表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/2

一章 グウゼンデアウ

 雲ひとつない快晴に、春の暖かい風が頬をくすぐる。

 お父さんに誕生日プレゼントを渡すために花を摘みに来た私は、春の陽気に気分が舞い上がっていた。最近は雨が降ってじめじめする日が続いていたから、久しぶりに当たる陽の光が気持ち良い。

 思わず鼻歌を歌いながら、カゴを揺らして母が眠る場所を目指す。

 この季節は、パっと目を引く強い青色のブルーデージーや、鮮やかな水色のネモフィラ、そして私が一番好きなナランキュラスが絨毯のように咲き誇る。

 普段はひんやりと寂しい墓地でも、春にそれらが満開になったときは、まるで親が子を想うような暖かさが蘇る。私は母の顔を覚えてはいないのだけれど。

 母は私を出産すると同時に命を落とした。だが、母の遺した命をお父さんは男手ひとつで懸命に守ってくれた。平民の貧乏な家だが、お父さんはそれでも私に不自由をさせないようにと、毎日汗水垂らして必死に働いてくれている。

 だからお父さんは、この世界で一番尊敬していて、大切な人。

 お父さんはよく

「俺はエレナの笑顔が見られれば、それが一番幸せだから。自分のやりたいことやったり、自分のためになることをしなさい」

 と言いながら頭を撫でてくれる。もちろんその気持ちはとても嬉しいのだけれど、私だってお父さんを喜ばせたいのだ。

 家計を少しでも助けるために、私は一五歳になった今年からパン屋で売り子として働き始めた。あまり多くはないかもしれないが、お給料を貰ってそのお金で日用品をこしらえている。

 私の働くパン屋は、お父さんと同い年くらいの恰幅の良いおばちゃんとその旦那さんが二人で切り盛りをしている。私はおばちゃんをキヨさんと、旦那さんのほうはいつも白い帽子を目深にかぶって全身が真っ白く見えることからシロさんと呼んでいる。

 街のみんなの憩いの場でもあるこの場所はとても暖かく、私は大好きだった。

 豪華なものは買えないけど、お父さんが四〇歳になる今年の誕生日は節目の年でもあるため、母の墓地の近くで採った野花で作った色とりどりの花束と、これは毎年の恒例の歌を贈ろうと考えている。

 お父さんも見たことがないような、大きくて綺麗な花束を渡したら、どんな反応をしてくれるだろうか……。目が飛び出すくらい驚いてくれるかな、それとも、家じゅうの窓が割れてしまうくらい大きな声が出るかな。いや、親ばか加減が周りよりも強いお父さんだ。号泣しながら街のみんなに自慢するかもしれない……。

 そうなったら、全力で止めなければ。

 そんなまだ見ぬお父さんの顔を思い浮かべながら、いつもの道から外れてしまっていることにも気がつかず、どんどん奥へと進んでいく。

「~~♪」

 私は幼い頃から歌うのが大好きで、お父さんも街のみんなも、私の歌が好きだと言ってくれる。

 音楽教室に通ったり、楽譜を購入することはできないから題名のある曲はあまり知らないけれど、頭の中にポンポン浮かんでくるメロディを繋ぎ合わせて自由に歌う。そうすると、私の周りにいる人はいつも笑顔になってくれる。

 私はその笑顔がまた大好きだった。

 今日もお父さんにどんな歌を贈ろうか考え歌いながら開店準備をしていたら、あがり際にキミさんが、いつも歌を聴かせてくれるお礼にってチョコレートのかかったベーグルを二つ包んでくれた。

 チョコレートベーグルはお父さんの好物でもあった。

 きっと私が『ハッピーバースデーお父さん~♪』と歌っているのを耳にしたのだろうけど、それを理由にしたらお父さんが気を遣うことを察して、私への感謝という名目にしてくれたのだと思う。

 カゴの中からいい香りが漂ってきて、ふいに腹の虫が鳴いてしまった。

 温かいうちに持って帰らなきゃ。

 キミさんの厚意を無駄にはしないと、足早に奥へ進んでいく。

 しかし、進んでも進んでも緑が濃くなる一方で、いつもの開けた墓地に出ない。茂る木々の背丈が、募る不安のように高くなっていく。

 もしかして、道を間違えたのだろうか。

 想像もしたくない予感が頭を過った。手元に地図はない。声が届く範囲に(ひと)()もない。駆けつけてくれる御者なんてもちろんいない。

 先ほどまでのご機嫌気分は一転、カゴを握る手に力が入る。

「どうしよう……」 

 ふと頭上を見上げると、青い空のキャンバスを滑る筆のような動きで飛び交う何かが見えた。落ち葉にも見えるが、強い風が吹いていない今、落ち葉が空を行き来するわけがない。

