T氏の和解
A~Zまで悪人を並べ立てようとしててやろうと思っています。
自分の中の悪を並べ立てれば、書いている本人の私は毒が抜けきって真っ当になれるかも知れません。
そう願を掛けながら、意外と悪が出てこないことに焦りながら、Tです。
父親殺し。男の子の通過儀礼。それを父親が上手く演出してやれなければ、それは血なまぐさい結末になる。息子は、父を超えたと錯覚して、気持ち良く社会に送り出してやらなければならないのです。
解り合えなかったよな。
ポツリと言葉が漏れる。
それ以上でも、それ以下でもない気がする。
目の前には、父親の遺体が転がっている。
ああ、人殺しになってしまったかと、俺は天井を見上げる。
血が、天井にまで飛び散っている。
右手を離すと、カランとフロアリングの床の上に包丁が落ちる。それを見やると、血まみれで、俺の右手も同様だった。
こうするしか無かった。こうするしか、俺が生き残る道は無かった。
親父、あんたは正しかったのかも知れない。だが、俺には悪魔のようにしか思えなかった。だから、死んで貰ったよ。
あんたが生きている限り、俺は俺の人生を歩めない。あんたが邪魔だったかと言われれば、どう答えて良いか、分からない。
血に汚れていない左手でスマホから警察に電話を入れる。
「すいません、父を刺し殺してしまいました。お手数ですが、僕を逮捕しに来て貰えませんか?」
電話の向こうが一気に慌ただしくなる。
「いえ、嘘じゃ無いです。」
自分の目から、涙が流れ落ちてきた。俺は、その温かさに心底ビックリした。俺は、泣いているのか?
「自首します。逮捕しに来て下さい。親父を、親父を、親父を、」
何を言いたいのか、頭の中が混乱してしまった。
「このままにしておきたくないんです。」
情けない泣き声が、俺の口から漏れる。俺は、その音に萎える。
膝が崩れ、俺はその場に正座して座った。
目の前には、ものを言わない親父が血まみれになって横たわっている。
解り合えなかったよな。お互いに、努力はしたはずなのにな。どうしてだろう。親子なのに。血も繋がっていたはずなのに。
だけど、これは自信を持って言える。俺が親父を殺さなければ、自分が死んでいた。だから、誰が何と言おうと、俺の中では正当防衛だ。
だが、誰もそうは捉えてくれないだろう。
何故お父さんを殺したんだい?
きっとそう警察で尋問される。俺はそれになんて答えたら良いのだろう。答えの内容を整理することは、試験勉強で随分やったのに、俺は今の自分のことを、他人に分かって貰える気がしない。ああ、試験でもうまくまとめられなくて、良い点はもらえなかったか。
涙が床に当たって乾いた音がする。何故泣いているのだろう。どうして。
頭の中に、イメージが湧いてくる。あれは、いくつの時だったか。五つくらいか。
親父がトロフィーを抱えて帰ってきた。
いつも、機嫌の悪い顔しかしていなかった親父だった。その時も、不機嫌そうな顔だった。
俺は、トロフィーを見上げて、素直に思ったことを口にした。
「お父さん、ゴルフで優勝したの?優勝したら、こんなカッコイイもの、もらえるの?」
親父は苦笑いを浮かべた。
「凄いね、カッコいいね。テレビとかに映ってる人が貰うやつだよ。僕欲しい、これ。」
滅多に笑わない父だったが、その時は気持ち良さそうに笑った。
「そうか、T坊には格好良く見えるか。そうか、そうかな。じゃあ、このトロフィーはお父さんからT坊に上げよう。」
いつかお前も、ゴルフとかじゃなくってな、勉強や運動でトロフィーなり盾なりメダルなり、貰えるように頑張るんだぞ。
俺は素直に頷いた。そして、その気満々だった。次の日から、外に遊びに行っても、本を眺めていても、全てはトロフィーに続く道なのだと、真剣になっていた。張り切っていたのだ。
小学校にも上がらない時分の話だ。
そのトロフィーは、まだ俺の部屋の中に飾ってある。ほこり一つついていない、ピカピカに拭き上げている。プレートを見れば、『XX年度XX大学医学部ゴルフコンペ優勝』と刻印されており、その下に親父の名前がローマ字で刻まれている。俺はそれを、ずっと大事にしてきたのだ。
親父が笑っている記憶と言えば、辛うじてそれくらいだった。後は、いかめしい顔をしているか、イライラして怒鳴り散らしているかだった。
「勉強はしたのか、そんな偏差値で何処の学校に行くつもりなんだ。」
「仕事もできず、金も作れず、勉強だけが今のお前の仕事だろう。その勉強さえできないと言うことは、ダメ人間と言うことだ。生きている価値があるかどうか、考えろ。」
「挨拶はどうした。朝起きたら何と言うのだ。お前は決まり切った誰でもできるようなことさえもできない人間なのか。」
とにかく怒鳴られ続けた。ダメ人間、お前は勉強ができていない、もっと勉強しろ、成績を上げろ、良い学校に行けなくて良いのか、それでお前は生きていけるのか。耳にたこができるようだった。
学校から成績を貰って帰れば、二時間は説教を喰らった。それがないと、夏休みという感じさえしなかった。それが小学校時代だった。
中学校に上がれば、俺は予備校に行くようになった。月水金、夕方六時から九時まで受業だ。予備校は家から電車とバスで片道一時間かかる。土曜日は昼の三時から八時まで受業だった。月曜日、国語。水曜日、数学。金曜日、英語。土曜日、社会と理科。今でも覚えている。
学力的について行くには、かなり無理をした。朝の六時に叩き起こされ、問題集に取り組む。英単語を覚え直す。新聞の一面を隅々まで目を通して朝ご飯。それから登校。学校での受業では眠気が勝り、まともには何も覚えていない。
部活に入りたかったが、「やっている暇があるのか?バカのくせに何を考えているのか!」の一言で帰宅部になった。周りの友人からはバカにされ、ずるいと蔑まれた。受業が終わると、中学生は誰もいない道を、1人でとぼとぼと帰宅した。あれは、寂しかったと言えば正しいのだろうか。たまに一緒になるのは、部活をサボってきた、「不良」くらいだ。
「おい、カラオケボックス行こうぜ。女子高生がさ、来てんだよ。うまくすりゃあさ、おっぱい揉み放題だぜ?」
断る勇気もなく、もちろん一緒に行く時間も無く、非常に中途半端な断り方になった。後日、俺はその不良に絡まれ、怪我をすることになったが、両親は二人とも、気にもした素振りは無かった。
