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第二章

気の利いた言葉が思い浮かびません。

とりあえず皆様におかれましてはお元気でしょうか?

私は一応元気です。(肉体に関しては)

未だにインフルにかかっていないのは奇跡みたいなもんです、たぶん。

8/1



ここへ来てから一年とおよそ半年になるが学園都市の外へ出たことは一度もなかった。


というのも通常の生活の中で、外へ出る必要性は皆無だからだ。町の外へ出たところで映画館やらテーマパークがあるわけでもないし、英会話教室やジムも当然ない。それにそもそも学生が外へ出るには特別な手続きが必要になる。


保護者や学校の許可なしでこの都市から出ることはできない。


例えば俺やねね、小嶋みうのような寮生の場合、寮長による外出許可に加え、学園側ないしは研究機関といった二重のチェックを通して初めて外へ出るためのゲートをこえることが可能になる。ミルフィーのような実家暮らしの学生は、保護責任者と学園側が関与することになる。


ただ彼女の場合は、父が研究センターの職員なのでかなり例外的なケースであるかもしれないが。




俺たち四人は課外活動で学園都市の南方に位置する湯方町へと向かっていた。諸々の手続きを済ませ、無事外出許可を得て、厳重な南ゲートを通り、湯方へ至るまでの峠ともいえるハイキングコースを延々と登っていた。


こうして外へ出てみると、学園都市が海岸線沿いに連なる急峻な岸壁を切り開いてできたきわめて限られた土地から生まれた閉鎖的な都市空間であることがよくわかる。たとえ似たような生活レベルを送るにせよ、平坦な土地に身動きの取れなくなった蔦のように無数の交通網が絡まり、際限なく町が続いている東京とはわけが違う。


東京にいるときには考えもつかなかった一つの事実として、俺たちが大人達に与えられたあまりにも限定的な環境で生活しているというものがあるが、それがよくわかる。


容赦ない熱気と、鳴りやまない蝉のやかましさだけで十分に自然の厄介な側面を我々に教えてくれる。それらすべては本質的に我々の従属可能な対象ではない。


中核に研究施設があり、海沿いに行けば病院があり、道路網は比較的規則正しく発達し、道路に沿って建物がこれまた規則正しく顔を合わせ、十五分ごとに通学バスが走り、学校があり公園があり、公衆便所やごみ置き場もあって、必要に応じてショッピングモールで日用品を補充し、門限までに寮に戻って、朝と夜には用意された食事をとって生活する袋詰めのアルバイトみたいな毎日を送っているだけでは想像がつかない景色が広がっている。


ハイキングコース(と呼び親しまれている峠道)は曲道の連続で、歩いていくにつれて距離感だけでなく方向感覚もむちゃくちゃになっていった。進んでいるといった実感がまったくわかない。おまけに高度に関しても登り道と下り道が交互にあり、距離のわりに時間と体力だけが消耗されていく。


特に、この中で、最もつらそうにしているのは


「どこかで休みませんか?」


ミルフィーは老衰を迎えた小動物のような調子で言った。


気を遣ってか強がってか、山道を歩いて三十分ほどは一切弱音を吐かず疲れたそぶりも見せなかったものの、いよいよ完全に体力の限界を迎えているのが見て取れた。


「あんた、ばてるのが早すぎ。もう少し体力つけなさいよ」


と先へ進むみうは呆れた目で振り返ってミルフィーを指さした。


「どこか、休めるところはありませんでしょうか?」とミルフィーは言った。


「そんな気の利いた場所はないだろうな、」「あるよ」ねねは何かを見つけて指さした。




「ちょうどいいですね」


「休憩にはちょうどいいが、誰かの土地かもしれない。下手をすると不法侵入になるぞ」


ねねが見つけたのは動物の飼育小屋ほどの小さな茅葺屋根の家だった。


「馬鹿ね、こんなところに人なんて住んでいるわけないじゃない」


みうはそう言って、小屋の中へ走って行ってしまった。


「まったく、」


みうは小屋の中を確認し終えたのか、すぐさまこちらへ手を振った。




「…………」


小屋へ入るも、くつろぐまもなく皆終始無言。そして皆おそらく同じことを考えている。


この小屋の中はあまりにも劣悪だ。


そこは四人が入るには息が詰まるほどに狭いし、通気性も悪い。何より匂いが最悪だ。


木の湿ったような匂いと、腐った果実のような匂いが混ざりあい、それらが不愉快な熱気とともに充満している。


ミルフィーは鼻を軽くつまんで顔をしかめている。みうは以前にもまして不機嫌になっている様子だ。ねねは何を考えているのだろう。彼女の表情からはこの劣悪な環境に対する明確な憤りとかストレスがまるで感じられない。むしろ楽しんでいるようにさえ思える。


「少しいい匂い」


とねねは言った。


「あんた鼻がおかしいじゃない?こんなのいってみれば馬の糞と同じよ?」


みうはうんざりした顔でねねを睨みつけている。


「違うの。そうじゃなくて、きっとこの中の誰かから良い匂いがするの」


「ああ、言われてみれば確かに、そうですね。強い香水のような」


ミルフィーはつまんでいた鼻をそっと離して感心したようにあたりを見回した。


かと思えば犬のように動き回りその強い香水とやらの出所を突き止めようとしている。


「あの、もしかして、笠原さん?」


ミルフィーは俺の顔を見ながらそうつぶやいた。


「なんの話だ」


するとねねは俺の左腕をとって、肩から髪のあたりに鼻をそっと近づけた。


「おい、よせ」


「ほんとうだ、すごいいい匂い。みんなももっと隼人君の近くに来てみて」


ミルフィーは、俺の右隣に座り、目を閉じてそっと顔を近づける。


「本当ですね」とミルフィーは水脈を当てた探検家のように言った。


(やれやれ、香水の量を間違えたな。まさかこんなことになるとは。)


「近寄りすぎだ。もう少し離れるんだ」


「いやだよ」ねねはいたずらっぽくいって顔を俺の左腕に密着させた。


というより、よっかかってきたといったほうが正しいだろうか


「うぐ」思わず声を上げてしまう。


ねねの顔は思ってたより重く、腕だけで支えるには苦しいのだ。


(まったく遠慮というものが欠如している)


ミルフィーも、そんなねねを止めようとしない。


というより、逆だ。ねねに便乗して彼女も遠慮という札を取り払い接近している。


いよいよ歯止めが利かなくなってきたな。


ただ一人、けだものでも見るような目でこちらを見ているとも気づかずに。


しかし、断じて俺のせいではない。


(そういったところでどうせ伝わらないだろうがな)


「ねえ、ちょっとあんたたちそこどきなさいよ」とみうは言った。


「何だと?」


ねねとミルフィーは我に返ったような様子でみうを見つめると、どうぞと言って彼女の入るスペースを空ける。


「まったく俺は扇風機か何かか」


「何言ってんの?扇風機に謝りなさいよこの役立たず、」


みうはミルフィーのすぐ近くにしゃがみこんで俺の腕から肩のあたりを爪で引っ掻くように強くさする。


「痛て、やめろ」


「ふふん、痛くしたんだから当たり前でしょ」とみうは言った。


そして手で腕の内側を摺り寄せる。その手は肋骨のあたりから脇へとむかって


「何やってるんだ。そこはやめ、」


「うわ」


みうは自分の手を見ながらまるで虫にでも触ったかのような声をわざとらしくあげて、俺の肩に擦り付けた。


「ねえ、そこ濡れてたんだけど、汗?」


「汗くらいはかくだろう。そもそもそんなところを触るな、気色が悪い」


「気色が悪いのはどっちよ。全然いい匂いなんてしないじゃない、気持ち悪」


「みんなも隼人君の汗さわってみなよ、ほらほら」


みうはわざとらしく俺の名を呼ぶ。


「えええ?」ねねは慌てふためき


「ちょっとそれは、遠慮しておきます」ミルフィーは丁重に断る。


「賢明な選択だ。アンタは一体何を考えているんだ」とみうに向けていった。


「あんたが安い香水の匂いでこの子達をだましてるから、本当のことを教えてあげようとしてるの。」


「薬品で女を誑かしているみたいな物言いはやめろ」


「似たようなことでしょ?本当最低、だいたい、」


その瞬間、違和感を覚える。何か巨大な物体がうごめく時の振動が奇妙な鳴き声(それは海鳴りのような音だ)と共に伝播する。


その違和感にみうも気が付いたようだ。


残る二人は俺たちの様子を察して一体どうしたのだろうといった風な顔をしながら黙り込む。


静寂が訪れた。


そしてそうなったがゆえに明るみになる。


何者かの大きく荒げた息遣いが小屋全体を包み込むみたいに響き渡った。


「クマさん?」ねねは言った。


「まさか」ミルフィーは息を飲むようにつぶやいた。


「まったくもう全部あんたのせいよ」とみうは投げやりな口調で俺をみて言った。


「どうしてそうなる」


「違います。私がばててしまったせいで」


「それをいうならわたしがここを見つけてしまったせいで」


「やめろ。少なくとも今は誰のせいかを論じている時ではない。しばらくじっと静かにしていろ」


ここでいくら俺たちが騒いでどうにかなる問題でもない。


ただ嵐が通り過ぎるのを静かに待つほかない。気配を気づかれないようにそっと。


おそらくねねの言うようにクマやイノシシのような巨大な生物だろうと思う。


野生であれば俺たちの気配がわかった瞬間に襲ってくるかもしれない。


俺は、なるべく落ち着こうと心がけた。俺自身はある異常な事象が起こった時のブレを正常に戻すことには慣れている。そういったブレが人同士の間で伝播する性質のものであれば、尚更俺が道しるべにならねばならない。茶碗の熱が周囲に伝わるより前にそっと冷却してやるみたいに。爆弾の起爆剤で化学反応が起こるより前に溶液を凝固させるようにそっと。皆を落ち着かせなければ。