「あれは……ホオジロ?」

 そういえばお父さんが、ホオジロは山の裾付近で見かける野鳥だと教えてくれたことがある。ということは、私は山道に入ってすぐ、墓地とは反対方向の裾野まで来てしまったということなのか。

 疑念が確信に変わったとき、私は頭が真っ白になってその場で立ち尽くすしかなかった。

 だが、カゴから漂うパンの香ばしい匂いが鼻腔を通り抜け脳を刺激し、私はぐっと唇を噛みしめた。

 まるでキミさんが、今しなければいけないことを考えなさい、と背中を押してくれる感覚がした。

 いつもはこんな失敗しない。道に迷ったのは初めての経験だった。

 こんなとき、どうするべきなのか。

 ここで誰かが通りかかるのを待つか。いや、こんな辺境の道なんて誰も通らないだろう。

 だったら、来た道を戻ってみるか。それもだめだ、茂みを分けるように歩いた道もあるから不確実すぎる。

 こんなことになるなら、歩いた道にパンを一切れずつ落としてくればよかった。

 過去を見つめても何かが変わるわけじゃないのに、混乱に頭を抱えてしまう。

 考えても考えても、打開策が見つからない。

「あーーーー‼ どうしたらいいの⁉」

 私の悲痛の叫びに呼応するように、ホオジロが鳴いて一斉に飛び立っていった。

 こうなったら、残る道はひとつ。

 まっすぐ進むしかない。

 地球は丸い。大地は繋がっている。歩き続ければ、どこか開けた道に出るかもしれない。ここでじっと待っているよりかは誰かに出会える確率も高いだろう。

「よし、進もう」

 そう声に出し、恐怖心を上書きするため、そして自分を鼓舞するために、また歌を歌う。

 馬車や旅人、近隣住民が近くを通る可能性を視野に入れ、周囲の音に耳を澄ませながら、かすかに震える声を誤魔化すように一層大きな声で音を奏でる。

「~~♪」

 本当は冷や汗が背中に滲むくらい怖いけど、あえて明るいメロディを口ずさみ前だけを見据える。

 すると、先ほどは恐怖の象徴にも思えたホオジロが、こっちだよ、とまるで道を示すように私の斜め上を飛び交った。

 その羽に導かれるように私はさらに足を進める。

 どのくらい歩いたかはわからないが、ふと辺りを見渡すと、濃かった緑に彩りが増えてきた。

「スミレにスイセン、こっちにある可愛らしいピンクの花はヒメツルソバかしら」

 奥には藤の枝垂れも見える。藤棚があるということは、人工的に手が入れられている区域ということだ。もしかしたら近くに誰かが住んでいるのかもしれない。

 そう思うと、無意識に強張っていた身体が少し緩んだ。 

 手元のカゴを握り直し、藤棚へと近づこうとしたとき。

「~~♫」

 どこからか楽器を弾く音が聞こえた。

「この音色は……ヴァイオリン? 誰かいるのかしら‼」

 途切れ途切れだが確かに聞こえる。

 絶望の中に差し込んだ光につられるように、私は駆け出したい衝動を抑えながら、ゆっくりと藤棚のほうへと近づいていった。

 その音色がはっきりと耳に響く距離になったとき、ようやく人影が見えた。

 その瞬間、私は目の前に広がる光景に圧巻され息を吞むしかなかった。

 辿り着いた先には、鮮やかな藤の花に負けないくらい綺麗な金髪を揺らしながら、切れ長の目を伏目がちに楽譜に落としヴァイオリンを弾く少年の姿があった。

「なんて美しいのかしら……」

 人に出会えた喜びから今すぐにでも声をかけたいのに、あまりの美しさにその場から一歩も動けず、木陰に隠れたまま少年を見つめる。

 彼の奏でる音を聞いていたい、見ていたい。その想いだけが私の身体を支配した。

 知らない曲のはずなのになぜか心が共鳴して、気がついたら私はヴァイオリンの音に自分の声を重ねていた。

 だがしばらくして、ふいに音が止まった。

 不思議に思って木陰から顔を覗かせると、辺りをきょろきょろと見回す少年の翡翠色の瞳と目が合った。

「……誰かいるのか?」

 先ほどの温かい音色とは真逆の、警戒するような、殺気立った声で尋ねられる。

 急いで私は木陰から飛び出して、自身が怪しい者ではないと弁明する。

「隠れていてごめんなさい! わ、私は決して怪しい者ではなくてですね……あなたのヴァイオリンの音がとっても素敵だったから、思わず聞き入ってしまったの!」

「……そうか」

 威嚇の目を向け続ける少年に、私はその場でくるくると回り身の潔白を証明しようとした。

「ほらね! 何も危ないものは持ってないでしょう? 持っているのはパン屋のキミさんがくれたパンだけ。あ、一緒に食べる?」

「いらない」

 お近づきの印に良い案だと思ったのだが、一蹴されてしまった。

 唇を尖らせながら、どうしたら警戒を解いてくれるか必死に考える。

 ふと、少年の手に握られていた光沢を放つヴァイオリンに目が留まった。

「素敵なヴァイオリンね。私本物って初めて見たわ! さっき弾いていた曲はなんて言うの?」

 すると少年はちらと手元に視線を移したあと、小さく呟くように答えた。

「カプリース」

「かぷりーす?」

「……ヴァイオリニストにとっては基本中の基本の曲。結構有名な曲だけど、知らないの」

 殺気は薄まったが、今度は怪訝そうに眉を顰められてしまった。

 空気を和らげようと思ったのだが、余計に怪しい者に見えてしまっただろうか。

「私のおうち、あまり裕福じゃなくて……。学校行ってないし、劇場とか演奏会とかも行ったことなくて……」

 家が貧乏なのは誰のせいでもないため、こういう話をするときどんな顔をすればいいのかわからず、いつも笑顔が引きつってしまう。

 辛気臭さを吹き飛ばすように一度大きく息を吸うと、努めて明るい声で続けた。

「でもね、楽しいこともたくさんあるのよ! 街のみんなやお父さんが勉強を教えてくれることもあるし、それにね、私一緒に歌うことが大好きなの! 歌うだけならお金はかからないでしょ? 私が歌うとね、みんなも笑顔になってくれるのよ! キミさんなんかいつも……あ、キミさんっていうのは私が働いているパン屋のおばちゃんのことでね……」