顔を見れば勉強勉強。朝から晩まで勉強勉強。それ以外の単語を、親父やお袋から聞いた覚えが無い。
今思い出せば、お袋の印象が薄い。いや、ほとんど無い。食事の用意や、洗濯物の片付けなど、色々やって貰っていたはずだが、記憶に無い。俺は、家にいる時はずっと自室にこもって勉強だったし、顔を合わせれば即座に親父が勉強と言った。
もう吐きそうだった。一度、「やってんだろうが」と切れたことがあった。
親父は「お前のこの偏差値60少々で勉強していると言えるのか。こんな点数で、こんな順位で、お前は何処の学校に行くつもりか。頭の悪い奴は生きていく資格なんか無いことくらい、分からないか。お前の成績では、全く勉強が足りん。」と返された。
一体、何処の学校に行けば良いというのか。
俺は、親の言うままの高校を受け、何とか合格した。高校に入っても、状況は同じだった。
勉強勉強勉強。俺は何度も吐き、何度も貧血で倒れた。何で、こんなに勉強しているのだろうと。
ある日、中学校時代の知り合いと道で会って話をした。野球部に入っていた彼だったが、高校では何故か水泳部に入ったと笑っていた。次々とお互いに知っている友人の名前が挙がってくる。面白おかしく近況を語ってくれる。
みんな、こんなに笑顔を見せて生きているのかと思った。
「俺さ、三年の最後の試合で空振りした拍子にバット離してしまってさ、それが自分の顎に直撃したんだよね。顎よ、顎。
そんなとこ、当たるか?マジで。もう才能無いって思って、高校では女子の水着が見られる水泳部に入った。水泳部の男子入部動機の半分以上が、俺と同じ。」
学校の成績もクラブの成績も、どうでも良いようだった。羨ましいと思った。中学に入学したての頃は俺の方が背が高かったはずだが、もう見上げるように彼の体は大きくなっていた。なによりも楽しそうだった。浅黒く日焼けした彼の体全てが、まるで白い光に包まれているように輝いて見えた。
それに引き替え、自分の姿はもう老人のようだった。
誰もが、青春と呼ばれる時間を過ごしているのだと思った。クラブ活動での繋がりがあり、塾での繋がりがあり。淡い恋心があり。
俺にも塾での友人もいたが、一緒に遊びに行ったりはしなかった。カラオケボックスにも、一度も行かなかった。
まるで、学校、家、予備校の三点を、クルクルと回るように生きていた。叫び出したい衝動も、狂ってしまいたい衝動も、何とか抑えていた。
俺は、親に逆らえなかった。親は常に正論を吐き、俺はそれに従うしかなかった。
「どうやって生きていくんだ。お前には頭で考えて生きていくしか無いだろう。お前の体を見てみろ。貧弱なことこの上ない。勉強して頭で生きていくしか無いだろう。」
そりゃあ、毎日毎日朝から夜中まで勉強していれば、筋骨隆々は遠くなるだろう。
「良い大学入って、良い会社に入れば、一生食っていけるんだ。俺はお前のことが心配だ。覇気も無い、目は死んだ魚のようだ。そんなお前が食いっぱぐれないようにしようとしたら、それしか無いだろう。」
なぜそうなるのだろう。それ以外に、全く道は無いのだろうか。中学時代の友人はみんな気楽に楽しんでいる。彼等には、大学を出たら生きていけなくなる人生しか、用意されていないのだろうか。だとしたら、この国のほとんどの人間が、無職と言うことになるが。
高校でも俺は何となく馴染めないでいた。クラブ活動も生徒会活動も親に禁止された。
「何とか転がり込んだ学校で、クラブだの生徒会だのやっていられると思うのか。生徒会に誘われた?学校の先生の雑用係みたいなもんだろうが。そんなものは暇な奴に押しつけとけば良いんだ。何でお前がやらねばならん。
まずは勉強だ。」
生徒会に誘ってくれた先生は、哀れむような目で俺を見ていた。
「部活動も、やらないのかい?運動部じゃ無くて、化学部とかだったら、勉強にも役に立つと思うけど。」
俺は力なく首を振るしか無かった。入部届には親の判子が要る。「効率が悪い時間の使い方をするな。」と親父に言われるのが分かっていたからだ。
中学校は近所の公立に通っていた。高校は有名私立に通った。ある日、制服のまま予備校に向かう途中、中学時代に同じクラスだった女子に会った。
「T君って、XX高?凄ーい、頭良いんだ。あたしバカでさ、今度勉強教えてよ。」
俺の自尊心が、くすぐられた。
「いつでも教えてあげるよ。」
俺は胸を張ってそう答えた。
中学校は、普通の公立だった。だから、ちょっと塾に入って勉強をすれば周りは賢いと言ってくれた。俺には、それがせめてもの慰めになっていた。だが高校に入ると、周りはみんな賢かった。成績はクラスで一番が当たり前だった俺は、クラスで下の方になった。はっきり言ってしまえば、余りできない生徒という烙印を押されてしまった。
部活にも入らず、生徒会にも入らず、最初はみんなほぼ初対面だったのに、いつの間にか俺だけが取り残されたような、周囲は和気藹々とした空気を作り出していた。俺は、その中に、入れなかった。
無視されたり、虐められたわけでは無い。ただ、そこにいても気付かれないような存在だった。それが寂しかった。勉強は、予備校に通い、夏休みも冬休みも春休みも講習会に通ったが、いよいよ訳が分からなくなってきた。
難しすぎて、ついて行けないのだ。理解しよう、分かるようになろうとするのだが、文字を読んでいても理解できない。数式の、それの意味するところが分からない。解き方を見ても、数式と数式の行間が見えない。なぜそうなるのか、理解できない。
俺は焦り、いろんな本を買った。本の数だけは増え、ストレスも同じように増えた。
ある朝頭に手をやると、十円ハゲができていた。長めの髪の毛のお陰で、目には付かない。だが手をやれば違和感がある。
文字通り俺は叫んだ。慌ててやって来たお袋と皮膚科に行った。皮膚科ではストレスだと言われたが、親父は意に介さなかった。
「お前の精神が弱いからそうなる。なぜ弱いか、分かるか。お前は勉強ができないからだ。
だから自信を持てず、臆病になるのだ。これだけ時間があって勉強できるのに、お前は何をやっているのか。
これだけ時間があって、成績が上がらないと言うことは、集中していないってことだ。
いいか、もしお前が何かを理解するのに人の三倍かかるとするならば、お前に寝ている暇があると思うな。
一日、二十四時間あることを忘れるな。」
お袋は何やらブツブツ言いながら塗り薬を塗ってくれた。だが、お袋は所詮親父の手先に過ぎない。俺の助けにはならなかった。
