2.一夜限りの休戦協定
一瞬の間を置いて端正な顔にばつが悪そうな表情が広がる。
張り詰めた空気が、耳に痛い。
霧雨のかすかな音さえひどく耳障りだ。
「手を怪我しているのですか」
白い肢体がところどころ赤いのは、炎の照り返しだけではないようだ。
部下たちの血か…。
彫刻を思わせるほっそりとした手にも飛び散り、白磁の肌に妖しく映えている。
「まあ、油断しちゃったわけよ」
「それはそれは。貴女に一太刀浴びせるとは、受勲ものです」
ナハールは、全身の血が一気に冷えるのを感じた。
それほど、私が死ぬのが嬉しいのだろうか。
憤然とした怒りではなく、何故か悲しみがこみ上げてくる。
「残念だけど。返り討ちしちゃったから、無理ね。たかが、傷をつけたぐらいで受勲なんて、価値が低すぎるわよ。だって、そうでしょ。たかが、《魔と交じる穢れ者》に、人たち浴びせただけで、受勲するなんてねえ」
剣の切っ先のように鋭い笑みだ。そして発せられた言葉も、容赦なく決断を迫るものだった。
「で、どうするの?坊ちゃま。やりあうのなら、外でしちゃいましょ。せっかくの雨宿りの小屋を吹き飛ばすのは嫌でしょう?」
「さあ、どうしましょうか。」
「はいはい。坊ちゃまは、ご機嫌斜めチューでちゅね」
「ナハールの顔を見れば、一気に地獄に来た気分ですよ。見ているだけで、気分が悪くなります」
「あら。いいじゃない。私といるだけで、地獄に来た気分なんて。お得よぉ。死ぬ前から、予定地にいけるんですからね」
「娼婦風情が、知った口を利いて。身の程を知りなさい」
冷たい視線が、痛い。
「ここで、殺しあっても……互いに無事にすまないでしょうし、休戦ということで。明日の朝日が昇るまで、矛を納めましょう」
「一夜限りの休戦協定を結ぼうってわけね」
「そういうことです。今、私を殺したら、どうなるか………」
たっぷり時間をとってから、ゆっくりとした芝居がかった仕草で、ナハールを見据えた。
―……なんだかんだ言って兄上様にそっくりよ。坊ちゃま。
嘲るように内心呟く。
茶化してでも誤魔化さないと、無理やり眠らせた憎悪が浮上してきそうだ。
気品ある、その仕草。懐かしさと悔恨、そして猛り狂う憎悪を呼び覚ますものだった。
目の前の男より淡い金髪。流氷漂う滄海の如き、群青の瞳。なにより、人の感情を伺わせない冷えた眼差しが―。
「どうなるか。粗末な頭を持つ貴女だってわかるでしょう」
「坊ちゃま、ここでは賢い貴女ならというべきよ。交渉の最後で、貶したら逆効果ですわん」
「その気持ち悪い言い方止めなさい。虫唾が走ります」
なお結構。おぞましい男の弟に、馴れ馴れしくされたら、こちらこそ虫唾が走りそうだ。
でも、似ていないわね。
実際あったのは、二回ほどか。
好々爺とした外見とは相反し、強烈な存在感を放つ男と目の前の男を見比べる。
あまり、似ていない。
凛とした容姿だけでなく、中身が。
むしろ、彼の兄のほうが、父親に似ていた。
考え方も、容姿も。
オスカル・エルード・レイ・ムルティフ。
誰もが恐れた。彼の父―ルンドクヴィスト大司教を。
不世出の政治家。
それは同時代の人間からしてみれば、もっとも敵に回したくない人間の一人でもある。
国家は一つの怪物である。
後の世、ある政治哲学者は、その論文を書いたとき、必ずその筆頭政治家に彼を上げた。
「完璧にして理想的な政治家」として。
大陸中の利権が絡み合い、ひしめき合う―聖地。
ここ数年、聖地はかつてないほど荒れ狂っていた。
相次ぐ教皇の早死に、そしてそのたびに吹き荒れる狂騒劇。
聖地の矛であり盾である神聖帝国内部の不穏な動き。周辺諸国の分裂。
空中分解寸前のかの地をまとめているのは、聖女でも、俗世を離れた聖職者でもない。
神聖帝国七大君の七位―マンダール家から、ムルティフ家に入り婿になったオスカル・エルード・レイ・ムルティフ。
魔人達の家族を、仲間を殺してきた聖職者。
おそらくナハールの家族を、恋人を、殺したうちの一人。
