Ⅳ「廊下を走るな。なんなの?死ぬの?」
禅さんは暫くして、自室へ戻っていった。私に気を使ったのかもしれない。警戒心をもてと言われても、私は十分警戒しているつもりだし、...それなら、何を信じればいいんだろう。
気がつけば窓の外は暗くなっている。森の中だからか、真っ暗だ。窓を開けてみると、とてもひんやりした空気が流れこんできた。外はこんなに涼しいのかと驚いた。上を眺めると星がひとつ、浮かんでいる。ひとつだけ寂しく、煌々と。見ていると、何故か兄が浮かんでくる。優しい兄の笑顔が。まだ一日も立っていないのに、異常なほどに寂しくて。そして、最後に見た表情が苦しくて。兄が何を考えているのかが、急にわからなくなってしまった。
「...おにいちゃん........」
星に向かって言ってみるけれど、勿論返事なんて返ってこない。窓のサッシにひとつ、暑いものが落ちる。冷たくなる身体にほんの一箇所、雫が落ちた場所だけ熱くって。
「........姫。」
「ひゃあ!?」
唐突に声が聞こえて振り向けば、いつの間にか赤目さんが後ろに立っていた。
「いつからいたんですか!」
「.....................ちょっと前。」
長い沈黙の末、赤目さんはそう言うけれど、気まずそうに目をそらしている。...嘘だとしか思えなかった。
「大丈夫か」
じっと私の瞳を見て投げかけてくる。その目は本当に、心配しているように見えた。
「赤目さんに心配されるようなことはないですってば」
そういうと沈黙が続く。赤目さんが喋らないから、私も喋らない。そんな感じ。沈黙の末、少し寂しげに赤目さんは微笑んだ。
「...そうか」
息がまた詰まった。なんでそんな表情をする?貴方は無情で、私の敵で、怖くって、残虐な、奴でないと困るのに。でないと、私のこの気持ちを、誰に向ければいいのか分からなくなってしまう。少し大人しいくらいしか、出てくる言葉が無かったはずなのに。
戸惑いと、驚きを隠せなくて、ただ黙ってその場を立ち上がる。ここに居たくなかった。赤目さんのいる、此処には。意味がわからない。赤目さんだって自分の兄を殺しそこねたことで絞られて、いい気分はしないのではないか。それなのに何故、心配するんだ。一刻も早く遠くに行きたい。赤目さんを通りすぎて、走り去った。遠く、遠く...
「.........!?」
と、いきなり仁王立ちになって道を塞ぐ小さな男の子が。
「...オイ。」
「えっと...ごめん、どいてくれる、かな?」
そういうと不機嫌げに眉を潜めた男の子がさらに目を細めた。
「廊下を走るな。...よくまあ初日にボクを怒らせたよね。なんなの?死ぬの?」
死ぬの?という言葉に覚えがあって、立ち止まる。もしや、アレが噂の壱という人!?となると自分はかなり大変なことをしてしまったようだ。血の気が失せていくのが自分でもよく分かる。
「ご、ごめんなさいっ!壱さん!」
不機嫌げに私を見ていた壱さんは、私の顔を見たところで、ため息をついた。
「...もーいーや。次やったら説教だから。それより、ボクの部屋にこい。」
そういうと、小さな身体を翻して歩き出した。ついてこい、ということらしい。ついていこうと早足になったが、すぐに追いつき、スピードをいつもよりも格段に下げる。何しろ、歩幅が小さい。身長が小さいので当たり前なのだけど。歩き方も妙に可愛い。必死に大股で歩いている。すごく毒気を抜かれる光景だった。
しばらく歩いていると、壱さんがドアの前で立ち止まり、やがて開けた。そこは、メルヘンで可愛らしい、ピンクや水色に彩られた空間。あちこちのぬいぐるみがまた可愛い。
「わぁ...可愛い!!...触ってもいいですか!」
「ああ」
そう聞くとすぐに近くに座っていたクマのぬいぐるみをもふもふと抱きしめる。もう女の子にとって夢のような空間だった。毎日でも遊びに来たい。
「ああもう可愛いですー!もふもふじゃないですかぁ!」
そういって壱さんの方を振り向くと、かすかに笑っている。
「そうだろ。可愛いだろう。なのに他の奴らはわかってくれないからな。分かり合える奴ができて嬉しい。」
そういうと壱さんも、ぬいぐるみを愛で始めた。むしろ壱さんが可愛すぎる。どうやら同志ができたことが嬉しいようで、嬉々としてぬいぐるみの名前を一つ一つ解説する。
「これはな、アルってんだ!ふわふわしてて触り心地いいんだぞ!」
おぉぅ、本当に可愛い。壱さんが。
ぬいぐるみをひと通り紹介し終えると、壱さんも機嫌よく自己紹介をしてきた。もしかしたらもうさっき廊下を走ったことすら忘れているかもしれない。
「なんか知ってたみたいだけど、ボクは壱だ。いっておくが姫より遥かに年上だからな。」
年上なのにこれか、やっぱり、人はわからない。さっきまで機嫌悪く怒っていた相手とは別人に見えるし。
「で、本題だ。この部屋のぬいぐるみを紹介するために呼んだわけじゃないからな。」
そういうと、クッションに座るよう私に催促してきたため、パステルブルーのクッションに座った。柔らかい。
「...オマエ、泣いてただろ。...戸惑いがあるのが当たり前。...さっさと吐いておけ。」
壱君大好きです。こんな子と仲よくなりたい。