魔女と悪魔
吾輩は──である。
この世の果ての荒野で、いまやひとりぼっちになった吾輩は、もはや自分の名を呼ぶ者もなく、その必要もないのだ。ただ、人間どもに復讐してやるだけだ。そうすれば、あの男も戻ってくるだろう。あの男は、吾輩が人殺しだといっていた。そうだ、吾輩は殺人鬼だ。人間どもを殺戮し、血祭りにあげることこそ、吾輩の生き甲斐なのだ。
だが、人間どもの武器にはかなわない。あれほど無慈悲な破壊力をもつ兵器は見たことがない。それにくらべれば、吾輩など、ひよっこ同然だ。あの男の使っていた銃だ。それを使って、いまやひとりぼっちになってしまった吾輩は、人間どもを殺してまわるつもりだ。
「おまえさん……」と、吾輩はいった。
「どうしてこんなところにいるんだね?」
「おじさん」と、女の声がした。
無論、殺すつもりであった。女は、吾輩の前に立っていた。吾輩は、女のほうへ顔をむけた。女は、こちらを見てはいなかった。
女の顔は、吾輩から二十フィートばかり離れた、木立のかげのあたりを見つめていた。
「おじさん……わたしを助けてください」
「助けろというのか?」
「はい」
「なぜだ? なぜ吾輩がそんなことをしなければならない?」
「あなたが悪魔だからです」
「悪魔とはなんだ?」
「いい心をもっている方のことです」
「では、吾輩は悪魔ではないぞ。吾輩の心は、殺意で満ちているからだ」
「確かに!! あなたの手は血まみれではありませんか!」
「これは吾輩の血ではない」
「だったら誰の血ですか?」
「それは……」
「おっしゃってください! だれを殺したんですか?」
「殺したのではない」
「殺さなかったなら、どうして手を血まみれにしているのです?」
「それが、わからない……」
「おじさん、わたしを救ってくれたら、あなたに報酬をあげます」
「報酬だって?」
「リンネ」
「リンネ?」
「これは前払いです。貴方の名前をつけました」
「名前をつけた?」
「ええ、わたしたちは貴方のことをおじさんと呼びますけど、それじゃあ可哀相なので、名前を考えてあげようと思ったんです。それで思いついた名前が、リンネだったんです」
「しかし、リンネと呼ばれるのも悪くはないな」
「それじゃあ、リンネでけっこうですね?」
「ああ、構わないよ」
「それじゃあ、お願いします。リンネ」
「うむ」
吾輩は女のいうとおりにした。女は吾輩の手を握りしめ、そして歩きはじめた。女が向かった先は、小さな家であった。家は木こり小屋のようなつくりをしていた。窓は一つしかなく、その窓から光が射し込んでいた。女は扉を開けると、なかへと入っていった。女のあとについて、吾輩もなかに入った。家のなかも、やはり木こり小屋みたいなつくろいであった。家具はなく、床の上に藁が敷いてあった。壁にとりつけた棚の上に、いくつかの品物があった。どれも、粗末な食器や瓶などであった。女は棚に近寄ると、ガラスの小瓶を手にした。そしてそのなかへ水らしきものを注ぎ込むと、こちらへ戻ってきた。
「さあ、これを飲んでください」と、女はいった。
「これを飲むのか?」
「そうです」
「毒ではあるまいな?」
「ちがいます」
「本当か?」
「ええ、ほんとうですとも」
吾輩は、差し出された小瓶を手に取り、蓋をとってみた。匂いをかいでみる。それから一口だけ、水をふくんでみることにした。口のなかに、ほんのりとした甘さが広がった。いままで味わったことのない味である。もっと飲みたくなるような美味さでもあった。
「うまい!」と、吾輩はいった。
「でしょう? 反対から呑むともっと美味しいですよ?」
「反対から?」
蓋の反対は底があるだけで、女の言っていることはもっぱら理解できなかった。
「わたしの名前はミヨです。わたしの先祖は、この森に住んでいたんだそうです。遠い昔ですけどね。そのころからわたしは、森の中で暮らしているんです。ときどき村へ出ていって商売をして、必要なものを買ってくるんですよ。でも、いまは誰もやってきません。みんな、都会に出ていってしまったからです」
