第二話
「――さっそくでいいかしら。あなたは『妹』として、一人付き合ってもらう」
シオリは机のノートパソコンを操作して、それから、少女に数枚の書類を渡した。
「これ、注意事項だから目を通しておいて。してはいけないことの一覧よ。自分からもしてはいけないし、相手にいくらお願いされても……お金を渡されても絶対にしてはいけない。いい?」
「……はい」
こくんと頷く少女に、シオリはとりあえず満足して話を続けた。
「今からお相手してもらうお客様は常連の方でね。若いけど気が利いて優しいし、こっちの仕事のことも理解してくれている。『今日、誰かと時間が合えば』って連絡貰ってて良かったわ。今、こちらからメールしたから」
「…………」
少女は、またこくりと頷く。その仕草は、本当に少女にしか見えない。
迷いそうになる心を胸の中で頭を振って払いながら、シオリは少女を安心させるように微笑んだ。
「初めての子って伝えてあるから、あとはお客様が色々教えてくれるはずよ。とはいっても、私たちはお客様を癒すほう。お仕事なんだから、きちんと『妹』をしてお客様を満足させて」
「……はい」
三度頷く少女に、シオリは少しだけ視線を鋭くすると、こう付け加えた。
「さっきも話したけど、まだ私はあなたを正式に雇ったわけじゃない。今回のこれで雇うかどうかを考えさせてもらう。いいわね」
「……はい」
頷く……ここまで同じだと、逆に不安にもなってきた。
「質問は?」
「……特には……」
「そ」
……本来なら、聞かなければいけないことは山ほどあるはずだ。それを聞かないことが、この少女の仕事に対する知識の無さと、お金目的ではないことを明確に伝えていた。
「アルバイトもしたことないでしょ、あなた」
「……はい」
「どうしてしなかったの?」
「…………」
学生であれば年齢の問題がある、学校の問題もある。だから、アルバイトもしたことがない。それを暗に含めて聞いたシオリの言葉に少女は初めて迷った表情を見せた。
『できなかった』と答えれば、『なぜ、できなかったの?』と聞くつもりでいた……だが、少女は頭の回転が速いのか、それとも、ほんとうに天然なのか散々悩んだ後、一言。
「……思いつきませんでした」
「……そ」
少女の答えに、シオリもまたそうとした答えられず短く呟いた。『ほんとうのお嬢様かよ』と心の中でつっこんで。
「そういえば、名前を聞いていなかったわね。本名はいいから、名前を決めて」
「名前を決める?」
「そう、ここでは本名じゃなく別の名前を使うの。ちなみに、私の名前も本名じゃないわ」
「……そうなんですか」
少女はまた少し迷って……再びシオリへと視線を戻すと、ぽつりと名乗った。
「サクラ……とかでもいいですか?」
「……本名じゃないわよね」
「本名です」
「だからいわなくていいから……まあ、でも、『こっちの世界』では良くある名前だから逆にいいかもね。変に凝るよりは」
シオリは近くの紙に『サクラ』と名前を書き込む。忘れることはないだろうが、これは一つの確認だった。正式ではないとはいえ、自分の会社の従業員だという自分への確認。
これで、サクラは自分の仕事上の妹になった。責任者として、年長者として、姉として、面倒を見なければならない。
「まあ、とりあえずはよろしくね、サクラ」
「はい、よろしくお願いします」
手を差し出すシオリに、少女――サクラは小さい手できゅっと握った。
――――――――――
待ち合わせの場所にサクラはじっと立つ。少しだけ視線を伏せて、周りの世界がまるでなくなっているようにサクラはただじっと立っていた。
これから知らない男の人と会うというのに、それも『妹』として『仕事』として会うというのに、そのことを考えることも無くサクラは身動きもせず視線を落としていた。
「…………」
――お兄ちゃん。
どうしてあの時部屋に入ったのだろう。入ってしまったのだろう。
部屋に入らなければ――『声』を気にしなければ、いつも通りに過ごせたのに、どうして部屋に入ってしまったのだろう――
彼女さんが来ていることも知っていたのに――
忘れればいいことなのに、忘れなければいけないことなのに、その場面はいつまで経ってもサクラの中から消えなかった。
ずっと残って――そして、全てを支配している。
涙がまたでそうになって――その時、だった。
「――えっと、サクラちゃん、かな?」
声に、男の人の声に、サクラは顔を上げた。
「人違いだったらごめんね。合ってるかな」
「……はい、そうです」
「ああ、よかった。待たせてごめん」
男はそういうと、にこりと微笑んだ。
「福山といいます。今日はよろしくね、サクラちゃん」
「はい、よろしくお願いします……」
男――福山の微笑みに、サクラも少しだけ笑った。
――学校の先生みたい。
サクラが福山を見て思った最初の印象がそれだった。
黒い短髪の髪に、眼鏡。清潔なスーツの身なりに、優しそうな雰囲気。顔も声も整っていて……とても『妹』を求めているような人には見えない。
先生であれば、絶対に女子生徒に人気がある先生――そんなふうにサクラは感じた。サクラも嫌な感じはしない。
――でも、だからといって、好意も感じなかった。