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佐伯くんと高槻さん

昼休みの境界線

作者: くるみ
掲載日:2026/05/16

昼休みになっても、佐伯くんは机の前から動かなかった。


画面には、朝からずっと同じグラフが映っている。折れ線は右肩上がりにも見えるし、ただの偶然にも見える。都合よく見れば仮説通りで、厳しく見れば何も言えない。研究者にとって一番困る種類の線だった。


「佐伯くん」


高槻さんが、背後から声をかけた。


「はい」


「お昼、行きませんか」


佐伯くんは振り返った。


「行く、というのは、コンビニですか」


「外です」


「外」


佐伯くんは、研究室の窓を見た。五月の光が、ブラインドの隙間から細く入っている。


「研究室の外に、ですか」


「昼食ですから」


「でも、給湯室の主も、冷蔵庫の番人も、冷凍庫の眠り姫も、研究室にいます」


「全員に許可を取る必要はありません」


高槻さんは、佐伯くんの机の上を見た。そこには、開封済みの栄養補助食品が一本、半分だけ食べられた状態で置かれていた。


「それがお昼ですか」


「一応、糖質とタンパク質はあります」


「食事を成分で呼ばないでください」


「研究者なので」


「研究者でも、昼ごはんは昼ごはんです」


佐伯くんは少し考えたあと、画面を閉じた。


「行きます」


「珍しく素直ですね」


「このグラフを見続けていると、こちらが解釈されそうなので」


「それは少しわかります」


二人は白衣を脱いで、研究室を出た。


廊下を歩くと、いつもの機械音が少し遠くなる。冷蔵庫の低い唸りも、冷凍庫の奥の小さな軋みも、給湯室のポットが湯を沸かす音も、ドアが閉まると急に聞こえなくなった。


研究室の外は、思っていたより明るかった。


「外って、明るいですね」


佐伯くんが言った。


「今さらですか」


「最近、実験室とデスクとコンビニしか行っていなかったので」


「人間の生活範囲ではありませんね」


「でも、効率はいいです」


「効率のために人間性を削らないでください」


大学の門を出て、少し歩いたところに、小さな定食屋があった。古い看板には「昼定食」とだけ書かれている。魚、揚げ物、カレー、日替わり。情報は少ないが、必要なものはだいたいある。


「ここ、入ったことありますか」


「私は何度か」


「おいしいですか」


「普通においしいです」


「普通に」


「研究室の外では、普通においしい、が一番信用できます」


佐伯くんはうなずいた。


店の中は、昼休みの人たちでほどほどに混んでいた。会社員らしい人、近所の人、学生。誰も冷蔵庫の中身に名前を書いたかどうかを気にしていない顔をしている。


二人は奥の二人席に座った。

店員が水を置きに来る。


「日替わりは、さば味噌です」


高槻さんはすぐに言った。


「私はそれで」


佐伯くんはメニューを見たまま固まっていた。


「佐伯くん?」


「選択肢が多いです」


「四つです」


「四つもあります」


「普段、研究ではもっと多い変数を扱っているでしょう」


「研究の変数は食べなくていいので」


「食べ物の選択に弱いんですね」


佐伯くんは真剣な顔でメニューを見続けた。


「さば味噌、からあげ、カレー、親子丼」


「はい」


「高槻さんなら、どう選びますか」


「今日食べたいものを選びます」


「その基準は主観的すぎます」


「昼食は主観でいいんです」


佐伯くんは、少し困ったように眉を寄せた。


「では、カレーにします」


「なぜですか」


「失敗したときに、失敗と認めにくいからです」


「消極的な信頼ですね」


注文を終えると、二人の間に少し沈黙が落ちた。

研究室での沈黙は、たいてい誰かが計算しているか、何かを忘れているか、機械の機嫌をうかがっている時間だった。けれど定食屋の沈黙は、味噌汁の匂いと、食器の音と、隣の席の笑い声に混ざって、別のものに変わる。


