1.それ以上近づくな
1.それ以上近づくな
一騎が冥色に沈む原生林を、翔けていく。
黒い戦闘用天馬が駆けるのは、畏れられる森。
迷いの森。惑いの森。
誰もが口を揃えて言う森は、入ったら二度と出てこれない。迷って惑い、日没を日の出と間違え、暗闇に囚われる。そのまま、闇に囚われて出てこない。
人の手がほとんど入っていない原生林は、人の侵入を拒むように立っていた。
何もかもが深緑色の闇に溶け込み、物と物との境目が曖昧に混ざり合う。
槍のように鋭い杉がまるで、闇から生えているような錯覚を起こさせる。
脱出できるのか。
愚にも付かない思いがよぎる。
騎士は、長々と息を吐き出すと、馬首を軽く叩いた。
黒い愛馬は騎手の命令を受け、ゆっくりと降下していく。
羽がしなる音が、闇と一体化した森に吸い込まれていく。
戦闘用天馬からすれば、なんとも飛びにくい森だろう。
着地に備え、身をかがめる。
衝撃に揺られながら、騎手は頭部を覆う面を緩めていった。
若い男だ。
面を取り、新鮮な空気を肺一杯に吸い込む。
密度の濃い酸素が隅々まで行き渡り、戦闘に疲労した身体を生き返らすようだった。
降り注ぐ陽光を糸にして流した髪は、肩まで伸び、白く滑らかな肌縁取る。純度の高い翡翠が、闇夜に煌いた。
その時、颯爽に駆けていく黒い愛馬が、首を振った。
「エリージュ、どうしました」
虫でもまとわり付いているのかと、紐を引き締めようとも、黒い愛馬の訴えかけるような動きは止まらない。
騎手の命令もそこそこに、翼と前脚でしきり動かして何かを訴えている。
馬がしきりに気にする方角へ動いてやると、それも止み、嬉しそうに嘶いた。
「友軍がいるんですか?こんな処に?」
訝しげに柳眉を顰めながら、男は愛馬の任せるままにした。
何度も激戦を潜り抜け、豪胆と知られる愛馬を男は誰よりも信頼していたから。
ベルラデ山。
古代語で、《天を裂く剣》を冠する山は、大陸南西部にその威容を誇っていた。
クローチェ聖地をも飲み込むその大きさは、人が言葉を覚える前からあったという。
魔神を封じ込めたとも、伝えられるベルラデ山。
凍て付く大気に白く凍った鋭鋒には、大亀裂があった。
まるで山の地中深くから、何かを取り出さんとばかりに引き裂かれた山肌。
その深さは測り難く、それこそ冒険者や王や神官といった権力者から命令を受けた者達が降りたが、誰一人として生きて帰ってきたものは居なかった。
その不気味さ、底知れなさか。
誰が云うまでも無く、地獄に貫穿していると信じられている。
しかし、抗いがたい媚香を放つ毒花のように、その後も人はその禁地に足を踏み入れることを止めなかった。
囚人や死刑囚が、送り込まれる流刑地となり。
神がおわす地として、求道者の集う地となり。
さまざまな謂れを持つ山には、人に百面を見せた。
あるときは、幻想的に。
あるときは、神の怒りを具現し。
あるときは、地獄の様を見せ付けた。
信仰の対象として、地上の地獄として、神の教えを悟る修行の地として、
聖地とも穢れた地と、両極端にゆれるベルラデ山を、永久に一つの位置に決定付けた者達が居た。
流離う二人の魔術師。
第一元素:地
第二元素:水
第三元素:火
第四元素:風
そして、不可視の元素の中でも、使役者を厳選する――-第五元素マナ。
大亀裂から、その第五元素マナが、吐き出されていることに気付いた青の魔術師バームダードと、
紅雷の魔術師ファルズィーンはここを終の住処と決め都を築いた。
そして、その都で育てられ、第五元素マナを使う術を―魔術を修めた者こそ、魔術師よと宣言した。
それ以外は、道を間違えた者と取り決めた。
魔術師とは何かを明瞭にすることで、確固たる地位を築こうとしたのだ。
青の魔術師バームダードと、紅雷の魔術師ファルズィーンが彷徨った時代。
始まりの黄昏と、後に呼ばれたその時代。
魔術師とは、流れの詐欺師のことであり、まやかしの術で金品を巻き上げるならず者であり、手品師をさしていた。
第五元素マナを効率的に使うものなど、数えるほど。
その数えるほどの魔術師である二人は、確実に魔術師にとっての理想とも言える都と組織を作り、力を示して言った。
川の流れを変え、旱には雨を降らし、嵐をそよ風に。
呼びかけるを行うまでも無く、魔術師が魔術師の卵達が、必ずベルラデ山を目指すようになった時。
青の魔術師バームダードと紅雷の魔術師ファルズィーンの切願は成就した。
山師をも魔術師としていた時流はこのとき、一つに束ねられた。
古代神話にある繁栄を具現化するように、山は月が空を支配する刻も、光り輝いた。
聖女アンヘリカを中心としたクローチェ教徒達と、歴史的な邂逅をする――その時まで。
その繁栄は続いた。
―誰?
