他に聖剣関連で何かあった?」
廊下を歩きながら、エルノアはジルバにそう訊ねた。それを聞きジルバは、話すべきかと逡巡する。その逡巡に、何かあったのだと察したエルノアは、足を止め、ジルバのほうを見て、話すように促す。
「その……実は、聖剣と塩の柱がエルンティカに顕現した際、妙な男も一緒に現れたのです」
「妙な男? 賊ですか?」
今回の儀式の情報が漏れた可能性を考えていると、ジルバは言い難そうに言葉を発した。
「賊として捕らえられています。しかし……」
再び言いよどんだジルバは、自分の中でどう説明するべきかと必死に考えた。その男の奇妙さは、単なる妙な男と言うには、どうにも真に迫っていたのだ。
そんなジルバの様子を見ていたエルノアは、彼女の中に確証が存在しないものだということを察していた。ジルバとは長い付き合いだ。故に、彼女がどういうときに自分に言いよどむのか、エルノアは把握していた。
「私見でいいわ。あなたの意見を聞かせて」
エルノアがそう言うと、ジルバは僅かに俯けていた視線をエルノアへと戻し、ゆっくりと口を開いた。
「……その男は私が最初に発見しました。塩の柱の上にいたエルノア様の隣にいたのです」
「私の隣に? それは……」
確かに妙だ。エルノアには当時の状況はわからないし、聖剣や塩の柱とやらがどのように顕現したのかも知らない。しかし、水に飲まれたエルノアが、塩の柱にいたということは、塩の柱は湖の底から現れたのだろう。
その塩の柱にいた。水底に沈んだ自分と一緒に。順当に考えれば、エルノアと同じように湖の底に沈んでしまい、塩の柱によって助かったといったところだろう。しかし、それは違うとエルノアは否定する。
これが今回の儀式に携わった人間ならば納得できた。しかし、賊として捕らえられるような男がそこにいたというのが問題なのだ。
「突如現れた男、ね」
非常に興味のそそられる人物だとエルノアは思った。つまりそれは、聖剣と塩の柱――神に深い縁のある物と共に現れたということだ。言い方を変えればその男は、聖剣と塩の柱と共に顕現した。
それがどういうことなのか精査する必要がある。あるいはそちらの方が急務かもしれない。
「ジルバ、その男は今どこに?」
「えっ? えっと、今は地下牢にいるかと……まさかエルノア様、その男に会おうと?」
「ええ、そのまさかよ」
来た道を引き返す様にエルノアは再び歩き始める。地下牢への道は、先ほどまで進んでいた方とは逆方向だった。
「いっ、いけません! あのような男に会うなんて……」
エルノアの進む道を塞ぐようにジルバが立ち、そう告げる。その様子がどこか不可解で、エルノアは眉を顰めながら訊ねた。
「その男は、顔を合わせることも危険な粗暴な男だったのですか?」
「い、いえ、そういう訳では……」
そこまで言ってジルバが、素直に首を縦に振っておけば、あの男とエルノアが顔を合わせるということを阻止できたかもしれないと、後悔に歯噛みした。
「何かあればあなたが守ってくれるのでしょう?」
「それは勿論」
「なら、問題ないですね」
ジルバの肩に軽く手を置き、エルノアは地下牢へと足を進めた。
エルノアの言葉通りなのだ。何があってもジルバはエルノアを守る。けれど、そうではないのだ。これは、近衛騎士ジルバとしての感慨ではなく、ずっと彼女と共に過ごしてきた、少女ジルバとしての、唾棄すべき感情だ。
つまりジルバは、憧れのエルノアの唇を奪ったあの男と、エルノアが一緒にいるところを見たくないのだ。
しかし、その感情は出過ぎた思いだ。エルノアの傍付き、近衛騎士には不要な感慨だ。それを自覚しているために、騎士としてのジルバが自らを縛る。
自らの感情を落ち着かせるように、ジルバは数度呼吸をし、そして、先を進むエルノアの後を追う。
階段を幾つも降りると、重罪人を閉じ込める地下牢に着く。
城の地下牢は鉄格子ではなく、特殊な石材のレンガで各部屋が作られている。何せ、王城の地下牢に閉じ込めているのは凶悪犯ばかりだ。そんな人間を確実に閉じ込めておくために、日の光も射さず、悪知恵を働かせないよう四肢を鎖で縛り、魔法の言葉を使わせないように口枷をさせている。
その上、かなり不衛生。そう言った場を意図的に作り上げることで、罪人の精神を弱らせる意図があることは把握しているが、汚物の臭いが充満するこの場は、やはりもっと衛生面を整備するべきだと、改めてエルノアは感じた。
このような場所に、ただ賊であるとされただけで幽閉されるとは。エルノアは件の男に不憫さを感じながら、男のいる牢を探す。
「エルノア様、こちらです」
ジルバが先導し、先に進む。ジルバの背中を追っていると、地下牢の一番奥にまで辿り着く。奥にあった牢屋の一つ。そこに、件の男は収容されていた。
収容されて間もなく、また尋問などの予定があるため、その牢の前には騎士が見張っていた。壁に寄りかかりながら、気怠そうに欠伸をする騎士に二人は同情してしまう。騎士であるのなら、このような薄暗い場所で牢の番をするよりも、外で剣を振っていたいだろうに。
