酔拳!ああ、魅惑の拳法!
2006年 空手道場へ行った時のお話
仕事仲間の友達の彼女の妹といった、私にとっては全くの他人が空手をやっているという縁で、格闘技にほんのちょっぴり興味のある私はその娘の通っている空手道場を見学しに行く事になった。
基本的に私は個人競技は何でも好きなので、何かしらの格闘技をやりたいと思ってはいるのだが、それにしても空手は嫌だ。実践空手という響きがさらに嫌だ。真面目な奴だと思われてしまうじゃないか。
だいたい「空手家」というものを想像してみれば「男臭く真面目で努力家、声も身体も大きく曲がった事が大嫌い」というイメージが浮かび上がる。空手に限らず、おおよそ一般に格闘家というものはこのようなイメージを持たれてしまいがちで、格闘技をやる以上それはやむを得ないと思われているフシがある。
どうにも困ったものだが、しかし、そんな格闘技の中にもアウトローとも呼べる例外は存在した。それが「中国拳法」である。
中国拳法にも少林拳のように空手に近いイメージのものもあるが、その他の流派はかなり胡散臭さが漂っている。カポエラなども同様だが、やはり中国拳法には適うまい。
ある日突然親友に「いやー、黙ってたけど実は俺、かなり蛇拳が無敵なんだよねー」なんて言われたらどうか。どうリアクションしたら良いというのだ。蛇拳はマズいだろう。だからといって蟷螂拳でもマズいし、酔拳ともなると事はかなり深刻な状況になってくる。
酔拳には何かしら人を小馬鹿にした響きがある。ちょっと酔拳の達人を思い浮かべてみよう。そこにはおおよそ格闘家とは思えない人物像が浮かび上がってくるだろう。
まず顔が赤い。特に鼻が赤いのがいけない。赤鼻の奴に二枚目などいるものか。従ってブサイクだ。身体も少し小さい方だ。ひょっとするとビールっ腹ではないのか?たっぷりした体、そして手は小刻みに震えている。これではただのアル中のおっさんではないか。不健康きわまりない。これが格闘家の姿なのだろうか。
同じ中国拳法でも少林拳や詠春拳には活力がみなぎっているのに対し、酔拳にはどうも「老い」が見え隠れしている。映画の中でいくら活躍しようともダメなのだ。
例えば高校受験の履歴書の特技の欄に「酔拳」などと書かれていたらどうか。何だかダメな奴のイメージが付きまとうではないか。未成年で堂々と酒を呑む生徒がいたのでは風紀が乱れてしょうがないし、未成年でないとしたらそいつは5年以上も留年しているポンコツなのではないか。
では社会人であれば良いかというと問題はそう簡単ではない。常に赤ら顔の奴に会社の命運など託せるものか。営業に行ってはお得意先に不真面目な奴だと思われ、社内ではフラフラとさまようばかり。面接官は履歴書に「酔」の文字を見ただけで眉をひそめるだろう。
「酔」はいけない。たとえ無敵のドランクマスターでも履歴書に「酔」などと書いてしまってはいけない。高校への進学も企業への就職も危うくなるだろう。
こうして酔拳使いはその技を隠して生活することになるのだが、するとこれから酔拳を会得しようという若者はどうやって師匠を探せば良いのだろうか。本場中国へ留学するか、独学で会得するしか方法は残されていないのではないか。独学か、なにかいよいよ怪しくなってきた。しかし幸いにも世の中には、酔拳の「型」が見られるデータが無数にある。まずはカンフー映画、そして武術雑誌の連続写真、それからテレビゲームだ。
とある小洒落たホテルのレストランでお見合いが行われていた。女性は問うだろう。
「御趣味は何ですか?」
「はい、酔拳を少々」
「えっ!?、、、酔拳、ですか?」
「はい、毎日酒を欠かした事はありません」
「、、、いえ、あの、えっと、、あの、、、道場に通っていらっしゃるのですか?」
「いえ、独学でマスターしました」
「独学で?凄いですね」
「はい、毎日テレビゲームやってます」
やばい、そんなお見合いがしてみたい。
2021.04.27 タイトル変更 旧「中国拳法の悲哀」→新「ドランクマスターのお見合い」
2021.05.05 タイトル変更 旧「ドランクマスターのお見合い」→新「酔拳!ああ、魅惑の拳法!」