クラスでの成績が芳しくないまま、三年生になった。当然、予備校でのクラス分けにも学力が反映される。俺は、お世辞にも賢いと言われるクラスにはいなかった。それでも受験が目の前に迫ってきた実感は迫ってくる。
どれだけ勉強していようが、受験の当日に体調を崩せば力は発揮できない。一期一会と言うには余りにも残酷で、やるせない。それでも、日々学力を鍛え上げていくしか無い。
俺は、いつも通り、ここ数年やり続けているように、朝六時に起き、苦手な確率・統計の問題に取り組む。そして、英単語を覚え、新聞を読む。
いくら単語を覚えても、英語の長い文章になると俺は何が書いてあるのか分からなくなった。ただ、必死に単語を繋げて適当に文章を作ると、丸をもらえることが多かった。だから、俺の中では英語はまだましな教科だった。それ以外は、文字通り地獄だった。
古文、漢文はサッパリだったが俺は理系に進むことを決められていたので理解できなくても何ともなかった。だが、物理、生物、化学はそうはいかず、かと言って参考書を読んでも些細な点で躓くともう先に一歩も進めなくなり、覚え込んでも勘違いをしてそれが元で混乱し、何度も右腕を机に叩き付けた。親父には、うるさいと怒鳴られた。
夏になった。夏季講習が始まった。そこで、意外な顔を見た。中学時代の同級生だ。野球のバットを顎に当て、水泳に転向した彼だ。俺の顔を見ると、気持ち良いくらいに嬉しそうな顔をして手を振ってくれた。
「T君もここの夏季講習?ムズいよねえ。俺さ、受業さっぱわかんねえ。」
彼の体は、以前会った時よりも一回りも大きくなっているように感じた。
「水泳?泳ぎまくってるさ。見て、俺のこのオッパイ筋肉。」
そう言うと、彼はTシャツを脱いで腹の前で腕を組んだ。彼の胸の筋肉が盛り上がる。力を入れると、その筋肉がヒクヒクと動く。
「いや~ん、ダメェ。そこはオッパイなの~♪ぴくぴくぴくぅ。」
周りは大爆笑になった。日焼けし、筋肉質の大柄。まるで別の生き物のようだった。
それから、彼、初瀬君とは一緒に授業を受けるようになった。底抜けに明るい彼は直ぐに予備校で人気者になった。そして、安達さんに再会した。
「あれ、T君と初瀬じゃん。天才とバカが並んでる。めっちゃ見た目、差が歴然。」
初瀬君は大笑いした。
「脳みそも筋肉でマッスル。」
「あれ?親父ギャグ言えるくらいには賢いじゃん。って、ギャグになってない。」
俺は胸が高鳴るのを感じていた。安達さんが初瀬君の隣に座る。初瀬君を挟んで、僕らは三人並んで座って授業を受けた。
正直に言おう。俺は初瀬君にはまだ勉強で勝てると思っていた。そう、ずっと部活をやって勉強してこなかった初瀬君。何もかも犠牲にして、勉強だけやって来た自分。どれだけ俺の勉強の仕方が効率が悪かろうが、何もしてこなかった連中と比較できるはずが無い。そう、初瀬君を踏み台にして、自分を安達さんにアピールできると思った。
それは、甘かった。夏季講習も学力別にクラス分けされている。だから、同じクラスにいると言うことは、極端な学力差があるはずが無いのだ。
「あれ~、答えが出ないぞ。」
三角関数の混じった数式がズラズラと並んでいる。初瀬君が物理の問題を解いていた。
「どうしても式Aと式Bが合体しない。」
「合体って何?ひょっとして、エロいこと考えてる?」
そう言って安達さんが初瀬君の式をのぞき込む。しばらく無言。
「あんた、ここで展開間違えてるよ。だからじゃない?」
しばらく無言。
「くるっぽ~。くるっぽ~。」
「何?それ。」
「鳩。」
「で、鳩が何?」
「鳩の目ってさ、飛び出しそうじゃん?それくらいビックリってことで。」
「じゃあ、デメキンで良いじゃん。」
「デメキンってどうやって鳴くのさ?」
「知らないよ。」
二人の手は止まらない。式を紡ぎ続けている。俺は、それを呆然と見ていた。俺には、その問題は解けなかったのだ。問題文の中の条件を数式には直した。幾つか数式を展開した。だが、そこからどうして良いか見当がつかなかった。どう見ても、二人の方が俺の遙か前を行っていた。
そんなことがあって良いのか。こんなことってあって良いのか。
勉強だけをやって来た。この六年、光の当たるところになど、一瞬たりともいなかった。初瀬のように、白く輝く世界は俺の世界では無かった。
ただ、憧れて眺めているだけだった。暗く、陰気で気の滅入る世界で、俺はただひたすら自分の学力を磨いているはずだった。だから、白い世界にいる奴に、負けるはずが無かった。なのに、俺は現実に負けている。俺には理解できないことを、初瀬や安達さんは理解している。どっちが頭が良いかなんて、明々白々じゃ無いか。
そのことがあってから、俺は二人には近付かないようにしていた。もう恥ずかしくて、自分の姿を二人の前に晒すことはできなかった。二人は俺のことを捜してくれているようだったが、授業開始ギリギリに入って、教室の隅で隠れるように受講した。
何とも、惨めだった。
夏休みが明けて、通常クラスの編成が発表になった。俺はBB(中の中)のクラスに配置された。初瀬と安達さんは二人ともAC(上の下)だった。
どうしてこうも世の中は不公平にできているのだろうか。俺には何も与えず、初瀬には全てを与えるのか。大きく筋肉質な体、明晰な頭脳、明るい性格、そして安達さん。
俺には、俺には何も無い。高校のクラスの連中が俺のことを何と呼んでいるか。目刺しだそうだ。鰯を干して、目のところに網を通すための大きな穴が空いている。悔しいが、言い得て妙だ。ガリガリの体に、目は何も写していない。
一層体調を崩しがちになった。俺はかまわずどんどん薬を飲んだ。咳が出たと言うだけで、咳を抑える薬と風邪薬とを飲んだ。鼻水が出ても同じだ。とにかく、片っ端から薬を飲んだ。ちょっとでも休めば、俺は何処までも初瀬に置いて行かれる。そんな焦りからだろうか。
周りが必死に勉強し始めると、成績というものは相対的なものだから、俺は順位を更に落とし始めた。
成績が家に届く度に、俺は親父に怒鳴られ続けた。罵られ続けた。
お前のようなバカが俺の息子であるはずが無い。どうしてあれだけ勉強していて成績が上がらないのか。病院で頭を診てもらえ。俺は恥ずかしくてお前の話を大学でできない。XX助教のところはちゃんと俺のところの大学に入ったぞ、なのに、恥ずかしいと思わないのか、お前は。
