第49話 さよならと、これからも(前)
エリスにおぶってもらいながら屋敷に戻った、その日の夜。
私は部屋に備え付けられた机に向かい、ある一枚の紙に文字を書き進めていた。
夜はほとんどの人が寝てしまい、あまり音は鳴らない。そのため、筆の進む音が妙に大きく響く。
そして、机に向かうこと一時間。
「…………よし、これでいいかな」
私は静かに筆を置き、両手を伸ばして背伸びした。
かなり集中していたせいなのか、身体中が凝り固まってポキポキと骨が鳴る。
「……ん、んん……はぁ……少し、疲れたな」
でも、これで終わりではない。
最後の仕上げに書き上げた一枚の紙を折りたたみ、折れないよう気を付けながら封筒に入れ、口に封を施す。
「これで、完成だ……さて、と……」
私は出来上がった物を机に置いたまま、部屋を出る。
エリスの屋敷にはかなりの数の使用人さんが働いているけれど、全員がもう寝静まっている。唯一起きているのは、見張り番として雇われている兵士の人達くらいだろう。
誰もいない廊下からは、暗さも相まって不気味な雰囲気を感じる。
でも、怖いとは思わなかった。私の中にあるのは、僅かな緊張とワクワクした興奮だ。……これが学校の廊下を深夜徘徊する生徒の気持ちなのかなぁと思いながら、私は誰もが寝静まった廊下を音を立てずに歩いた。
「エリスは……まだ帰って来ていないか」
通りがかったエリスの寝室は、まだ暗いままだった。
彼女はいつもこの時間はまだ起きている。だからもう寝てしまったということはないだろう。
私を屋敷に運んだエリスは、すぐに王城へと戻った。
何を話しに行くのかと心配になって引き止めたけれど、エリスは私に「大丈夫だ」と微笑んで行ってしまった。振り向きざまに一瞬だけ見えた彼女の表情は、何かを決意したように固く、私はたった一人であの場所に向かうエリスのことが無性に心配になった。
でも、エリスは大丈夫だと言ったから、私は彼女を信じることにした。
エリスはそれからまだ一度も帰って来ていない。
「でも、帰って来なくてよかったのかも……」
もしここでエリスが居ることを知ったら、きっと私は途中で折れてしまっていただろう。
「…………私が、私自身が決めた道なんだ。今更、折れることなんて出来ない」
だからこそ私はこの言葉を置いていく。
今までの感謝と、これからの謝罪を込めて──この言葉を。
「さようなら、エリス」
私は兵士の人に見つからないよう、屋敷を出る。
そして誰もが寝静まった夜の街を、一人で歩き始める。
それまで一切口を開かず、真っ暗な道のりの中でようやく目的の場所が見えて来たその時──
「本当に行っちゃうんだねー」
「──っ! ────!」
不意に後ろから声を掛けられた私は即座に前方へと跳躍し、空中で身を捻って振り向きながら、背後に立った人物を警戒したように睨みつける。
「あらら、そんなに警戒しないでよ。傷付いちゃうなぁ、全く……」
マイペースなゆったりとした口調。
私のスキル『暗視』のおかげではっきりと見える声の主は、灰のように真っ白な髪を大きく二つに纏めて縛った少女だった。
「……ミーア…………どうして、こんなところに」
ミーアは学園で知り合った数少ない友達だ。
でも、そんな知り合いとの再会を喜ぶことはなく、私は警戒心を解かないまま静かにミーアを見据えた。
集中していたというわけではないけれど、それなりに周囲を警戒して歩いていた。
なのに、ミーアが近付いてくる気配はおろか、真後ろに立つことを許してしまっていた。
気配を殺すなんて言葉では足りないほど、彼女のそれは異常だった。
「……いやぁ、ねぇ……なんとなくこうなるだろうなぁって思っていたから、ここで待っていたんだよ」
「…………流石は情報屋。頭は回るみたいだ」
「お褒めに預かり光栄だよー」
いつも通りの飄々とした態度で、ミーアは笑う。
……彼女は同じ学園の生徒だ。
私とレティシアの決闘を見ていただろうし、周りの反応も知っているだろう。
そして、彼らが私のことをどう思っているのか、私がどのような選択をするのか。
