プロローグ 2021年 ⇒ 1180年6月 源頼朝
「あたしが源義経になる!」
妹のキララが薄明りの中で叫んだとき、その空間は狂気に支配されていた。
――なぜ誰も反対しない。おかしいだろ。少女が源氏の大将になるなんて。
他の者は灯明に照らされながら、黙々と手を動かしている。
血の匂いで頭がおかしくなりそうだ。思考が揺らぐ。
――狂っているのは俺なのか? 否。転生した時代が狂っているのだ。時代に飲みこまれてたまるか。歴史の知識を使い、妹を守り抜いてやる。
俺は源義経になった妹に誓った。
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マンションのドアノブを握る優介の手が、一瞬ためらう。
家に鬼や借金取りがいるわけではない。ひきこもりの妹が一人いるだけだ。
優介は意を決するようにドアを開けた。
「おかえりー。お兄ちゃん、もう小学校の先生なんて辞めなよ。安月給じゃん。二人で協力して動画配信で稼ごうよ」
優介は量販店で買った背広をハンガーにかける。
「また、その話か。キララは世の中を舐めすぎだ。親に先立たれた俺たちが、定職も持たずに食っているわけないだろ。頼むから中学へ行ってくれ。ダンス部であれだけ頑張ってたじゃないか」
「動画配信でバズったら、教師の給料の何倍も稼げるわ。あたしはお兄ちゃんを楽にさせるためにやってるの」
ここ数カ月、同じような会話をしている。常に話は平行線。だから解決することはない。不毛で無駄な時間だ。
キララがマスクをして配信の準備をしはじめる。
「なんでマスクをするんだ?」
「そのほうが食いつきがいいの」
優介はため息をつきながらキララを見る。
優介はキララの友達から話を聞いて知っていた。キララが中学でダンスアイドルを目指していると言ったとき、心無い男子生徒たちから「ブスが調子に乗って目立つな」と悪口を言われ、登校拒否になったことを。マスクをつけているのも、顔について言われるのが怖いのだろう。
兄のひいき目かもしれないが、妹は決してブスではない。下膨れで一重だが、色白だし。普通の顔だと思う。全体的にぽっちゃりしているだけだ。
「はーい、超絶かわいいキラポンだよー」
――顔を隠して何が超絶かわいいだ。このままじゃ、妹は歪んだ人間になる。
優介はキララのそばに行くと、マスクを剥ぎ取った。
「ちょっと、やめてよ!」
「卑屈なマネをするな。キララは十分かわいい。自信を持て!」
「お兄ちゃん……」
――キララの声が暗くなる。強く言い過ぎたか。
「……画面見て」
パソコンの画面にはコメントが流れていた。
『ぶっさw』『マスク詐欺』『がっかり顔w』『投げ銭損した』
「許せない!」
キララが怒りの形相でタックルしてきた。
「ちょっと待て、こっちは!」
優介とキララは勢いよくガラスを破り、ベランダから落ちていった――。
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目が覚めたとき、優介は森の中にいた。目の端でキラリと何かが光る。よく見ると、こっちに向かって弓を引き絞っている男がいた。熊の骨を被っている。その隣には、綺麗な鎧を着た男が、優介を指して笑っていた。
男の弓から矢が放たれる。
――嘘だろ。これは夢だ。歴史好きだからこんな悪夢を見るんだ。
「よくもマスクを取ったわね、お兄ちゃん!」
優介は強烈なタックルを喰らい、背中を地に打ち付けられた。
矢が頭上を風切音ともに通りすぎる。
――痛い。超痛い。ってことは夢じゃない!
「あれ、何で変な恰好してるの?」
「いたたた、キララこそ短い着物なんか着て――」
草むらをかき分ける音とともに、弓を持った武士が近づいてきた。ずんぐりとしているが腕を見れば筋肉が詰まった肉体なのがわかる。
「あれえ? 外れているな。獲物のくせに生意気だぞ」
「そんなことでは平家に勝てぬぞ、藤九郎――ほう、女子もいるではないか」
新しい鎧を着た武士がキララの体を起こす。貴公子然とした色白の中年男だった。
「怪我はないか、美しき姫よ。木陰で余が介抱いたそう。藤九郎、下郎は任せた」
「へっ、美しい? 姫? わたしが?」
とまどうキララを連れていく色白の武士を見て、藤九郎はため息をついた。
「まーた、兄貴の悪い癖が出た。姉貴にバレてもしらねえぞ」
「お前は誰だ! 妹をどこへ連れて行く!」
「うるさい獲物は嫌いだあ」
藤九郎は弓を放り投げると刀を抜いた。
――刃を下向きにして下げている。打刀ではなく太刀だ。ということは室町時代以前か。だけど、それがわかったところでどうなる。何かしないと!
「臨!兵!闘!者!皆!陣!烈!在!前!」
優介は子供のころ映画や漫画で見た九字護身法を唱えた。指の形は覚えていないのででたらめである。
「おめえ、修験者か」
「そうだ。俺を殺せば仏罰が下るぞ」
「馬鹿か。流れ者の似非修験者は坂東では弓矢の的だあ」
藤九郎が太刀を振り上げたとき、優介は鎌倉時代に書かれた絵巻物「男衾三郎絵詞」を思い出した。絵巻物には坂東武士の気風がこう記してある。「馬小屋の隅に生首を絶やすな、首を切って懸けろ。屋敷の門外を通る修行者がいたら矢で追い立て追物者にしてしまえ」と。
――太刀に切られたら痛いんだろうなあ。あれ? 目の前がキラキラする。へえ、死ぬ前って世界が輝いて見えるのか。
「この術? おめえ、本物の修験者か!」
――藤九郎にも見えているだと?
