夜会にて
王宮で開催された王太子の誕生日パーティーは、いつもの夜会と比べても豪華だった。
純白の壁一面に施された金の装飾が、シャンデリアの光を反射して室内を更に明るく、豪奢に見せていた。
優美な音楽が奏でられ、ダンスフロアでは男女がダンスを楽しんでいる。
柔らかなピンクや黄色など、様々な色のドレスが踊りに合わせてふわりと舞っていた。
他にも、着飾った紳士淑女たちがシャンパングラス片手に談笑しており、銘々が夜会を楽しんでいた。
クロエがフレッドにエスコートされてこの華やかな会場に足を踏み入れた瞬間、人々の視線が一気に集まるのをクロエは感じた。
これは決して自意識過剰なわけではない。
その証拠に、クロエたちを見た人々のひそひそと囁き合う声がさざ波のように聞こえて来る。
一つはフレッドを称える声だ。
「フレッド様よ!」
「はぁ、いつ見てもカッコいいわぁ」
「一度お話してみたい!声を掛けられたい!思い切って声を掛けてみようかしら」
女性は蕩けるような表情をしてフレッドに熱い視線を向けている。
顔が赤くなっている女性もちらほら見えた。
今日のフレッドはいつも下ろしている前髪を上げているため、いつもよりも更に凛々しく見える。黒のタキシードは長身のフレッドの体つきをより精悍に見せ、いつも以上に素敵だ。
そしてもう一種類の声はクロエを揶揄する声だ。
「まぁ、またあのモグラと一緒だわ」
「可哀想に。フレッド様はまた無理にエスコートさせられてるのね」
「モグラ姫の分際で、フレッド様と一緒に夜会に来るなんて」
「そうよね。モグラは研究室に籠っていればいいのだわ」
モグラとはクロエの綽名だ。
研究室に籠って殆ど日の光の下に出てこないというのを揶揄しているらしい。
最初はその呼び名にショックを受けたが、今ではもう慣れっこだ。
むしろ言い得て妙だ。初めてつけた人のネーミングセンスを褒めたいくらいだ。
クロエはそんな悪意を含む言葉を聞えないふりをしていると、クロエの耳元でフレッドが囁いた。
「気にしなくていい。お前は誰よりも綺麗だ。俺の妖精だよ」
「ふふふ。妖精は言い過ぎです。それにもう慣れましたから、お兄様も気になさらないで」
慣れたが、やはり陰口を言われるのは傷つかないわけではない。だけど、ここで暗い顔をしてはフレッドに心配をかけるだけだ。クロエはそう思って気にしない素振りをして微笑んだ。
「……もう少し待っていてくれ。きっとお前を守るから」
フレッドはそう言ったが、その言葉の意味が分からずクロエが首を傾げていると、背後から声を掛けられた。
「よう、フレッド。ようやく来たな」
「ジョエルか。久しぶりだな」
にこやかにこちらへやってきたのは黒髪の青年だった。
身長は高く、すらりとした手足に、服の上からも引き締まった体つきであることが分かる。
切れ長の目には黒曜石の瞳で、唇の端に浮かべている微笑みを湛えていた。
フレッドが神話にある日の光を司る神だとすれば、ジョエルは夜を司る神のような美丈夫だった。
そのジョエルがクロエに目を止めて笑顔を向けた。
「お?もしやこちらのレディはクロエ・ランデット嬢かな?初めまして。俺はジョエル・ロートシル。会えて嬉しいよ」
「初めまして、クロエ・ランデットです。こちらこそお会いできて嬉しいですわ」
ジョエルは月光のように美しく煌めくような微笑みを浮かべたかと思うと、クロエの手を取って甲を自分の口元に運んだ。
甲に口づけられるなど経験がなかったクロエは驚いて息を呑んで硬直してしまったのだが、その唇が触れる直前、すっとフレッドの手がそれを阻止した。
「なんだよ。いいだろ、挨拶なんだから」
「駄目だ。というか見るな。減る」
「はぁ?お前どんだけ狭量なんだよ」
「さっさと行け」
「んなこと言うなよ」
このようにずばずばと話すフレッドは珍しい。クロエは驚きながら二人の掛け合いを聞いていると、その視線に気づいたフレッドが説明した。
「王立学園の同期なんだ」
「そうなのですね。なんだかお兄様とご学友の方がお話しているのが新鮮です」
「こいつさー、クロエちゃんに会わせて欲しいって言ってんのに絶対会わせてくれなかったからさ。今日クロエちゃんの顔が見れて嬉しいよ。フレッドが言ってた通り可愛いね」
「え?」
可愛いと言っていた気がするが聞き間違いだろう。