ふっと、顔を上げた。
暫く耳を澄ますも、雨音ぎったと雨雫ぎったが滴り落ちる音以外、聞こえない。
(疲れているんだわ)
炎に照り返されたその顔(かんばせ)には、疲労の色が濃い。
張り付つく髪の気持ち悪さに、女は形の良い眉を思い切りひそめた。
ベラルデ山を思い起こさせると冷たく冷ややかな銀髪を、邪魔とばかりに括った。
サーディが見たら、どういうかしらね。
(魔人であろうと、戦場であろうと、女は槍の雨が降ろうともお洒落をしなければならないのです!)
美容と口うるさい部下を思い浮かべ、女は笑みをこぼした。
一転、物憂げに息を漏らした。
部下達は大丈夫だろうか。
他の魔人達も。
―……………いつにない、激戦だった。
クローチェ聖地に力を貸していた同盟国は、いつに無く多く。
おまけに、クローチェ聖地からの要請で神聖騎士団も参戦していた。
勇猛果敢とベルラデ山でも手放しで賞賛される連中である。
戦闘用天馬を使役する第三神聖騎士団の姿も確認され、圧倒的に不利だった。
【悪夢の白】エルノ・エルスが、機転を利かせ、敵陣営付近に嵐を発生させなければ、戦線はどこまで後退していたことか。
備え付けの薪を、暖炉の中に放り投げ、女は上着を脱ぐと地面に腰を下ろした。
女は傷を負っていた。
白い腕や脚といい、身体中に裂傷や切り傷で痛々しかった。
転移に失敗して、僻地ぎったともいえる場所に落ちるとは。
立て続けにおきる戦闘に駆り出されたせいなのか。疲労が抜けきらない。
転がる樽に背中を預け、素朴な暖炉で踊る火を見つめていたその時だった。
耳がはっきりと、人の足音を聴きつけたのは。
弛緩していた身体に力が漲る。
警戒心と、微かな恐怖が女の胸を過ぎった。
結界を張る余裕も無く、簡単な仕掛けしか出来なかった。
迷いの森と呼ばれ、開発もままならない原生林に、誰が入り込むのか。
この小屋を作った地元の民だろうか。
しとしと優しく幹を葉を叩く雨に混じって聞こえてくるのは、人の足音と。
蹄鉄が草を踏み分ける音。
(馬?馬の嘶きかしら)
農作用の野馬の蹄鉄にしては、綺麗な音だとぼんやりと考えた瞬間。
足音が止まった。
小屋までは、まだ遠い位置だ。
馬を止めておくとしても、そんなに遠くに括らなくても、小屋の隣には馬屋がちゃんとあるのだ。
ひやりと背筋が凍る。
(旅人にしては、気配がない!誰だ―?)
雨音ぎったさえ遠ざかったような静寂が降りる。
産毛がチリチリする。
「《我に真なる世界を視せよ》」
紫水晶の瞳が、見えない光に煌く。
魔術師だけが見える世界。
そこは視認できない元素だけで、出来ているように見ることが出来た。
土は木と水の元素で、川水は水と土が微妙に入り混じっている。
明瞭な線をなくし、溶け合い混じりあう世界において、光の網が小屋の中で広がっていく様子が見えた。
聖地聖法《捕縛》
―聖法!?
