プロローグ 「さぁ、夕飯を食べよう」
私の目の前で、大好きな兄は撃ちぬかれていた。目を見開く。見慣れていたはずの自宅の風景が、白に包まれた気がした。張本人の男は、瞳を落とし、拳銃を腰のホルダーに収めている。20代くらいだろうか。帽子を深くかぶっていてよくは見えないが、感情のない、冷たくて、不気味な無表情に見えた。息が詰まる。
こんなに冷静に見ていたのは、まだ年端が10にも満たなかった私には、受け止めきれなかったのかもしれない。
「ねえねえ、お兄ちゃん。お兄ちゃんって、どうしてずっとお家にいるの?じたくけいびいん、ってなあに?」
「それはね、大好きな雛やお父さんお母さんを守りながら、政治の闇をあばくお仕事なんだよ。」
私は昔、よくこんなことを兄に尋ねていた。そうすると、お兄ちゃんはこういって微笑みながら私の頭を撫でてくれるのだ。頭は回るけど興味ないことはとことん抜けている優しくてちょっと変わり者の兄が私は大好きだった。大人になっても、家にずっといてくれて、家を守りながらなにかの研究をし続けていたらしい。
自宅警備員が悪い意味だっていうのは大きくなってから何度も言われているけど、大好きなお兄ちゃんのお仕事が悪いものだとは思えないし、将来お兄ちゃんになりたいと思った心は今でも間違っていなかったと思っている。
そんな兄を殺した男はようやく物陰で固まる私に気づく。身体をこわばらせる私をみて舌打ちをすると、身を翻して窓から飛び降りた。チラリと見えた赤い瞳は冷淡で鋭く、とても綺麗だった。すぐに黒い髪は闇に消えていった。
いなくなってみてようやく放心状態で座り込んだ。時計は変わらず動いていて、7時を刻みのんきな音楽がなる。兄に夕飯に呼ばれた時間が6時58分だった筈だから、まだ3分も経っていないはず。
そこまでは考えたけれど、再びぴくりとも動かない兄をみて、涙が溢れた。
「う…うぅ…おにいちゃん…!おにいちゃぁん………」
「ふぅー、びっくりしたなぁ。」
耳に飛び込んだのは間の抜けた声だった。紛れもなく兄の声。
「おにい…ちゃん!?」
驚いて我に返ると、ケロッとした表情で起き上がる兄。
「たまたま防弾チョッキ着てたから大丈夫だよ、雛。」
ふにゃりと屈託なく笑うと胸を叩いてみせる兄。私はほっとして兄にすがりついた。
兄いわく、最近すごいやばい研究をやばい領域まで進めていたらしい。私にはよくわからないけれど、これで偉い人が何人も警察に捕まってしまうかもしれないのだとか。それで防弾チョッキを…と説明を聞いたけれど幼い私は意味をあまり理解できなかった。
「さぁ、夕飯を食べよう。今日は父さんも母さんも帰り遅いらしいからね。」
兄が、そういって打ち切り、へにゃりとまた笑った。私も笑い返したけれど、あの赤い瞳が脳裏に染み付いていた。
あれから7年ほど月日が流れ、私は高校1年の演劇部エースとなっていた。兄もあれ以来私達に心配かけまいと研究をやめ、普通に就職をした。あの家からも引っ越し、高級感のあるニュータウンで住んでいる。家族仲がよく、理想的な家庭と近所で評判だった。相変わらず家族が大好きで、ブラコンとまで称されるほど兄妹仲が良く。
「雛ーっ!さっきも告られてたじゃん!今月何人目?ってかさっきのすごくイケメンだったし!!」
「あぁ…うん。確かにちょっと格好よかったね。」
同じクラスの愛華が私に抱きつきながら私にまくし立ててくる。とてもいい子だと思うけど、話題が恋バナしかないのはどうなんだろう?
「何その反応ー!ってかてかまた振っちゃった感じ?」
「うん」
「えええええー!!!おかしいって!あんなイケメン好きでも付き合えないってー!!」
愛華は若干嫉妬がましい表情で私の腕にもたれかかり、言葉を並べた。
「成績優秀、スポーツ万能、見目麗しく部活も絶好調な稲葉雛様は、いったいどんな男の子なら許せるんですかあー?」
「うーん…お兄ちゃんかな」
「でたっ!ブラコン発言!ラブラブカップルは今日もお熱いですねぇ」
愛華の冷やかしに苦笑いを返しながら、少なくとも年上以外は興味無いんだろうなあ…と他人事のように思った。お兄ちゃん見てるとやっぱり…ねぇ?年上じゃないと魅力を感じないのです。…ふぅ、今日も空は青い。
ある日曜日の朝、家族と談笑しつつパンを頬張っているとインターフォンが鳴った。
「はぁい」
出ると、そこには作業服を着た黒髪の綺麗な男の人。ワイルドで整った顔立ちの格好いい人。
「水道局の者です。水道管の点検に参りました。」
「あ、はい…」
今までにもあった点検だったので、通そうとドアを大きく開いた。と、強い既視感を覚える。背筋が凍る思いで、もう一度その男を見た。
その男が笑顔を緩めると、赤い瞳が覗いていた。
後ろに聞こえるのどかな笑い声。兄はまだ、多分男も気づいていない。