母の残した日記【短編】
初めて投稿します。
至らない点も多くあると思いますが、楽しんでいただければ幸いです。
母
「おはよう!いつまで寝ていの?ごはん出来ているわよ」
優しい声が、降り注ぐ。薄目を開けると陽光がカーテンの隙間から漏れ出ているのを感じる。
うん、今日もいい天気だ。
「早く起きなさい!遅刻するわよ」
重力に逆らい、ベッドの上で大きく伸びをする。階下からは、お味噌汁のいい匂いが漂ってきた。
服を着替え、階段を下りる。机の上に並ぶ食事は、日本伝統の和食。
「おはよう」
そういって目を細めるのは、私のおばあちゃん。少し昔気質なところもあるけど、とても優しい。
「おはよう!今日もいい天気ね」
そう言って隣に座っているのは、私のお母さん。30歳くらいだろうか。
私の同級生のお母さんと比べ、とても若く美人だ。
「おはよう。あー、お腹減った」
そういって、ご飯をかきこむ私を二人はニコニコと見守っている。
「んー!!おばあちゃん、このお漬物最高!」
「あら、よかった。つけ方を少し変えてみたのよ」
どれどれ、とおばあちゃんが漬物に手を伸ばす。
「ほんとだ、よく味がしみ込んでいるねえ。こりゃ、つけ方を変えて正解だったようだ」
「あら、そんなにおいしいの。それじゃ今度皆に教えてあげないとね。
それにしても、美香は本当に子どもっぽくないものが好きね」
からかい気味にお母さんが言う。確かに私は、同世代のみんなが好きなハンバーグや空揚げより、
お漬物や焼き魚の方が好きだ。子供っぽくない、と同級生からもからかわれたこともある。
「もー、いいでしょ!好きなんだから」
つん、とそっぽを向くと母がおかしそうに笑った。
平穏な日常。しかし、祖母は唐突に嫌そうな顔をして、
「美香。まだそんなものをつけているのか。外しなさい」
と私に言った。
また始まった――。うんざりとした思いと共に、ため息を吐き出す。祖母はいい人なのだが、思考が古いのが玉に瑕。
せっかくのいい朝なのに。私は、イライラを隠そうともせず、お茶碗をダンっ、と机の上に乱暴に置いた。
「……ご馳走様!もう行くね!」
「美香!」
おばあちゃんの静止を振り切り、ランドセルを背負い部屋を出ていこうとする私に、声が降りそそいだ。
「美奈子はもういないのよ!」
祖母の声に、思わず足が止まる。なんでそんな非道いことを言えるのか、と怒りで目の前が赤く染まった気がした。
「そんなことない!何言っているの!お母さんはここにいる!」
興奮しすぎたのか、視界がぼやけてにじむ。感情が高まると、涙が滲んでしまう自分の癖を疎ましく思った。
「……これだから、考えの古い人は嫌なのよ!」
吐き捨てるように声を絞り出す。腹立たしさのままに、扉を思い切り閉め外に飛び出した。
「えー、AIの急速な普及により、世の中は格段に進歩しました」
教師の間延びした声が教室に響く。時刻は14時。お昼に食べた給食(今日は大好きな筑前煮!)の消化が始まり、みんなうとうとしている魔の時間。
いつもなら、真っ先に机に突っ伏しているはずなのに、今日の私は全く眠れなかった。おばあちゃんとの朝の会話がいまだにむかむかと心に沈殿している。
(本当に頭が固いんだから!)
