第0話『スノウフェアリー』
「雪女について、教えてください」
僕、高瀬健一は今、オカルト研究会の部室にいる。僕がここの部員だからではない。ただ聞きたいことがあるから来ただけだ。
そしてこの部室にいるのは僕ともう一人。ここオカルト研究会の部長、花崎円先輩だ。
花崎先輩は不敵な笑みを浮かべながら、さっきまでかまっていたノートパソコンを閉じて脇に寄せ、机に肘を突いて指を組み、その上に顎を乗せるようにして僕を見上げた。
その仕草がとても様になっていて、一瞬どきりとしてしまった。
風の噂で聞いていた。僕らの一個上の二年生に、花崎円というルックスも成績もいいのにオカルトマニアという変な女の先輩がいて、その人がオカルト研究会の部長だということを。
だから僕はここに来た。雪女についてこの人が一番詳しく思えたからだ。
その花崎先輩は、僕を見て言った。
「どうした少年。雪女に恋でもしたか?」
図星だった。
あれは、五年前。僕が小学五年生のときだった。
僕の家では冬休みに毎年、遠くにあるおじいちゃんの家に家族全員で行くことになっている。その年も例年のようにおじいちゃんの家に行っていた。
といってもお年寄りの家に小学生が満足できる娯楽など無いに等しく、近くにあるスキー場に遊びに行くのがいつものことだった。もちろんその年も、スキーをしに行った。
しかしそこで、僕は迷子になってしまった。
多少上達してきたので思い切って一人で上級者コースに挑戦したのが失敗だった。うっかり転んで雪でできた坂をごろごろ転がり、森の中へ入り込んでしまった。
幸い怪我はなかった。しかし雪でできた坂はすごく急で、とても上ることができなかった。
仕方なくスキー板をはずし脇に抱えるようにして、コースからはずれた森の中をざくざくと歩く。どっちに歩けばいいのか分からないが、とりあえず立ち止まっているわけにもいかなかった。
なぜなら天候はどんどん悪くなる一方であり、さっきまでちらちら降っていた雪が、今では大粒の雪に変わっていて、森の木々もざわざわと音を立て始めていたからだからだ。
今まで何度か来ていたから分かる。もうすぐ吹雪になり視界が完全にホワイトアウトしてしまうだろうと。
僕は必死になって森の中を歩いた。思わず泣きそうになったけど、そんなことをしている暇はなかった。
そんな極限状況で僕は、人が立っているのを見つけた。
驚きつつも、人を見つけたことに安堵した僕は急いで駆け寄っていった。
近づいていくとその姿がだんだんはっきりとしてきた。
高校生くらいの女性だった。透き通るような白い肌、きれいに切り揃えられた黒髪。
そして、雪のように白い着物。
雪女だ。
それに気付き、足を止めた。
しかし雪女は僕に気付いたらしく、僕に目を向けてきた。感情のこもっていない、無機質な目だった。
怖い、とはなぜか思えなかった。
きれいな人だとしか思えなかった。
しかもその雪女は、白い着物の上に分厚い赤のダウンジャケットを着込んでいた。実際白い着物の部分は下半身しか見えていない。
でもこの人の顔や立ち姿はまさに昔話に出てくる雪女そっくりで、状況的にも雪女であることに間違いないと思えた。
僕は思い切って声をかける。
「あの、雪女さんですか?」
雪女は口を開いたがすぐに閉じ、一瞬躊躇うような素振りを見せて再び口を開いた。
「ええ、そうよ」
僕はその言葉をあっさり信じた。
「雪女も、ジャケット着るんですね。しかも赤」
「雪女だって寒いものは寒いのよ」
「そういうものですか」
「そういうものよ」
僕はたったこれだけの会話で、なぜかこの雪女さんが好きになってしまった。
さっきまで今にも泣きそうなほど慌てていたのに、今では不思議なほど心が落ち着いていた。
「ところで雪女さん。僕、道に迷ってしまったんですがどうやったら帰れるか知っていませんか?」
そういうと、雪女さんはなぜか僕の顔をじっと見てきた。僕はそれがなんだか照れくさくて目を逸らしてしまった。
「あなた、変な子ね」
「そ、そうでしょうか?」
「雪女に道を聞くなんて、絶対変よ」
そういって雪女さんは微笑んだ。そんな雪女さんはすごくきれいで、思わず見惚れてしまった。
「いいわ、ついて来て」