佐伯くんは水を一口飲んだ。


「高槻さん」


「はい」


「研究室の外に出ると、研究室のことが少し変に見えます」


「中にいると、変なことに慣れますから」


「給湯室に主がいるのも、冷蔵庫に番人がいるのも、冷凍庫に眠り姫がいるのも、慣れてはいけないことだった気がします」


「たぶん、最初から慣れてはいけません」


「でも、慣れました」


「人間は強いですね」


「強いというより、雑なのかもしれません」


高槻さんは少し笑った。


「それはあります」


料理が運ばれてきた。


高槻さんの前には、さば味噌定食。佐伯くんの前には、カレー。白い皿に、少し濃い色のルーがかかっている。福神漬けが端に添えられていた。

佐伯くんは、しばらくカレーを見つめた。


「どうしました」


「外のごはんは、名前を書かなくてもいいんですね」


「自分の前に置かれた時点で、自分のものです」


「すごい仕組みです」


「社会は、だいたいそれで回っています」


「研究室より高度ですね」


「研究室のほうが特殊なんです」


佐伯くんはスプーンを取った。

一口食べる。


そして、少し目を見開いた。


「どうですか」


「普通においしいです」


「でしょう」


「普通においしい、すごいですね」


「そうですね」


佐伯くんは、もう一口食べた。


「研究も、これくらい普通に進めばいいのに」


「それは難しいです」


「なぜですか」


「研究は、普通に進まないものを相手にしているからです」


佐伯くんはスプーンを止めた。


「それは、救いですか」


「半分くらいは」


「残り半分は?」


「言い訳です」


佐伯くんは、またカレーを食べた。


「高槻さんは、ときどき厳しいです」


「佐伯くんが、ときどき自分に甘いので」


「毎日ではないですか」


「そこは自覚があるんですね」


店の外を、風が通った。入口ののれんが少し揺れる。


その瞬間、佐伯くんが小さく「あ」と言った。


「どうしました」


「今、研究室のことを考えませんでした」


「いいことです」


「昼休みに、研究室のことを考えない時間があるんですね」


「本来はあります」


「知りませんでした」


「知ってください」


高槻さんは、味噌汁を飲んだ。


研究室の中では、何かを温めるにも、冷やすにも、保存するにも、どこかに気を遣う。誰かの名前、誰かの期限、誰かの失敗。物は黙っているようで、意外と何かを覚えている。

でも、外の定食屋では、出されたものを食べて、食べ終わったら帰ればよかった。


それだけでよかった。


佐伯くんはカレーを半分ほど食べたところで、ふと顔を上げた。


「高槻さん」


「はい」


「僕、さっきのグラフ、少し見方を間違えていたかもしれません」


「昼食中に研究の話に戻りましたね」


「すみません」


「でも、どうぞ」


「右肩上がりかどうかばかり見ていたんですけど、たぶん、そこよりも外れ値の扱いを先に確認したほうがよくて」


「なるほど」


「それと、群を分ける前に、全体の分布をもう一回見ます」


「いいと思います」


「外に出たら、少し離れて見られました」


高槻さんは、さばの骨を静かに皿の端へ寄せた。


「それは、よかったですね」


「はい」


佐伯くんは少し照れたように笑った。


「でも、研究室に戻ったら、また変なものたちがいます」


「いますね」


「給湯室の主も」


「います」


「冷蔵庫の番人も」


「います」


「冷凍庫の眠り姫も」


「たぶん寝ています」


「戻りたくなくなりませんか」


高槻さんは少し考えた。


「なります」


「なるんですか」


「なりますよ」


「高槻さんでも?」


「私でも」


佐伯くんは安心したような顔をした。


「でも、戻るんですね」


「戻ります」


「なぜですか」


「置いてきた仕事がありますから」


「現実的ですね」


「それと」


「それと?」


高槻さんは、店の窓から外を見た。

大学の建物が、少し遠くに見える。研究室の窓も、そのどこかにあるはずだった。


「変なものがいる場所でも、そこにしかないものもあります」


佐伯くんは、黙って聞いていた。


「うまくいかない実験も、書き直しばかりの文章も、名前を書き忘れたプリンも、たぶん全部、面倒です。でも、面倒なものが全部なくなったら、私たちもあそこにいる理由が少し減ります」


佐伯くんは、最後の一口を食べた。


「高槻さん」


「はい」


「また昼食に出てもいいですか」


「もちろん」


「次は、カレー以外にします」


「もう決めているんですか」


「はい。選択肢を一つ減らしておきます」


「研究者らしいのか、判断に困りますね」


会計を済ませて、二人は店を出た。


外の空気は、研究室の空気より少し軽かった。たぶん換気の問題だけではない。

大学へ戻る道で、佐伯くんが急に立ち止まった。


「どうしました」


「高槻さん」


「はい」


「昼食に出ている間、研究室の冷蔵庫の中身は大丈夫でしょうか」


「一時間くらいなら大丈夫です」


「番人が怒っていませんか」


「名前が書いてあれば大丈夫です」


「僕のヨーグルト、名前を書いたかどうか自信がありません」


高槻さんは足を止めた。


「佐伯くん」


「はい」


「戻ったら、まず冷蔵庫ですね」


「はい」


「それから、グラフです」


「はい」


佐伯くんは、少しだけ歩く速度を上げた。

高槻さんも、その隣を歩いた。

研究室に戻ると、廊下の奥から、いつもの低い音が聞こえてきた。冷蔵庫の唸り。ポットの小さな気配。冷凍庫の眠る音。


佐伯くんは扉の前で深呼吸した。


「ただいま、という気持ちになりますね」


「言うと、返事があるかもしれませんよ」


「それは少し怖いです」


二人は研究室に入った。

冷蔵庫の前へ向かうと、佐伯くんのヨーグルトは無事だった。ふたには、やや斜めの字で「佐伯」と書かれている。


「書いてありました」


「よかったですね」


「でも、僕の字ではありません」


高槻さんは、ふたを見た。

確かに、佐伯くんの字ではなかった。もっと丁寧で、少し古い字だった。


冷蔵庫が、低く鳴った。


ぶうん。


佐伯くんは、そっとヨーグルトを戻した。


「高槻さん」


「はい」


「番人が、書いてくれたんでしょうか」


「かもしれません」


「優しいですね」


「次からは、自分で書いてください」


「はい」


佐伯くんは、自分の席に戻った。

画面を開き、グラフをもう一度見る。さっきまで意味ありげに見えていた線は、少しだけ静かになっていた。

外に出たからといって、研究が進むわけではない。


でも、戻ってきたときに、少し違う目で見られることはある。

佐伯くんは、解析コードを開いた。

高槻さんは、その背中を見てから、自分の机へ向かった。


給湯室のほうで、ポットが小さく鳴った。

冷蔵庫が、もう一度だけ低く唸った。

それは、たぶん怒っている音ではなかった。


昼休みを認める音だった。

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