「ご苦労様です」
そんな騎士に対してのせめてもの労いに、エルノアはそう声をかけた。やる気のなかった騎士は、エルノアの姿を見た瞬間、裏返った声でエルノアの名を呼ぶと、すぐさま背筋を正し、胸と平行になるよう左腕を上げる、騎士団式の敬礼を行った。僅かに見える冷や汗は、怠慢をしていたことへの焦りだろう。
「安心してください。あなたの態度を咎めようとは思いません。ただ、今日は私に免じて、数刻だけ、この場を私とジルバに預けていただけますか?」
「えっと……」
エルノアの申し出に、その騎士は戸惑ったようにそう声を上げた。怠慢を働いていた割には、生真面目に上司の命令を守ろうとしているらしい。
このままでは埒が明かないと考え、ジルバがその騎士に対して声をかけた。
「おい、階級を言え」
「クーレンですけど……」
「なるほど、一兵卒か。私は近衛騎士。そして今は、エルノア様の近衛として動いている。つまり、私はお前に対して命令権を持っている」
「はあ……」
鈍い奴だ。目の前の騎士に対してそんなことを思いながら、ジルバはその騎士に命じた。
「命令だ。数刻の間、持ち場を離れろ」
「それはつまり……」
「上司にどやされても、エルノア様の近衛に命じられたと言えばいい」
そこまで言うと、騎士は手に持っていた牢の鍵をジルバに手渡し、持ち場を離れて行った。騎士の姿が見えなくなると、ジルバはすぐさま件の男のいる牢の扉の鍵を開ける。
重苦しい錠の開く音が辺りに響く。重い扉を押しのけると、そこには少年が一人いた。
幼い少年だった。歳の頃は十三か四、と言ったところか。薄暗い地下牢でもわかるほど濃い黒髪と、生気のない黒い瞳。格好は今のエルノアと似た白襟と黒穿きだ。格好だけなら異国の貴族の子弟に見える。
「ジルバ、口枷を」
そう命ずると、ジルバは手際よく少年の口枷を解く。口枷が解かれると、少年はか細く口で呼吸を始め、虚ろに視線を持ち上げた。
「お初にお目にかかります。私はエルノア。エルノア・ラトレーン。エルダフィート王国の第一王女です」
少年と視線が合うと、エルノアは笑みを浮かべ、胸に手を当ててそう自己紹介をした。
次第に、少年の瞳に生気が宿る。縛られている手足を器用に動かして体を起こした。そんな少年の様子に、ジルバはエルノアと少年との間に入り、腰に佩いた剣の柄に手をあてがった。
「よかった、無事だったんですね」
弱々しく笑みを浮かべて、少年はそう言った。
その姿に、エルノアは感動のようなものを覚えた。状況は困窮し、環境は最悪。待遇も良くなかっただろう。そのような事態に陥りながらも、少年は自分ではなく、他人であるエルノアの身を案じた。
いや、それ以上に彼の言った言葉だ。よかった、無事だった。その言葉は単に、溺れていたエルノアの身を案じた言葉にも思えるが、弱々しいながらも確かに告げたその言葉には、明確な安堵の色が見て取れた。
事実確認としての言葉ではなく安堵。そこから推測するに、エルノアにとってこの少年は、命の恩人なのではないか、ということだった。
「……一つ、教えていただきたいことがあるのです」
もしそうだとしたらエルダフィート王国は、自らの姫の命を救った恩人を、罪人として牢に繋いでいるということだ。
確かめなくてはいけないと、エルノアは口を開いた。
「あなたはどうして、塩の柱に――聖剣の近くにいたのですか?」
そう訊ねると、少年は少し考えるように俯き、少ししてから再び顔を上げ、エルノアのほうを見て答えた。
「多分、信じてもらえないと思う。それくらい、突拍子もないことなんだ……」
少年は言い難そうにそう言った。一瞬だけ目を逸らして、もう一度、申し訳なさそうにエルノアに視線を向ける。エルノアは変わらず少年と目を合わせ、そして優し気に微笑んだ。
「言ってみてください。信じるか信じないかは、その後に決めます」
エルノアの優し気な声に、少年は喉元で詰まっていた言葉を、無理やり吐き出すように、とても言い辛そうに答えた。
「俺は、その……この世界とは違う、全く別の世界の人間――異世界人なんだ」
少年が口にしたその言葉は、只人には信じがたいものであった。
神様は人類に試練を与える。平等に、不均等に。しかし、ときに神様は、人の行く末を導き、ときにお手をお貸しくださるのだという。なんとも適当で、都合がいいと度々思っていたが、今回ばかりはその都合のよさはバツが悪い。
異世界。異なる世界。そこの住人。もしこれが、もっと別の状況下で告げられたものなら、エルノアは早々に唾棄していた。しかし、今は状況が状況だった。そんな戯言すら、一考に入れなくてはならない。ことは神の御力によって引き起こされたのだから。
第一話を読んでいただき、ありがとうございます。
次話もよろしくお願いします。