思い出してより一層腹を立てる。優しくお料理も上手なおばあちゃんの唯一嫌いなところ。
それは、「母」を認めてくれないことだった。
「……歴史上AIの登場は、第六次産業革命と呼ばれており――」
抑揚のない声で、歴史の先生が言葉を紡ぐ。この歴史の先生は、全く生徒の反応を気にせず、マイペースで授業を進めることで有名だ。
先生が授業で話すように、AIは今や私達の生活には欠かすことのできない技術となった。中でも、近年開発された「自己学習型AI:【トロイ】」の登場は、科学を100年ほど前に進めたといわれている。私には詳しいことはわからないが、私達が当たり前に享受している生活の大部分には、【トロイ】が使われているという話だ。
「……【トロイ】登場前と後では、もはや別文明と呼ばれるほど隔たりがあります。ここまでで、何か質問がありますか」
先生が周りを見渡す。当然のことながら、教室からの質問はない。そもそも、この教師の話を真剣に聞いている生徒が何人いるだろうか。授業中に皆の前で質問するをするということ自体、なんだか気恥ずかしい。ふと、私の頭の中に、今朝のやり取りが浮かんだ。思わず手を挙げて質問をする。
「先生、【トロイ】を受け入れらない人はいるのでしょうか」
質問をした私に、クラスメートの視線が集まった。しまった、という感情が心に浮かぶ。今朝の祖母とのやり取りで混乱してしまっているようだ。
先生も質問があるとは、思っていなかったのか、少し驚いた顔で。
「【トロイ】を受け入れられなかった人……ですか」
半ば独り言のように私の質問を繰り返し、先生は黒板に向き直った。
【第一世代】【第二世代】【第三世代】。性格を表すような、几帳面な文字で書かれた文字が黒板上に描かれる。
「先ほどの倉敷さんの質問は大変いい質問です」
私の苗字を呼びながら、先生はまっすぐ目を見てくる。クラスにというより、私に語り掛けるように、先生は言葉を紡ぐ。
「【トロイ】の登場という軸で物事を考えると、人は三つの分類に分かれます。まず第三世代。これは、【トロイ】が開発されて以降生まれた人たちのことを指します」
皆さんは第三世代にあたりますね、と先生が黒板に説明書きを付け加えていく。
「続いて第二世代。【トロイ】開発時に、20歳~60歳、第一世代は60歳より高齢な方たちですね。この区分は何を表しているかというと、【トロイ】を受け入れる人が多い、少ない層でカテゴライズされています。例えば、第三世代の人達の【トロイ】受け入れ確率は100%と言われています。【トロイ】がすでに当たり前の世の中に生まれた皆さんは、そもそも【トロイ】を受け入れないという判断自体しようがありません。そこにあるのが当たり前です。いわば空気のようなものですね」
ここまではいいですか?と目で問うてくる先生に軽くうなずく。
「続いて第二世代です。第二世代の人は、【トロイ】ができる前、できた後どちらの世界も体験している人達のことを言います。これは第一世代の人たちにも同じことが言えますね。第一世代と第二世代を分けているもの……それは、順応性……いや、適応力といったほうがいいかもしれませんね」
先生が一度書きかけた文字を消去した。
「【トロイ】ができた時に20歳~60歳だった第二世代の人たちは、比較的【トロイ】のある世界へすぐに慣れました。政府の調査によると、9割以上の人が、【トロイ】のある世界を快適である、と答えています。対して、第三世代になると、実に8割の人が【トロイ】がない世界の方がよかったという回答をしているのです」
先生は眼鏡をくいっと押し上げた。
「勿論、第三世代の全ての人が【トロイ】を嫌っているわけではないですし、第二世代の人が【トロイ】を受け入れているわけでもありませんが。それでも、これだけ統計に差があると、第三世代の人たちは、倉敷さんの言う【トロイ】を受け入れられなかった人ということになるのかもしれませんね」
「何故第三世代の人たちは、【トロイ】を受け入れることができないんですか」
そう私が問うと、先生は少し困った顔で
「一般的には、変化への適応力が年齢と共に落ちるから、ITリテラシーが年配者の方が低いからと言われています」