 唐突に自分のことをペラペラと語り出した私の話を、少年は相槌を打つわけでも、制止するわけでもなくただじっと聞いていた。

 しばらく饒舌に話し続けた私だったが、いきなりはっと息を呑むと少年の目を見つめてまたバタバタと手を上下に動かした。

「ごめんなさい、私ばかり話してしまって。よかったら、あなたのことも聞かせて?」

「……話すことなんて何もないよ。そろそろ帰ってくれないかな」

 今まであまり人に冷たくされたことがなかったからか、突き放すようなその言葉に私は軽いショックを受けた。

「でも私、あなたのこともっと知りたいな。いつもここで一人でヴァイオリンを弾いているの?」

「……まぁ」

 唇をきゅっと結んで上目遣いで尋ねるその顔に負けたのか、少年は視線を逸らしながら小さな声で答えた。

「じゃあ、また聴きに来てもいいかしら? あなたのヴァイオリン、もっと聴いてみたいわ!」

「絶対にだめだ。二度と来るな。そもそも僕は聴かせるために弾いているんじゃない。練習の邪魔をしないでくれ」

 目をキラキラと輝かせながら顔を近づけた私を払いのけるように手を横に振り、少年は一層冷たい声で言い放った。

 だが私はすぐには折れなかった。自分でも意外なほど、少年の奏でる音を求めていた。

 どうにか肯定をさせようとあれこれ思考を巡らせる。

 そうして辿り着いた答えは、少年が予測すらできないものだった。

「じゃあ、私に音楽を教えて!」

「はぁ⁉」

「ほら、教えるって自分の技術向上にも繋がるって言うでしょ? 私はもっと音楽について知りたい。あなたは教えることによって練習になる。長い時間じゃなくていいの」

 本当はあなたの演奏を全身でもっと聴きたいだけだけど。という言葉は飲み込んだまま少年に提案を続ける。

「悪い話じゃないでしょ?」

 追い打ちをかけるようにきゅるんと頼み込むと、少年はなぜか少しだけ頬を赤くし、うーんとうなり始めた。 

 初めの警戒の色が少し解けたことで私は平常心を取り戻し、今なら何か教えてくれるかもしれないと柔らかな落ち着いた声で少年に尋ねた。

「そういえば、自己紹介もしていなかったわね。私はエレナっていうの。平民だから苗字はないわ。……あなたの名前は?」

 その問いかけに少年は少し意外そうな顔をしたあと、ゆっくりと、だが冷静に答えた。

「ネオ・ヴィスコンティ」

「ネオって言うのね。素敵な名前ね」

 街のみんなと接するときのような屈託のない笑顔でそう返すと、ネオはさらに目を丸く見開いた。

「ねお・ヴぃすこんてぃ……ヴぃすこんてぃ……ヴィスコンティ?」

 ここまで勢いのまま会話を続けたせいか、ネオと名乗る少年の姿恰好をあまりよく見てなかったが、改めて見るとネオが着ている服は細部まで刺繍が施されており、平民の私が見ても高級だということがわかる。

 苗字があるということからも、貴族の()で間違いない。

 それに、ヴィスコンティという苗字をどこかで聞いたことがあるような気がする。 

 記憶の引き出しを探るように、ぶつぶつとその名を繰り返していると、ネオが眉間に皺を寄せたまま尋ねてきた。

「お前……やっぱり僕を知らないのか」 

「へ⁉」