怒鳴られ続けると、頭がぼうっとしてくる。意識が遠のく感じだ。フラッとした瞬間に、俺は顔に衝撃を受けた。
「貴様、俺が説教している時に、寝る奴があるか。貴様はそんなだから、バカなんだよ。
恥ずかしいと思うなら、いっそ死んでしまえ。俺はお前を殺したい。」
鬼の形相だった。俺は張り飛ばされ、床に這いつくばっていた。まるで、こそこそと逃げるゴキブリのようだ。
俺はそれから、予備校には行かなくなった。部屋の入口にはバリケードを築き、お袋が食事を持ってきてくれる時とトイレの時だけ解除した。風呂に入るのも、面倒になった。親父は相変わらずドアの向こうで怒鳴っていたが、俺はもう聞いてはいなかった。
日がな一日、空を見ていると、段々と色が変わっていく。面白いと思ったのは、早朝だ。目が覚めれば、いつも明るかったように思っていたが、冬になると六時ではまだ暗い。とは言っても、四時よりかは明るいのだ。そんな変化が、面白く思えた。
やがて気温が下がってきて、日が短くなってきた。何度もケイタイには初瀬と安達さんからメールが入っていたが、読みもしなかった。
俺はのろのろと受験願書を書き始めた。どれも、親父が望むようなところではない。そんなところは、俺の実力では逆立ちしたって無理だ。俺はどこか家から遠いところの大学に行こうと思って願書を書いたが、どれも親父に破り捨てられた。
俺は追い詰められたと思った。死んだ方が良いのだろうか。親父はいっそ死んでしまえと言った。だったら死ぬのがせめての親孝行なのだろうか。
生きていく資格とはなんだろうか。狭い水槽の中で、メダカは幸せなのだろうか。メダカは自分で住むところを変えられない。だから、ずっと同じ水槽の中にいる。もし、誰かが水槽に何かを入れたとする。塩でも良い。すると、メダカは自分ではどうすることもできずに死ぬしか無い。それを、メダカはどう思うだろうか。理不尽だと、思うだろうか。
小学校で飼っている鶏はどうなのだろう。狭いところに何羽も押し込まれ、子供達からは石を投げつけられ。彼等は何のために生きているのだろう。そして、自分は。
なぜ、自分の人生はこんなにも惨めで、絶望的で、どうしようも無いのだろう。
「親父だ」
俺はそこに、原因を見付けた。まるで犬のように躾けられた。しかし、俺は犬のように躾けられなかった。だから、親父は要らないペットを処分しようとしているのかも知れない。
だが、自分の親があの親父じゃ無ければ、あるいは俺の人生は全く違う物だったかも知れない。初瀬のように活き活きと輝くように生きていたかも知れない。だとしたら、俺を俺で無くしたのは親父では無いのか。今のこの俺の姿は、本来の俺の姿であるはずが無い。
誰かが、責任を取らなくてはならない。
「殺そう。」
あれを殺さない限り、俺の人生は始まらない。あれを殺さない限り、俺は緩やかに殺され続ける。俺が俺の人生を取り戻すには、まずあれを殺さなければならない。
俺はバリケードを解いて、下に降りた。階段は、軽くきしんだ。驚いたような顔が二つ、俺を見ていた。親父はビールを片手にテレビを見ている。画面では、お笑い芸人が何か言って勝手に馬鹿笑いしている。こんな番組を見ているのか、俺がこんなにも苦しんでいるというのに。
俺はダイニングに行き、包丁を手に取った。包丁なんて、持ったことがあっただろうか。こんな重さなのかと、思った。重くも無く、と言って軽くも無く。俺はその重量感に感心した。『人を殺すにも適している。』
俺は、あんたの希望に添いたかった。イヤイヤだったが、それでも添おうとした。なぜ俺があんなに罵られなければならなかったのか、俺には分からない。親父のことも、理解しようとしたが、分からなかった。そして、いつの頃からか、分かろうともしなくなった。諦めきっていた。
親父、あんたはどうだった?俺のことを、理解しようとしてくれたのか?な訳ないよな。
あんたが生きていると、俺が生きられない。だから、死んでくれ。
親父がテレビの前のソファーから立ち上がった。俺はそこに歩いて行った。
結局、解り合えなかったのだと思う。親父を殺して、清々したかと問われると、困る。
いつものように、いかめしい顔をして、俺の前に立った親父。俺は初めて、親父に立ち向かったのかも知れない。すれ違いざまに腕を伸ばし、親父の胸の真ん中を突いた。
少し、ホッとした。これで、ようやく俺も息ができる。
なのに、俺の中には色々な感情がわき上がってきた。
断っておくが、後悔は無い。
だがあのトロフィーが目の前に浮かんでくる。大喜びしたあのトロフィー。今でも、俺の部屋に飾ってある。あれをくれた時の親父の嬉しそうな目を覚えている。
『勉強や運動でトロフィーなり盾なりメダルなり、貰えるように頑張るんだぞ。』
ゴメン、親父。俺は、俺はダメだった。これでも、俺は頑張ったんだ。一生懸命だった。あんたには認められなかったが、これが、本当に精一杯だった。本当に、ゴメン。
親父を床にいつまでも転がしておく気にはなれず、俺は警察に電話をした。
私が弁護を受けたのは、少年犯罪だからでは無い。
私は確かに少年犯罪に少なからず関わってきた。いつも世間の風は私には辛く、少年法に過保護にされた犯罪者を弁護する売名弁護士などとも言われたものだ。
私はいつだって、犯罪者達の心の闇を照らしたいと思っている。
いつも思うのは、彼等と私達との間には、非常にあやふやな境界線しか無いと言うこと。
一時の感情に流されて、激情に呑まれて罪を犯す人もいる。彼等は泣き、叫び、後悔する。なぜ、自分はそんなことをしてしまったのだろと。そう思う人間を、弁護することは、私にとってはやり甲斐のある仕事となる。ただそれ以上にやり甲斐のある仕事と言えば、心に深い闇を抱えた犯罪者達と向き合い、彼等の本当の動機を知ることだ。それは、まるで人の心の中の宝石箱を開けるような、私には人間という生命の奥深さを窺い知る機会となる。
今回の事件は、少年の母親、つまり被害者の妻からの依頼だった。
「私がいけないんです。Tの話しもろくに聞かず、いつも勉強中心に考えてしまって、集中できるように、集中できるようにってしていたんです。だから、私がいることさえ、Tには悟られないくらいじゃないといけないって思っていて。