そこで先生は言葉を切った。何か言うべきか悩んでいるように見える。果たして、数秒の沈黙ののち、先生は、個人的な憶測ですが、と控えめに言葉を紡いだ。
「失うのが嫌なのかもしれないですね」
「失う?何をですか」
「……本物をだと思いますよ」
「本物?」
「どんなにAIが現実に近づこうとも、どんなに人口知能が人間のように振舞おうとも、第三世代の人達からすれば、それはあくまでもデータの集合体。『自分の生きる世界』をまねしているだけの紛い物……そんな風に考えているかもしれませんね」
先生の言った言葉は、私にとって受け入れがたいものだった。今の時代、仮想現実で出会い結婚をするカップルも珍しくない。現実と仮想。それぞれ区別はされるものの、私達からすれば、受け入れる・受け入れないの問題ではなく、当たり前に存在するものなのだ。二つに違いはあれど、好き嫌いという次元の話ではない。
「でも……」
私の言葉を遮るように、終業のチャイムが鳴る。
「おっと、時間が来てしまったようですね。それでは、今回の授業はここまでとしましょう。倉敷さん、聞きたいことがあれば後程職員室に来てください」
ふっ、と私の頭の中に疑問が浮かんだ。
「先生はもしかして、受け入れたくない側ですか」
先生は少し驚いた顔を浮かべ、苦笑いしながら、「どうでしょうね」と言った。
正面玄関にたどり着くと、重く立ち込めた雲から、水滴が一つ、二つ、と地面を濡らし、やがてざーという音と共に本格的な雨に変わった。校庭で準備をしていた運動部が「撤収!」とどこか楽しそうに校舎に逃げ込んでくる。
しまった。朝の一件のせいで、天気予報を見るのを忘れていた。いつもであれば、祖母に傘を持って来てもらうのだが、今祖母に頼るのは嫌だ。
これぐらいの雨であれば、走って帰っても問題ない、そう思いブレザーを頭上で掲げ走り出す。家までの距離は歩いて10分程度。いつもは近いと感じる距離も今日はやけに遠く感じる。
走っている間にも、雨足はさらに激しさを増し、家に着くころにはずぶ濡れになってしまっていた。
「……ただいま」
「お帰り……ってずぶ濡れじゃないの!」
床を濡らしながら歩く私を見て、出迎えた母が驚きの声を上げる。
「もう、言ってくれれば傘を届けたのに。お風呂沸いてるわよ。早く濡れた体をあっためてきちゃいなさい」
「うん、わかった。ありがとう、そうするね」
風呂に向かおうとすると、居間の扉がガラっ、と開き祖母が顔を出した。私の声が聞こえてきたので、様子を見に来たのだろう。
「美香!雨が降っているんだったら、連絡しなさいと前から言っているじゃない。体を壊したらどうすの!」
何でもない祖母の一言に今日はひどくいら立ちを感じた。
ハイハイ、と聞き流しながら、風呂場へ向かう。
「早く、お風呂場へ行っちゃいなさい。濡れたままじゃ風邪ひいちゃうでしょう」
私が居間に向かうと思ったのだろう。祖母が、心配そうに声をかけてくる。
「今から行くところ」
歩きながら、ふっ、と鼻にお線香のにおいが漂ってきた。祖母の出てきた居間を見ると、お仏壇から、紫煙がゆっくりと立ち上っていた。またか、と心の中で嘆息する。と、同時に心に怒りが浮かんできた。
「……ねぇ。いつまで、あんなこと続ける気?」
「あんなことって?」
「お線香」
「それは、ずっと続けるわよ。当然でしょ?だって死者はしっかりと供養してあげることが大切で……」
「―お母さんは死んでなんかいない!」
大声が自分の口から飛び出る。マグマのような怒りがぐつぐつと、自分をつきあがって飛び出てくるのを感じた。
「なんでおばあちゃんは、お母さんが『いる』って認めないの?第三世代の人はこれだから!」
感情的になった私に、最初は驚いた顔をしていた祖母の目が次第に鋭さを増す。
「あんたは、まだそんなこと言っているの!いい加減自覚しなさい。美奈子はもう死んでいるのよ!」
「そんなことない!お母さんはここに『いる』んだ!」
勢いよく振り返った先には、母が心配そうにオロオロと私たちを見ている。自分が原因であるがゆえに、口を出すことができないのだろう。
「お母さんはずっと、ここに『いる』のに!おばあちゃんは、目をつむって見ようともしないんだ」
「見ようとしていないのは、どっちの方だい!いいかい、美奈子は数年前に病気で死んだ。あんたが見ているのは、現実から目を背けたくて作り出した美奈子の幻想だよ!」