「いや……まぁ僕はあまり表舞台には立たないし、知らない人がいても当然か」

 呆れたような自嘲するようなため息とともに伏目がちにふいっと視線を横に流す仕草に、突拍子もなく大声をあげる。

「ネオ・ヴィスコンティって、もしかしてネオ第二王子⁉」

「ようやく気付いたのかよ」

 そういえば幼い頃、四年に一度開催される王侯貴族を謁見できるパレードでこの顔を見たことがある。

 他の貴族はにこやかに周囲の人々に笑顔を振りまいていたのだが、彫刻のように美しい彼だけは、口角を少しもあげることなくただ斜め下を見つめていたのを覚えている。 

 華やかなパレードに相応しくないその印象は私の脳裏を離れなかった。

 もしかして私は、とんでもないことをやらかしてしまったのでは。

「たたたた、大変申し訳ありませんでした。王子とは知らず無礼な態度をとってしまい……!」

 地面に付きそうなほど勢いよく頭を下げると、持っていたカゴからベーグルが落っこちそうになり、さらにバタバタと手足を動かす。

 その様子にネオは鼻からふっと息を漏らすと、淡々と顔を上げるように促した。 

「バタついたり、ぶりっこしたり忙しい奴だな。……別にいいよ。むしろ今までこんな態度とってきた人間いなかったから、新鮮だった」

 若干の煽りを感じ取り、私はプルプルと震えながら頭を上げることができなかった。 

 それもそうだ。彼は貴族どころではない。この国の王子様だ。

 それなのに私は音楽を教えてだなんて言った上に、彼のことを呼び捨てにしてしまった。

 不敬にもほどがある。

 焦りから瞳が潤み、ぐっと唇を噛みしめて地面を見続けていると、頭上から(ひと)(きわ)大きなため息が聞こえてきた。

「だから、いいって言ってんだろ。お前が悪い奴じゃないのはなんとなくわかったから」

 ここまで頭を上げろと言われたら、上げないほうが失礼にあたる。

 恐る恐る上半身を起こすと、翡翠色の瞳を細めながらこちらを見つめるネオと目が合った。

 どんな通達を告げられるかわからない恐怖で身構えていると、しばらく二人の間に沈黙が流れた。

 その沈黙を打ち破るようにネオが口を開く。

「……お前に、音楽を教えてもいい」

「……はい?」

 私は一瞬言葉の意味を理解できず、目をパチパチと瞬かせたあと、ようやくかみ砕かれた言葉の真意を確認するようにもう一度尋ねた。

「今、なんて?」

「だから、お前に音楽を教えてもいいって言ったの! てゆうかそっちから頼み込んできたんじゃん」

 今までにない感情の籠った声に、思わず肩をびくっと震わせる。

 私の身体に力が入ったことが伝わったのか、ネオは感情を訂正するように、また冷淡な口調で続けた。

「お前の言っていた、教えることは自身の向上に繋がるってのは一理ある。だからこれは僕のためで、お前のためじゃない」

「……本当に、本当でしょうか」

 信じられないといった表情の私に、ネオは少し視線を逸らして淡々と言った。

「嫌なら別にいいけど」

「嫌だなんて滅相もない! もちろん光栄です。光栄なのですが……私はしがない平民です。私にはもったいなさすぎる処遇ですし、もしそんなことが他の人に知られたらあなた様の名に傷がついてしまいます」 

