第二話 ジェシカ
…今日も化粧室の掃除が終わった。
昨日の主の言葉を思い出す。
明日も来て。
そして、もう一つ。
前の世界ってどういう意味?
僕はどうすべきだろうか。
考えがまとまらないまま、今日の仕事が終わる。
昨日は、この扉を開けたら主がいらっしゃった。
今日も、いらっしゃるのだろうか。
僕は静かにゆっくりと扉を開けた。
お嬢様はやはり、窓の外を見ていた。
「こちらへ」
僕の仕事が終わるのを確認するなり、主は告げた。
「はい…」
僕は戸惑いながらも主のもとへ歩いていく。
「座って」
昨日と同じように、浅く椅子に腰掛ける。
「昨日の続きを聞かせて」
「…はい」
…正直に話すしかないだろう。
隠そうとしたところで、主には僕の考えていることが分かる。
僕は、自分に記憶が無いこと、どこか別の世界から来たような気がすることを話した。
「そう…」
主は表情を変えなかった。
何を考えているのか分からない。
信じてもらえていないのだろうか。
「あなたは前の世界に帰りたいの?」
主が僕の話を信じるとまでは行かないかもしれないが、聞いてくれたようで嬉しかった。
しかし、返答には少し困った。
「…そうでもないかもしれません」
「故郷ではないの?」
確かにそうだ。
けれど、前の世界で幸せに暮らしていたという記憶は僕にはなく、むしろ辛い思いをしていたように思う。
僕はその話も、主にすることにした。
「そうなの…」
主はやはり表情を変えることは無かったが、僕の気持ちを察してくれたようだった。
僕は辛さを吐露するような喋り方をしたわけではない。
でも、主は僕の心を読み、そして気遣ってくれたのだ。
それが嬉しくて…けれども同時に心配になった。
人の心を読めるというのは、どういう気持ちなのだろう。
良い部分もあるのかもしれないが…僕には想像がつかなかった。
「ならあなたは、この世界で幸せなの?」
「…はい」
「…どうして?」
それは当然の疑問だった。
記憶もない、故郷からも遠く離れ、何がなんだか分からない。
そんな状態がどうして幸せと言えるのか。
正直に言って、不安なことだらけだった。
けれども僕は、よく考えもせず、こんなに美しいお嬢様とお話しができるからですよ…と…思ってしまった…。
「…っ!」
あっ!と思ったときにはもう遅かった。
主の顔がみるみる赤くなっていく。
僕の考えを読んだのだ。
考えを読まれたと知った僕もまた、自分の顔が赤くなっていくのが分かった。
「あ、あの…!」
慌てて弁明しようとしたが、主は勢いよく立ち上がり、そのまま部屋を出て行ってしまった。
赤くなった僕の顔は、どんどん青ざめていった。
やってしまった…。
主が心を読めることは分かっていた。
不用意なことを考えてしまわないように気をつけていた。
しかし、主が僕の話を聞いてくれるのが嬉しくて、つい気が緩んでしまった…。
どうしよう。
ここを追い出されてしまうのだろうか。
僕はとぼとぼと使用人室に戻った。
「おつかれー…あれ、どした?」
「ジェシカさん…」
「あ、ほら、敬語!」
「すみません…」
ジェシカさん…じゃなくてジェシカは、僕と同じく住み込みで働く使用人だ。
歳は僕よりも少し上くらいだけど、そこそこ長く勤めているそうだ。
年上だし先輩なので敬語を使いたいのだが、本人が嫌がるので使わないようにしている。
「それも敬語じゃん。まぁいいけど。んで、どしたの?」
僕のあまりの凹みぶりに心配して声をかけてきてくれた。
「お嬢様を怒らせてしまったかも…」
「え!お嬢様に会ったの!すごい!」
「え…」
想定とは違うところで驚かれてしまった。
「あの人嫌いのお嬢様がねぇ」
「…そうなの?」
「うん。人と話したがらないの」
そうなのか。
確かに口数は少なかった。
でも、なんだか分かるような気がした。
「で?で?何をしでかしたワケ?」
ジェシカがにやにやしながら詰め寄ってくる。
「その…」
と言ったところで少し迷った。
ジェシカは主が心を読めることを知っているのだろうか。
それはとても重要なことのように思う。
僕はそれには触れないように話した。
「失礼なことを言ってしまったというか…」
「どんな?」
「えっと…その…お綺麗ですね、みたいな」
ジェシカはぽかんとした。
直後、大げさに笑い出した。
「あっははは!想像つくわ!」
「…そう?」
「うんうん!大丈夫、そのくらいなら怒ってないよ」
ジェシカは笑いすぎて涙まで出している。
しばらくして落ち着いてきたのか、話し始めた。
「明日も掃除でしょ?フツーに接しなさいよ。
あの子にはあたしから話しとくから。もし会えたらだけど」
「そ、そう?ありがとう」
そんくらい、どーってことないって!
そう言ってジェシカは別の仕事に戻っていった。
次の日。
化粧室の掃除を終えた僕はふーっと息を吐いた。
主は、部屋にいらっしゃるのだろうか。
普通に接するようにとジェシカには言われた。
ジェシカは主に話をしてくれたのだろうか。
静かに扉を開くと、主はいつもの椅子に座っていた。
こちらを見てはいなかった。
特に話しかけられるようなこともなかったので、軽く一礼して退室することにする。
部屋の扉に手をかけたとき、声をかけられた。
「ねぇ」
心臓が少しだけ跳ねた。
「はい」
主は横顔しか見えない。
けれど、何かを憂いているような、そんな表情に見えた。
「あなたがこの世界を幸せに感じられて…良かった」
優しい声だった。
僕のことを心配してくれているのが分かった。
「…ありがとうございます」
「…」
主はまだ何かを言いたそうに見えた。
しかし、少し待っても話しかけられることはなく、僕は再び扉に手をかけた。
「そっ、それとっ!」
これまでとは違った上ずった声だったので、僕は驚いて飛び上がってしまった。
「は、はいっ!」
「あ…あなたのさっ…『賛辞』は…っ!
う、受け取っておきますっ!」
昨日ほどではないが、主の顔が少し赤かった。
「あ、ありがとうございます…」
僕の顔も赤くなっている気がして、俯きがちに返事をする。
「さ、下がりなさい!」
「は、はいっ!」
慌てて扉を閉めた。
まだ、ここに居ることはできそうだった。
最後までお読みいただきありがとうございます!
次回は9月15日(金)の12時ごろ投稿予定です。
よろしくお願いしますm(_ _)m