心臓がドクドクと脈うち、こめかみを血が駆け巡っていくのを感じた。怒りで目の前が真っ赤に染まる。
「美奈子が死んで辛いのはわかる。でもそんなものにいつまでも頼っていちゃいけないんだよ。いい加減目を覚ましな」
「なんで、そんなひどいこと言うの!」
母が聞いているここでそんなことを言ってほしくなかった。
「お母さん!やめてください。美香も!私は大丈夫だから、ねっ?」
母が必死で仲裁に入る。でも、おばちゃんにその言葉が届くことはない。おばあちゃんには、お母さんを拒絶しているから、声が聞こえない。
「いいかい?死んだ人は絶対に生き返らない。これは自然の摂理なんだ。だからこそ、人間は限りある生を必死に生きるんだよ。【トロイ】だがなんだか知らないが、あいつのやっていることは死者への冒涜さ。いい加減気づきな!」
ガッ、と祖母が、私の手をつかむ。その手を振り払い階段を駆け上がっていく。「美香!」と階下で祖母の声が追いかけてきたが、無視して駆け上がる。今は一刻も早くひとりになりた買った。
雨は降りやむことなく、窓を叩く。むしろ自分が帰ってきた時よりひどくなっているくらいだ。
濡れた服を着替えベットにダイブした。ぼふっ、という音と共に羽毛が私を優しく包み込む。
「お母さん」
「何?」
呼びかけた私の声に『母』が答えた。
「お母さんは、怒らないの?おばあちゃんにあんなこと言われてさ」
「おばあちゃんだって悪気があったわけじゃないのよ。ただ、美香のことが心配だったの」
優しく『母』がほほ笑む。娘に対する、確かな愛情がその表情から読み取れた。
『母』は、本当の母ではない。それどころか、人間ですらない。
FAMILY。【トロイ】の技術を使い開発された、「家族を亡くした人のための家族」。故人の生前の記憶、思考、趣味趣向、その他膨大なデータから作られた、いわば電子上の家族。【トロイ】無しでは、生活もままならない近年において、個人情報全ては【トロイ】に蓄積されている。膨大なデータをもとに作成されるFAMILYは、ある実験によるとほぼ100%の精度で、本人と同じ思考をすると言われている。
私の母は、私が幼稚園の頃に死んだ。もともと生まれつき体が弱かった母。物心つく前に死んでしまった母の思い出はほとんどと言っていいほどない。父は、商社勤めで、年間のほとんどを海外で過ごしている。
そんな私の面倒を見てくれたのが『母』であった。つまり、ここに浮かぶ電子上の『母』は母と全く同じ思考をし、同じ言葉をかけ、そして母と同じ愛情を注いてでくれるのだ。
それなのに、祖母は昔からの古い考えを捨てきれず、『母』を肯定できずにいる。故に『母』を認識するために必要な、電子デバイスも使用していない。祖母に『母』の声は届かない。だからこそ、あのようなひどいことが言えるのだ。
目を閉じる。一日気が高ぶっていて、気疲れしているのだろう。体がベッドに沈み込んでいくような感覚を感じ、いつしか私は眠ってしまっていた。
目の前で母が笑っている。いつも仕事で世界を飛び回っている、お父さんも一緒だ。二人が私のことを手招きする。喜んで駆け出すものの、二人と私の距離は全く縮まらない。それどころか、徐々に距離が遠ざかっていく。待って、私を置いていかないで……。
飛び起きた。時計を見ると、帰って来てから、一時間が経過している。どうやら、目を閉じている間に寝てしまったようだ。全力疾走をした後のように、自分の心臓は悲鳴を上げ、服はぐっしょりと寝汗で濡れている。なんだか、頭がぼうっとする。体温を測ると、38度。雨に濡れたまま、寝てしまったのがよくなかったようだ。
「おばあちゃ……」
呼びかけて、口をつぐむ。今、祖母に風邪を引いたと知られるのは、なんだか祖母の意見を肯定しているように感じて嫌だ。
「どうしたの美香。ひどい熱じゃない」
『母』が心配そうに声をかけてくる。平気だよ、と首を振る私にさらに『母』は言い募る、
「平気じゃないでしょ。38度も熱があるなんて。おばあちゃんに言って病院に連れて行ってもらいなさい」
「大丈夫だってば。こんなの寝てれば治るし。今はおばあちゃんと話をしたくない」
「そんなこと言っている場合じゃないでしょ!何かあってからじゃ遅いのよ!変な意地張らずに、おばあちゃんに言いなさい」
