第2話 異世界ゴリラとの遭遇
あれから少し経ち、私は倒木に腰掛けて落ち着きを取り戻していた。
その間、私は自分の置かれている状況を確認していた。
ここは一体何処なのだろうか。森という場所的な話ではなく、この場合もっと大きな枠組みで考えた話をしている。
つまり、ここは本当に地球なのか? ということだ。その答えはおそらく、ノーだろうと結論付けた。地球という世界にあんな獣がいたら、今頃テレビで大問題になっているに違いない。殺人犬とか笑えない。
夢だから変な怪物が出てきてもおかしくはない。そういう考えもあるかもしれない。でも、世間に疎い私でも、いい加減ここは夢ではないと理解した。
本当に夢なら、私は何も感じないはずだ。痛みなんて一切感じないはずだ。しかし、獣に襲われた時に付けられた腕の傷。それが今でもじんわりと私を侵食している。
ということは、だ。ここは夢ではなく、現実。それも地球ではない何処かということになる。
私は地球で死んだ。それだけは間違いない。だけど私は、こうして生きている。それも事実。
……そういえば以前テレビで見たことがあるなと、私はとあるニュースを思い出した。
死んだと思ったら、いつの間にか別の世界にいた。そんな物語が世間で流行っていると。それは異世界物語という。
つまりここは────
「異世界、らしい……?」
理解しようとしても実感が湧かない。しかしここが異世界なのだとわかったら、心の中で渦巻いていた疑問がスッと消えたように感じた。
転生……いや、姿は前と同じままだ。
伸びきった黒い髪の毛と同じ年代では平均的に小さい身長。黒に近い茶色の目。どれも傷以外は地球にいた時の鏡と同じだった。不思議なことに着ていた服も綺麗になっている。全ての傷と汚れが、私と私に接触しているものからなくなっていた。
ということは──これは転移だ。
私は自らの置かれている状況を理解することができた。
それと同時に、次の問題が私の中で出てきた。
「これから、どうしよう」
もう父親に暴力をされ続ける生活はなくなった。それはとても嬉しいことで、私の悲願だった。嬉しすぎて今すぐこの場で、体の全てを使ってこの喜びを表現したいくらいの気持ちの高ぶりだった。
でも、いざ自由になると、何をすればいいのかわからない。今まで何もできなかったせいで、どうしようという気持ちが、私の中でより大きいものとなっている。他に人ならすぐに行動できる些細なことなのだろうが、私は結構本気で困っていた。
「とりあえず何か武器が欲しい……」
また獣と同じような奴が出てきたら困る。臭い奴に対して肉弾戦を挑むのは勘弁したかった。となれば私は、あの獣にやられた人のところに行ってみようと思った。何か使える物を持っているかもしれない。
剥ぎ取りみたいで申し訳ないとは思う。けど、生きて行くためには必要なことだ。
「う、直視できない……」
獣にやられたのは男性だった。全身が血だらけで、獣に食われていたせいで内臓が飛び出している。正直グロい。前世の私よりも酷い状態だった。当然だ。死んでいるのだから。
「けど、これは使えそう」
男が使っていたであろう細身の剣と、身を包む少々ボロいマント。
それを拝借して、私は歩き出す。
新たな旅立ち。希望に満ちた冒険譚の始まりは──意外に早く邪魔される。
「ぐおぉおおおおおおおっ!」
歩いて僅か数分したところ。木々を掻き分けてやってきたのは、三メートルはあるだろうと思われる巨大のゴリラだった。ゴリラだ。びっくりするくらい大きなゴリラだ。重要なことだから何回も言った。
奴は興奮しているのか、私を凝視して激しく胸を叩いている。あれはドラミングという名前の仕草だというのは知っていたけど、何であれをやるのか私は理解していなかった。……でも、敵意があることだけは十分理解できた。
「やばい、どうしよう……」
私の何倍もある巨体が目の前で激しく動いているのは、私にとって恐怖以外の何物でもなかった。普通ならトラウマレベルだ。だからって意識を手放してしまったのなら、確実に私はここで死ぬ。
「なら、やるしかない」
剣を構える。私は剣なんて振った経験ない。剣道なんて習えるはずもなかった。
しかし、適当に振って当てれば、傷くらいは付けられるだろう。そう思った私は、ゴリラの足に思い切り剣を振り下ろした。
「……ぐるぅ?」
ガキンッと硬い音を立てて、剣は簡単に弾かれた。ゴリラは全くダメージを受けていない。むしろ勝手にバランスと崩した私に首を傾げている。本気でやっても傷一つ付けられないことに私は呆然としながら、それでも諦めないと何度も剣を振る。