優介は宙に目を凝らすと、幻覚ではなく光る粉が舞っているようのがわかった。
「幻術ではありません。人の心を動かす力は持っていますがね」
二人が振り向くと、長身痩躯の男が笑っていた。
「奥州の金商人、吉次信高と申します。世には金売り吉次の名のほうが知られていますが」
「聞いたことがある。藤原秀衡の懐刀だっけか」
「とんでもない。ただの行商人でございます。安達藤九郎殿、この男は私が京で買い求めた品です。いっしょにいた娘はどこですか? 奥州へ持っていかねば主にお叱りを受けます」
「なぜオラの名を――ちょっと待っていろ。娘を連れてくる」
優介も吉次の名を聞いてようやく現状が掴めてきた。
――藤原秀衡。奥州藤原家三代目。平安時代末期で確定だな。
色白の男がキララの肩を抱いてやってきた。
吉次が跪いて、チラリとキララのほうを見る。
「これは、源頼朝様。お久しゅうございます。相変わらずお手が早いようで」
優介は源頼朝を驚きの目で見た。しかし、それよりもキララが顔を赤らめているのが気になった。
――まさか妹を……。って! 頼朝だと! こんなやつが天下人になるのか。
「いや、まだだ。だが良かった。家人の品に手を出すなど源氏嫡流の恥だからな」
「フフフ、奥州が源氏の家人とはお戯れを。平家討伐の密使を受けられて気が大きくなられましたか。平家はいまだ強大。敗れた際は奥州にお逃げなされるといい。秀衡様が庇護してくれましょう」
「庇護? 従う、の間違いであろう。言葉に気をつけよ」
二人の表情こそ変わらないが、優介には緊迫した空気が流れるのがわかった。
「お兄ちゃん! 頼朝さんっていい箱作ろうの人なの? 超バズる人じゃん!」
「そうだ。そして笑いながら俺を殺せと命じたクズだ!」
言葉と同時に優介の拳が頼朝の頬にめり込んだ。頼朝が吹っ飛ばされる。
「こんなクズが天下を獲るなんてな! ウグッ!」
藤九郎が優介を地面に押し付けた。立ち上がった頼朝が優介の顔を踏みつける。
「お兄ちゃん!」
「頼朝様、この男の無礼は黄金で詫びます」
「すぐに斬り捨てるところだが、下郎、余が天下を獲ると言ったな?」
「そうだ。お前みたいなやつが天下人になるなんて」
「フフフフ。まだ旗揚げもしていない余が天下を獲ると断言するか。他の者も、いや余ですら賭けだと思っているのにな。下郎、その言葉に免じて許してやろう」
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頼朝と別れた後、優介たちは吉次の行商隊の元に連れていかれた。馬に積まれた荷駄と少女十人を数人の武士が警護している。
「お兄ちゃん、これ見て。頼朝さんにもらったの」
キララが胸元から札を取り出した。文字が書いてあり、ほのかに甘い香りがする。
吉次がのぞき込む。
「恋歌ですね。雅に口説けば、京に憧れる坂東の田舎娘なら簡単に落ちるでしょう。キララも毒牙にかかるところでしたね」
「頼朝さんを悪く言わないで! 余が愛するのはそなただけだ。って、言ってくれたもん!」
吉次がプッと噴き出す。
「冗談ですか? 遊里で男を振り回した白拍子が純なふりなど――」
「お兄ちゃん、白拍子って何?」
「男装して踊る女性のことだよ」
「何それカッコイイ! 宝塚みたいじゃん!」
「それと……。売春もする」
「嘘でしょ! 恋愛経験なしで、バージン奪われてるの!」
「落ち着け。俺たちは平安時代末期に転生したらしい。だが、体は赤ん坊ではなく、転生前と変わらない。ってことは、この体にも俺たちの知らない人生があるということだ――吉次さん、俺は何者で、なぜ買われて奥州に連れていかれるのですか?」
吉次は優介の顔をいぶかしげに見つめる。
「先ほどから意味のわからぬことをブツブツと。目を離した隙に、いなくなったと思ったら、二人して頭でもぶつけたのですか?」
「五階から、いや崖から落ちたぐらいの衝撃を受けたと思います」
「その割には元気そうですがねえ……。まあいいでしょう。優一は偽仏師です」
「仏師というと、運慶快慶の? 偽って何です?」
「運慶快慶の贋作を作って、遠国の寺に売ってたんですよ。それがバレて京にいられなくなった。それで私に買われたのです」
「奥州で偽の仏像を作るためにですか?」
「そうです。あなたの才能は見た物を完全に記憶し、そのまま再現すること。逆に言えば、何も加えられない」
――この体にはサヴァン的な能力があるのか。ただし、芸術的センスが無いらしい。
「これで良いですか? あなたの妹は他の娘たちとともに、平泉の都を彩ってもらいます。キララは相当な美人。藤原一族に気に入られれば妾にもなれましょう」
「やだー、吉次さんってば、褒めすぎだよぉ」
「ほら、俺の言ってた通りだろ。お前はかわいいんだって」
「色白で下膨れの顔にふくよかな肢体。実に美しい」
「……褒められてる気がしないんだけど」
優介は納得のいかない様子のキララをなだめながら、奥州平泉へ向かった。