エウリディオの父。ルンドクヴィスト大司教の印象とは程遠い、繊細な印象を受けた。
忌々しい邂逅から、憎しみあい、殺しあう―聖地とベルラデ山。
その構造は、今も変わらない。
未来永劫、変わらないだろう。
聖地とベルラデ山のように、己とエウリディオの関係も、変わらない。
変わりようがないのだ。
だから、会うたびの切なくなるのは、その未来が辛いだけ。ただ、それだけー。
なのに、どうしてこれほど胸が疼くのか。
かきむしられるような痛みを覚えるのか。
―気のせいだわ‥‥‥。
「ひどいわっ。坊ちゃまの気に入るように、聖地の話し方をしているだけなのに」
「そのような馬鹿みたいな言い方はしません。もっと、上品です」
心底呆れた顔でいうと、防寒服の釦をはずし始めた。なれないものから見れば、難解な脱ぎ方も慣れているものからすれば、なんでもないのだろう。白金金剛石で造られた槍を、分厚い防寒具の上に置いた。山羊の長靴を脱ぐと、飛行服と一緒に暖炉の前にきちんと並べて乾かしていく。
次の行動に、ナハールはギョッとした。
汗と雨でべたついたシャツを脱ぎ、上半身裸になったのだ。
「ちょっと、全裸になるつもり」
あわてた様子のナハールに意地悪く笑うと、ワザとらしく腕を組んで見せた。
会うたび翻弄されてきた分、狼狽する彼女を見るのは爽快だった。
「おや、私の裸は価値はないと?それに、下穿きはちゃんと穿いているでしょう。細かいことを言わずに、ベルラデ山で自慢するなり、金を取ればいいでしょう」
「あのねえ。私は、守銭奴じゃないのよ。坊ちゃまみたいな、露出趣味でもないしぃ」
「言っていなさい。私が風邪を引いて、貴女にうつってもよいというなら、あの姿のままいてあげましょう」
言うなり、まるで小屋の主人の如き堂々とした態度で、暖炉の前に居座ってしまった。
「ちょっとお」
抗議の声を上げれば、ずぶ濡れの下着を乾かさないといけませんと、しれっとした様子でのたまい。
そういわれた以上、退けるわけにはいかない。しぶしぶ彼の隣りで当たる破目になった。
我知らず、逞しい彼の背中に釘付けだった。
細身でありながら、引き締まった腕。ありがちな無駄に筋肉がついた身体でもない。固く筋肉の張り詰めたエウリディオの裸身。
坊ちゃま連中のような白アスパラの体ではない、鍛えられた裸体だった。
「寒いわね」
誰に言うのでもなく、独りごちナハールは膝を抱えた。
しばらくナハールも、エウリディオも言葉を発しなかった。
(気持ち悪い)
銀の髪の毛が体に張りついて、離れない。
髪質が良いと羨ましがられるが、この場合はうっとおしい事この上ない。
くくったのは良いが、背中に濡れた手巾を背負っているようなもの。
紐をといた勢いで、水を吸って重くなった髪の毛が、広がった。
舐めるような男の視線を感じたのは。
隣が眩しい。
雲の上にある月が地上にあるようだ。
ひそかに盗み見る彼女は、いつもの飾り気のない服装だった。もっとも、戦装束で飾りも何もないのだが。
雪色の髪を、いい加減に結んでいた紐をといた。
流れる清らなる光の奔流に、エウリディオはしばし呆然と思考をとめていた。
「坊ちゃま?」
甘い思いは、知らない。
父を思うとき。母を思うとき。妻である女を思うときも。
恋人だった女たちといるときも、こんな気持ちになったことはなかった。
「なーに、見てるのさ」
「別に、何も見ていませんよ」
断じて、見惚れてなんかいない。
断じてだ。
「貴女こそ、人の背中とか見て、いやらしいですよ」
「ベルラデ山で自慢するために見ているんだよ」
「男の裸なんて、見慣れているでしょうし」
「まあね。それは坊ちゃまもでしょ。神聖帝国では、露出が高いんでしょ?女どころか、男も娼婦並みに、露出が多いって聞くけど?」
「なんですか。それは。貴女こそ、裸に近い格好をして、恥ずかしいとは思わないんですか?呪装かわかりませんが、薄手の革鎧とか」
「なっ!」
見当はずれなエウリディオの非難に、ナハールは目を剥いた。
言いがかりも甚だしい!