(もし、外にいるのがクマであったならば、)と俺は思った。


クマという単語が出るたびにいつも頭に浮かべる話だ。


それは昔、小学校に上がるかどうかといったころ、事あるごとに父親が語っていた登山家の同僚から聞いたクマへの対処法にまつわる話だった。その同僚は山登り(もっといえば未踏の地を探検すること)が趣味だった。普段は毎週日曜日に小田急線の始発列車に乗って丹沢の山へ行く。山へ登るだけでなく登山道整備のボランティアをしたり移動経路の情報を国土地理院に提供したりもしている。オフシーズンになれば、近くの山に留まらず、ありとあらゆる自然を訪れる。そんな活動を二十数年以上は続けていた。




そんな彼に登山中にクマを見かけたときにどうすれば助かるか?と父親が尋ねたとき、こう答えたそうだ。


『お前何言ってるんだ?その時はもうあきらめるんだ』




一つ目の心配事は杞憂だった。この非常時ともいえる事態に遭遇しているのにみな焦らず終始無言でいてくれている。ねねは退屈そうな目を浮かべながらリラックスした姿勢で気を解しているように見える。ミルフィーは少し辛そうだ。か細い唸り声をあげながら緊張でこわばっている。みうは体育座りで低血圧に苦しんでいるみたいに顔を見せずうつ向いている。このままで、いい、合格だ。このまま気配が消えるのをそっと待てばいいと俺は思った。しかしその安堵感は一瞬にして崩れ去った。


目を疑うようなことが起きる。そしてそれは外からではない。


つまり、何者かがここへと入ってくる、ではなく、何者か、いやある特定のだれかがここから飛び出ていったのだ。


それは刹那的な出来事だった。


時間が停止したような不安感がこの場を支配する中ただ一人、ピクニックにでも行く子供のように飛び出して行ってしまったのだから。


あまりの突然のことに声も出なかった。


その子供の名は何を隠そう小松ねね。


「一体あいつは何を」あまりの突然のことにかける言葉すら見当たらない。


それに取り乱してもよくない。


そして出て行った少女につられてあたふたするミルフィー。


「出るな。ここで待ってろ」


俺はミルフィーを注意した。


「は、はい」


「幸い、この場所はクマとやらに見つかっていないし、ここにいるのがもっとも安全だ」少なくともいままでは、だが。事態は変容しつつある。もし、ねねが出たことによって俺たちの場所が知られてしまったとすればここに留まることが100%安全とは言い難い。しかしミルフィーが外へ出たところでできることは何もない、それは明らかだ。


「あの、でも小松さんは」


ミルフィーは、どうやら俺とは違った心配をしているようだった。


それは言葉のニュアンスからして自分たちのことではなく、ここから勝手に出て行ったねねがクマに襲われてしまうのではないという心配だった。彼女の言うことは確かにもっともだ。通常の流れから言って今もっとも危険なのは単独で敵の元へ向かおうとするねねなのだから。


「まったく、あいつ」


俺はねねに対する失望と怒りを抑え、彼女を救出する意思を固めた。


俺たち三人の間でねねが五分経って戻ってこなかったら、俺一人で偵察へ行くということで話がまとまった。みうは賛成も反対もしなかった。ミルフィーはやや納得しないような顔をしたが、俺は彼女の身体能力の乏しさを指摘した。


それにしても何を考えているのだろうねねは。


こういった非常時においては単独行動こそ最も危険だというのに。


きっと何も考えていないのだ、でなければこんな行動が恐ろしくてとれるはずがない。




結局、五分経たないうちに何事もなかったかのようにねねが舞い戻ってきた。


いや、それどころか彼女の様子は、俺たち三人の抱いていたような重々しい閉塞感とは何もかもが対照的で、世界の不思議を見てきたような生き生きとした目で、すべてが楽しげな様子だ。はっきりいって苛立ちを隠さずにはいられないが、そういった感情を意味もなく他者に向けるのは愚かだ。大体今はそんな事態ではない。


「クマさんがいたの」


ねねは早く来てと興奮した調子でつづけた。


「気づかれてはいないだろうな」


「おしゃべりしたよ」


「なんだと?」


「みんなを連れて行くっていったら、少し困ったような顔をしていたけど。見に行かない?」


「馬鹿な」


「行きたいです」ミルフィーは元気を取り戻したみたいに、ねねにつられる。


「待て、少し落ち着け」


「それじゃ、私たち二人で行ってくるね」


彼女たちの間で勝手に話がまとまる。


ミルフィーも、ミルフィーだ。一体どうしたらねねに賛成することなどできようか。


彼女はこの面々の中では、ある程度冷静な判断ができる人間であると思っていたが。


しかし、もうこうなってはどうしようもない。


俺はいま集団行動を余儀なくされている。より多くの人間が無事でいられるための最適解が求められている。


「なにも行かないとは言っていない。」


と俺は言った。


「だったら早く早く」


ねねは笑って手招きした。


「まったく。なんなのよ、あんたたち、ここで死にたいの?」


「みうよ。アンタはここに残ってもいいぞ」と俺は言った。


そして、おそらくそれが一番安全だ。


「いてっ」みうは俺の提案に機嫌を損ねたのか、腕を強くつねってきた。


「残るなんて言ってないわよ、馬鹿。あんたたち馬鹿よ、ばかばかばか」とみうは叫んでヒステリックに、地団太を踏んだ。


「声がでかい、いちいち物音を立てるな。」


みうは無言で俺のふくらはぎを蹴って小屋の外へ出た。




ねねは俺たちを、熊のもとへと案内した。


いや、”ねねがクマさんと呼んでいる謎の巨大生物のもとへ”と言ったほうが適切だろう。俺は、俺たち三人はまだ何も見ていないのだ。クマかイノシシかわからない。あるいはもっと違う生物かもしれない。図鑑で見たことのない生物かもしれない。


それに、俺はどうにもねねの言うことが引っかかった。


野生動物は、通常我々と対話可能ではない。彼らは人を見れば警戒心を抱き、ひとたび襲うと決めれば間違いなく襲ってくるだろう。


いくらねねが見ず知らずの他者に対して、警戒心を解いて、友好的で接するつもりであろうがそんなことは関係はないのだ。ファンタジーアニメ映画のように都合よく事は運ばない。




ねねは俺たちが歩いてきた山道から外れ、シダの生える細道へと反れる。


そこでは並んで歩くスペースなどなく、ねね、みう、俺、ミルフィーの順に続いた。


下草が足にかかり、樹木の葉も頭の数センチ上にある状態で羽虫の羽音が耳元でしきりに聞こえてくる。きわめて不愉快だ。


どうして、ねねはこんなはずれの細道を通ってクマさんとやらを見つけ出せたのだろう?


一般的に人の手が施されていないところは危険だ。


下手をしたら、足を踏み外して転落しかねない。


(ねねの行動は、想像以上に、危険だ。それは間違いない。我々をとり囲む自然について何一つとしてわかっていない状態でもそのことだけは確かだ)


ねねは、慎重に上ればかえって滑ってしまいそうな湿り気のある土の斜面を勢いよくかけあがり、さらに奥のほうへと進む。


後方を歩くミルフィーは俺の手を借りてやっとこさ登ることができた。


確かにねねの身体感覚についてはなかなかのものだ。




進んでいくにつれて樹木がいたるところに乱雑に生え、だんだんとあたりが暗くなっていく。あるところで石段が目に入った。


それは妙なことだった。


コースを外れてからここに至るまでの経路は、明らかに人が通った形跡は見られない。柵もロープも標識もない。人が通ることを想定されていないのだ。


しかし突然石段があらわれたのだ。段差は規則正しい。ほとんど削れてもいない。人為的な石段。


ある時代に(おそらくそれほど昔ではないだろう)何者かがここを訪れて、造り上げたものであることは間違いないが、山道ボランティア集団がこのような実用的に意味のないオブジェクトを建てるとは考えづらい。普通なら標識とかベンチを設ける。


「ついたよ」


ねねは言った。


たどり着いた場所は、三方を樹木で囲まれた行き止まり。そこは円形の広間だ。


ほとんど正円に近い。半径はおよそ五メートル程度。


生い茂る樹木の間から仄かに光が差し、石場の一点を照らいている。


耳を澄ますと、水が流れる音が聞こえてくる。


そこは何か信仰上特別な意味合いが秘められた祠にも思えた。


空想の物語であればここで幻の精霊でも出てくるはずだ。


そして通常、そのような幻の精霊は何かしらの形で人と対話可能になっている。


「でもクマさんがいないなあ」


ねねは残念そうに言った。


「おかしいな。さっきクマさんとここで会ったんだよ」


「ここで行き止まりのようだな」


「ねえ、なんとなくここ不思議じゃない?」


みうは言った。


「ああ、祭壇か何かだろうか」


「そうじゃなくて、雰囲気よ雰囲気。なんだかこう涼しくて、静かじゃない?」


みうの言う通りだった。何も人の造りしものだけが特別なのではない。


この空間そのものが特別に思える。風音一つ聞こえないほどにひどく落ち着いていたし、うだるような暑さからいつの間にか解放され、所々でひんやりとした空気を感じた。まるで洞窟の中にいるような感じだ。