「それでおまえさんたちは、ここで住んでいるというわけか?」
「はい、そうなんです」
ミヨはそう言ったきり、黙りこんでしまった。じっとこちらを見つめながら、なにかを待っているようである。おそらく、こちらがしゃべるのを待っているのだろう。
「いったいなにを助けてほしいのだ?」と、吾輩は質問してみた。
「わたし魔女なんです」
「なるほど。つまり魔女狩りの連中から守ってほしいってことだな?」
「まっそーゆーことです」
「いいだろう」と、吾輩はいった。
「ありがとうございます」
ミヨは吾輩の手を握りしめた。彼女の手はどちらかというと、冷たかった。
「それでは、仕事にとりかかるとするか」と、吾輩はつぶやいた。
次の日から、吾輩はミヨの仕事を手伝うことになった。といっても、たいしたことではない。家の掃除をしたり、井戸に水を汲みにいったり、魚を釣ったり、木の実を拾ってきたり、そんなことばかりであった。そのほかには、薪をつくって売ったりもした。近所の人間がそれを買いにくるのである。もちろん彼らは、魔女の家だとは知らないだろう。もし知ったとしたら、きっと驚いて逃げだすにちがいない。なにしろ、いつ襲われるか知れたものではないのだから。それが人間から見た魔女の認識である。
そんな生活を続けていたある日のこと、ひとりの老人が訪ねてきて、ミヨに向かって話しかけた。
「ミヨさんや、あんたはお医者さまの知識があるとか、ほんとうかね?」
「ええ、ほんとですとも」と、ミヨは答えた。
「そうかい、そりゃあよかった」と、老人は言った。
「わたしゃあ病気なんだ。見てもらえるかい?」
「ええ、かまいませんよ」と、ミヨは答えた。
「それじゃあ、ちょっとたのむよ」
そういって、老人は家の中に入ってきた。吾輩は台所の戸棚のなかに隠れていたので、外のようすはわからない。ただ、ミヨと老人が話している声が聞こえてくるだけである。
「そこに座ってください」と、ミヨがいった。
「ああ」と、老人の声がする。
ミヨは、吾輩がいる棚のほうをちらと見やった。それから、老人のほうへ向きなおって、「ところで、ご病名は?」といった。
「なんだか胸が苦しくってね」と、老人がこたえる。
「それはいけませんねえ」と、ミヨはいった。
「胸ですか? それともお腹?」
「腹だ。このあたりが苦しい」といって、老人は自分の腹を手でさすったようであった。吾輩は戸棚のなかで耳をそばだてていた。
「わかりました。とにかく調べてみましょう」と、ミヨはいった。
やがて、二人の話し声が途絶えてしまった。
そのまま何分かが経過した。
すると突然、どさりという音がした。吾輩はその音を聞いて、戸棚からとびだした。ミヨが床に倒れていた。口から血を吐いていた。吾輩は倒れているミヨのそばへ駆けより、彼女を揺すぶった。しかし、彼女はなんの反応も示さない。吾輩は、もういちどミヨを揺すり、それから叫んだ。
「おい! しっかりしろ!」
返事はなかった。吾輩はあたりを見まわした。部屋の奥のほうに、さきほどの老人が立っていた。片手にナイフを持っている。どうやら、それでミヨを殺したらしい。
「おまえはだれだ?」と、老人がたずねた。
その目には、敵意の色が浮かんでいた。婆さんは手に持っていたナイフを構え直した。そして、じりじりとこちらに近づいてきた。吾輩は腰のうしろに手をまわし、拳銃を取り出した。銃口を老婆に向けた、引き金を引いた。銃声とともに弾丸が飛びだし、老婆の胸を貫いた。老婆は甲高い悲鳴をあげて倒れると、動かなくなった。即死であったようだ。吾輩はしばらくのあいだ、死んだ老婆をみつめていた。それから、ミヨの死体を振り返った。彼女の死を悼み、また、怒りがこみあげてきた。吾輩は銃を握りしめたまま、しばらく立ちつくしていた。それからして男たちがやってきた。ひとりは猟師のような恰好をしていた。もうひとりは刑事であった。彼らは、倒れた死体と、吾輩を見比べていった。
「おまえが殺ったのか?」と、刑事がたずねる。
「そうだ」と、吾輩は答えた。
「なぜ殺した?」
「こいつは悪魔だからだ」