「絶対に嫌」
「美香―」
「うるさいな!」
思わず、電子デバイスのスイッチをオフにする。ブンッ、という音と共に、『母』の姿が掻き消え、うるさいくらいの静寂が戻ってきた。あくまで、自分の視認スイッチをオフにしただけで、実際には『母』は、そこにいる。スイッチをオンにした時には、かなり怒られるだろうなと、ぼうっとした頭で考える。
とりあえず、びしょびしょになった服を着替えよう。そう思って、パジャマに着替える。また、這うようにして、ベッドに戻り目を閉じた。かなり高熱が出ているようだ。息が苦しい。
そういえば、昔もこんなことあったな。熱でぼうっとする頭に、かすかな記憶が浮かぶ。綿あめのように、ふわふわと思考が定まらない。色々な風景、音が気泡のように浮かんでは消えていく。
「美香!」
母の声がした。【トロイ】の電源は切ったはずなのに、と不思議に思いながら薄目を開くと、母の顔が目の前にあった。私は、下から母を見上げるような形で、腕に抱かれている。
おかあさん、と呼ぼうとしても、高熱のせいか声は出ない。代わりとばかりに、弱弱しく母の首を抱きしめた。
「もう少しだからね!絶対に治してあげるから!」
大粒の雨が母の顔を叩く。私にカッパを着せて、濡れないようにと前かがみで待っている母。
懐かしい。ぼんやりとした頭で思う。子供のころの私は、病弱で、よく熱を出しては学校を休んでいた。あの日も、朝から体調が悪くて、学校に行けなかったんだっけ。夜に突然熱が上がってしまって、救急車で病院に搬送されてしまったのだ。ほとんど記憶に残っていないけど、いまだにあの時は大変だった、と親戚から話を聞かされたりする。生死の境をさまような、そんな大病だったと。お母さんに感謝するんだよ?よく言われていた。
今ではとても元気!とは言えないけど、日常的に熱を出すほど病弱ではなくなった。
母の記憶はほとんどない。なんだか、下から見る母の顔が、私が一番見ている顔だったような気がしてきた。私に心配かけまいと、大丈夫、平気だからと笑顔を私に向けてくる。その顔を見るだけで、どうしようもないほどに心が安心してきた。母の声が急速に遠くなっていく。安らぎの中、私は目を閉じた。
ゆっくりと目を開ける。目に飛び込んできたのは、見慣れたベージュ色の天井。ゆっくりと体を起こし、周りを見渡す。私の部屋だ。どうやら、夢を見ていたらしい。時計で時刻を確認すると、朝の7時。どうやら、12時間以上寝てしまったようだ。寝ている間に熱は下がったようで、頭はずいぶんとすっきりしている。頬に手を当てると、手に水滴がついた。夢で泣いてしまうなんて小学生のようだ、一人決まりの悪さにため息をこぼす。
とりあえず、着替えをしようとクローゼットを開く。と、唐突に左下に黒い箱が見えた。この箱には、お母さんの遺品が入っている、と祖母が言っていた。でも一回も開けたことがない。ほとんど記憶にない母。いつも一緒に『母』がいてくれる私は、一度もその箱を開けたことがなかった。
あんな夢を見たせいだろうか。私は、箱を手に取った。思ったより重く、ぐっ、と気合をいれて箱を持ち上げる。
クローゼットから取り出し、箱を開く。そこには、数冊の本、いや、表面に、「ダイアリー」と記載されており、どうやら日記帳のようだ。全て同じ体裁の日記帳だが、それぞれに1~5のナンバリングがされている。1と書いてある日記帳を手に取り、ページを捲る。そこに書かれていたのは、全て私のことだった。
〇月〇日
娘の成長記録のために、今日から日記を書きます。名前は美香。世界一可愛い、と思うのは、私の親バカかしら(笑)。私のところに生まれてきてくれてありがとう。これからよろしくね。
〇月〇日
今日で退院。お世話になりました。美香は、自分がどこに連れていかれるのか、不安みたいで、ピーピー泣き叫んでいる。泣き叫べるってことは、元気な証拠だ。私の体の弱さを引き継いでいないみたいでとりあえず一安心。娘には、幸せな人生を送ってほしい。
〇月〇日
今日、なんと美香が初めて、しゃべりました!記念すべき一言目は、「ママ」!やっぱり仕事で、外を飛び回っているパパは最初にしゃべってもらえませんでした(笑)。メールでパパに知らせたらとても悔しがっています。それにしても、子供の成長は本当に早いと実感するなぁ。