 住む世界が違いすぎる。その思いが先行する私は、自分から頼み込んだことも忘れてネオの申し出を断った。だが彼は何か思うところがあるのか、しばらく私をじっと見つめたあと、意地悪そうに片方の口角を上げて告げた。

「じゃあこうしよう。これは命令だ。お前は僕に音楽を教えられろ」

 命令って、普通はお前は左遷だ! とか、対価に金銭を払え! とかの、受けた側に負があるものなのでは? もしかしたら条件があるのかもしれない。そう思った私は恐る恐る尋ねてみた。

「それって、高額な金銭が必要だったりしますか? 先ほども申した通り、私には王家が満足するほどの対価を用意することができなくてですね……」

 するとネオは意表を突かれたように目を見開いたあと、呆れと少しの自責が混じったため息をついた。

「物理的な対価などいらない。言っただろ、教えることが僕の成長に繋がるって。だからもしお前の存在が足手まといだと感じたら、そのときはもう音楽を教えることはない」

 何か裏がありそうな予感はしたが、平民の私が王子の命に背けるわけがない。私は意を決して改めてネオに向かって丁寧にお辞儀をした。

「かしこまりました、ネオ王子。これからよろしくお願いいたします」

 貴族への立ち居振る舞いやマナーはほとんど知らなかったが、最低限の礼はしようと着ていた小花柄のスカートの裾を摘み、バランスを取るために足を軽く開き、腰を一〇〇度以上に曲げ頭を下げた。

 その姿を見たネオはふっと口から息を漏らし、小さく笑った。

「なんだその礼は……初めて……見た。そんな礼をする奴今どき世界中探してもお前くらいだぞ……」

 自分なりに敬意を表したつもりだったのだが、笑いを堪えるように途切れ途切れに話すネオに、私は顔が見えないことをいいことに唇を尖らせ拗ねた子どものような表情をした。

 しばらくクツクツと笑っていたネオだったが、少し可哀想に思えてきたのか顔を上げるよう促した。

「そんな硬くならなくていい。僕は最初の態度のほうが好きだ。ちょうど周囲の恭しい態度に辟易としていたところなんだ」

 王子なのだから周囲が敬うのは当然なのでは……と思ったが、初めて見たネオの穏やかな顔に心が奪われ、私は次の言葉を紡ぐことができなかった。

 じっと見られていることに気が付いたのか、ネオはスッと顔の熱を下げ冷静な声で続けた。だがそこにはもう警戒の色はなかった。

「僕は毎日夕刻四時くらいからここで練習をしているから、好きなときに来ればいい。ただし、条件がある」

 やはり条件があったのかと私は身を固くした。

「じょ、条件とはいったいなんでしょう……」

「他の者にこのことを話さないことだ。そもそも僕はここで練習していることを誰にも話していない。もしあいつ……ああいや、誰かに知られたら嫌なんでね」

「お父さんにも話してはいけないですか?」

「ああ、家族にもだ。噂というものは一瞬で広まってしまう。もちろん真偽は別としてね」

 そう呟くネオの瞳には、どこか遠く哀しい色が滲んでいた。

 お父さんに隠し事をするということに少し躊躇いを感じたが、それ以上にネオに音楽を教えてもらいたかった私は、大きく頷いて返事をした。

「わかったわ。これは二人の秘密ってことね」

「まぁ……そういうことだ。言っておくが、教えるとなったら僕はお前に手加減しないからな」

「もちろんデスワ! 私もネオ・ヴィスコンティ第二王子の役……オ役に立てるよう、精一杯努めてみせマスワ!!」

 敬語にあまり慣れていない私は、ですわ令嬢のカタコト版のようになってしまった。

 その喋り方にネオは再び口角が上がりそうになるのを抑え、あくまで事務的な口調で告げた。

「内容が頭に入ってこないからその喋り方もやめろ。それに僕のことはネオでいい。長いだろ」

 その言葉に私は仰天して思わず大きな声を出してしまった。

「私に呼び捨てにしろって言うのですか⁉ そんなの無理に決まっています‼」

 耳を塞ぎ不満そうな表情をしているネオをよそに、私はいや……でも……とぶつぶつと自問自答を繰り返した。そうしてある一つの答えを導き出した。

「では、ネオ様って呼びますね! 堅苦しい言葉は知らないので無理に使うのはやめますが、敬語は……許してください」

「まぁそれでいいか」

 納得という表情ではなかったが、ネオは私の提案を受け入れてくれた。そのことにほっとした私は、先ほどから気になっていたもう一つの提案をしてみることにした。

「それと、私のことはお前じゃなくてエレナって呼んでください。ちゃんと名前があるので!」

 貴族のように国中に誇れる苗字を持っているわけではないが、私は両親がつけてくれた自分の名前が好きだし誇りに思っている。先に呼び方を要求したのはネオなのだから、私にだって名前で呼んでほしいと望んでもいいだろう。