そういって雪女さんは、ざくざくと歩き始めた。僕も慌ててそれについていった。
無言で五分ほど歩き、森を抜けてロッジが見えるところまで来た。
「あ、ありがとうございます雪女さん!」
僕がお礼を言うと雪女さんはまた微笑んでくれた。
そして雪女さんは黙って森に戻ろうとした。
「あの、雪女さん!」
僕は慌てて声をかける。
「また、会えますか? 僕また会いたいです。またあの森に行きます。いつかはわかんないけど、今度は 地図持って、お礼も用意して……」
雪女さんは足を止め、僕のほうに振り返り三度目の微笑みを見せてくれた。
そんな雪女さんを見て僕はつい、言ってしまった。
「雪女さんが好きです!」
雪女さんは驚いたような表情をしていた。僕自身も驚いた。
僕は恥ずかしくなりロッジのほうへ走って逃げ出した。
それ以来、雪女さんとは会えていない。
「なるほど」
僕の話を聞いた花崎先輩は、再びノートパソコンを開き、なにやら打ち込み始めた。
「つまり少年は、昔自分を助けてくれた雪女にまた会いたいわけか」
僕は首を縦に振って答える。
「それで、雪女に会うにはどうしたらいいのか私に聞きたいと」
僕はまた、首を縦に振って答える。
「ついでに、雪女と恋仲になれるのか聞きたいと」
僕は赤面して、首を思いっきり横に振った。
花崎先輩はそんな僕を見てニヤニヤとした笑いを浮かべた。
「雪女と恋仲になるのは、たぶん可能だ。雪女の伝承はそんなのが半分くらいだしな。小泉八雲の小説では子供を十人も作っているよ」
まぁ結局雪女は消えてしまったんだがね、と花崎先輩は付け加えた。
「しかし雪女の伝承は本当に数が多い。若い女性だけでなく老婆だったというのもある。産女も雪女と同一視されることがあるしな」
「うぶめ?」
「そう、産女。聞いたことないか? 赤子を抱いた女が若い男に赤子を抱いてくれないかと頼んでくる。しかし抱くと赤子がどんどん重くなっていくんだ。そして最後には雪に埋もれて凍死する、というやつだ」
それは怖い。僕のあった雪女さんはその産女とかじゃなくて良かった。
「良かったな。少年が会ったのが産女じゃなくて」
僕の心情を汲み取ったのか花崎先輩はそんなことを言った。
「惚れた女が子供連れってのは、悲しいものがあるからな」
どうやらこの先輩は僕をからかって楽しんでいるみたいだった。
「はは。いや、すまん。それで、どうやったら会えるのか、だったな」
花崎先輩はそういってパソコンをカチカチとかまっている。
「ふむ。大雪の晩に、というのがやはり多い。だがこっくりさんのように呼び出すための具体的な儀式は存在していないな。考えられるとすれば、妖怪をひきつけやすい体質の人間を用意するしかないと思う」
まあ、そんな人間に心当たりはないがね、と付け加える。やっぱり具体案はないらしい。
「しかし、一方的にでも約束したんならその森でまた会える可能性は高いと思うんだが、なぜ会えなかったんだろうな」
花崎先輩の発言に、あ、そうかと思いながら僕は首を振る。
「いえ、森にはあれ以来入っていません」
「む、それはなぜ?」
「実はその森、その次の年から立ち入り禁止になって、フェンスと有刺鉄線が森の回り全部に張られたんです。だから入りたくても入れなくて……」
花崎先輩は難しい顔をして僕の言葉を聞き入っている。
「一応一日中森の周りをぐるぐる歩き回ったりしたんですが、無理でした」
花崎先輩は僕の話を聞き終わると再びパソコンのマウスを握り何かを調べ始めた。
その顔は依然難しい顔のままだ。
「そういえば、そのスキー場は何県のどんな名前の山だ?」
「御結山です。青森県の」
やはりか、と小声で呟きながら花崎先輩はブラインドタッチで何事か入力する。
「何か分かったんですか?」
「ああ、もしかしたら……」
先輩の言葉が途中で途切れる。
そして顔には、にやりと不敵な笑みが浮かんでいた。
パソコンを閉じ、僕を見つめてくる。その目は新しい玩具を与えられた子供のように輝いていた。
「いいか少年、オカルトとは消去法なんだ」
いきなりオカルトについて語り始めた。
