凶悪性リビドー
あたしが好きならば
あたしのために泣いてください。
あたしだけを見つめて
あたしの上で腰を振ってください。
あたしのすべてを受け入れて
あたしのすべてを愛していると言ってください。
けれど、もし
あたしを好きじゃなくなったら
どうぞあたしを憎んでください。
そして、その手で
あたしの息の根を止めてください。
◇
頬になにか生温いものを感じて目を開ける。手を頬にやると濡れていた。
あたしは、泣いていた。なんで泣いていたのかは分からない。
手で涙を拭い、周囲を見回す。見覚えのあるような、ないような部屋。本がたくさん散らばっている。ここは誰の部屋だろう。はっきりと思い出せない。
自分自身を見てみる。なぜかパジャマから見える部分もその内側も真っ白な包帯で覆われていた。
どうして、あたしはこんなところで寝ていて、どうして、あたしはミイラみたいな格好をしているのだろう。
そんなことを考えていると、不意にドアが開かれる音がした。そちらへ目を向ける。
入ってきたのは、見覚えのあるような、ないような男の人。やっぱり、はっきりとは思い出せない。
「起きたのか?」
男の人は低く落ち着いた声で、そう問いかけてくる。
あ、なんか聞き覚えあるかも。そう思った。
男の人はベッドの方へ近づいてくる。あたしは、その姿を見て驚いた。
男の人は、服で見えない部分を除いて、全身包帯だらけだった。きっと服の下も同じようになっているんだろう。よく見ると、歩き方がぎこちない。
「よく眠れたか?」
「……多分」
「よかった」
男の人は、ベッド脇のスツールに腰掛けて、あたしの髪を優しく撫でた。 その手が髪を滑り落ち、愛しげに頬に触れてくる。触れられたところが熱を持つ。心臓が、ずきっとした。
「やめて」
あたしは彼の手を払う。ちょうど包帯を巻いているところに当たったのか、彼が痛そうに顔をしかめた。
「……ご、ごめんなさい」
「いや……大丈夫だ」
慌てて謝ると、彼は目元だけで笑った。
心臓は相変わらず、ずきずき痛むし、熱を持った頬は一向に元に戻らない。原因は、彼にあるのだと思ったあたしは、毛布をかぶって彼の姿を視界から隠した。
「なにか飲むか?」
あたしの行動を気にした様子もなく聞こえてくる落ち着いた声。
「なにがあるの?」
「買ってくるから好きなの言え」
「ペプシ」
「わかった。すぐ戻るから大人しくしてろ」
足音がして、彼の気配が消える。それを確認してから、あたしは体を起こした。一人になってホッとしたのと同時に不安を感じた。
あたしは手首の包帯を握る。ごわごわした包帯の感触。それだけを感じる。それだけしか、感じない。
彼はあたしに触れられて痛みで顔をしかめたのに――痛く、ない。少しも、痛くなかった。その事実に、背筋がぞくりとした。
あたしは震える手で包帯をほどきはじめる。丁寧に巻かれていた包帯は、一度ほどかれると驚くほど簡単にベッドの上に落ちた。
「……なんで?」
思わず、疑問の声が出る。包帯の下には、何もなかった。
あったのは、あたしの腕。傷一つついていない、あたしの腕、それだけ。
あたしはパジャマを脱いで、体中に巻かれた包帯に手をかける。腕と違って、そう簡単にはいかなかったけれど、それでも全部、ほどいた。
全ての包帯がなくなっても、あたしの体から傷が見つかることはなかった。
どうして、あたしは怪我もないのに、包帯を巻かれて寝ていたのだろう。
どうして、あたしは自分がなにもかも覚えていないことを不思議に思わなかったんだろう?