「何ですって!言っておきますけどね。好きであんな格好をしているわけじゃないのよ!?そもそもあんたの父親の大司教が、いちゃもんつけて、こっちを攻めてくるから、あんな薄手の鎧をつけて、戦う羽目になるんじゃない。」
「誰がいちゃもんつけだと!ならず者みたいな言い方をして、ただで済むと思っているのですか!」
「いちゃもんじゃないの!どうして私たちが教皇を殺すのよ!自分たちが後ろめたいから、ありもしないことを言い出して攻め込んでくるんでしょっ」
違う。
憎悪を含んだ視線に、胸が苦しくなる。それは失望だった。
「なら、どうして。十四年の間に六人も変わることになるんだっ。お前達が、何か仕掛けたとしか考えられないだろう!」
「そんなの、知るわけないでしょっ。人のせいにしないでよね。本当、気位だけは高い連中って嫌ね。気位だけ高くて、中身がカスなんだから。連続変死だって、案外、身内じゃないの?そういうのは身内が犯人なのが、常識ってものよ」
やっぱり、この男も狂信者の一味だ。
穢れ者。忌まわしい。異端。神の名において。
神のせいにしないと人殺しができない、臆病者達。
「聖地で誰かが、殺しているでしょ。犯人の目星ぐらいついているんじゃないの?もしかしたら、あんたのパパとか?」
「貴様っ、愚弄するにも程があることを知れっ」
「あーん。知らないんだ。っていうか、知らされていないんじゃないの。あんただけ、帝国育ちだものね。もしかしてえ、見棄てられちゃった?」
入り婿ながら、聖地を取り仕切る父。
長男である兄は手元に置かれ、次男である彼は神聖帝国へ。
何故、自分だけという疑問。
次期マンダール公になるためというが、聞かされた理由だった。
兄はルンドクヴィスト大司教、自分はマンダール公。抜け目のない父が、考えるだろう未来図。
しかし、どうしようもない疑問がだんだんと膨れて。
今にもはじけそうなほど、膨らんで。
どうして、自分だけ。
何故?どうして。自分だけ、神聖帝国で育てられたのだろう。
父も母も兄でさえ会いに来ない。己を、聖地に呼ばない。
兄はそう大司教にならなければならないから。
妹は、聖女に選ばれなければならないから。
聖地で育ち、人脈を開いていかなければならない。
己もそうだ。
マンダール公になるには、神聖帝国で育ったほうが有利だ。
そうなのだ。
父たちに他意はない。
「黙れ!」
一瞬にして色を失ったエウリディオは、思ってもいなかった反論を受けた屈辱に燃え上がると、彼女に詰め寄った。
「貴様に、何が分るというんです!?物心つくかつかないうちに、帝国へ行かされて、兄が殺されたら、連れ戻されて!貴様に、何が。いくら、父上でも―」
息子を、ほいほいと駒のように…配置変えしても……良い訳が………ない。
そこで、飛び出しそうになる言葉を押しとどめたのは、矜持だった。
あの父に、そのような親子の情が通じるわけがない。
言ったところで、気が狂ったかと思われるだけだ。
無関心な上に、愚かな息子だと認識されるのは、辛い。
ただ、兄が死んだだけというだけで聖地に呼ばれた。兄が死ななければ、思い出しもしなかっただろう。
繰上げ嫡子。
「貴方たちが兄を殺してくれたおかげで、私の人生は無茶苦茶ですよ」
(《魔と交じる穢れ者》。さまさまですな。)