〇月〇日
今日初めて、美香が高熱を出した。苦しそうな美香を見るのは何よりもつらい。私の体の弱さが伝染してしまったのだろうか。自分の体の弱さが嫌になる。美香だけは、何としても守り抜かないと。
ページを捲っても捲っても書かれているのは私のことばかり。よく飽きもせず毎日毎日、と少々あきれ気味になりつつも、ページを繰る手は止まらない。1冊、2冊、ナンバリングされている日記帳を読み進める。段々と、日付の間隔が開いていき、心なしか文字も汚くなったと感じる。3冊目、4冊目になると、まるで当初とは別人が書いているかのように、弱弱しい文字になっていた。この日記は最後まで読まなくてはならない。そんな使命感に突き動かされ、私はページを捲り続けた。
そして最後のページ。そこには、「美香へ」と書かれた手紙が入っていた。
美香へ
この手紙を読んでいるということは、私はおそらくもうこの世にはいないのでしょう。お医者さんや、お父さんにそんなことを言ったら怒られてしまうかしら。そんなことないって。必ず元気になれるって。それでも、やっぱり私はもう長くはないと思うの。多分もう今日が、何かを書く、ってことができる最後の日。だからこそあなたに、思いを伝えたいと思って筆を執りました。
まずは、ありがとう。私のところに生まれてきてくれて。初めてあなたを胸に抱きあげたときの幸福は今でも鮮明に思い出せます。小さな手が私の指をぎゅっ、と握った時に、ああ、生きていてよかった、と本当に思いました。
次にごめんね。最後まで一緒にいれなくて。本当は、あなたの成長をずっと見続けていたかった。毎日あなたの傍にいて、あなたの成長を間近で見て。ずっとあなたと一緒に生きていきたかった。体が弱いお母さんで本当にごめんね。
短い間だったけど、あなたと過ごした3年間は、私の生涯で一番の宝物。あなたは本当に私の誇り。美香。私の大切な子供。心からあなたの幸せを願っているわ。私は遠いところに行ってしまうけど、あなたのことをずっとずっと、見守っているから。
大好き――そんな言葉で手紙は終わっていた。
ポタリ、と手紙に水滴が落ちる。
そうだ、なんで忘れていたんだろう。母はいつでも、私のことを第一に考えてくれていたのだ。3歳で亡くなってしまった母。優しく私を抱き上げてくれた、私が高熱を出したときは、自分もつらいはずなのに、一晩中傍で励ましてくれた、無償の愛を私に注いでくれた。思い出が、濁流のごとく、私の頭に押し寄せてきた。
なんで忘れてしまっていたのだろう。わかっている。私は、目をそむけたのだ。幼い頃に亡くなってしまった母など知らない。私には、『母』がいる、と。
確かに、【トロイ】による膨大なデータをもとに作られた『母』の反応は、母そのものだろう。だが、お腹を痛めて生んでくれた、誰よりも私を愛してくれた母と『母』は果たして同じなのだろうか。
「お母さん……」
つぶやく。流れ出る涙をぬぐおうともせず、私は手紙を抱きしめた。
「ご馳走様!」
「お粗末様でした」
食べ終えた食器を水に入れる。早くしないと、遅刻するわよ、という祖母の声にはぁい、と生返事を返す。
あれから。すぐに祖母に謝り(怒鳴ったことより、風邪を引いたのを黙っていたことを怒られた)、お母さんの手紙の話をした。
渡された手紙と日記を見ると、祖母は目を潤ませた。母からの遺言で、美香には黙っていてほしい、と言われていたみたい。祖母も中に何が入っていたのかは知らなかったみたいだ。
「おっと、忘れるところだった」
スクールカバンを抱え、玄関に向かおうとした足を急カーブ、居間に戻る。
チーン、ととりん(最近名称を知った)を鳴らす。目の間には、明るく笑う母の写真。
「行ってきます」
目を閉じ、心の中で母に話しかける。あれ以来、【トロイ】の『母』は起動していない。寂しくないといえば、うそになる。だけど、私にとっての母は、天国にいる母ただ一人だ。そう思うことにした。
「やばい、遅刻しちゃう」
あわただしく靴を履き替え、外に飛び出す。天気は快晴。空模様のように、私の心は晴れやかだ。
ふと、「いってらっしゃい」と、母の声が聞こえた気がした。その声に背中を押されるように、私は、幸せへの一歩を踏み出した。
了