そしてさっきまで騒々しかった蝉の鳴き声がまるで聞こえてこないということにも気づいた。耳元で虻の不愉快な羽音が聞こえることもない。


「クマさん、出てこないですね」


とミルフィーは言った。


「気配すら感じない。いやそもそも出てきては困るのだがな」


「大丈夫、クマさんは私たちを食べたりはしないんだよ」


「ねねよ」


「どうしたの?」


「そろそろ戻ろう」


ねねは名残惜しそうに頷いた。




広間を抜けた瞬間、異変が起こった。


一つは俺の体の(なか)に。そしてもう一つは、俺の体の外で起こった。


頭が重くなるような眩暈を感じた。温度や気圧が急激に変化したときに襲われるような感覚に似ている。


そして、同時に何者かが目の前の木々を通り過ぎる音を確かに聞いた。


その音は周りの木々を揺らす。涼しい風を運んでいた。


「どうしたのですか?」


ミルフィーは俺を心配そうな目で見つめた。


「いや、なんでもない」


体を通る異変はもはや消散していた。俺は風についてミルフィーたちに確かめようとして思いとどまった。もう事態は元の場所へと収束したのだし、かえってそれを話すことで皆の注意をひき戻したくはなかった。


それに一刻も早くこの得体のしれない場所から出ていきたかった。


そしてそれは結局俺たちは、ねねが見たであろうものの正体を見ることは出来ない


ということを意味していた。


しかし、それで構わない。ねねの言う通りその者は確かに物理的にそこへ存在していたのだ。


そのことだけははっきりとわかった。




山道へ戻って進んでいくとすぐに森を抜けることができた。


視界が開けて、湯方町の無数の木造家屋が棚田のように並び、背景に湯方港と太平洋が目に入った。




このまま眼下の坂道やら階段やらを適切なルートで下っていけば、必ず湯方町にたどり着くことができるだろう。




湯方町までの下り坂、両手には木造家屋が連なり、辺りには醤油とお香と錆びた鉄の混ざったような匂いが充満していた。


人の姿はほとんど見かけないが、どこかしらの民家から生活の音が聞こえてくる。


潮風がしきりに吹き、風につられて数匹の猫が前をすばやく通り抜け、草陰に隠れこみ、顔を覗かせ、われわれ四人をじっと伺っていた。


「可愛い」ねねは相変わらず、猫に気を取られて足を止めた。


「ねこなんて珍しくないのに何を浮かれてるんだか」


みうはねねに子供でもみるような冷ややかな目を向けた。


「あんたも猫は好きだろうに」


「いったい何の話?」


みうは軽蔑したような目でこちらを見て、より一層不機嫌になったようだ。


余計なことは言わない方がよさそうだ。


「私、触れるでしょうか?」


動物があまり得意でないミルフィーも、猫たちに関心を向けたみたいだった。


「うーん、たぶん逃げちゃうと思う」


ねねは言った。


「そうですよね」


とミルフィーは言った。




物事の一切の文脈を排除したようにトンネルから一本の線路が飛び出て、その線路はすぐ近くの駅の場所を示した。単線はすぐそこで二手に分岐してみかんが大量に入ってる段ボール箱のような簡易的な島式のホームへと続いていた。


踏切を越え、線路沿いの通りに合流し、そして古びた民宿、土産物屋の前を通りすぎて無事湯方駅前へとたどり着いた。


とめてあるオートバイやタクシーは見かけるも駅前にもかかわらず人の姿はほとんど見受けられなかった。


湯方町は、予想以上にさびれた人気のない港町だ。


駅前は赤い円筒の郵便ポストと小さな売店があるだけで、売店では景品でもらうようなおもちゃみたいな扇風機がせわしげに首を往復させ、生暖かい空気が店主の残った白髪をしつこく揺らしている様子だった。


店主は理科室にあるような背もたれのない丸い椅子に座って新聞を睨みながら、何かまぶしいものでも見るみたいに俺たち四人の方を見上げた。俺は店主と少しだけ目があい軽い会釈をして、売店を通り過ぎた。




湯方町は、古くは江戸へ向かう街道の関所に隣接する要所で宿場町だった。そして近代において大きく貢献してきたのはこの町の石炭産業だった。


しかしエネルギー革命を皮切りに、エネルギー資源の大部分が石油へシフトすると、石炭産業に終止符が打たれ、炭鉱は次々と閉鎖されていった。


その後、宿場町として栄えた過去を引き継ごうと、観光業で誘致し、地域の活性化を図るも結局失敗に終わった。この町の再起を図る試みは打ち破られありとあらゆる流れはことごとく停滞した。


そして十年前、北方に学園都市がつくられた。


しかし学園都市が生まれた所でこの町は何も変わらなかったのだと見て取れる。


むしろ皮肉なことに学園都市において歪な形で急増加した若年人口との対比としてゴーストタウンとしてクローズアップ現代で取り上げれてもおかしくはないほどの寂れ具合だ。


この町が学園都市と一切のつながりを持てないことは地理的にも明らかだった。


学園都市は言わばそれ自体で完結している町だ。その住民がわざわざ外へ出る意味はないし、そもそもこの町から学園都市は移動するにしても離れすぎている。


さっき通ったみたいに樹木で鬱蒼とした峠を越えなければならないし(もちろん歩こうなどというのはそもそも愚行であるが)、学園都市における唯一の外界との移動手段といえる産業道路もこの町には通されていない。


湯方駅を走る臨海鉄道も二、三時間に一本では多すぎるくらいの本数だ。数年後には廃線するのではないかと噂されてもいる。




駅から東へ延びる通りを曲がり、湯方海岸を目指した。


アーケード商店街を通るも中の店はほとんどすべて閉まっていた。


果物屋のシャッターに貼られた、「湯方七夕祭り」と書かれたポスターでは着物姿の男女が笑いながら卓球でもし合うみたいに扇子を握り持っている。


日付は五年前の七月七日が記されてある。


唯一、開いていたのは雑貨屋で、雑貨屋の外にはカプセルトイ機、通称ガチャポンマシーンが立ち並んでいる。


ねねはとあるカプセルトイ機に書かれた文字列に目を奪われた。


『虹いろわたあめ100円』


「綿あめ」とねねは言った。


「へえ、面白いですね」


ミルフィーは感心したように言った。


「カプセルの中にわたあめが入っているということか。見たことがない」


「食べてみようっと」ねねはそう言って、スカートのポケットに入れていた丸いクマの顔をした財布から、小銭を取り出して投入口へ入れ、回した。


そして取り出す。カプセルの中にピンク色の綿あめがぎっしりと詰まっていた。


「みうとミルフィーは、まわさないか?」と俺は尋ねた。


「えっと私は大丈夫です、節制、もしくは節約していますので」


「節制なのか節約で意味が大きく変わってくるが、どのみち節制、節約するほどのボリュームではないと突っ込んでおこう、」


「ふええ、それではみうさん、どうぞ」


「馬鹿ね、どうして私がこんな子供遊びみたいなくだらないことをしなくちゃいけないわけ?」


「そうか?、ならば俺がやる」


硬貨を入れ、レバーを青い矢印の向きへ回そうとする。


「?」


しかしうんともすんとも動かない。思ったよりも硬いな。


もう少し力を加える。やはり動かない。カプセルがすでに落ちる音もしなかった。


しかし、ひょっとしたら落ちているだろうと思い透明な蓋を開いて確認するもやはり何も出てきていない。


「む、おかしいな」


辺りが静かになる。


「皆は先に行ってしまったか」


いや違う。なんだ、この空気は。


「悪いが先へ行っててくれ、」


そして、とうとう何かに我慢できなくなったみうが噴き出したようにぶぶっと笑いながら俺の様子を見た。


「アンタ本当に大丈夫?逆向きよ、逆。ちょっと笑わせないでくれる?」


「なんだと?」


ミルフィーは貸してくださいと笑って言って、俺に代わってすかさずレバーを回す。


すると、あっさりとカプセルの落ちる音が聞こえた。


「いったい何をした?」


俺はミルフィーに尋ねるも横から茶々が入る。


「子供、いや犬やねこでもわかるように書いてあるのにどうしてわからないの?」


みうは笑い転げて、我慢がならない様子だ。


面倒な女だ。不機嫌なまま黙っていてくれたほうがずっとましだ。


「隼人さんも、珍しく人間らしいところあるんですね」


「何言ってんの。ガチャを回せないなんて人間以下よ、」


「ああ、ああ聞こえない聞こえない」


俺は言った。


「やっぱり天然さんだった」


ねねはひっそりと悲しいものでもみるような目で言う。


「畜生、反論ができん」


少なくともこの場では、だ。




アーケードを抜け、港のほうへと歩く。


「あの、さっきからずっと疑問に思ってたことですけど」


ミルフィーは言った。


「この町の猫、私たちの学園都市で見るのと少し違いませんか?」


「というと?」


俺は言った。


「笠原隼人は鈍感だからわからないわよ」


みうは言った。


「ならばあんたはわかるのか?」


「当たり前でしょ?」


「ミルフィー、こいつに教えてあげてよ」


「アンタに聞いてるんだ、みう先生よ、」


「その言い方、うざい」


「ミルフィー、答えなさい」


みうは少女に命令する継母のような口ぶりで言った。


「まだ答えなくていいぞ」


「いいから早く」


「答えるな」


「ふええ」


ミルフィーは思いつめ、ぐるぐると目を回したようになった。


どちらのいうことを聞くべきか困り果ててる様子なのだ。


(あんまりミルフィーを困らせても新たな火種が生まれるだけだしそろそろ切り上げ時か)