でも、段々息子は私のことを、まるでいない人間のように感じ始めていたようです。その事に気付いて、私もこれではいけないと思ったのですが、でも遅かったのですね。息子は追い詰められた表情をしていました。いつもいつも。この二年間くらいは特にそうでした。
父親を責めないで下さい。父親は、あれでも愛情を持っていたのです。とても心配していました。Tは生まれた時から体が弱く、その事をまるで自分のせいのように思っていました。だから、恨まれても憎まれても、厳しく育てていたのです。誰も、追い詰めようなんて、思っていませんでした。ただ、幸せに生きて欲しかったのです。」
腹の底から声を吐くように、その母親は涙ながらにそう言った。ハンカチで涙を抑えることもせず、滂沱と流れる涙をそのままに、ただお願いしますと頭を下げたのだ。
「お父さんのこと、嫌いだったのかい?」
そう尋ねると、少年は困ったような表情をした。
「どうなんでしょうね。嫌い、だったかな。いつも怒鳴られてばかりでしたからね。」
「勉強しろって?」
「そうですね。口を開けばって感じでしたね。それと、お前のようなバカはとか、出来損ないはとか、言われたかな。いつもいつも罵られてましたね。
でも、嫌いかと言われると、何だろう、ハッキリそう、嫌いって言えないんですよね。殺すくらい嫌いだったくせに、おかしいですね。」
少年は寂しそうに笑った。やけに老成した感じが私には気にかかった。
言葉を選び、じっくりと考え、正直に自分の心を話している。警察の取り調べでも、同じように真摯に向き合っていると聞いている。
警察でも同じようなことを聞かれているかも知れないが、それでも少年は真面目に考えて、しかも冷静に客観的に答えている。彼は、どこに感情の波を隠し持っているのだろうか。
「殺す時は、嫌いだった?そして、今は分からない?」
「いえ。殺す時も、嫌いとかじゃ無かったかも知れません。ただ、この人が生きていたら、僕の居場所は無いと言うか、全部メチャメチャになると思いました。だから、自分が生きていくために、仕方のないことだと思ったのです。」
「自衛のため?」
「そう、ですね。」
家庭というのも、ある意味密室だ。その密室の中で行われたことは外からは見えないし、不機嫌なマグマがふつふつと溜まっていく。ただ、非常にうまく抑制されているのかも知れない。現代人はと言って良いのか、人は真面目に家庭に縛られる。いやなら、いっそ出ていけば良いのにと思うが、そうしない。
社会的に考えると、家出なりして生きていけるのかというと、難しいという知識もあるのかも知れない。ある意味現実的で、楽観的では無い。
密室に閉じ込められたエネルギーは逃げ場を探し、ある日突然表に流れ出る。狂気として。日本の殺人事件のほぼ半数は、家庭内で起こっている。皮肉った言い方をすれば、鍵をかけずに寝て、いざという時に外へ逃げられるようにしておいた方が、確率的には安全なのかも知れない。
少年は、淡々と自分の半生を語った。勉強ばかり、やっていたと。やらされていたと。
少年には何度も接見した。好きな女の子はいなかったの?とか、どんな本を読んでいたのとか聞いてみたが、反応は相変わらず、真面目に答えるのだけれど、薄いままだった。
父親による強い束縛があり、それを非常に怖がっている。
「君が生まれて間もない頃、何度も入院したことは知っているかい?」
「ええ。心臓の弁に問題があったんですよね?知ってますよ。手術を受けたことも。なにせ、跡が残っていますからね。」
「お父さんは、それをとても心配されていたそうだよ。体を激しく動かせば、心臓に負担がかかるだろう?だから、怖くて怖くて。君が少し大きくなって、走り回るようになると、自分の胸がズキンと痛んだそうだよ。」
少年は表情を変えなかった。
「自分の胸なら、痛んでも良い。代わりに自分の胸が痛むのなら、」
「あの。
父は僕が刺す時、父はよけませんでしたよ。きっと、殺されてやろうと思ったんだと思います。僕も、それは分かっていました。だから、そう、甘えたんですね。分かっていますよ、ある程度は。」
愛情にも色々な形がある。この父親の愛情は、歪んでいたのだろうか。同じ年頃の身としては、胸がきしむ思いだ。
その愛情を、息子は分かっていた。だが、排除した。生きていくために。私はこの件を正当防衛として戦うつもりは無い。ただ、情状酌量をどれだけ取れるかだと思っている。それは、ただしあくまで裁判の上での話し。私は、彼の心の中では正当防衛だったのでは無いかと思い始めていた。
冬が過ぎ、春になり、初夏になっていた。私は少年に、私は正当防衛だったのでは無いかと思っていると伝えた。少年はコロコロと笑った。
「う~ん、過剰防衛でしょうね。
いずれ自分がこの人みたいになるかも知れない、家庭を持ったとしても、この人みたいにギャーギャー言って家族を不愉快な思いにさせるだけの人間になってしまうかも知れない。そんな可能性はこれ以上見たくないってのも、あったかも知れませんが、それはあんまり大きくは無いかな。
ただ、『お前のせいだ』って心の中で叫んで刺したのは覚えています。」
「それって?」
「光の中を歩けなかったことだと思います。トルストイの小説に、『光あるうち光の中を歩め』ってのがあるのを知っていますか?短い話しで読んだことあるけど、中身は忘れました。キリスト教のなんだか分からない話だった。ただ、題名は鮮烈に記憶に刻まれています。僕は、その中にいないんです。光の中に。だから、余計に。」
光の中。理想の自分像。仮定の中の人生。まだ自立し切れていない少年に良くありがちな夢想のことだと、私は理解した。
自分はずっと穴倉に閉じ込められていて、そこから少年はずっと外を夢想していたのだろうか。誰だって、少年漫画やドラマのように明るく楽しい青春時代を送るわけじゃない。こうやって人の罪と向き合っていると、罪を犯す犯さないに関わらず、世のかなりの人が、楽しい青春時代など送ってはいない。誰しも、心に傷を負い、それでも笑って楽しんでみせるのが青春時代だ。その時間が過ぎると、もう笑う元気も無い。笑える人は、ずっと青春なんだろうと私個人は思っている。私は、もう笑う元気は、あまりない。