自慢ではないが、キャラメル色の髪は地味だし、目もぱっちりと大きいわけでもない。
瞳はくすんだ黄緑色で、はっきりとした顔立ちではないのだ。
可愛いとは程遠い容姿なのだ。
「こいつはいっつもクロエちゃんの話ばっかでさ。忙しいはずなのに、クロエちゃんとのお茶する日は、鬼のような形相で仕事を終わらせて帰るんだぜ。いやー、あれは愛の力だね」
「ジョエル、いい加減にしてくれ」
フレッドが強い語調でジョエルの言葉を遮った。
少し顔が赤いのは気のせいだろうか。
その時、クロエの視界の隅で赤いドレスが目に入り、一人の女性がこちらに向かってくるのが見えた。
「フレッド!」
「おっと、ロザリー・ナグノイアか。俺アイツ苦手だし、もう行くわ。じゃあね、クロエちゃん」
そう言ってジョエルと入れ替わりに入って来たのは一人の女性だった。
鮮やかな金の巻き毛の女性は、アメジスト色の瞳を煌めかせてフレッドを見ている。
大きな目はくっきりとしていて、意思が強そうに見えた。
凛とした佇まいは光の女神のようにも思えた。
「フレッド、来ていたのなら声を掛けてちょうだい」
「……ロザリー、すまない。ジョエルと話をしていた」
「そう。じゃあ、もうジョエルはいないのだし、もちろんダンスを踊ってくれるわよね」
無言でいるフレッドに対し、ロザリーは手を差し出す。
ファーストダンスは近しい人間、例えば恋人や婚約者と踊ることが多い。
つまりロザリーはフレッドにとって特別な存在だということになる。
フレッドがチラリとこちらを見てきたが、クロエに止める権利はない。
「私の事は気にしないで」
クロエの言葉にフレッドは戸惑いの表情を浮かべたが、ロザリーの美しい白磁のような手をゆっくり取ると、ダンスの輪へと入って行った。
二人のダンスは美しかった。
ターンをすればロザリーの緋色のドレスが花開くように揺れた。
二人は親密そうに顔を寄せ、お互い見つめ合って踊っている。
その様子は、美しく輝いていて、その場だけが違う世界のように見えた。
二人を見ていた参加者もほうとため息をついており、吐息と共に二人を賞賛する声が耳に入ってきた。
「やっぱり美男美女は絵になるわ」
「お二人って恋人らしいわ。私、二人がデートしているところを見た人わ。そろそろ婚約という話も出ているらしいわよ」
「そうそう。フレッド様はナグノイア侯爵邸に足しげく通ってらっしゃるとか」
「悔しいけどお似合いよね」
その会話を聞いて胸がざわりとした。
初めての感覚に落ち着かなくなる。何だろう。この胸に広がる痛みを伴った不快感は。
理由は分からないが、酷く落ち込んでしまう。
(なんだ、お兄様、恋人がいらっしゃったんじゃないの。言ってくれれば良かったのに)
これでも10年の付き合いだ。
幼馴染として恋人ができたことを報告してくれればよいものを、隠すなんて水臭い。だぶんそう思うから、胸がもやもやして気持ちが沈んでしまうのだろう。
何とも言えない気持ちを抱えながら、クロエが2人を見ていると、ダンスが終わったフレッド達はロザリーの父親であるナグノイア侯爵に会いに行ってしまった。
それを見たクロエはなんとなく視線が床へと向いてしまう。
するとその視界に影が落ちた。顔を上げると、3人の令嬢がクロエの前に立っていた。
「あらぁ、天才科学者様がこんなところでお一人ですの?どなたからも相手にされないでお可哀想ねぇ」
「この方、普通の女性ではないのですもの。殿方が相手にするわけないじゃない」
令嬢たちは笑っていたが、意地の悪い目でクロエを見つめた。
彼女達の言っている意味が分からず、クロエは眉をひそめて尋ねた。
「普通じゃないとは、どういう意味ですか?」
「分からないの?14歳の子供のくせに、全然子供らしくないし、気持ち悪いじゃない。何を考えているかわかったもんじゃなわ」
クロエの家族も、フレッドも、そんなことは一言も言ったことはなく、クロエを普通の女の子として扱ってくれている。だから時折忘れてしまう。
他人からすると、外見は子供なのに中身が大人のようで気持ちが悪いと思われていることを。
「フレッド様もどうしてこんな気味の悪い娘のエスコートするのかしら?」
「どうせこの娘が脅してエスコートさせたのではなくて?」
「私はそんなことしません。お兄様がエスコートしてくださると仰ったんです」