それにしては、やり方が荒っぽい。問答無用とは、きちんと躾られた兵士とは思えない。正規軍ではないかもしれない。
「無作法ね!《流れるように踊れ!地の精霊》」
隆起した土くれが鞭のようにしなり、小屋の扉を破壊した。
木っ端微塵になる扉の破片の向こう。
そこに立つ、逞しくすらりとして見栄えのよい体躯の美しい男の姿に、女は絶句した。
「――どうして!?」
女の驚愕は、そのまま男の驚愕だった。
火の照り返しを受け輝くのは、どこまでも透き通った美しい銀髪だった。
珍しくも無い銀髪だが、彼が知る限り美しいと打算無く讃えられるのは彼女だけだった。
その髪の毛が飾るのは、白い顔と二つの紫の宝玉。
「どうして、ここに居るのです」
エリージュが案内したのは、猟師小屋だった。
漏れる明かりに、猟師がいるのかと近づいたとき、感じたことのある気配に足が自然と止まった。
戦場で、数えるのがばかばかしいほど合間見えた宿敵の気配を間違えるはずも無い。
まさか。そんな馬鹿なと思い、詰問することなく聖法を放ったが易々とかわされた。
ありえない。
ありえない。
どうして、ここに居る。
「……ナハール」
「あら、お坊ちゃま」
―…また、痩せたのか。
会うごとに、痩せていくようだ。
戦闘中に、調停中に。
悪戯っぽく微笑む唇に自然と吸い寄せられる。
朝露に濡れた紅薔薇のような艶やかな唇だと思った。
「下賎の女だからって、だんまりはあんまりじゃないのさ?」
見とれていたことに気付き、エウリディオは半歩下がりかけ、憎悪がこみ上げてきた。
腹立たしい。
目の前の下賎な女に、怯えるかのような自分の行動に。
己の不可思議な情動を、幾度と無く煮え湯を飲まされたゆえの怯えと受け取り、エウリディオは舌打ちをした。
この信仰の欠片もない堕落した女に。
まるでちょっと喧嘩した友に対する様な馴れ馴れしい態度に、エウリディオは押し黙った。
内心、荒れ狂う熱を鎮めるために。
冷静に相手にしないと、すぐに足元をすくわれる女なのだ。
以前も、そのままやり込められ、命令違反を犯し、降格されたのだ。
会うたびに、なんらかの被害を受けてきたわが身としては、警戒して当然なのだ。
「うーん。もしかして、頭を打って、脳みそ落としてきたわけ?頭が良くなるお呪いでもしてあげましょうか」
「なっ!《魔と交じる穢れ者》《ペカド》が!」
不愉快を通り越して、憎悪に到達した凍えた声が、女の精美な顔を撫でた。
彼女は、一向に気にした様子も無く、馴れ馴れしい様子で朗らかに微笑んだ。
暖炉で暖をとっていた様子からも、彼女も濡れたのだろう。
白い絹糸のような髪が、べったりと身体に張り付いている。
要所要所ミスリル銀であしらった革鎧を着込んでいても分る、その柔らかい肢体。
紅珊瑚のような赤い唇。分っているのだろうか、その白い項は、思わず口づけしたく―
(い、ま、何を!)
目を瞠り、口を手で覆う。
かつて無いほど、胸中を嵐が吹き荒れていた。
「エウリディオ殿下?まさか、吐きそうなの」
「馬鹿なことを。そんなに、軟弱なわけないでしょう」
亡羊とした面持ちの彼を見やり、ナハールは首を傾げた。
激昂したかと思うと、打って変わってぼんやりした面持ちになる。交渉するか思案しているのかと思うと、驚いたように目を瞠り、口を覆う。
繊細でいて、男らしさを損なわない目鼻立ち。金を溶かし織り込んだ髪。そして、大地の恵みと豊かさを顕す翡翠の瞳。
いつもは、覇気が感じられるのに、生気の波が激しく揺れている。
(身体の調子が悪いようね。まさか、傷を負っているとか……)
宿敵である自分の前で、弱っているところを見せまいと意地を張っているのでは。
(本当に、男ってっ!変なところで意地を張るんだから。エルドルトみたいに、厚かましくなるべきよ)
厚かましいを通り越して、暴虐無人を地で行く同僚を思い浮かべる。
敵を気遣うナハールだが、これには理由がある。
目の前の男は、大陸の中でも血統の良さを誇り、そして軍人としても有能だった。
その血ゆえに役職に胡坐をかくような愚かな坊ちゃま連中でもなく、油断すれば寝首をかかれるのは必至だ。
といって、見殺しすると、またベルラデ山が政治的にも軍事的にも不利になるだけだ。
仮に、ここで彼を殺し、ここに埋めたとしても。
彼ほどの地位と血統から考えると、それこそクローチェ聖地は文字通り草根を掻き分けてでも探し出すだろう。
アッティバがここに居なくて良かったわ。
魔人の纏め役である壮年の魔人を思い浮かべた。
クローチェ聖地の策略で、父を母を妻を娘夫婦を孫を。
かけがえの無い者達を根こそぎ奪われた彼にとって、彼は―。
聖地で―否。大陸でも名門の嫡子である彼は、絶好の復讐の対象だ。
魔人と呼ばれる、ベルラデ山の守護者たちを思い浮かべ、内心嘆息した。
体力、魔術力、剣術、どれが突出し、戦闘能力が傑出した者達。
他国でいう将軍職であるが、決定的に他と違う特性がある。
どの魔人は、個人戦闘能力が桁違いに常人とかけ離れている。それこそ、他国から人間兵器と揶揄されるほどに。
そして、どの魔人も聖地に対して、突出した並々ならぬ憎悪を抱えているのだ。
現在の魔人の中に、数名そういう者は少ないが。
(悲憤の黒:ジャスティスぐらいかしらね。まともに対応できそうなのは。でも、彼だと寝返られちゃう可能性が……)
それでも、戦場には出てきてほしくない。
自分だって、危険なのだから。
自分だって、聖地を滅ぼしたいと願う一人なのだから。
彼は知らないだろう。
私だって、聖地に家族を奪われた一人なのよ。
部下とかキヴィリトを奪われただけではない。
人生さえも、奪われたのよ。
あんな陰湿な極まりない策を考え出す男ではない。
かといって、正攻法で攻めてくるわけでもないから、やりにくい相手であることは変わりない。
そうだ。
根こそぎ奪うような、尊厳を踏みにじるような策謀を張り巡らしたのは――…。
知らないのだから、仕方ない。
本当に、そう思っているの?