「うーん、模様が違うかな」


突然、ねねは助け舟を出すように言った。


むろん、今行われていた不毛な争いを察しての意図ではなく、算数の問題を解く子供が解き方のアイデアを思い付いたみたいにすうっと。


みうはふふんと得意げに鼻息を漏らす、


「そうそう、模様よ模様。よくわかってるじゃない」


「では模様が何がどう違うのだね?」


俺はみうに尋ねた。


「そんなこともわからないの?それは、」


「えっと、あっちのねこさんは真っ白とか真っ黒ばかりだったけど、こっちのねこさんはいっぱいの色」ねねは即座に答えた。


「そうそう」


俺はみうをにらみつけると、ふふんと笑って舌を出した。


「つまり複数の色で構成されているということか」


ねねは頷いた。


確かに言われてみればこの町の猫は、斑模様ばかりだ。


そして、それらは単色ばかりの猫が幅を利かせている学園都市ではほとんど見られない。


「でも模様だけじゃなくて、ほかにもたくさんあるよ」とねねは言った。


「そうなのか?」


「それ、私、気になります」


「ねえねえ、私ちょっと思いついちゃったんだけど」


みうは俺の服を引っ張って皆へ向けて言った。


「これ、卒業論文のテーマにしない?」






「アンタらに問う。なぜ俺は。いや違うな、俺ばかりがこんなことになっているんだ」


俺は行き場のない悲しみと怒りを三人へ、あるいはむしろ海へ向けて訴えた。


こいつら三人へ訴えたところで何の解決にもならない。それはかえって彼らにとって愉快になる(すなわちそれはこの場において俺が極めて不愉快になることを意味する)。まだ海のほうが俺の置かれた理不尽な境遇を聞いてくれそうな気がしてくる。


湯方海岸。


そこには俺たち四人を除いて誰もいなかった。というのももちろんこの町には人はいないからというのもあるが、そもそもここは海水浴をする場所ではないということだ。


海の家があって、その脇に磯が付着したような錆びたボートが数多く掛けてあって、砂辺には無数のパラソルが立てられていて、沖合でサーフィンしている人間がいて、浮き輪を手にした子供たちが駆け巡り、その場限りの若い男女がその場限りの限られた青春(それは砂辺にいる数時間か、夜を越すか、あるいは数か月かはわからない、しかし少なくともそれは蝉の生涯のように限定されているように俺にはうつる。そして彼らは蝉のようにやかましい)を謳歌するみたいに意味なく騒ぎ立てているようなそんなありふれたビーチの光景はない。どれひとつとしてない。


あるのは硫酸銅のように何も語らない深い青みのかかった海と、防波堤と、足跡のない砂辺と不自然な場所に不自然に隆起した岩山、そして海上を低空に旋回するカモメの姿だけだ。荒々しい波が寄せては引いて、潮風は塩気で満ちている。


しかしそれらのことは俺の置かれた状況と比べてみれば大した問題にはならない。


「こっちにこないで泥人形」


みうは憐みの目を見て蔑んだ。


憐みの目を見て蔑む。なんとも矛盾の孕んだ表現だが実に人間らしい。


「そもそもね」


みうは得意げに発した。


「あんたが弱いのがいけないのよ」


「泥をチームに分けて投げ合うまではいい。ねねが考えそうなきわめて簡素な企画だが、その分わかりやすいし暇つぶしとしては悪くない。その点は百歩譲ろう。問題はアンタだみう。そもそもの争点としてこの世すべての人間という人間を紅組と白組なる安易な基準によって分けることの必然性はなんだ?」


そしてそれは多くの人間が最も好むところだ。学校のお遊戯会から、年末の歌合戦と称される番組まで広く深く浸透している。


「何が問題なのよ?」


「ミルフィーよ、こいつは話が通じない。こいつを諫めてやってはくれぬか?」


「笠原さん、本当のことを言います」


ミルフィーは口を開いた。裁判員みたいだ。判決が気になる。


「えっとですね、きっと、笠原さんはとてもいじめ甲斐があるのだと思います」


「なるほど。一応、これがいじめだという自覚はあるようだな」


「笠原さんっていつも不愛想ですし、怖くて話しかけづらいですし、かと思えば勇気出して話しかけても上から目線で嫌味なところばかりですけど、意外と面白いところもあるんですよ」


「面白いところもあるんですよなんて第三者に語る口ぶりで言われても反応に困るし、話が大きく脱線している。一度に面と向かってこれだけ数多くの悪口をいえる神経も見上げたものだ。」


「ガチャガチャを一人では回せないような可愛い一面もありましたし」


「今すぐ忘れろ」


「のどが渇いたわ。ねえ、泥人形。自動販売機を見つけて買ってきなさい」


「断る。負けたほうが買うという取り決めはなかった、いやそもそも負けてなどもいない、」


「あーでもやっぱりいいわ、飲み物があんたの泥で汚れちゃいそうで」


「私も飲み物がほしいですので、一緒に行きましょう、小松さんと笠原さんはいりますか?」


「見ての通り飲む口が塞がっている」


「私も平気」


「ねね、この泥、私たちが戻ってくるまで好きにしちゃっていいから」


「おっけー」


ねねはみうにピースサインを送った。


どちらかといえば戻ってきてからの間違いではないか?なんにせよもうこいつらとどこかへ行くのはやめよう。


みうはミルフィーとともに飲み物を買いに行き、俺はねねと二人きりになった。




「こっちこっち」


ねねは水をそっとかける。


「ねねよ、奴らが戻ってくるまでにこの泥をどうにかしてはくれんか?」


「いいよ」


とねねは言って、波打ち際まで駆けていく。まるで俺から逃げるように。言葉と行動が見事に矛盾している。


「そのかわり」とねねは風に負けない勢いで言って、投手の構えをする。


なかなか見事なフォームだった。


握られた物体は、風に乗り、俺の鼻を目がげて正確に飛んできた。


ねねはなかなか投手としての資質があるかもいれない。チームを組めば十分に戦えるくらいの。


もちろん相手に奴を脅かす捕手がいなければ、だが。


「えっ」ねねは予想外のことが起きたというような声をあげた。


風はやみ、ねねの一球は俺の手へきれいに収まっていた。


「その様子だとキャッチボールをしたかった、というわけでもなさそうだな」


「仕方がない、売られた喧嘩は買わねばならんな」


俺が挑発に乗ると彼女は余計に喜んだ様子で、砂浜を勢いよく駆け抜けては、止まって丸めた泥団子を投げてくる。映画のワンシーンにでも出てきそうななれ合いだ。しかし泥で塗り固められた男がいては収録NGかもしれない。


「ねね、俺とアンタとの間で決定的に俺が有利な前提条件があるがそれが何かわかるか?」


「なにそれ?」ねねはこれまでにない巨大な泥団子を手に抱えて投げながら言った。


物理現象を無視したような不自然な軌道を描いて俺の正面を弾丸のようにかけぬける。


泥は彼女のもくろみ通り見事に俺の右腕に当たる。


しかし今となってはそんなことは大した問題ではない。勝利条件は絶えず変動する。


「教えてやろう」俺は、身体にからまる泥を手に取って言った。


「それはな、一度汚れてしまえばこれ以上汚れる心配をしなくて済むってことなんだよ」俺はねねのほうへ向かってそれを放つ。しかしそれは見事なまでの放物線の軌道を描いた挙句ねねの足元に落下した。




「しかし驚いた。ねねの運動能力がここまで高いとはな」


俺の投げた泥玉はことごとくはずれ、ねねに追いつくこともできずにいる。


とりあえず射程圏内に入るまで距離を詰めることが急務だろう。


そして彼女にいいように遊ばれているうちにある境界線にさしかかる。平坦な砂浜が不自然に途切れ、岩場に差し掛かっていたのだ。


どのような地質学的要因によってその岩場が形成されるようになったかは地質学者だが考古学者が地層でも調べない限り想像もつかないが、その岩山は高さはマンションの二階分くらいの高さまで延び、内部は斑模様のついた大小さまざまな岩によって構成されている迷路のようだ。


ねねはそこに岩山があることを気にも留めず、追いかけっこの逃げ役に徹する。


ジャングルジムでも上る小学生みたいに軽快な動きだ。


「そっちは危ないぞ」俺の声は途中で潮風に阻まれたのか、あるいは彼女にとって聞くに値しない言葉だったのかわからぬが彼女の動きをまるで制限しない。


猿山の大将のように、スピードを緩めず岩山を進み、振り返ってはこちらへの挑発をやめない。


「やれやれ」


俺は速度を緩めて、ゆっくりと彼女との距離を詰めることにした。


ねねは足が速いが、持久力はないはずだ。


少なくとも俺と比べれば。


もう五分以上は全力で追いかけっこをしているし、何しろ岩山は歩きにくい。


体力もそろそろ限界を迎えるだろう。


なんのことはない、どちらにせよ俺は彼女に追いつくのだから焦らずゆっくり詰めていけばいい。それよりも大事なことは彼女に俺の場所を気づかれないことだ。幸い岩山迷路は身を隠す場所に事欠かない。




お互いが岩山に入り、戦いは次のフェーズへと突入していた。


前線で銃弾が飛び交うような派手な戦いは終わり、敵地をつかむ斥候部隊のような緊迫感が岩山を支配している。


その中でも俺は彼女に気づかれないようにゆっくりと距離を詰めている手ごたえがあった。


そして思惑通りに、数分足らずで岩陰から彼女を目撃した。


おそらく任務は成功といえよう。


しかし、同時に俺は彼女の後ろ姿を見て不審感を覚えた。


それは彼女から、今まで感じていた彼女らしさをほとんど感じなかったという不審感だ。


ちょっとした仕草、足取り、それどころか体つきさえ違って見える。


それはとても不穏な映像だった。


彼女はさっきまでの生気をすっかり使い果たし、まるで駅のホームの酔っ払いのようにゆらゆらと、灼熱の砂漠を彷徨う旅人のようにふらふらと岩場をあゆみ、今にも倒れそうであったのだ。


それに彼女の眼前は、五メートルほど鋭く突き出た岩だ。


彼女はいったい何を考えているのか?