 人差し指を立てグイっと顔を寄せた私にネオは一瞬頬を染め逡巡したあと、諦めのため息をついて視線を逸らした。そのまま小さく息を吸うと、「エレナ……?」と風の音にかき消されてしまいそうなほどの声で呟いた。

 だが、私の耳にははっきり届いた。

 私は満足そうに頷くと、一歩距離を取って改めてネオの全身を下から上まで見つめた。

 ストレートだが柔らかそうな金色の髪、宝石のような翡翠色の瞳、輝くような肌に整った目鼻立ち。そのどれをとっても完璧で美しかった。

 じろじろ見すぎてしまったのかネオは少し怪訝そうな顔をしたあと、ふと空を見上げた。真っ青だった空に灰色の厚い雲がかかり、周囲が薄暗くなっている。

「雨雲が発達している。最近は雨ばかりだな。ここに小屋はないから、今日はもう帰れ」

 ネオと同じように空を見上げた私は、上空を飛び交う黒い影を見て突拍子もなく大声を出した。

「そうだ!!! 私、迷子だったんだ!!!!!」

「……………はぁ⁉」

 あまりの大声にホオジロが一斉に散っていった。

 私のいきなりの告白に、ネオは自身でも驚くほど間抜けな声で聞き返した。

 私は慌ててここにたどり着くまでの経緯を説明した。

「それでね、今日はお父さんの誕生日なの。だから花を摘んだら早く帰ろうと思ってたのに……。あ、雨が降ったらせっかくのベーグルが濡れてしまうわ!」

 涙目になりながらワタワタとする私を見て、ネオは最初は呆れていたものの、次第に考え込むようにうーんと唸り始めた。そして何かを閃いたかのように片眉を上げると、まっすぐこちらを見つめてきた。

「馬車とか使いを呼ぶのは簡単だけど、僕はここにいることをあまり知られたくない。だから、エレナがわかる道まで僕が送っていく。この辺りは僕も散策するからよく知っているしね」

「えっ本当⁉ すごく助かるわ! でもいいのかしら……」

 王太子に送ってもらうなど気が引けたが、他に手段も思いつかず、結局私はネオに開けた道まで送ってもらうことにした。

 そうと決まった途端、ヴァイオリンをケースにしまって、スタスタと歩き出したネオを慌てて追いかける。最初は慣れない道についていくのが精いっぱいだったが、ほんの数分もすれば景色を見る余裕くらいは生まれていた。

 だが、周囲を見渡していると、その道は私が来た道とは違う景色のように思えた。不思議に思い、無言のまま前を歩き続けるネオの背中に向って声をかける。

「ねえ、この道、私が来た道とは違うようなんだけど、本当にこの道で大丈夫なの……? まさか、ネオ様も迷子なんじゃ‥…」

 一度浮かんでしまったあらぬ予感が、止める間もなく口から出る。そんな私の様子にネオは呆れた表情でため息をつきながら顔だけをこちらに向けた。

「お前と一緒にするな。僕が迷子になるわけないだろ」

「で、でも……。こんな川、ここに来るときには見なかったから……」

 そう、私の真横にはサラサラと清い水が流れていた。大きな川ではなく、水深もそれほどないように見えるが、水中に小魚が泳いでいるのが見えるほどその水は透き通っていた。川のせせらぎは心地いいが、無事に帰れるのかという不安は拭いきれない。

 するとネオは、小石の敷き詰められた川瀬を歩きながら、森の中で迷わないための方法を教えてくれた。

 ネオ曰く、花や枝葉は季節によって姿を変えてしまうし、集団で行動する小動物や鳥の巣は周囲に同じようなものがたくさんあるため見間違いやすいらしい。最も道しるべとして有効なのは、多少周り道にはなるが、不変的である沢の畔なのだそうだ。

 だが、最初に教えてくれなければそんなことわかるはずもない。そう思い私が頬をふくらませていると、ネオは少しばかりばつが悪そうな顔をした。

「……だって、そんなこと言ったら、また来てくれって言っているようなものじゃないか」

 だがその呟きは、上空で高らかに羽を動かした鷺の鳴き声によってかき消され、私の耳に届くことはなかった。


次は2章です

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