クロエの言葉に令嬢たちは馬鹿にしたように鼻で笑った。
「それは憐れんでいるだけよ。フレッド様はお優しいからそう見せないだけで、本心ではきっと嫌がっているはずよ」
「確かに私だったら耐えられないわ!」
「それに恋人のロザリー様がエスコートしてもらえない気持ちを考えもしないで、よく我が物顔でフレッド様の隣に立ってられるわね」
「それは……知らなくて」
痛いところを突かれてしまった。
クロエはフレッドに恋人がいるなんて知らなかった。それはフレッドが隠していたからだ。
では何故隠していたのだろう。
「知らないということは、貴方に言う必要がなかったと言う事よね。ほら、フレッド様にとってあなたはその程度の存在なのよ。普通じゃない貴方が殿方に相手にされないのを憐れんで傍にいてくれているという証拠よ」
クロエは言い返すことができず、そのまま固く手を握った。
じゃないと泣きそうになってしまったから。
「クロエ・ランデット嬢、こんなところにいらっしゃったんですね」
低い落ち着きのあるバリトンボイスがクロエの名を呼んだ。
振り向くとダークブラウンの髪を後ろに流した青年が立っていた。年はクロエよりも上だが、フレッドよりも少し若そうだ。
青年はアーモンド形の美しい形の目で真っすぐにクロエを見つめながら近づいたかと思うと、そのまま流れるように手を引いて歩き出した。
背後から令嬢たちの憎々し気な視線を感じつつ、クロエはその青年に引っ張られるようにしてその場を離れた。
※
青年がクロエを連れてきたのはバルコニーだった。
夜になって少しだけ冷たさを纏った風がクロエの頬を撫でる。
空には綺麗な満月が夜空に煌々と浮かんでいた。
バルコニーに着くと、青年はゆっくりと繋いでいた手を放して言った。
「すまない。なにか不穏な空気だったから連れ出してしまったが、余計なお世話だったか?」
「いいえ、ありがとうございます。えっと」
青年の名前が分からず言い淀んだところで、青年がそれに気づいたようだ。
「失礼。私はダニエル・リーセルだ」
「ダニエル様、助けてくださってありがとうございました。少し……困ったことになっていたので」
たぶんどういう状況だったのか、ダニエルは察してくれたようで、それ以上追及することはなかった。
そうして少しだけ沈黙が流れる。
「あの……どうして助けてくれたのですか?私は、その……気味が悪いですよね」
「何故そう思うんだ?」
「だって、私は普通じゃないから気味が悪いと」
ダニエルはクロエの言葉を聞いて、ベランダの下に広がる庭園に視線を移し、低く落ち着いた声でゆっくりと言った。
「君の書いた論文を読んだことがある。とても面白い着眼点だった。細胞情報を使って物質を作り変えるという魔術の発想はなかった」
突然、脈絡もなくそう言われ、クロエは一瞬何を言われたか分からず返事に困った。
「……ありがとう、ございます」
一応を礼は言ったものの、今は論文を褒められても嬉しくはない。
ダニエルは純粋に褒めてくれているのかもしれない。だが、令嬢たちにクロエの頭脳を気味悪いと言われたことが、地味にダメージを受けた。
その様子を感じ取ったのだろう。
「私は君を気味が悪いとは思わない。その頭脳は神からのギフトだ。きっと君には成すべきことがあるのかもしれない。だから神は君にその頭脳を与えたのだろう」
その言葉は不思議とクロエの心に響いた。
「クロエ!」
フレッドの声がして、振り返るとそこには足早にこちらにやって来るフレッドの姿があった。
少し焦ったように余裕のない表情で、クロエがあまり見たことのないフレッドの様子に驚いてしまった。
「お兄様、どうしたの?」
「こんなところにいたのか。探したよ」
そう言うと、クロエを抱きしめて頭にキスを落とした。
突然の行動にクロエは驚いてフレッドを見上げた。
「こんな暗いところにいては駄目だよ。さぁ、帰ろうか」
まるでダニエルの存在が見えないかのような態度で、そのまま帰ろうとする。
「え?ちょっと、お兄様待って!」
「ここは寒いからね。早く屋敷に帰ってゆっくりしよう」
「……貴殿はフレッド・アルドリッジ伯爵ですか」
ダニエルの声にフレッドは初めて彼を認識したように一瞥した。