もうこの遊びのことは何百万年前の地層のように忘れ去られているようにさえ思える。


このまま彼女はどこへ向かおうとしているのか?


それは、ここと同じ世界なのだろうか?


そして、俺の危惧していたことがふいに起こる。


「危ない!」


俺は叫び、五メートル下へ落下しかける彼女の意識を取り戻そうとする。


しかし、反応はない。


(でも大丈夫だ、これならぎりぎり間に合う)


俺が倒れかける彼女の体を支えようと肩をつかもうとした瞬間、予期せぬ異変が起きる。そう、彼女は意識を失っていたのではない。


ねねは何事も無かったかのようにそっとこちらを向き、これまで見たことのない不敵な笑みを浮かべてみせた。


「え?」驚きを隠しえない光景が彼女の顔に広がっている。


「やっぱりね」ねねは言った。その顔は、月夜に現れるドラキュラを連想させた。


人の生き血を吸うために活動する生物。


そして俺の腕をつかみ、鼻を俺の胸板に擦り付け、シャツのボタンを一つ一つ意味ありげに外していく。


「ねねよ、いったい何の真似だ?」


「いい匂い」


ねねは鼻を意味ありげに嗅ぐ。嗅ぐたびに膨みを帯びる鼻からは、人間が抱え持つ理性をすべてそぎ落とされてしまったような率直な動作を連想させた。スラム街の物乞いが一切れのパンに食いつくように、手と頬にドングリを抱えるリスのように、死体に群がるカラスのように、目的が明確だ。


しかしねねの目的がどのようなものであるかは想像がつかない。


においをかぐという行動が実利を伴う行動にも思えないし、食欲、性欲、それらに追随する習性にも思えない。


「香水」


俺はそうつぶやいてみた。


「違うよ、こんな、まやかしのことじゃない、僕はさ。君の男臭い汗のにおいがたまらなく好きだ」


「ますます悪趣味だ」


「海の味がするよ、大好きだ」


いちいちねねの言動には俺の心を揺さぶろうというような明確な意思が働いているようにさえ思えてくる。


しかし、その一方で思春期を迎えている人間が異性に対して好きであると公言することが、本来どのような文脈で行われるべきものなのか、そしてどういう手続きで行われるべきなのか、彼女にわかってるようには思えない。(それはあくまでこれまで彼女と接してきた中で俺が予想しうる仮説にすぎないのだが)


おそらく彼女は何もわかっていないのだ、と思う。


だとすればそれは純粋な意味での俺への興味のようなものとして受け取るのが妥当かもしれない。


つまり彼女の言葉をただ言葉通り受け取ることが有効ということだ。俺を挑発したりして揺さぶりたいわけではない。


あるいはそこに込められた感情があるのであれば後で考えればいい。


それは現代国語の試験問題を解くこと、つまりより多くの場面において文章を効率よく読むうえで推奨されている姿勢とまったく同じだ。


現代国語の問題は、基本的にはある種の情報処理ゲームだ。文中になにがしかの手がかりがあるものしか出題されない。そこに書かれたことを着色せずに読み取みとれば必ず解くことができる。


それは逆にいえばに感情を無暗に含めてしまった場合大体必ず失敗するということでもある。余計な感情を削ぎ落として行う情報処理ゲーム、それが国語の試験だ。そしてそれは俺の最も得意とすることだ。


「ここは危ない、だからこのような場所で軽率な言動は控えるべきだ」と俺は注意した。


「君は面白いことを言うね」


面白い要素などどこにもない。何がどう彼女の琴線に触れているのだろうか。


俺にはわからない。


「ねえ、このまま僕たち二人だけでどこか遠い所へ行かない?」


「どこか遠いところだと?ねねよ、アンタいったい」


「ねね、ねえ。ふふふ、名前で呼ぶようになったなんてまったく立派な進歩だよ」


「はあ」


俺はため息をついた。


「道化の真似事だろうが、なんにせよ気味が悪い。もう少し毛色の違った配役を頼めぬか?」俺は言った。


「何言ってるの?道化は君じゃないか。いつまでくだらない仮面をかぶり続けるつもりだい?」


「いったい何の話だ」


「何ってそれは人間の話だよ。人間は弱いくせにいつも見栄を張りたがる。君が女の子を誑かすために使ってるっていうこの強い香水にしてもそうだけど。人はすぐに肝心なことから目をそらして蓋をしようとするんだ、他のだれかを踏みにじってまでね」


「アンタも人間だろう。人間嫌いには同意するが、アンタの粗雑な一般論に付き合ってる暇はない。香水のことも聞き捨てならないな。みうに感化されたか」


「わかってるよ、この香水には他に目的があるんだよね?」


「ねねよ、アンタ、いったい何を言っているんだ?」


「ごめんごめん。まあいい、少し悪ふざけが過ぎた。僕としては君をむやみに動揺させたくはないしね。どっちかといえば君の性癖の方を事前に調べておくべきだったな。男の子をコントロールするには話し合いよりもそういった変数が大事になるらしいからね。とにかく君が来ないのなら一人で行く、」


ねねは言葉をぷつりと止めた。その断絶にはまるで何者かがカセットテープを止めたみたいな明確な意思が働いている。


「ぶつぶつとわけのわからぬことを、そもそもどこへ、」


「何をしているのですか?」


ねねの突然の沈黙の原因がわかったとき俺は深いため息をついた。


「ミルフィー、か」


「とりあえず笠原さん、一ついいですか?」


「ああ」


「どうしてシャツが脱げているのでしょう?」


俺はシャツのボタンが外され、胸が露になっていることを思い出した。見られて困るものでもないが、女性にむやみに見せるものではない。一般論として他人の裸体を見ねばならぬ状況というのは極めて限定的であるべきだ。体を露出する芸人などを見るたびに品性がない、滅びればいいと思う。我々はこうも電波を有意義に使えないものだろうかとな。


もっとも民放は今ではほとんど見ることがない。


「ミルフィーよ、信用してもらえないだろうが」俺は言った。


「こいつを追いかけていたらそうなった」


「そんなことよりまずは今すぐ着て来てください」


とミルフィーは汚いものでも見るように早口に言った。


彼女のいう通りだ。


「ああ、申し訳なかった」


「見てたか?」


「見たくないです」


「違う、そっちじゃない、ここでの」


「何のことです?あの、もしかしてお二方は何かしてはいけないことでも?」


ねねは頬を両手で抑えながら、おかしな顔を浮かべた。


「さっさと戻ろう、アンタも来い」


俺はねねの肩を叩いて言った。


「あ、うん、ごめんなさい」


ねねは、意識を取り戻したような声で言った。


さっきまでのことがなかったことのように、いやあるいはなかったことにしたかったかのよう。


どちらなのかはわからない。


ねねは本当に意識を失っていたのか、それとも道化を演じていただけなのか?


