メガネメガネ
――まさか本当にこんなことが起こるとは、思ってもみませんでした。なにしろ、何気なく立ち寄った怪しげな古本屋で買ってきた怪しげな本に載っていた怪しげな呪術を、冗談で試してみただけのはずだったのですから。生活感にあふれた狭い部屋に似合わない、見るからに怪しげな鉄の扉がタケノコのようににょきっと生えてきたときは驚いたものでしたが、現象そのものは自らが引き起こしたことだとわかっていました。男の買ってきた怪しげな本は「異世界への扉を開く方法」という内容が書かれたページが開かれたまま、床に置かれています。彼は現実世界での人生をあまり満喫できていない部類の人間でしたので、この展開を歓迎しました。急な話ですが、男は扉の向こう――ここではないどこかの世界へ旅立つことしたのです。
重い扉を押すと、向こう側から虹色のぶよぶよしたゼリーのような物体が溢れてきました。男はぶよぶよに流され、揉まれながら、こちらの世界から旅立ちました。流れに沿ってしばらく泳ぎ、ついにぶよぶよ地帯を脱しようというそのときのこと。ぶよぶよの波が右頬をかすめ、男のメガネをさらっていってしまいました。男は必死に手を伸ばしましたが、届きませんでした。それどころか周りを囲んでいたぶよぶよが突然四散し、男の体は何もない空に放り出されてしまいました。
彼は運よく、現地の善良な貴族に保護されました。不思議なことに怪我ひとつありませんでしたが、メガネは失われていました。彼は重度の近視なので、これにはとても困りました。メガネメガネ――
せっかく辿り着いた世界だというのに、何もかもがぼやけていました。美しいはずの自然、とびきりかわいいはずのヒロインたち……全然見えません。蓋を開けてみればチート能力どころかステータス異常持ちの俺YOEEEEだったのです。ああ、グッバイ・マイドリーム……と男は言いました。この世界には都合よく視力を回復できる魔法もなければ、元の世界ほど進んだ視力矯正の技術もありませんでした。男は絶望しましたが、人の助けを借りながら図太く生き延びました。
ある日のこと、旅商人が面白い噂を仕入れてきました。都の外れに大きなレンズのついたオーパーツが突如出現したというのです。詳しい話を聞いた男がすぐに駆けつけると、そこにはあったのはなんと、巨大なメガネでした。
「なんてこった、こんな大きさじゃ、自分の耳にはかけられない。」
そこで男はレンズを切り出し、金属加工を行うことにし、ついには元のものと同じくらいの大きさのメガネを作り出しました。あまりに目が悪かったので、工程のほとんどは人に手伝ってもらってやっとできたものだったのですが、彼がこんなにも物事に一生懸命取り組んだのは生まれて初めてのことでした。メガネをかけていたころにはわからなかった、自分の新たな一面に出会った思いでした。
その姿を見てか見ないでかはわかりませんが、しばらくすると一部の物好きが、異世界から来た男の作ったメガネなる工芸品と同じものを欲しがるようになりました。その不思議な工芸品が話題を集め、人気に火がついて大陸中でブームになるまでは、あまり時間がかかりませんでした。本来の用途として使われずとも、多くの人々が鑑賞用、または仮装用として一人につき一メガネを持つ時代となりました。
ある画家が残したこの絵はとある貴族の一家の食事風景を描いたものなのですが、このとき彼らは記念として一人残らずメガネをかけています。
***
「――というのはどうでしょう、先生」
生徒の机の上にある資料集、その開かれたページに載っていたのは、かの有名な絵画であった。絵の中の人物は皆、メガネをかけていた。否、メガネが描きたされていた。黒の細ペン、光り方を見るに油性ペンである。
「『最後の晩餐』を何だと思っているんだ、君は」
教師は大きくため息をついた。