湧き上がる昏い想いを振り切るように、わざとらしく明るく話しかける。
案の定、魔女だ下賎の女だと蔑む相手に話しかけられ、冷たい氷のような美貌が歪む。s
「調子が悪いなら、焚き火に当たる?」
「ここで、再戦ですか。自ら、間合いに敵を入れるとは、終に諦めが付きましたか」
「あら。私、しぶといのがとりえだし、坊ちゃまがそんな卑怯なことをする人だったなんてね。衝撃だわぁ」
敵意を無いことを示したつもりか。
一歩近づいたナハールに、エウリディオは威嚇を込めた鋭い一瞥を投げた。
やめろ。近づくな。お前を見ると、息が苦しくなるんだ。
会うたびに、見るたびに、声を聴くたびに、胸が苦しくなる。
それは、政敵にも感じる憎悪をでもなく。
だが、決して不愉快ではなかった。
それは、妻を娶り子を成し、騎士団長になった男自身、計り兼ねる己の気持ちだった。
(「貴方の―貴方の、魔女を語る様子はまるで―」)
それは、まるで。
一瞬、友に言われた言葉が脳裏を過ぎった。
一笑した友の言葉が真実だと?
馬鹿馬鹿しい。
ただ、本能が狂ったように警鐘を鳴らす。
彼女にこれ以上かかわるなと。
神聖帝国の公子といしての自分、騎士団長としての自分が壊されると。
壊されないとしても、彼女とかかわると調子が狂う。
じんわりと熱を持ち始めた身体に、戦慄する。
ここ暫く女を抱いていないからだ。
宿敵とはいえ、疲労し、儚げな姿をさらしているせいだ。
断じて、友の、あの言葉は、違う。断じて、違う。
土の湿った匂い。
埃の匂い。
雨に濡れる木の匂い
しとどにぬれた木の匂い。
それに混じって、確かに匂ってくる。
女の柔肌の匂い。
微かに混じる鉄錆の芳香と混じり、それは男の欲情を煽っていく。
「坊ちゃま、怪我をしているのかしら」
「それは貴女でしょう。それに、粗末な頭とはいえ……。いい加減、人の名前を覚えたらどうです?」
気のせいにしては、芳しい。甘い匂い。
媚香なのか。
いや、この魔女がその手管を使うような者ではないことを自分は十分に知っている。
この距離がありがたい。
この距離が恨めしい。
「それ以上近づくな」
鋭い拒絶の言葉。
いったん外に出た言葉の凶器は、容赦なく女を切り裂く。
それは、吐き出した意味以上に鋭い刃となって、エウリディオの胸を切り裂いた。
「あら、ひどい」
濡れた唇が微かに動き、戯[おど]けて笑う。
ふざけた言葉のその力なさに。
瞳を過ぎった哀しみに。
心を苛む後悔に。
わけの分らない苛立ちに。
エウリディオは強く―血が滲み出るほど、唇をかみ締めた。
「憎しみあう5つのお題」は、サイト「翠緑玉の誓文」で連載している、お題短編小説です。
多くの方に、読んでほしくて投稿しました。
全5話構成となっています。
次回の更新は、4/30(金)です。
感想・ご意見を、よろしくお願いたしします。