俺は以前もねねが突如豹変していたことを思い出していた。




「ねえあんたたち、経験人数は?」と長い間湯につかってのぼせた少女は、湯船の端に座っていまなおも湯を堪能する少女二人に尋ねた。「けいけんにんずう?」と片方の少女は、反復していった。その少女は顔半分を浴槽につけながらその言葉の意味をどうにか理解しようと懸命に話者の顔を見つめていた。しかし当然話者の顔には答えらしき何かは書かれてはいない。むしろ、その顔は不敵な笑みを浮かべており、見れば見るほどに真実とは程遠い場所へ到達してしまいそうにさえ思えてくる。もう一方の少女は、話者の言うことは聞こえていないという風で肩にかかった栗色の髪をくるくると指に絡み付けて遊んでいた。


「いままで何人の男と付き合ったことがあるかということよ」と少女は二人の反応に対してどうしてそんなことまでいちいち説明させるわけ?といった調子で水しぶきでも飛んできそうな感情の起伏をあらわにした。


確かに通常の文脈において、女子が経験人数という場合、いちいち断るまでもなく異性と付き合った数を指す、それは明らかかもしれない。


「仲のいい男の子のこと?」


「ミルフィー、この(ねね)に説明してあげて」


「どうして私が説明しなければならないのでしょう?」とミルフィーはこれまでにおいてもっとも興味がなさそうといった目を向けていった。


「ねえ、みうさん、教えて」とねねは言った。


みうは二、三秒頭を抱えたのち、覚悟を決めたような調子で、


「わかった」といった。


「仲の良かった男子の数でもいいから」


「お友達?うーん、あんまり思い出せないけれど、」


ねねは天井を眺め、人差し指を宙に浮かべながら深く考え込んだ。


ミルフィーはそんなねねの様子を、半ば心配そうな目で、半ば彼女の発言を待ち望んでいるかのような顔を浮かべている。


「もういいわ」とみうはねねの思考を遮って言った。


「あんたたちに聞くだけ無駄だったようね」


「小嶋さんはお友達が多いのですか?」


「そりゃあんた達と比べればね」


ミルフィーは物分かりが悪くて納得できなそうなあるいは不思議そうな顔をして、みうを見つめている。


みうは「決まってるしょうが、どうしてそんな当たり前のことでも聞くわけ」とでも言いたげだな表情だ。


「そ、ん、な、こ、と、よ、り」とみうは言って、再び湯にどっぷりつかり二人に耳打ちするような態勢で言った。


「あいつはどうだと思う?」


「あいつ?」とミルフィーは尋ねた。


「馬鹿ね、笠原隼人のことよ」


「隼人君の男の子のお友達の数?」ねねは尋ねた。


「それでしたらほとんどいないように思えますけど」


とミルフィーはねねに向けて微笑んで言った。


みうは二人でなされる会話を聞きながらゆっくりとため息をついた。




ごく一般的な見地からいって女湯でなされた会話が男湯で聞こえてくるというのは銭湯として致命的と言わざるを得ない。


もちろん、時の流れから取り残された町の、かような古ぼけた銭湯にあまり過ぎた要求をするのも酷ではあるが、このことは銭湯としての経営を始めていくうえでは五本の指に入るくらいには重要なことではないか。


だいいち個人情報がダダ漏れだ。少なくとも上方に隙間が開いているような設備であってはならない。


それとも彼女らの声が特別大きいのだろうか?


あるいはこの町の住民は、小さな声で話すのだろうか?


俺にはわからない、この町の住民のことは。




俺は、彼女らでなされている会話に難色を示さずにはいられなかった。


彼女たちの会話は、俺の異性との交遊関係がどれだけか、という方向にシフトしていた。気に食わない。まず第一に、もし真実を知りたいのであれば俺に直接聞けばいい。もちろん答えることはないが、あれやこれやと意味のない予想をして、不毛な時間を過ごすよりはまだ得られることが多い。第二に論じられている内容だ。


俺がそのような浮ついた話を耳にするたびに(そしてそれはどのような場面であれ男女が存在する限り必ず耳にする)ある記憶が脂身のように頭にこびりついて離れない。




その記憶の糸をたどればいつも、まだ東京にいた中学二年生の秋ごろの、(それは夏が終わってほど近いが冬の到来を示唆する寒い一日だった)放課後の教室の窓際の一番後ろの席で(そこは俺の特等席だった)女子のクラスメイト(彼女はそのクラスの中で俺の数限りない、会話をする機会の存在する人間の一人である)が癇癪を起こし俺の目の前で俺の悪口を延々と叫び、机を何度もたたき、泣きながら後頭部をかきむしる姿へと行きつく。


その俺への怒りあるいは絶叫は、俺自身へ訴えかけてるというよりも、世界全体へと訴えかけているように思えた。


その声は太平洋を越えて全人類に届くほどにはボリュームが不足していたが、三階の教室の窓からグラウンドに届くほどの大きさは持っていた。


俺は耳に手を当てながら嵐が収まるのを待つように、じっと彼女の足元を眺めては小さなため息をついていた。


いったいどうしてそのようなことになったのだろうか?と思いながら。


そこには諦めと、漠然とした後悔のようなものが含まれている。


怒りとか悲痛はおそらくない。


世界が終わるときもきっと同じようなことを思うのだろうか?


いったいどうしてそのようなことになったのだろうか?、と。


その問いの答えはもちろん彼女の口から語られることはなかった(語られたのはただ俺への悪口だけだった。そのあとも当然対話する機会はなかった)


それから一週間彼女は俺を教室の窓とか柱とか黒板消しと同様の学校の構造物の一部とみなすようになり、二週間後には俺を除くありとあらゆるクラスメイトとの交流をさかんに行うようになった。


しかし三週間後に彼女はクラスから孤立した。


というより自ら進んでクラスから孤立していったといった方が正しいかもしれない。


誰も彼女のことを悪く言うものはいなかったし、(むしろ俺のことを目の敵にする女子は一定数いたものの)大半は俺と彼女との間に起ったことを夫婦喧嘩の一種だととらえていた。(当然そこには二つの大きな誤りがある。)


彼女の孤立は当然のことながらますます俺を居心地悪くさせた。


春の初め、神田川に桜の花びらが藻のようにぷかぷかと浮かんでいた季節に、彼女は学級委員に選ばれ、持ち前の明るさと几帳面さからクラスを率いていた。


その少女が、見る影もなく孤立していく。


そこには少なからず俺が関係している、というより、ほとんどすべて俺が根源であるといっても違いない。


彼女は俺とのかかわりによって彼女の持ちうるある内面の一部(しかもそれは人と接していくうえで必要不可欠な要素なのだろう)が汚染されたのかもしれない。


毒虫に侵されたように。それでもはじめは飛ぼうとした。燃料が残りわずかの戦闘機を動かすみたいに必死に。しかし結局飛ぶことは叶わなかった。鳥は飛ぶことができない、


翼がもぎ取られてしまったあとでは。


俺は、要するに彼女の人格そのものをねじまげてしまったのだろうか?


ブラックホールの重力が光の経路を捻じ曲げてしまうように、そこに働くべきでない謎の引力が働いてしまったのだろうか?


そう考えると幾分と寝つきは悪くなり、胃がきりきりと痛まないわけにはいかなかった。そしてその時になってはじめて俺は彼女に対する罪の意識に苛まれ、彼女への接し方のどこがいけなかったかを真剣に考えることにもなった。


あるいはそれが本当の彼女の望むところであったのかもしれない。


俺は彼女と接する中で、俺の言動とか問題点を一つ一つ真剣に考え、ノートに書きだしていった。思い出せる限りで丁寧に。


しかし答えは出なかった。そんなことを考えているうちにあっという間に時は流れた。学年があがり、受験シーズンを迎え俺は学園都市への編入試験へ向けた本格的な受験勉強に取り組み始めた。そこではそこで大いなる命運がかかっていた。


今になって思い返してみれば、俺と彼女との間には一つだけ明らかな断絶が存在していたということがわかってきた。聞くところによれば、「(その女子の名前)と笠原ができている」


そんなわけのわからぬ噂が校舎中に囁かれて以来、彼女は俺のことをどうやら異性としてみるようになっていたらしいのだ。(それはその時には、気づくことはなかったし気づきたくはない、信じがたく信じたくない事実の一つだった。)


しかし確かにそのわけのわからぬ噂が広まってから少しずつ、俺と彼女との間で掛け違いが起きていたことも確かだった。


本当に彼女は俺を恋人のようなものだと思っていたのだろうか?


本当のところはわからない。


はっきり言えることは俺は彼女のことを異性として意識しようと試みたことはないということだ。考えたことすら一度もない。


彼女だからというわけでなく、ほとんどすべての異性に対してそのような意識を持つことを拒んでもいた(いる)。


なぜなら俺はその時にはすでに恋人という関係に言いようもない得体のしれなさと絶望感を感じていたからだ。


恋人から連想されるものは周りの子供じみたクラスメイト、肌寒い東京の町を歩く二十歳~中年の男女、そんな映像が頭をよぎる。しかし最終的に行きつくところは俺を産んだ母と父だ。両親などといった吐き気を覚えずにはいられない者たちへと到達してしまう。


まるで泥池の底の沈殿物のように。






「少し遅くなりそうですので、お父さんに電話してきます」


とミルフィーは、ドライヤーをかけ髪をとかす最中のみうに向けていった。


ねねは扇風機の吹く風にあたりながら体重計に下りたり乗ったりを繰り返しては、乗るたびに違う数値が出たのだろうか?うーんうーんと悩んでいる様子だ。


「まだ五時前よ?あんたの父親はもう家に帰ってるわけ?」とみうはミルフィーに言った。


「いえ、違います、研究所のほうです」


「研究所?ふーん、あんたの家はそっちの人間なんだ、どうりで」


みうはそう言って、洗面所の鏡を注意深く眺めた。何かおかしいものでも映っていないかを確認するみたいに。




ねねはちょうど白い字で女湯と書かれた赤地の暖簾から飛び出してきた。まだ完全には乾ききっていない髪の上にハンドタオルを乗せていた。ボブの髪は艶やかでミルクの香りがした。ねねは俺の名を意味ありげに呼んで、隣に腰かけた。