「クロエ嬢は、貴殿が恋人を蔑ろにしているせいで令嬢に絡まれていた。そのようにクロエ嬢に触れてはまた彼女が貴殿を唆しているという噂が流れかねない。クロエ嬢は私が家に送り届ける。貴殿はロザリー・ナグノイア嬢と過ごし、彼女を送るべきだ」
そのダニエルの言葉に、フレッドの纏う雰囲気が剣呑なものへと変わり、静かな怒りが伝わってきた。
「クロエを助けてくれたことには感謝する。だが、君に私達のことをとやかく言われる筋合いはない。そもそも女性をこのような暗がりに連れ込むのは感心しないな」
「それは、申し訳ありませんでした」
素直に謝るダニエルを冷たく見てから、その言葉には答えずクロエの肩を抱くようにして歩き出した。
「ちょっと……お兄様!ダニエル様、すみません!ありがとうございました」
慌てて後ろを見ながらクロエは何とかそれだけを言った。
※
フレッドによってクロエは半ば馬車に押し込まれるようにして乗った。馬車に乗るとフレッドは何故かクロエの隣に座った。
4人乗りの馬車なのだから本来ならば向かい合って座るべきだ。それなのに、何故隣に座るのだろうか。
しかも体が触れるほどの距離だ。
肩が触れて、思わずドキリとなる。何故かどくどくと心臓がうるさい。
「お兄様……ダニエル様にあの態度はないですよ。ダニエル様はちょっとトラブルがあって、それを助けてくださったんです」
「知ってる。すぐに駆け付けたかったんだけど、声を掛けられて行けなかったんだ。あんな男がクロエを助けるなんてな」
そう言ってフレッドは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「怖い思いをさせて悪かったね。お詫びにお前が欲しがっていたラルトビアの細胞情報の学術書を持って行くよ」
ラルトビアは閉鎖的な国のため、ラルドビアの学術書は殆ど流通していない。手に入れるのは至難の業だ。
そこまで自分を責めなくてもよいのに。そんな貴重な本を貰うなど、かえって申し訳ない。
「嬉しいですけど、本当に気にしないでくださいね」
「クロエのためなら何でもしたいんだよ」
フレッドの笑顔はいつものように、優しいものだった。
その時、令嬢たちの言葉が蘇った。
『知らないということは、貴方に言う必要がなかったと言う事よね。ほら、フレッド様にとってあなたはその程度の存在なのよ。普通じゃない貴方が殿方に相手にされないのを憐れんで傍にいてくれているという証拠よ』
ちゃんと確認すべきだろう。もしロザリーが恋人ならば、たかだか幼馴染の自分が今後もエスコートしてもらうわけにはいかない。
それに……もし本当にロザリーが恋人なのにそれを隠しているのであれば、フレッドは自分を憐れんで傍にいてくれるだけなのかもしれない。
それを確認するのは怖いけど、気づかないふりはできない。
だからクロエはゆっくりと口を開いて尋ねた。
「ねえ、お兄様。一つ確認したいことがあるのだけど……」
「ん?なんだい」
クロエは一つ深呼吸して、フレッドの空色の瞳を見つめた。
「お兄様、ロザリー様と恋人というのは本当なの?」
クロエの言葉にフレッドが息を呑むのが分かった。
目を見開いて一瞬驚いた表情を浮かべたのち、視線が揺れた。
それだけでクロエはフレッドの答えを察した。
(やっぱり恋人同士なのね)
そう思った瞬間、息が詰まるほどの胸の痛みを感じた。
背中がすっと冷たくなって、呼吸が上手くできない。
何故か急に泣きたくなって、その体の反応に自分自身が驚いてしまった。
「……ちゃんと時期が来たら話すよ」
フレッドは困ったように眉を寄せてそう言った。
時期、とはどういう意味だろうか。
(そう言えば二人が間もなく婚約すると言っていたわね)
クロエは声が震えるのを悟られないように、絞り出すように言った。
「分かったわ」
なるべく平静を装って、いつもの笑顔となるように。
無理に口角を上げて笑ったのでぎこちないものになったかもしれない。
だが幸か不幸か、フレッドはクロエの変化には気づかないようで、再び春の日差しのような柔らかい笑顔を向けた。
今はその笑顔を見るのが辛かった。
(でも視線を逸らせばきっと変に思われてしまうわ)
だからクロエもなんとか笑った。
そのタイミングで馬車がガタリと止まった。
「さぁ、家に着いたよ」
「今日はありがとうございます」
「お休み」
「お兄様もいい夢を」
クロエはなんとかそう言うと、逃げるように素早く馬車を降りた。