ガチャリ。ドアが開く。
「ペプシなかったから、普通のコーラにしたけど、それでよかっ……」
包帯が散乱するベッドの上で、半裸で、呆然とするあたしに気づいて、一瞬、彼の言葉が止まった。
「悪い。着替えてたのか」
それから、何事もなかったかのように、そう言葉を続け、くるりと回れ右をした。服を着ろということだろう。
あたしは、のそのそとパジャマを手に取る。
「もういいよ」
着替え終わって、そう声をかけると、彼は「で、普通のコーラでもいいよな?」と、手に持っていたコンビニの袋を掲げた。
「どうでもいい」
「よかった」
拗ねたようなあたしの言葉にこだわることもなく、彼は微笑むと、コーラを差し出す。
あたしがぷいっと顔を背けて受け取らない姿勢をとると、彼は小さく息を吐き、サイドテーブルにコーラを置いた。
それから、彼はベッドに散乱する包帯を慣れた手つきでクルクルと巻き取り始める。
「ねぇ……あたし、どうしてここにいるの? なんでなにも覚えていないの? それに……」
あなたは誰なの? ――そう続けそうになって、慌てて言葉尻を濁す。どうしてか、それは言ってはいけないことのような気がした。
それ以上に、彼のことは自分で思い出したいという思いがあった。どうしてかは分からないけれど、彼のことを味気ない情報として知りたくは無かったのだ。
彼は困ったように頭を掻いた。袖から少し血が滲んだ包帯が覗く。見た途端、あたしの心臓が不安にざわめき始める。
「その怪我どうしたの?」
「……転んだことにする」
彼は本当に困ってしまったように顔を顰め、そんな変な返答をした。
言いたくない理由でもあるのだろうか。それなら、ムリに聞き出そうとは思わないけれど。
「あたし、これからどうしたらいいの?」
「……君にとってなにをすれば一番いいことなのか分からない。もしかしたら、今のままでもいいんじゃないかとも思う」
冗談じゃない。なにも分からない状況のままでいいだなんて。
そんなあたしの気持ちが伝わったのか、彼は辛そうに眉を寄せ「多分、俺が悪いんだ」と切り出した。
「君はずっと自分ではない他の誰かになりたがっていた。俺はそんな君を持て余したけれど、切り捨てることも出来なくて、ただ傍に居るだけしか出来なかった」
心臓がまたずきりと痛んだ。
彼の話を聞かないといけない。でも、聞きたくない。
相反する思いが渦巻いて、息が上手くできなくなる。
「……大丈夫か?」
そんな声と共にふわりと抱き寄せられた。
覚えのある感覚。前にも彼にこうされたことがある。それが何時かはわからないけれど。
あたしは彼の体に腕を回す。そして、気づかないうちに爪を立てていた。
彼の体がピクリと強張る。それでも、彼はあたしを抱き寄せたまま、あたしの爪が背中に食い込むがままにさせてくれている。
「俺は君の望むように行動できなかった」
彼が耳元で呟く。
あたしが望む、こと。あたしが望んだ、こと。
心臓がずきずきと抗議をするように痛む。
あたしは顔を上げた。彼の傷だらけの体を撫でる。
「これ、あたしがやったのね?」
「……」
あたしのために肯定することも、否定することも出来ずに、彼は無表情だった。
思い出さなければならない。あたしは、忘れてしまいたかった、捨ててしまいたかったあたしのことを思い出さなければいけない。そうしないと、この優しい人を苦しめ続けてしまう。
呼吸が浅くなる。
この苦しさは、自分自身への哀れみ。思い通りにならなかった彼への失望。これが恋だなんてどうかしてる。
――どうかしてた。
「あなたはあたしがなにをしても怒りもしなかった。それで、あたしは」
唇を噛む。
「馬鹿みたい。あなたにつけた傷と同じ場所に自分で包帯を巻くようになった」
彼と同じになるように。怪我もなにもしていない自分の腕に、包帯を巻いた。勲章のように、それが増えることを愉しんでいた。
「……君があんなことをしたのは、俺が拒まなかったせいだ」
彼の搾り出すような言葉にあたしは否を唱える。
違う。違う。違う。膨れ上がったあたしの欲望が全てなのだ。
あたしを好きじゃなくなったら、どうぞあたしを憎んでください。
そして、その手であたしの息の根を止めてください。
「あたしは……あなたに、あたしを殺して欲しかった」
だって、それこそが彼の全てを手に入れる方法だから。
ナイフを手にして、そんな理不尽な要求をしたあたしに彼は抵抗しなかった。
飛び散った彼の血にあたしは怖くなり、その場から消えてしまいたいと願った。
「君は悪くないんだ。忘れていいから。大丈夫だから」
震えるあたしを抱き寄せて、彼は何度もそう繰り返した。あたしはその言葉に縋りつき、信じられないことに、何もかもすっかり忘れてしまったんだ。
あたしは彼を見上げる。
ごめんなさい、という言葉を言いたかった。けれど、言えなかった。
だって、いつだって彼は自分を責めている。
あたしがどれだけひどいことをしても、自分のせいだと思っている。
謝ったって、きっと堂々巡り。
「傷痕、残っちゃうね」
「ああ、そうだな。残るといいな」
困りきって咄嗟に出た言葉に、彼が柔らかく微笑み頷く。
心臓が雑巾みたいにぎゅーっと絞られた。
◇
ねえ神様、
この気持ちは一体なんなのでしょう。
恋なんて呼んではいけない、
この凶暴な気持ちはなんなのでしょう。
あたしはずっとこんな気持ちを抱いたまま、彼と過ごしていくのでしょうか。
都合の悪いことが起きるたびに全て忘れて、そしてまた彼を思い出し、何度も何度も同じことを繰り返す。
彼はきっといつだって、そんなあたしを笑って許してくれるのでしょう。
それはなんて狂っていて魅力的な想像。
もしも、そんなことが赦されるのならば、
この世界は、そんなに捨てたものじゃないのかもしれません。