──彼女は、すでに予想していたのかもしれない。
どんな情報屋だろうと、そこまで頭の回る奴が居るのだろうかと疑うような話だ。
でも彼女の貼り付けたような笑顔を見ていると、不思議とミーアなら出来るのではないだろうかと思ってしまった。
「ふーん? カガミはそこまで許しちゃってるんだね……これは予想外だ」
「……なんのこと?」
「カガミの中に渦巻く闇の力が、君の核心に強く染み込んでいる。と言っているんだよ」
まるで全てが見えているように、ミーアはそう言った。
「なるほどなるほど。あいつとカガミは相性が良かったというわけだ。本当に、今こうして王都が無事なことが奇跡なくらいだ。それもあの騎士のおかげなのかな? あははっ、私達はあの人に感謝をし続けなければならないね」
さっきから何を言っている。
ミーアは何を、どこまで知っている。
そう問いかけたい気持ちはあった。
でも、どうせ適当にはぐらかされて教えてくれない。
ミーアの薄く冷たい……仮面のような笑顔を見ていれば、自然とそのような予想がついた。
「……あれ? もう一本の剣はどうしたの?」
ミーアは、私の腰を見つめ、不思議そうに首をかしげる。
「ミーアならわかっているんでしょう? ……捨てられちゃったんだ、あいつらに」
「まだ池に残っているかもしれないよ?」
「…………どうせ見つけても、私にはあれを持つ資格が無い」
「ふぅん……まぁ、カガミがそう言うのなら、ボクは口出ししないさ。……でも、本当にいいのかい?」
「いいのって……どういうこと?」
「それでカガミは後悔しないのかなぁ、って思っただけだよ」
意味がわからない。
でも、心の何処かではミーアの言葉を理解している自分がいた。
「君は一度後悔したはずだ。──もっと強くなりたい。もっと早くなりたい。もっともっと考えられるようになって、守りたい人を守れるようになりたい。そんな後悔をしたはずだよねー?」
「ミーア、お前は一体……!」
「また逃げるの? 自分の弱さから、君はもう一度逃げるの?」
「──っ! わた、し、は! …………くっ……!」
まるで見てきたかのような言葉に、私は何も言えなくなっていた。
「決闘は私も見たよ。でも、王女様はカガミと同じだねぇ。助けようとして、足掻いて、自分すらも犠牲にして……でも結局は、何も変えられなかった。全ては無駄だった。助けたい人すら助けられない。そんな弱い者同士だ。
エリスって騎士は試練に合格したみたいだけれど……やっぱり変わらない。根本的な部分は、何も変えられなかった」
「違う! シアは限界を尽くしてくれた。エリスだって命懸けで私を……! 応えられなかった私が弱いだけだ!」
「──そう。君は弱い。結果から逃げたままじゃ、絶対に君は強くなれない。それでも行くの?」
確かに、これから私は逃げるのだろう。
全てから、辛い未来から逃げるんだ。
『もう絶対に離さないからな!』
そう言って、最後まで誓いを守り抜いてくれたエリスの心を、私は今から裏切ろうとしている。
全てから逃げるという、自分の弱さだけのために。
でも……それでも私は決めたことがある。
「…………行くよ」
私は悩み、それでもはっきりと口に出した。
「今は逃げる。強くはなれないのかもしれない。でも、ここにいるよりはマシだと思った」
私は目を逸らさず、強い意思を持ってそう言った。
ミーアは一瞬だけ目を見開き、そして静かに瞠目する。
「……そう、それがカガミの意思なんだね……うん、あそこは腐っている。カガミには相応しくない。やっぱり残るなんて言い出したら、ボクが君を攫って遠くに流していたよ」
さらっと怖いことを言われたような気がする。
……どうやら私は、ミーアに試されていたらしい。
「好きに生きると良いさ。それが君という人を見つけるための旅だろうから」
「ミーア……」
「──じゃあねカガミ。君の旅立ちに女神ミリアの祝福がありますよう……」
祈るように両手を組み、私にそんな言葉を贈ってくれるミーアは、不思議と様になっていた。