「悪魔だって? なに言ってるんだ?」と、猟師が横から口を出す。
「こいつは狂人だな」と、刑事がいう。
「何の疑いもなく人を殺せる婆に人の心はない」と、吾輩はいった。
「少なくともこの女は魔女だろう?」と、刑事は吾輩にいった。
「魔女だからといって殺していいのか?」
「かまわんさ」と、刑事は答えた。
「それに、どのみち処刑される身だったんだから」と、猟師も同調した。
「彼女に対する罪の意識はないのか?」
「ないね」と、猟師はいった。
「それどころか、喜んでいるぐらいだ」
「喜ぶ?」
「ああ、これで安心して暮らせるからな」
「彼女が一体、何をしたって言うんだ?」
「魔女だから」と、猟師はいった。
「どうして?」
「昔からいわれているだろう?」
「でも、それは迷信だ」
「いや、迷信ではない」と、刑事がいった。
「魔女がいては、お前のような存在が生まれるからだ」
「なんだと!」と、吾輩はいった。
刑事が一歩前に進み出て、こちらの様子をうかがうような仕草をした。それから彼は上着のポケットから手錠を取りだすと、それを持って吾輩に近づいた。吾輩もただ黙ってやられるつもりはなかった。すぐに拳銃を身構えて、彼にむかい合った。
「おとなしくしろ!」と、刑事も拳銃を構えて叫ぶ。
刑事の指が引き金にかかるのが見えた。その瞬間、吾輩は拳銃を撃った。銃弾は彼の左肩に命中した。撃たれた衝撃で、彼はその場に膝を折った。しかしそれでもまだ意識はあるらしく、苦痛のために顔を歪めながらも顔をあげてこちらを睨んでいる。吾輩は彼に近づくと、額にむけて銃を二発発砲した。そのうち一発が命中したようで、彼は後ろにのけぞるようにして倒れて息絶えた。
その死に顔は、『驚き』で歪んでいた。刑事の視線の先は吾輩が持つ『K』と書かれた拳銃だった。
「ひっ、人殺しめ!!!」
猟師はそう言って逃げ出していった。丁度、拳銃の弾薬も尽きていたことだし、彼を追跡することは諦めた。その代わりに刑事の手に握られた拳銃を拾おうとして身を屈めた時、ふと気付いたことがあった。吾輩が先ほどまで手に持っていた拳銃と似ていたことに。もしやと思い手に取ってみると、やはり同じ種類のものに違いなかった。たぶん製造元が同じなのだろう。深く考えることはしなかった。
それよりもいまは、ミヨの死について考えるべきだと思った。吾輩は、ミヨの遺体に歩み寄った。血はまだ乾いていなかった。床の上に、赤い染みが広がっている。ミヨの胸にはナイフが突き刺さっていた。吾輩はその柄を握り、力を込めて引き抜いた。血が噴きだして床を赤く染める。吾輩はナイフを投げ捨てると、ミヨの身体を抱きあげた。彼女の身体からは、すでに温もりが失われつつあった。ミヨはもう死んでいるのだ。
これでも十年と長い間、共に過ごしたことだ。結局、『報酬』は前払いしかもらっていないのだから笑えるものだ。それでも吾輩は彼女の死によって、悲しみを感じている。おそらく人間というのは、死ぬことによってようやく完成される生き物なのだ。他の生物にはありえない感情を呼び起こすことで、進化してきたのだ。いま、それを確信した。吾輩には、泣くことができたらどれほど楽だろうという思いがあった。だが涙は出てこないのである。きっと涙を流す機能を持たないように進化したからに違いない。まったくありがたいことである。涙が流せたのなら、きっとひどい顔になっていたことだろうから。
そういえば、ミヨと会った時のことを思い出す。それは小瓶を飲んだ時に言われた言葉。
──反対から飲むと美味しいですよ。
『ミヨ』が言う反対とは一体何だったのだろうか?
でもきっと、正しい答えを教えてくれるにちがいない。そう思った吾輩は小瓶を探した後、中身を一気に飲み干し、ミヨの唇にそっと口づけをするのであった。
『黄泉』に還ってしまった彼女と共にこの雫を分かち合うために……。
──そういえば吾輩の名はなんだったのだろう?
そんなことは、まあいい。あの男も時期に戻ってくるはずだ。そうとなれば……。
吾輩は復讐するためだけに家を出た。魔女というだけで殺戮を行う人間どもに……。