少年は、両親の過保護の元、周りとの接点が非常に少なかったようだ。私はそれを残念に思う。孤立し、狭視野に陥り、自分を不幸だと決めつけ、その不幸の原因を、社会的にも成功し、圧倒的な権力を家庭内で持っていた父親に押しつけたのだろうか。それは、家庭という密室における悲劇だ。だとすれば、ありがちな状況であり、ありがちなパターンの犯行だ。だが、まだそれと断じるには根拠が薄い。まず、彼を客観的に評価できる身近な人がいないことも、彼という人物を知る上でハンディになった。私は、彼を知る同世代を探すことにした。
中学や高校の同窓生に話を聞いてみると、誰もが非常に印象が薄いと答えた。
「確かに同じクラスだったし、多少話しもしたと思いますけど。
でも、あんまし覚えてないなあ。ああ、そう言えばいたね、みたいな。
真面目な子だったと思いますよ。
そう、とても人を殺すような。それも自分の父親を。」
誰に聞いてもそんな感じだ。彼が人を殺したことを大きく驚いてもいないようで、かつそんなことをするような人間だとも全く思っていない。
つまり、関係が非常に稀薄で、同窓生という友人としてよりも、ただ顔を知っているだけの他人という位置付けだろうか。
それが、小学校の同窓生となると、多少異なる。
少年は小学校の後半から塾に行くようになる。塾ではふざけてばかりで、余り身を入れて勉強はしなかったようだ。
「面白い奴でしたよ。低学年の時は、スカートめくりのキングって呼ばれてましたね。
高学年になると、勉強が良く出来るようになって、一目置かれるようになりました。
まあ、それでも鼻高々って感じが又滑稽で、嫌われてる様子は無かったですね。本人も分かってやってた部分もあると思う。」
小学生までは、子供らしい子供。中学生からは、年相応では無い時間を過ごしたようだ。
小学校の同窓生は、一様に考え込んで回想していた。その様子からも彼が仲間と打ち解けていた様子がうかがえる。
彼の父親は、母親の話によると、中学受験失敗に衝撃を受ける。いくら遊んでいるように見えても、自分の息子がそこそこの私立中学校にも受からないという事実は受け入れがたかったようだ。少年本人にも、母親にも、父親は口やかましく勉強を強要するようになる。そこには、父親としての焦りもあったようだ。
父親は有名国立大の医学部の助教だった。教授候補の一角として、医学上の功績も挙げ、また医局の運営にも手腕を発揮していたらしい。その立場から、見えるものがあった。
父親は出入りの業者を、徹底的にこき使ったようだ。受注をちらつかせては研究室の雑用から、自分の車の清掃、年かさの医局員の子供の夏休みの宿題までやらせている。また価格も原価割れで販売させることもザラにあったようだ。相見積もりを取り、何社ものMS(マーケティング・スペシャリスト、医薬品卸販売担当者)やMR(メディカル・レプレゼンタティブ、医薬情報担当者)を顎で使い、競合させ、訴えられれば違法と判断されるであろう行為も日常的に行っていたようだ。
そのMSやMRの立場に、自分のかわいい一人息子が立ったらどうしようと考えていたようだ。
「世の中には、人を使う人間と、人に使われる人間がいる。いつかは使う側に回ることを誰もが目指すことだが、使われるだけのやつらは人間の姿をしているが、中身はそうじゃ無いな。つまり、学力が人の立場を決めると言っても良い。」
と持論を母親や親しい部下に話していたらしい。
また、研究にも愛着を持っていて、
「自分の好きなように仕事ができるという立場も、やはり誰もが手に入れられるものじゃ無い。一部の特権階級だけが得られるものだ。その特権は、やはり学歴だ。」
とも話していたらしい。
「学歴は公平なものだ。家柄だの、持っている金の量だので決まるものじゃ無い。どれだけ自分が努力したかが反映されるだけだ。努力し、力を付けた者が特権を受け取る。現代は歴史上、最もフェアーな時代だ。」
子供は少年以外に出生することは無く、父親の期待は大きかったようだ。まずは有名大学に入ること。そうで無ければ、息子の人生は大きく損なわれると思っていたようだ。体が弱く、又気持ちも強くない息子を、心の中では溺愛していたのだろう。だから、立派に生きて欲しい、いや、せめて人並みな生活を送って欲しいという親心だろう。
今時、人並みというのが人並みでは無い。父親の中では、結婚をし、子供を設け、慎ましいながらも自宅が有り、金銭的にも余り不自由をしないことが人並みだったのだろう。その人並みになることの難しさも、父親は分かっていたのかも知れない。
出来れば自分の勤める有名大学の医学部に入って欲しい。息子が入ったのだと、自慢したかったのかも知れない。父親として、さぞ誇らしい気持ちになることだろう。その夢も諦めきれず、されど息子の状態を見れば最低限と思う人並みさえ危うい。
褒めることも、認めることも出来ず、父親も息苦しかったのでは無いだろうか。息子とのコミュニケーションと言えば、小言になってしまう。ひょっとしたら、父親の中にはその事を悔やんでいた部分もあるかもしれない。いや、そんな自分にこそ苛立ち、その苛立ちは息子に向かったのかも知れない。それを息子に理解しろというのは、酷というものだろう。
不器用な父親と息子。その結末は、こんな悲劇しか用意されていなかったのだろうか。
「初瀬君、って知っているよね。」
少年の目が、光を帯びた。今までのような温厚な光では無い。鈍く、どす黒い光だった。
私は意外に思った。私は初瀬君に会っていた。少年との接見の前日だった。
クマゼミがかしましく、入道雲が湧き上がっていた。私は彼を静かで涼しい喫茶店に誘った。
堂々たる体躯をし、目元は涼しく、覇気が漲っているように見える。息子にするなら、このような青年と、多くの男性が思うのでは無いだろうか。また、息子にしたくないのは、依頼人の息子のような青年だろう。
彼は、順序よく話をしてくれた。中学で一緒だったこと。中学では余り話しはしなかったが、自分が野球をやっている話を聞いてくれ、代わりに学校の宿題をやって貰ったこともあるそうだ。『頭の良い、優しいやつです。宿題を頼んでも、やってやるって感じじゃなくって、やり方を書いておくからと、そう言ってくれていました。』
初瀬君は、少年が自分のような人間にも気を使ってくれるのだと言うことに、いたく感激したようだ。『気にしすぎかも知れませんが、頭の悪い自分に、頭の良いやつが人間扱いしてくれるってことに、僕は嬉しさを感じていましたし、やっぱり今でもそうなんですよ。彼は、僕の中では特別なんです。』
高校は別の学校に進む。少年は私立の進学校に、初瀬君は普通の公立に。『僕はいわゆる普通科というとろで、彼は進学校でしょ?もう口も効けないって思っていました。』