「現実で起こった現象をどういうことか説明する。そのとき非現実的なことは考慮してはいけない。そこでいろんな仮説が生まれてくるのでそれを一つ一つ当てはめていく。そしてどの仮説も当てはまらなかったとき、それははじめてオカルトになるのだよ」
「……えと、つまりどういうことですか?」
まったく意図が理解できないので、もっと簡潔な説明を要求してみる。
「つまり、少年が言う雪女は私の仮説がある限り、オカルトには成りえないということだ」
僕は今年の冬休みも、おじいちゃんの家の近くの雪山に来た。日付は十二月二十七日。僕が迷子になったのと同じ日だ。
花崎先輩に言われたとおり、ロッジの中に一日中いて、出入りする人を眺めていた。
午前中からずっと待って、もう三時間も経つ。いい加減飽きてきた。
白くなった窓を見つめながら、あの日先輩が語った仮説を思い出す。
花崎先輩の仮説は、想像を多分に含んだものだった。
「おそらくその雪女は、ただの自殺志願者だ」
僕は先輩の台詞に心底驚いた。
「あの人が……自殺……?」
先輩は頷きながら、そうだ、と言った。
「少年。日本人が白い着物を着るのはどんなときか知っているか?」
「えと、結婚式?」
「そう、それと死ぬときだ」
なるほど、と思ったがすぐにおかしいことに気付く。
「いやでも、いくら自殺するときでもいまどき白い着物を着て自殺しますかね?」
「普通はしない。そんなことをするのはごく一部だ。しかしこの場所だとその仮説に説得力が生まれる」
「場所?」
「そう、この御結山はそれなりに有名な自殺スポットだった」
自殺スポット……そんな話聞いたことがなかった。
「少年が知らなくても仕方ないかもしれない。君は地元の人間じゃないし、スキー場のほうもわざわざそんな不名誉になるようなことは言わない。君の祖父くらいは知っていたかもしれないが、孫にそんな暗い話を持ち出す必要はないだろう」
それなら赤いダウンジャケットを着ていたのも理解できるしな、と先輩は付け加えた。
「じゃあ……あの人はもう……」
死んでいる、ということになる。あの人は森に戻っていったんだ。僕を助けてくれた後、あの後すぐに……。
「いや、死んだと決め付けるのは少し早計だ」
先輩は僕の思考を遮るかのように強い言葉を放った。
「まぁ、ここからの仮説は心理学のように精神的な推察に過ぎないので確証はないが、それでも」
先輩の力強い目が僕を見る。
「好きな女が死んだと決め付けるのは、まだ早い」
一転、先輩はさっきみたいなニヤニヤ笑いを浮かべた。
「少年はその女を高校生くらいと言った。つまりその自殺志願の女はただの思春期真っ只中の少女だ。そんな多感な少女が小学生の君に必要とされ、あまつさえ告白されたんだ。決心が簡単に揺らいでも不思議はない。しかも君は会う約束すら取り付けた。ドラマならまず百パーセント生きている」
花崎先輩の仮説にはまったく確証はなかった。しかし僕はそこにはなぜか説得力があるように感じられた。
「ずばり、私の仮説ではその女性は生きている。そして少年が来るのを毎年待っている。それはおそらく同じ日、さしづめ件のロッジといったところか。さすがに白い着物は着てないと思うが、あれぐらいは着ているかもしれない」
今年こそ会ってやれ、と先輩は付け加えた。
僕は先輩に感謝の言葉を告げて、オカルト研究会の部室を後にした。
だから僕は先輩が指定した場所で待っているというわけだ。
ちなみに助けてくれたお礼として買った花も横に置いてある。
それは相談に行った次の日、なぜか教室にやってきた先輩の勧めで買ったスターチスとかいう花だ。花を買うのはいいとして鉢植えってのはどうなのかと思ったが「少年、雪山でビニールに包まれただけの花をもらってもすごく邪魔になる」と言われたので納得してこれにした。
時計がようやく正午を刻んだとき、ロッジに赤いダウンジャケットを着た女性が一人入ってきた。
僕はその顔を見て、先輩の仮説が当たっていたことが分かった。
一つ深呼吸し、心を落ち着かせる。
思い出される。花を勧めたあと、教室を去る寸前に先輩が言った言葉。
『少年。雪女の心をもういっぺん溶かしてこい』
僕は立ち上がり、その女性に声をかける。
「あの、雪女さんですか」
後になって知ったことだけど、スターチスの花言葉は「変わらぬ心」だったらしい。




