妊婦
「次の方をお願いします」
看護師に声をかけて患者さんを呼んでもらう。
「どうですか、体調は?」
「ちょっとつわりが酷くて……」
「状態にもよりますが、軽い運動をしてみて下さい。それと難しいかもしれませんが、水分補給だけは欠かさないようにしてくださいね」
※
「お疲れ様です、真上先生」
下林看護師が声をかけてくれる。
彼女はここに来たばかりの私を普通に扱ってくれる数少ない看護師だ。
男の産婦人科医の偏見は、どこに行こうともそうそう変わるものではないのは、今までで何度も経験している事ではあるが、ここ『近藤中央病院』 は特に酷い。
無言は当たり前で、エコー写真を持って来てすらくれない時もあり、業務に支障が出始めている。
「そろそろいつもの方が来る時間ですね……」
そう短く話すと下林さんは処置室の方へと逃げるように去っていった。
まあ私自身、本当は逃げたくもあるのだが。
彼女の背から目を離すと、いつの間にそこにいたのか妊婦用のワンピースを着た髪の長い女性が座っていた。
この現象を目にしてから4か月、慣れてきている自分が怖くもあった。
「先生……か?」
※
「妊婦の幽霊、ですか?」
院長である近藤一朗と院長室で初めて会った時、私の彼に対する印象はあまり良くなかった。
良くいるワンマンな院長で、腰巾着を侍らすのをよしとするような男。部屋の内装もそれに合わせたような豪奢な造りで、座っているソファーもそこそこに値がしそうな代物だった。
本当ならばこんな所で働くのは勘弁したかったが、先月勤めていた病院の院長が死去し継ぐ人もなく潰れてしまい、職にあぶれた身としては声をかけてもらった恩義を感じてはいる。
とはいえ、幽霊などという奇怪な話を急に言われても困ってしまうのだが。
「そうだ。君が勤めることになる産婦人科には、男の医師が入ると必ず正午にワンピースの女性が現れるんだ。とはいえ、ソレが君に何かをする事は一切ないから安心してくれたまえ」
そう言って立ち上がると私の横に来て、
「安心……ですか」
「ああ。そういう訳だからよろしく頼むよ、真上伸和先生」
肩を叩いた。
「さあ、真上先生は帰られるそうだ。案内して」
そう告げると廊下とをつなぐ扉が開かれ、院長付きの秘書が姿を現した。
「では、産婦人科まで案内させていただきます」
と、吊り上がった目が印象的な彼女は頭を下げた。
「よろしく頼むぞ」
院長が言うと再度彼女は頭を下げ、私は半ば追い出されるように院長室を後にした。
「ああ、私だ。最近の男女雇用なんとかっていうのは必要なのかね? わざわざ要りもしない者を雇うなど……」
背後の扉からそんな声が聞こえた。
金をかけるのならば扉を厚くすればいいものを。
※
「先生……か?」
初めて彼女を見た時には四十も半ばだというのに声が出てしまった、音もなく診察室に現れてはそのまま消え去ってしまったのだから。
ただ院長の言うようにこちらに何かをする事もなくスッと消え去っては、次の日にまた現れるを繰り返すだけだった。そうなると、慣れてしまうまでそんなに時間はいらなかった。
彼女の方をチラリと見て、一瞬目を離すともう居なくなっていた。
「さて、休憩に入るか」
椅子から立ち上がり、処置室へと入る。
「帰りました?」
下林さんが尋ねてくる。
「ああ、いつも通りさ」
「……良かった。でも、先生はよく対応できますね」
「まあ、なんにもしてこないからね」
「そうですか? 私は彼女が現れるとちょっと寒気がするんですよ」
「うーん、確かに最初の頃はそういう感じもあったけど今はなにも。気にするだけ無駄なんだろうと思うし」
「あと……お腹に違和感を感じるんですよ」
そうやって彼女は下腹部をさすった。
※
「幽霊が出るって? 兄さんにしては面白い冗談を言うんだね」
妹の姫香がこっちに来るという事で、非番だった私は夕食へと誘った。
とはいえ堅苦しいレストランなどではなく、ごく普通のチェーン店の居酒屋なのだが。
「冗談なんかじゃない。ワンピースの女性が目の前で消えるんだよ、まるで手品みたいに」
「ホントに? まさか……お酒飲んでる訳じゃないわよね?」
「仕事中にそんな事をするわけないだろ」
「だよね。そんな事をするような兄さんじゃないし」
と、ビールジョッキを傾け美味しそうに飲み干す。
「それにしても幽霊なんて実在するんだね」
「自分で見てもいまだに信じられないよ」
「にしてもさ、その人ってどんな未練があるんだろうね?」
唐揚げを箸でつまみながら、たいして本気では話していないのに、姫香はそんな事を言い出した。
「未練?」
「よく言うじゃない、幽霊ってのはこの世に未練があるから出てくるんだって」
心霊番組なんかでさ、と唐揚げを頬張る。
「その人も、なんかあったのかもね」
その言葉が妙に引っかかった。
※
「下林さんって、ココに勤めて長いんだっけ?」
姫香と会った翌日、それとなく探りを入れてみる事にした。
とはいえ、私が問いたださせる相手なんてのは彼女しかいないのだが。
「いえ、三年くらいですかね」
「あのさ。聞きづらいんだけど、この病院って過去に何かあったの?」
不意に投げた言葉に、後ろ姿で作業をしていた彼女の手が止まる。
「……いえ、特には」
「本当に?」
「ええ、なんにもないですよ。ウチの科には」
「ウチには? なら産婦人科以外にはなにかあったの?」
「すみません。これ以上は……ちょっと」
と、そそくさとその場を立ち去って行ってしまった。
※
気になった私はネットで調べてみた所、この病院の色々な過去が分かった。
その中でもひとつ気になる記事を見つけた。
『母子絞殺事件』
詳細な事は書かれていなかったが、病院内で妊婦である母親とそのお腹の子が亡くなる事件があったらしい。
犯人は捕まったものの、いまだに服役中だとか。
「彼女の未練はそこかもな……」
※
「先生……か?」
いつものように現れた彼女は、いつものようにお腹に手を当てていた。
その首筋には左側五本、右側五本の大きな痣がある。
「先生……ですか?」
事件の内容を知り、彼女の事を知った今、ようやく彼女が何と言っているのかを理解できた。
「先生、私の子供はどこですか?」
彼女はこの病院で生きたまま腹を裂かれ、お腹の中の胎児を引き抜かれ、そのまま絞殺された。
犯人は彼女の元恋人だったそうだ。
無理矢理生まれさせられた子供を抱えた男はその場で取り押さえられ、小さな命は懸命な治療を受けたが、その甲斐もなく亡くなってしまったらしい。
「先生、私の子供はどこですか?」
彼女は軽くなってしまったお腹を押さえながら、いつまでも尋ねてくるのだろう。