初瀬君は続けていた野球を止め、高校では水泳を始めた。野球は、どんなに努力しても抜けないライバルがいて、自分の限界を感じたそうだ。彼は好きな野球を止めることに躊躇いは無く、新しく高校で一緒になった友達に誘われるまま水泳に打ち込む。
ただし、水泳でも頭角は現せずにいた。小学校の低学年から水泳に打ち込んできた同級生達には、全く敵わなかった。自分は野球にしても、水泳にしても、半端者だと感じた。それでも野球をもう一度やる気にはなれず、自覚としては無為に日々を過ごしていたらしい。そんなある日、彼は少年と再会する。『楽しそうに話を聞いてくれたんですよ。僕の下らない話しを、一生懸命って感じに。僕は、本当に嬉しかったんです。彼はエリート校の生徒ですよ?僕はその辺の学校の人間です。』
初瀬君は、スポーツで挫折感を味わいつつ、本人はそんなに深刻な挫折感では無かったと言っているが、勉学に勤しむようになる。心の中に、少年の存在があったのは確かだったようだ。彼のように、賢くなりたい。そうなれたら、本当の友達になれるかも知れない。そんな自分になりたい。彼はそう考えるようになる。
ただし、その道は容易ではない。『中学でろくに勉強してこなかったので、まず英語にしろ数学にしろ、全てにおいて何やって良いのかも分からなくて。親に塾に行きたいと言ったら、おでこを触られましたよ。』お母さんは熱でも出たのでは無いかと思ったそうだ。
初瀬君は塾に通い、文字通り一から勉強をやり直す。中学一年生の教科書からだった。塾では受業について行けず、何度も居残り、事務員にまで勉強を教えて貰う日々が続く。『よく見てくれたと思います。僕の勉強を見たからって、給料には関係ないはずなのに、先生方も、受付の大学生まで。全面的にサポートを受けていた感じです。』
頑張ろうとする姿に、周りが反応したのだろうと推察する。本人も、それを認めている。『でもどこか、違う目線というか、上から手を差し伸べられているような感じがして、決して居心地が良かったわけじゃありません。ハッキリ言ってしまえば、見下されている気がしていたのです。僕は、ずっと自分に自信を持てないでいたし、良く出来たねとか言われると、なんだかバカにされたような気にもなったんです。』
気持ち良いまでに好青年に見えた初瀬君。その内側は、コンプレックスが燻っていた。
事件を起こした少年のことを尋ねてみた。彼は、眉間にしわを寄せ、考え込んだ。『なんでですかね。』
「初瀬が、どうしたって言うんです?あいつは、確かYY大じゃないですか。
あいつですよ。あいつが現れてから、元々おかしかったものが、余計におかしくなってしまった。」
少年は怒りを目元に現し、自嘲するように笑って言った。
「僕は、頭、良くないんですよ。きっと、それは生まれつきだ。少しは、父の言うように、勉強に対する真剣味とか、かけている時間とかが足りなかったのかも知れません。
でも、本当に無理って思ったんですよ。高校に入るのが精一杯だった。きっと、あそこが僕のピークだったんです。それ以上に勉強しろって、まだ加速して勉強して、もっと偏差値の高いところを、大学を目指せって、そんなの、無理なんですよ。
字ィ、読んでても、頭に入らないんですよ。分かりますか?数学の解説を読んでいても、次の行の展開に、前の行の数式がどうしてなるのか、理解できないんです。理科でもそうですよ、これだと思って使った公式が、実は使えなかった。その理由が、情けないことに理解できない。何故こっちの公式なんだろう、何故僕が使った方は使えないんだろう、何故答えはこうも値が離れてしまうんだろう、目に見えないものを数式だけで組み立てるって、どういう作業なんです?
でも、初瀬は僕が欲しいものをみんな持ってた。中学の頃から明るい奴でしたよ。笑いを取るのがうまくて、誰からも嫌われない、誰からも好かれるような奴です。僕だって、嫌いじゃ無かったですよ。いや、むしろ好きでしたよ。
あの顔で笑いかけられたら、話しかけられたら、きっと誰だって同じように笑顔を返すでしょう?会われたのなら、分かられるんじゃ無いですか?
スポーツ万能。運動会の期待の星。女子にも男子にもモテモテ。でも、あいつは勉強はできなかった。唯一の欠点と言えば、それくらいですよ。でも、僕の中ではそれは決定的だって思っていました。違う人生を行くんだって。でも、あいつは、あいつは、僕の上を行ってしまった。
どうしてです?勉強だけをしてきた僕ですよ?初瀬は、あいつは中学の時は全く勉強しないで、部活に忙しかった。高校も水泳部で忙しかった。女子部員の水着姿を見ながら、あいつはきっと、やっぱりモテモテだったんですよ。」
少年は、いつしか涙を滂沱と流していた。もう目元に怒りは無い。ただ、その滝のように流れる涙を拭いもせず、言葉を吐き出し続けていた。
「僕には勉強しか無かった。なのに、なのに、初瀬も安達さんも、僕よりずっと前に行ってしまった。追い越して、あっさり追い越して、振り向きもしないで、ずっと先に行ったんだ。
どうしてだよ。勉強だけやって来て、これでもかってくらい勉強だけだった。なのに、何で運動ばっかりやってきた奴に、あっさり置いて行かれるんだよ。不公平じゃ無いか。」
「彼も、努力したんだよ。」
「ああ、そうでしょう。そうでしょう。でも、俺だって努力した。同じじゃ無いですか、俺だって努力しましたよ。結局、あいつの方が頭が良くって、僕の方が悪いってことでしょう?努力して何とかなる奴は頭が良いんですよ。努力したって問題が解けない、理解できない、分からないってことは頭が悪いんですよ、生物学的に、物理的に、僕の脳みそという器官が、欠陥商品だってことです。」
不公平か。私はその言葉を噛み締めた。この仕事をしていると、公平と言うことを否が応でも何度も考えさせられる。公平を求めると言うことは、新たな不公平を生み出すだけのこと。そんな現実を何度も見てきた。少年の言う公平とは、その矛盾に満ちたものと同じだ。だが、少年は、心の底から不公平だと信じている。
世の中に、公平なんてものは、無いんだよ。
「あいつが目の前に現れなければ、それなりにこんなものかと諦められていたのかも知れません。でも、あいつを見てしまったら、あいつが僕を追い越していくのを見て、安達さんが追い越していくのを見て、二人が仲よさそうなのを見たら、どうしようもなく惨めで。一体、僕は中学、高校と一体何をしてきたんだろうって。