「ほかの二人は?」と俺は尋ねてみた。


「るみちゃんはお電話、みうちゃんも、もうすぐ戻ると思う」


「なるほど」と俺は言った。ねねは俺の顔を見るや否や、スキップして自販機へ向かった。


それからすぐにミルフィーが戻ってきた。


自販機で牛乳を買おうとするねねを目で追いながら、かけるべき言葉を探している様子だ。


しかしすかさず彼女もまた意味ありげに俺の名を呼んでこうたずねた。


「笠原さんって、お友達っているんですか?、女の子の」


「なぜそのようなことを聞く」と俺は尋ねた。


「いえ、なんとなく気になったもので」


「そうか」と俺は言った。


「でも、やっぱりいいです」とミルフィーは少し機嫌が悪そうに言った。


それからすぐに俺の短パンに小さな力が入った。


誰なのかは見なくてもわかる。ミルクの香り。


「どうしたんだ」と俺は特に考えずねねに言ったものの、彼女の抱える悩みにすぐ気づいた。牛乳瓶を持っていない手には無数の硬貨が散らばっている。


「五円玉二十枚じゃだめだった」と彼女は悲しそうな顔で言った。


ミルフィーは意外そうな顔でねねを見つめて、鞄をあさって自らの財布を探した。


「ミルフィー」と俺は彼女の手を止めて、自分の財布から100円玉を出してねねに渡した。


ねねは「ありがとう」と言って掌の有り金を俺に注ぎ込もうとする。


「いらん」


「え?」


「五円玉を二十枚もらって喜ぶ奴がいるか、いつでもいいからこいつをそっくりそのまま返してくれい」


「いつか、返す?」


「ああ」


俺がそううなずくや否やねねは元気を取り戻したような顔をして走っていった。






「全てをお話し下さい。」


と幼女は言った。


その部屋は幼女(その年齢は大きく見積もっても十歳くらいにうつる)がこれまで生きてきた限りにおいて類を見ないほどのゴミ部屋であったに違いない。


その華奢で小さな身体が、不揃いながらくたで覆われた不思議の国を次々と飛び越えていく様子を想像すれば、まともな人間であれば同情し、手を差し伸べることだろう。


しかしその一見不遇な不思議なゴミ部屋の少女は、その部屋の特殊性についてはまるっきり難色を示さない。むしろこの部屋の最深部へはある目的を達成するために訪れたのであり、そこへ至るまでの障害にはまるっきり関心がない、あるいは障害を障害として認識していないといった様子だった。


「断ると言ったら?」と部屋の主は返した。


「こちらで調べますのでそれでもかまいません。ただこれは私からの警告でもあります。」と幼女はゴミ部屋の主の目の前へ瞬間移動(テレポート)でもしたみたいに素早く到達して、小さな声でいった。


「どちらにせよ」と幼女は続けた。


「どうか単独行動はお控えください。今この瞬間も理事長、あなたの言動、一挙一動、あのお方へ筒抜けであることをお忘れなきよう」


「あのお方が私にそのように忠告せよと?」とゴミ部屋の主、もとい理事長は言う。


「単独行動については申し訳なく思うが、あのお方にすればこれしきのことは想定内のはずだ。あれ以上付け加えることは何もない。なのにわざわざここまで出向くと言うのはおかしくないか?」と理事長は続けた。


「といいますのは?」と幼女は無機質な声で言った。声は相変わらず小さくそこには純粋な意味での疑問が浮かんでいた。幼女の頭上に?という記号がぷかぷかと浮いてそうなくらい。


その幼女は、通常世の人間が想像する幼女とは大きくかけ離れた存在である。


多くの幼女が表現するであろう一切の感情の起伏が感じられない。喜びや怒り、悲しみ、そして絶望すらも。


その幼女はどちらかといえばウサギなどの小動物に近い。


幼女の潤んだ瞳は顔の大部分を占めるほどに十分に大きく、ガラスのように透き通った眼球は反射板のようにあたりの景色を映し出している。


そこに映るは例えばゴミ屋敷の主の顔(その表情たるや感情の起伏にとみいかに人間味を帯びているかがわかる。)、寂しげに泣く電線のカラス、その上を覆う黄昏時の空とそこへ浮かぶ月。


「なんだろうな」と理事長はつぶやいた。


「率直に言って、どうにもあなたの個人的な感情が込められているような気がしてならないのは」とまるで自問をするように言った。


「個人的感情ですか」と幼女は反復して言った。適切にはんだ付けがされていない回路を手に取って眺めているみたいに。


「失礼な物言いですがそれこそ最も愚鈍な発言です」


「何だって?」理事長は心底驚いていた。真に怒るべき物事が起こるときは大抵驚きが先に来ることの好例ではないだろうか、という調子で。


確かにいくら理事長の座へ至るまでにいくつかの権力争いにまみれたであろう彼女といえども、十歳にも満たない幼女に愚鈍と言われることには慣れてはいないだろう。自我が十分に発達していない子供に、馬鹿だの、消えろだの、ばばあだのと意味のない罵声を浴びせられるということは、もしかしたらあるかもしれない。というより子供と接する限りにおいてはほとんどの場合ある。しかしおそらく幼女に愚鈍などと言われることは極めて稀ではないだろうか。


そしてその幼女には理事長を挑発させようとか、怒りで判断を鈍らせようとかそういう気は一切ない。


幼女の頭の辞書にある愚鈍という言葉はおそらく幼女にとって最も適切ともいえる形で選ばれただけなのであり、それがそのまま理事長の耳へと運ばれた。パン工場のパンがベルトコンベアを伝ってそのまま流れるように。それが余計に理事長を苛立たせることになるとも知らずに。


「私自身と、あなたが『感情』と仰るありとあらゆるものとの間とは無関係であることをあなたはご存じのはずでしょう?」と幼女は自明な理を物わかりの悪い大学生に説明する大学教授のようにやや注意深く丁寧に言葉を選んで、それでいて素早くいった。大学教授は多くの場合、正しいと確信している事しかいわない。それゆえ言葉は注意深く選ぶが、基本的にはせっかちだ。わざわざ学生の理解を待ったりはしない。


理事長は溜息をついた。溜息を浮かべながら幼女の発言を組み立てている。特に聞く価値はない文字列だと理事長は思った、あるいは思いたかった。理事長は幼女が自分より遥かに年下であるとか関係なしに目の前の幼女の事を信用してはいない。いちいち耳を傾ける必要はない、そう信じた方がおそらく事がよく運ぶ。


その一方で彼女は幼女の事を認めてもいる。幼女に少なからず勝つことのできない部分がある。


知識の豊富さであるとか、あるいは最も意味ありげで実はほとんど意味のないと一度はより多くの人に思わせてしまうが、立ち止まって考えてみればかなり意味を持っているのではないかとも思わせかねない巧妙な言葉遊びとか。


「ご存知、正確にはそう知らされているいうべきか。しかし誰も証明はしていない」


と理事長は言ってみた。


「証明などする必要はありません。ある種の絶対的な事象の前においては、そのような試みは無意味です。あなたが今この回転椅子に腰かけているということ、つまり存在を証明する必要がないのと同じように。」


理事長は笑った。


「結局要件は何なのだ?私を挑発しにでもきたか?そもそもあなたは、物事のすべてを、一応は事実として知っているだろうに。それに感情がないわりには話がどうにも横道にそれるのが気になるな」


「あなたのご質問にお答えしたまでです。それに、これは挑発ではなく、警告です」


「あるいは挑戦ともいえないか?」と理事長は言った。


「いえ、警告です。あなたに挑戦する意味はありません。ともかく今後は一挙一動細心の注意を払うように」と幼女は言った。


そして要件は以上です、と最後に付け加えて、原っぱを駆け抜ける野ウサギのように、ゴミ部屋から出て行った。


理事長は、幼女が去ってからもドアのほうをじっと睨んでいた。しばらくして回転椅子から立ち上がった。手元の要らなくなった書類を破り捨て、灰皿を手元に置きライターに火をつけた。


そして月に照らされて不可思議な光沢を帯びた電話を回した。夜になり、空には丸い月が浮かんでいたのだが当然それは彼女の眼には入らなかった。




少女はヘッドホンを取り出し、マッチ箱くらいの小型の装置につなぎ、音声を聞いた。


少女はその音声をはじめは注意深く、曲であるならば音階の一つ一つ、使われている楽器の音色一つも逃すまいといった調子で聞いていたが、三分か、四分経つにつれてだんだん集中力がかけてきた。まるで耳元で甘い言葉が囁かれたみたいに、不思議な呪文のようにかつ的確に他者を誘惑せしめる言葉がそこには含まれており、侵入的思考のように次々と健全でない風景が、あるいはそれは妄想ともいえるかもしれないが、少女の脳裏に浮かばずにはおれなかった。


その少女は基本的に、男性向けのアダルトゲームをプレイしたり男性向けのアダルトビデオを見ることによってマスターベーションをする。逆に、女性向けのアダルトゲームやらビデオによって性的快感を得ることを信条とはしていない。嫌いなわけではないが単に興味がない。いうなればそれらは肺に貯まる窒素のようなものだ。


少女は男キャラクターが女キャラクターによって妖艶に翻弄される作品が好みだ。


というよりそれ以外の作品は彼女にとって等しく無価値だ。


そこには二つのかけてはならないキーポイントが含まれている。


妖艶に、と、翻弄される。


それが彼女がオーガズムを迎えることの、もっといえば人生における数限りない悦を得るための必要かつ充分な条件だった。


いずれか一つが欠けているだけで及第点から遠く離れてしまう。


例えば少女は、女キャラクターが、ファミレスあるいは教室のような公共の場面において男キャラクターのズボンを脱がし、耳元で息でも吹きかけるように男を混乱させる言葉を囁きながら性器をいじくりまわして射精に至らしめるような、まず現実世界においてはおおよそ実現されないようなシチュエーションをとりわけよく好む。


