1187年8月 見えない朝廷
鎌倉・大倉御所
鎌倉から見た北朝は実体の無い幽霊のような存在だった。
全国にばら撒かれている「源頼朝追討」の宣旨には安徳帝の名と印が記されているが、安徳帝は壇ノ浦の海へ消えたのではなかったか。
奥州の民は新しい朝廷ができたと言っているが、どこにあるかは誰も知らない。
政の命令は伽羅御所から出ているが、そこの主は前と同じ、藤原秀衡だった。
奥州から戻った梶原景時が、頼朝と政所別当・大江広元の前で秀衡を罵る。
「あの狸ジジイ。豪族の任官については、京への憧れで勝手に名乗っているだけなので後で叱っておく、ととぼけております。他のことも、耄碌して記憶があいまいでのう、などとのらりくらりと――」
「ばら撒かれた宣旨をたどれ。さすれば安徳帝に行きつく」
「それが、何人もの僧兵や山伏の手で運ばれておるようで。拷問にかけても、知らない男に金で雇われた、としか吐きませぬ」
頼朝が広元を見る。
「安徳帝を奉じても我らに征伐する機を与えるだけで利はありません。秀衡がそれほど愚かでしょうか? 東国の兵力は奥州の倍。戦になれば秀衡は滅びます。秀衡は傑物ですが、本質は保守の男です。源平争乱の間、穴熊のように奥州から出ようとしませんでした。新たに朝廷を建てるということは大きな賭博です。この稀有の大きさは――」
「大天狗か」
頼朝は嫌な顔をした。
「法皇は守護地頭をお認めにはなられた後、鎌倉を深くお恨みの様子と九条様から聞いております。奥州を征伐すれば、その間に京で異変が起こるやもしれません」
「ありえる話だ」
「秀衡と法皇の意図を見極めてから動くべきです」
「苛立つことよ――だが、そなたのことだ。見極める間、無駄に過ごす気はないのだろう」
「頼朝様の天下をより強固なものにいたします」
頼朝は満足気にうなずいた。
ずっと放っておかれていた景時は、自分の能力を誇示するかのように膝を進める。
「コホン! この景時も秀衡のことだけを調べてきたのではございませぬ。奥州では浄土宗という新宗が驚くほど広がっておりまする。大きな寺を白河に建立するほどで」
「白河といえば昔、蝦夷からの侵入を防ぐ関があったところか」
「宗徒は坂東への布教の拠点にすると言っておりました。それだけではございませぬ。大逆人義経の姿を奥州で見たという者がございました」
「九朗を?」
「はい。安徳帝がいなくても、討伐する口実は義経を匿った罪で充分です。その気になればいつでも攻められまする」
得意げに話した景時だったが、頼朝は満足するどころか黙り込んでしまった。
「梶原殿、それは真ですか?」
「何じゃ、難しい顔をして。大江殿は疑っておるのか。わしは見ておらぬが、見た者は何人もおるという。頼朝様もお喜び下され。ずっと探していた義経が見つかったのですぞ」
「――平三、ご苦労だった。もう下がってよい」
頼朝が手を鳴らすと小姓が入ってきて景時に退出を促した。
「頼朝様もどうなされたのですか!? 見つけたのは景時の手柄ですぞ! ようやったとお褒めくだされ! 頼朝様! 頼朝様~!」
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「崩御された安徳帝ばかりか九朗まで蘇る……。奥州は黄泉の国とでもいうのか。余は寒気がしてきた。九朗は戦の天才だ。奥州征伐は油断できぬものとなる――いや! 奇襲されるやもしれぬ! 広元、鎌倉の守りを固めさせよ!」
「ご冷静に。奥州から鎌倉までの間にはいくつもの国がございます」
「九朗はどこから現れるかわからぬ!」
「死者に振り回されてはなりません。キララが義経はすでに死んでいると言ったとき、私は疑いました。しかし、頼朝様の心眼は嘘ではないと見極めたではありませんか?」
「――確かにそうだ。あのときのキララは嘘をついていなかった……もしや?」
頼朝は小姓を呼んだ。
「政子の元へ行って、キララを連れてこい――いや待て。そなたでは難しい。時政に行かせろ。良いな」
小姓が立ち去ると広元が察したように頼朝を見た。
「キララが義経に戻ろうとしている。そうお考えで?」
「それなら余の心眼とも辻褄が合う。キララがその気になれば義経は再び蘇る」
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大倉御所の北館に向かう北条時政の足取りは重かった。
「はぁ……。世間は鎌倉殿の義父とわしを羨望するがとんでもない。日本一、親にあたりの厳しい娘夫婦を持つ身になってみろ……」
時政は大きく息を吸い込むと、満面の笑顔を作って、政子の部屋に入った。
「わらわを避けている父上がどういう風の吹き回しですか?」
「娘と孫に会いたくなるのは自然の情だ。抱いておるのは乙姫か。政子に似て可愛いのう。ほれ、じじにも抱かせておくれ」
「ほほ。逢いたいのは若い後妻でしょう? 下手なご機嫌取りは無用です。わらわに何のご用ですか?」
政子の心をほぐすどころか嫌味を言われ、時政の作り笑顔が強張っていった。
「察しが良いな。鎌倉殿からキララを引き渡せとのご命令じゃ」
政子の体から殺気が噴き出すのを感じた時政は慌てて手を振る。
「違う! 違う! そうこめかみに筋を立てるな。側女に寄越せというておるのではない。謀反の疑いじゃ。斬ると申されておる。だから絶対に側女になることはない。な、だから引き渡してくれ」
「謀反ですって――!?きっと誤解ですわ。わらわがキララに問いただします」
「無用じゃ。鎌倉殿が一度斬ると決めたら、そなたでも止められぬことはわかっておろう」
「――では、覚悟をさせますので、一日お待ちを」
「そのような事をせぬともよい」
「そうは参りませんわ。キララが死を前に乱れれば、主人であるわらわの恥辱!」
「はぁ……。わかった。一日ぐらい遅れても、鎌倉殿も文句は言うまい」
時政がボヤきながら去った後、政子は言った。
「キララ、聞いていましたね」
「はい。だけど斬られる気はないですよ」
後ろの屏風からキララが現れると身構えた。
「――わかっています。逃げる術を考えるのです」