「この、この、こ──がっ!?」
それは体の周りを飛ぶハエを払うように、適当に腕を振るっただけの仕草だった。
咄嗟のことで反応できなかった私は、その払い攻撃に直撃してしまう。何度も地面をバウンドし、剣を地面に突き立ててようやく止まる。
「が、げほっ! ごほ、ごっ、ぐ、あ…………」
たった一撃。それを受けただけで、私の体は限界だった。
目眩がする。体全体に鈍痛が響き、上手く力が出ない。握る手が震え、何とか剣を杖のようにして立ち上がるけど、足が笑ってすぐに地面に座り込んでしまう。
ゴリラはそんなこと御構い無しにゆっくりとその巨体を動かし、私の足を掴み上げる。視界がぐるりと反転した。
逃げなければと思った。少しでも抵抗をしなければダメだと思った。幸いなことにそれに体は応えてくれた。握っていた剣をゴリラの右目に突き刺す。
「ぐるぉおおおおお!?」
「カッ、がはっ!」
初めてゴリラに与えたダメージ。
それは奴にとって予想外だったらしい。ゴリラは剣が突き立てられた右目を抑えながら暴れる。怒りで空いている方の腕を振り乱し、それに掴まれていた私は木や地面に何度も叩きつけられた。頭から流れた血が目に入り、視界が真っ赤に染まる。
もう痛すぎて何が何だかわからない。今、どこがが地面なのか。どこが空なのかわからないほど、意識が朦朧としていた。
私はもう死にかけだ。それに対して、ゴリラは右目に傷が付いただけ。
……何だそれ。と私は内心愚痴る。
その硬さと剛力はずるい。さっきの狼のような獣の時だってそうだった。自分は何の力も持たない人だというのに、何で奴らは理不尽に力を振るってくるんだ。
その強度が羨ましい。その力が羨ましい。その巨体…………は別にいらない。ゴリラの持つ力の全てが羨ましくて、とても妬ましかった。
──その力を頂戴。
──私にもお前の力が欲しい。
【承諾。肉体強化、硬質化、金剛、剛力、豪腕、威圧、打撃耐性を取得しました。斬撃耐性と打撃耐性が結合され、物理耐性に変化しました。
種族『人間』から『亜人』に進化します。進化に伴い、体の損傷部位を元の状態に復元しました】
──まただ。
また、声が聞こえた。誰だ。知らない声だ。
また体が軽くなった。それまで悲鳴をあげていた体が、突如として何も感じなくなった。
ゴリラの暴走はまだ続いている。なのに痛くない。ただ耳障りだと思った。掴む腕も邪魔なだけだ。そう感じて握り返すと、私の細い指が、ゴリラの大きな手に食い込んだ。
「ぐるあああああああああ!?」
咄嗟にゴリラは小さな体を放り投げ、思い切り地面に叩きつけられた。微かにクレーターのようなものが出来上がるけど、やはり私に痛みは感じなかった。ただ全身が麻痺している時のように、衝撃だけが伝わった。
「ぐあぁああああああ! ガァ!!」
ゴリラは怒り狂い、周囲の木を薙ぎ倒す。
……うるさいなぁ。
最初に感じた気迫は、もう私にとってどうでもよくなっていた。本当にどうでもよくて、ただただ目の前のゴリラが邪魔だった。
私は不思議に思う。自分を追い詰めたゴリラのことを、今は脅威と感じなかった。そんなことはないのだが、今の私には不思議と弱そうに見えてしまったのだ。
ゴリラは私の何倍もある腕を突き出そうと備える。
あの時、虫を払う程度の仕草で、私は死にかけた。
今度の攻撃は、私を本気で殺そうとしているのだろう。
走馬灯のようにゆっくりと迫ってくる拳を、それでも私は危険だと思わなかった。
拳が突き出される。
私は冷静に横に避け、伸びきった腕に力任せの蹴りを叩き込んだ。
奴の腕は破裂し、そこから大量の血が吹き出した。正面にいた私は真っ赤に染まる。
ゴリラは何度も私と、消失した腕を交互に見る。
そして顔面を蒼白にさせ、断末魔の叫びを上げる。そのうるささに私は耳を塞ぎ、暴走を危惧して後退するも、ついぞゴリラが攻撃してくることはなかった。
「ぐあぁ! がぁああ! …………ぐるぁああああああああ!!」
「あ、逃げた」
脱兎のごとく、巨体に似合わない情けなさで、ゴリラは私に背を向けて逃げ出した。
呆気にとられた私は追うことを忘れ、その場でポカーンと立ち尽くす。
「…………まぁ、いいか」
追うのも面倒だ。追ったところで何もメリットはないだろうし、とにかく私は疲れていた。死ぬ寸前までいったのだ。もう限界だった。
「剣は…………あ、ゴリラの目に刺さったままだ」
どうにかして武器を取ったと思ったら、早速それを失くしてしまった。
ゴリラを逃してしまったことよりも、武器を失くしたことへのショックが大きく、やっぱりあいつを追いかけようと私は決心して走り出した。