彼等は部活で運動をして、友達と笑いあって、光り輝く道を歩いてきて、その上、ラストスパートだけでちゃんとした大学に入学です。はは、YY大学なら、僕の父も認めてくれますよ。まずまずだって。
だけど、僕はこの通り、殺人者だ。
・・・ああ、僕が死ねば良かったのかな。父が死ねば、父が受け持っていた患者は、少なくとも困るものね。僕が死んでも、誰も困らない。でも、どこかで、諦めがつかなかったのかな、自分というものにも、将来というものにも。」
『僕は、彼には分かって欲しかったのかな。生のままの自分を。つまり、友達になって欲しかったんです。
彼は優しくて、頭の良い奴です。人間って、いや、子供だからでしょうか、人付き合いに利害って考えません?僕は、僕の周りにいるやつらが、みんな何かしらの利益を求めて近付いているような感じがしていました。誰も彼も。僕のところにいれば、何か良いことがあるみたいな。何か美味しいものが転がってくるって。』自意識過剰なのでしょうかと、初瀬君は鼻の頭を掻いた。堂々たる体躯と、目鼻立ちの整った顔。明るくて、陽気で、寛容な好青年。彼が友達として求めたものとは。
『無償の好意ですかね。マザコンみたいですね。』寂しそうに初瀬君は笑った。『陽気で明るいだけの人間なんて、いるのでしょうか。いたら、ただのバカでしょう。』
私は初瀬君に少年の学力について尋ねてみた。少年は、彼我の学力差に強いこだわりがあり、敗北感を感じ、逆恨みに近い感情を抱いている。そのことを、今少し落ち込んだ様子を見せた初瀬君にぶつけてみた。きっと、正直な反応を見せてくれるはずだと信じて。
『学力、ですか。はああ。どうでしょうね。』初瀬君は少し考えるようだった。
『その場その場の試験の結果とか、予備校でのクラス分けとか、確かに気になりますよね。彼も、気にしていたんですね。僕の中には、ずっと中学の時の、彼の姿が焼き付いているんですよ。だから、賢くて優しい奴というイメージ以外、無いんです。確かに、彼のクラスは僕のクラスより下だったかな。夏以降だったかな。そうでしたね。でも、僕は気にしてませんでしたね。気付いてあげるべきだったのかな。
秋になって、彼が予備校に来なくなって、どうしてだろうって、そこから先は考えませんでした。ね、僕って、バカでしょう?誰だって、もう少し考えそうなものなのに、友達になって欲しいって思っていた人にも、この程度の観察眼しか持てないんです。なんで、僕なんかと比べますかね。』
私は安達さんのことも初瀬君にぶつけてみた。彼女は、少年をどう思って見ていたのか。
『安達ですか?』初瀬君はまた少し考えるようだった。『まあ、全然知らない仲じゃ無いですからね、心配はしていたと思いますよ。』よくよく聞くと、初瀬君が少年を心配するから、安達さんも少年を気遣い、少年に連絡を取ろうとしたようだ。『予備校、来づらいんじゃない?だって、ガリ勉なのに、うちらに抜かされたんじゃん。でも、首でも吊ってたら後味悪いよね。』と彼女は言ったそうだ。安達さんは、ほぼ、少年に関心はなかった。少年の関心の的であったにも関わらず。
交通事故でも、いくつもの慢心や傲慢が重なった時に起こる。いくつもが重なった時に。人の気持ちのすれ違いとは、まさに交通事故に映し出されるように思う。言葉を尽くして話してみたって、自分の全部をさらけ出せるものではない。少年と父親、少年と母親、少年と初瀬君、少年と安達さん。いくつもの気持ちがすれ違い、あるいは空回り、少年と初瀬君の孤独はお互いを救えなかった。
初瀬君は、来年もう一度受験すると言っている。医学部に入りたいそうだ。
『どこまでやれるか分かりませんけど、僕は人の心を研究して、いつか彼の手助けができたらって思っています。だから、精神科医とか、そんなところを目指そうかと。』
少年にこのことを話すと、カラカラと乾いた笑い声を立て、
「それって、何の罰ゲームですか?」
と言った。
「生き残った者は、生きなきゃダメなんですよね。例え、殺人者であっても。
それだけでも凄い罰ゲーム。
でも、やっぱりどうやって生きていけば良いのか、分かりません。何のために、誰のために、誰と一緒に?
自分に何にもないと、生きていくのって、凄く大変。
息して、食事して、寝て。その全てが、僕の体力と精神力を根こそぎ持って行きます。そんなことをして良いのかと、責めるんです。トイレに立っても、トイレを汚してしまっても良いのかなって、そんなことを考えるんですよ。息をすれば、酸素を吸って二酸化炭素を吐く。地球温暖化に貢献です。」
ぽつりぽつりと少年が話す。目は私を見ていなかった。スーッと息を吐くと、首をガックリとうな垂れた。
「初瀬ーッ。」
少年はうなだれたまま叫んだ。
「初瀬ーッ。お前が悪いんだ。お前さえいなけりゃ、こうはならなかった。全部お前が悪いんだよ。お前が、お前が、お前が。お前さえいなけりゃ、お前さえ出てこなけりゃ、お前さえ存在していなけりゃ。
あーッ!」
床に向かって発せられた声は、くぐもって跳ね返ってきた。強化プラスチックの板の向こうの少年は、通話のために開けられた穴からしか直接は見えない。その穴から、少年の寂しさが光のように放射されていた。
解り合えなかった。父とも友人とも。それがこの少年の不幸だった。
私は結局、何ら少年に声をかけることもできず、その場を立ち去った。
私は父親を超えられていません。いまだに、父親は恐怖の対象でしかありません。
父親はいまだに高圧的で、強権的で、喚き散らし、ヒステリーを撒き散らします。歳なので、だいぶ体力が無くなってきて、以前ほどでは無いにしても、全然苦手ですし、考えたくない相手です。
ですが、同時にやはり、多少の良い思い出というものもあり、無論、嫌な思い出の方が何倍も多いのですが、愛されたい、認められたい、可愛がられたいというのがあるのです。そう、三歳までの頃のように。
ですから、私はいまだに父親に対し、斜に構えたままです。
過激なXページ掲載作品のピーアールを。
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「R氏の部活」はXページにしなくても良かったかなと。
書いたのは、2015年6月。