(あるいは、兄上の死を見越して入団していたのでは)
(おお。おそろしや。母上似の美貌によらず、狡猾な方よ)
「殺したのは、私じゃないわよ」
投げやりに言い捨てたナハールは、彼の苦悩を読み取ったように睫毛を伏せた。
目を伏せ、微かに俯いたその顔立ち。
その様子に、思わず息をつめる。
帝国の舞踏会で、聖地の教唆会で、風に舞う花のように通り過ぎ云ったどの女よりも清純だった。
だが、エウリディオは確かに嗅ぎ取った。
清純な美貌から確かに匂いたつ、女の―牡を煽る牝の匂い。
そのとき、何かが狂ったのかもしれない。
傷口を抉られた痛みと怒りと。女への欲情と。
流れるような仕草でのびて来た手が白い頤をがっしりと掴み、強引に上を向いた。
「エウリディオ?」
抵抗を許さない、意思を捻じ伏せる力で甘く赤い華を啄ばんでいた。
「…は……ち……ちょっと!」
からかいにしては、その口付けは永く。
触れる程度だった口付けは、激しく青くなった唇を貪るものになり。
言い訳のように内心繰り返し言っていた。
苛立ちも切なさも、すべて年下の女に茶化され翻弄されている故だと。
自分の中にある興奮をいつに無くふざけたゆえの照れ隠しだと。
「冷たいです」
「いきなり、何をするっ!」
「違います。唇がですよ」
何かがずれている。
触れた唇の感想をのんびりと呟く彼に、ハナールは余裕をなくしていた。
翡翠の瞳でかすかに燃える男の欲望を見てみぬふりをしていたのが、悪かったのか。
《魔と交じる穢れ者》に欲情しまいと、高をくくっていたのが悪かったのか。
駄目だ。
自分に覆いかぶさる男の身体に、ナハールは内心焦っていた。
嫌悪でもなく、一瞬で全身を駆け巡った歓びに。
抱きしめられて、嫌ではないなんて。
そんな、馬鹿な。
「……エ…ウリディオ…」
抱きしめられたナハールの耳の辺り。ちょうど、エウリディオの心臓の辺りだ。
彼の高ぶりを表すように音も、早く。そして、暖かくて。
そうだ。
入ってきたときから、様子が何時もと違っていた。エウリディオがいつも向けてくる眼差しとは違う。
山の男たちが投げてくる欲望の欠片が、翡翠の瞳から見えることに。
うすうすながら、気づかざる得なくて。
(お前がほしい)
愛の言葉を囁かれているようで、落ち着かなかった。
愚かなと、声に出さずに己を冷笑する。
言葉は恋焦がれる者の言葉だが、彼の瞳が言っているのはそれとは正反対のだ。
一瞬でも、劣情と、恋情を履き違えるとは。
でも、エウリディオ。私は、貴方が嫌いではないのよ。
「ナハール」
「本当、いつもいつも唐突なんだから」
胸に当たる銀の輝きからの囁きは、奇妙に穏やかで。
ともすれば、恋人への睦言のようで。
―――嫌がっていない。
奇妙な確信が胸中に湧き上がると、凶暴じみた興奮が湧き上がり、彼の身体の中で熱となって暴れ始めた。
エウリディオの獣性を刺激するのは十分だった。
首にかかる女の息が熱い。
次がどうなるのか。
ただ抗うことなく、静かに当然のごとく腕を回されていく。
―…何をしている……
胸に腰に女の熱い肢体があたる。
違う。
自分が、己の身体が熱いのだ。
「いつまで?」
「暁鶏が啼くまで。それまで、それまでは……」
言葉にしなくても分る。
これは、一夜限りの休戦。