2月14日(木) 2
下駄箱の中に、チョコがあった。
最初に感じたのは、怒りだった。神聖な、命日を穢された気がした。春佳との思い出を、彼女が生きたあの日々を、彼女が消えたあの事故を、馬鹿にされた気がした。
怒りの感情が、頭を支配した。視界が、怒りで赤く染まった。
「おーい、光輝!」
突然かけられた声が、怒りから意識を引き戻した。
「なんだ?又井」
又井二男。クラスの、そこまで親しくない、一人ぼっちにならないためにつるんでいる類の友人である。
「いや、なんでそこでずっと立ち止まってんのかな、って」
又井は、そう言いながら、俺の下駄箱を覗き込んだ。
「チョコでも入ってたんですかー、と。」
又井とそう親しいわけでもないので、春佳のことは伝えていない。彼は、俺のチョコに抱く嫌悪感を知らない。
無邪気に、下駄箱を覗き込んだ彼は、丁寧にラッピングされた箱を見て、顔をにやつかせた。
「おやおや~。適当に言ったら、図星でしたかぁ~」
うざい、を超えていた。怒りであった。だが、怒ってはならないと思った。
"こんなこと"で怒ったって、誰も何も理解しやしない。冷静に、と自分に言い聞かせる。
「はは、そんなもんかもね。ちょっと急いでいるから、すまん」
何分、急いでいるのだ。足止めされぬように、それでいて、関係を壊さぬように適当にあしらうと、手に持った靴を履いて、昇降口を出た。
駐輪場へと、足早に歩く。冬の寒さが、暖かい空気に慣れていた肌を刺した。
あの日も、そんな寒い日だったのだろうか。事故の瞬間の印象が強すぎて、ほかのことは何も覚えていない。
『ぼーっとしてないで、渡ろ』
なぜか、ぼーっとしていた俺に、彼女は弾けるような笑顔で、そういった。二人で、信号を渡り始め、トラックが。そして、暗転。白い天井、病院。
遠く思いをはせながら、自転車を漕ぐ。学校を出て、いつもと違う道をたどり、坂を上る。長い坂を、冬なのに汗だくになって登り終えると、眼下に街を一望できた。
街の風景を眺めるために、真冬に汗だくになったわけではない。俺は、墓地の中へと足を踏み入れた。
『一眺坂霊園』と書かれた、入り口を通り、奥の方へと歩いてゆく。この霊園は、まだ数十年くらいしかたっていないので、新しい墓石が並んでいる。
質素な墓石を見つけた俺は、それに近寄る。
『智田家之墓』
そう書かれたお墓にそっと近寄る。
すでに、春佳の家族が来た後だったのだろう。お墓は綺麗で、新しい花も供えられていた。
「春佳、来たよ。また、この日が来ちまった。まったく、嫌な日だよなぁ。」
誰に語り掛けるともなく、一人話す。おそらく、春佳は聞いてはいないだろう。だが、それでもいいのだ。
誰が聞いているかは重要ではなく、誰に聞かせるつもりで話しているかが重要なのだ。
「まったく、なぁ。毎年思うんだがな、あの運転手も相当だよな。酒入りチョコで酔っ払って交通事故だぜ。ああ、これは去年も言ったなぁ。」
記憶に残ってはいないのだが、あの日のことを詳しく調べてみると、雪が降った日だったそうだ。朝方まで雪が降っていたが、一日かけて雪はだいぶ解けていた。
だが、普段より少しだけ滑りやすかった。ほんのわずかな違いだったが、春佳の命が奪われることを確定的にするには、十分すぎるほどだった。
「運が悪かったのかなぁ。ちげぇよなぁ。」
運転手のことを笑い話にできるようになったのは、つい去年のことである。笑い話に、と言っても、クラスの友人たちと馬鹿笑いしながら話そうとは思わない。
ただ一人寂しく、春佳の墓に語り掛けながら、苦笑するのだ。
「そういえばな、今日、ここに来ようと思って下駄箱を開けたら、チョコレートが入ってやがったんだよ。ふざけてやがるよなぁ。」
自転車を漕ぐうちに、心はだいぶ静まっていた。ふざけるな、という気持ちはだいぶ落ち着き、こうして、愚痴とも笑い話ともつかない話に、落とし込めるようになっている。
自分も、大人になったもんだなぁ、と、一人感慨に浸る。あの頃は、何事にも反発した。春佳が馬鹿にされていると思いこめば、相手が誰であろうと反抗していた。
「なぁ、どう思うよ?そのチョコ持って来たんだけれどよ、こんな丁寧にラッピングされてやがるんだぜ。どうするよ?」
最初は、捨てようと思っていた。春佳への侮辱、思い出の冒涜だと思った。だが、穏やかになってみると、こんなに丁寧にラッピングされた物、思いの詰まった物を捨てるのも、相手への冒涜ではないかと思った。
しかし、その考えが、春佳を裏切ることになるのではないかと、俺は恐れていた。
「どうすればいいかな?俺にはさ、決められないんだ。ごめん。」
俺には決められなかった。そんな恐ろしいことをできると思うか?
誰かへの冒涜と、春佳への冒涜のどっちかを取れ、なんて言われても選べやしない。
「だからさ、迷惑かもしれないけど、春佳が決めてくれ。」
俺は、春佳のお墓の前に、そのチョコレートを置いた。
「じゃあな、また来るわ。」
傾きかけた夕陽を浴びた自転車が、坂道を街へと下って行く。整然と並んだ墓石の中に、ひときわ目立つ墓があった。
そこに置かれた箱と墓石は、長い長い影を織りなしていた。