そこには女が男を妖艶に誘惑する姿と、人前で性器が晒されてしまうことに終始困惑する翻弄された男の姿を同時にみることが出来る。その両立は自身の知る限り、あるいは知覚する限り、ある特殊なシチュエーションにおいてのみ実現されるのだ、と少女は確信している。


そしてまさに少女は今この瞬間、まったくの予想外にもその小型装置から流れ渡る音声から、上の両立を見出したのである。ほとんど奇跡的と言っても良い。


しかも、それは実際の生身の人間同士との間で起こった嘘偽りのない営みなのだ。


少女は理性の糸が次々と解かれ、体の奥の疼きが心臓の鼓動のように強まっていくのを感じた。


そして悪魔に囁かれて操られたように、催眠術師に催眠術をかけられたみたいに身体の奥へ至る湿り気に手が伸びる。その瞬間、外側から何かの異変を感じ、


「そこにだれかいるの?」と少女は恐ろし気に尋ねた。


ヘッドホンをしながらにして、戸の向こうになにものかの気配を感じていたのだ。


もしかしたら少女の勘違いかもしれない。これから起こることが誰にも見られてはならない儀式であれば、その勘違いの傾向は強まる。外側の気配に過敏にならざるをえない。人はおおむねそういう風にできている。


少女は考えうる楽天的な解釈を風呂敷のように頭に広げた。


施錠がかかっているし、誰かから天井から見られるわけでもない。私のやっていること(やろうとしていること)は何者にも見えないのだ、気にすることはない。


しかし、同時に不安感と焦燥感も強まっていた。いつにもまして。


今すぐ自分が行っていることを止めて、頭の中の風呂敷を包んで、小型装置を片付け、施錠を外して外へ出るべきだと思った。そう、元々はこれは仕事なのだ。横道に逸れている場合ではない。


それに鈍い奴らとはいえ、今日は待っている人がいるわけだから。




俺たち四人は日が暮れる前にこの街を出て、行きに通ったハイキングコースをそのまま戻り無事学園都市へと帰還した。


長い一日だと思った。


このような長い一日はきっとそうは来ない。


そして久しぶりに学園都市の外の世界に触れたからか、どっと疲れが出た。同行した面子のせいということもある。旅のお供は選んだ方が良いかも知らないが、なにせこれは課外活動なのだ。一度決められてしまった班員を変えるわけにもいかない。


あるいは、あれほど常識外れの面子で何事のトラブルにも巻き込まれることなく済んだのは僥倖ともいえるかもしれない。


俺は寮の夕食を済ませ、身軽なスポーツウェアへと着替え、今日着た服をすべてランドリーに放り投げ、部屋に戻りベッドの上で仰向けになりながら文庫本を読んだ。


取り出したのはサリンジャーの短編小説集だった。なかでも中学のときに親に隠れて何度か読んだことのある話だ。


睡魔が襲ってくるまでの僅かな時間に読むのに適している。


今日はいつも以上に早く就寝して、明朝走りに行こう。そのあとシャワーを浴びて、英単語を覚えてしまおう。俺は明日やるべきおおまかな段取りを頭に思い浮かべつつ夜七時を回った所で一度眠りについてしまった。


意識が朦朧とする中で嫌な予感が頭をよぎった。


寝てしまうまえに何かすべきことがあるのではないか?


そしてそれはとても大事なことではないか?


しかしそれがいかなるものであるのかを俺は忘れてしまっていた。


貯まりきった疲れは俺の機能を一度停止させた。




無意識の予感が訴えるように、俺は眠りからさめた。時刻は夜中の11時を回っていた。起き上がる。


寝る前には忘れていた決して忘れてはならないことを実行するために。


どうして、こんな初歩的なことを忘れていたのだろう?


寝る前に必ず部屋のドアの鍵を閉める、といったことを。


しかし目の前の事象は俺の致命的なミスの網目を通り抜けるように発生していた。


俺はドアの前を見て目の前の光景を疑った。


そこにねねが立っていた。


「一体どうした?」


その前に問うべき文言は山ほどあるはずだ。


就寝時間はとうに過ぎている、とか、どう監視を掻い潜って女子寮を抜けて立ち入り禁止の男子寮まで来たのかとか。


だいいちこの時点でダブルで寮の規則を違反をしている。


しかし今そんな説教をすることがいかに愚かであるかわかる。道理なんて、非常時においてはまるっきりどうでもよいことなのかもしれない。目の前の異常とも思える、いや異常としかいいようのない彼女の様子を見てしまえばそう思わずにはいれなかった。


一方肝心の彼女はそんな俺の苦悩などまったく気にも留めないという調子でただ無言で距離を詰めていく。恐ろしいほどに無言だ。


それはいつものねねではないように思った。


俺は声をあげた。とはいってもそれは乾いた口から出る小さな呻きでしかなかった。


俺は彼女に思いっきり押し倒されていた。その華奢な身体とは裏腹なかなり強い力で。


「アンタいったい」俺は疑問を投げかける。目の前の出来事に対して、彼女がやろうとしていることに対して。


返事はなかった。


これが暴力なのかもしれない、と思った。対話のなされない一方的なやり取り。


しかし彼女は俺に実際の暴力を振る気はないようだった。


ただベッドの上で馬乗りになっている。


馬乗りになって何をするわけでもなくただ至近距離で俺の目をじっと覗き込んでいる。


彼女の表情からはもはや感情の色が読み取ることが困難だ。


「ちょっときて」と彼女は言って今度は倒れかけていた俺の手を強引にとる。ベッドから起き上がり移動する。


「時間がないんだ」


その無機質で低い声は到底彼女から吐かれた言葉とは思えないもので、それが実際に彼女の口から、俺へ向けて吐かれた言葉だとわかるまでの猶予すらも俺に与えてはくれない。彼女は乱暴に俺の手を握りしめ、ドアを開け、内臓でも引きずりおろすみたいに俺を引っ張り廊下を歩く。


「わかった、引っ張るのはやめてくれ。歩き辛い」と俺は訴えた。


しかし返事は無い。


俺は彼女の手を思い切り振り払うことができる。振り払い、彼女を追い出すことができる、追い出して施錠をすることができる、本気を出せばこれくらいのことはおそらくできるだろう。しかしどうしてもそうする気にはなれなかった。


なぜなのかはわからない。ある意味彼女に従ったほうがいいのではないかという予感があった。そもそも下手に抵抗して、周りの学生に気づかれでもしたら大変なことになる。


それに彼女がこれから何をしでかそうとしているのかも気になった。既に寮の規則を大幅に違反しているのにも関わらずだ。(もちろん彼女には規則を違反しているとかいう意識は皆無だ)


「どこへ向かうつもりだ」と俺は訊ねずにはおれなかった。


しかし相変わらず返事は無い。それどころか歩調だけが強まるばかりだ。


それは引っ張られた人間のことなどまったく考えていない歩き方という感じだった。そして階段へと差し掛かる。


「上の階には何もないぞ」返事は無い。


「アンタどこへ向かうつもりだ?」


それは今となってはあまりにも野暮な質問に思えた。一つは俺の寝室にまで足を踏み入れることに成功している彼女が目的地を知らないはずがないという意味で。そして二つ目はなぜ俺は知らないふりをしているのだという自問だった。当然俺は知っている。


彼女が向かうべき先がまさにそこであろうということを。誰しもが入る意味も資格も与えられていないところへ向かおうとしているということを。(その入口ともいえる目の前の重々しい扉には厳重な施錠がかかっている。)


そしてたどり着く。


彼女はがさがさとスカートのポケットから鍵を取り出して、厳重に閉められた施錠をあっさりと外してしまった。それはクマの財布が入っていたはずのポケットだ。


「これで一安心」と彼女は言った。そして風が吹いてきた。何かの合図みたいに。


そこは何を隠そうこの建物の一番高いところ、即ち屋上。


「ほら、君ももっとこっちに来てみなよ」と彼女は言った。


「さっきまでとは違って上機嫌だな、強引に俺を巻き込んで満足か?これがお前お得意のいたずらか?」と俺は言った。


彼女は俺の怒りを抑えるみたいに俺の腕を抱き寄せる。


「なんの真似だ?」


「男の人って、こうやって少し触られるだけでどきどきするって聞いたんだけど」


「人による」と俺は言った。ねねは首を振ってふふふと笑った。


「嘘、私には何も隠せないよ」


「脈拍でも計ったか。なんにせよアンタのあまりの常識外れの振る舞いに面食らわないやつなどおるまい」


「うん、それはそうだよね。僕も君を困らせる気なんてなかったんだよ。だから許してよね、お兄ちゃん」


「お兄ちゃんはやめろ、気色が悪い」


「あれ?お兄ちゃんと言っても全然喜んでくれないみたいだ。」


と彼女は言っておかしいなと言った調子で首を傾げた。


「いいか?全ての物事にはタイミングというものがある、いきなりそんなことを呼ばれて喜ぶやつなんてそうそういるか」


「ふふふ、それではタイミングを弁えればよいということなのかい?」


「子供じみた屁理屈はやめろ。世の男が全員シスコンとでも言うつもりか」


「シスコン?なんだかよくわからないけれど、それは美味しいのか?」


「いや、食えたものではないだろうな」


「それならああそっか、君もそのシスコンというやつなんだね」


「はやく用件だけを言え。ここで何をする気だ」


「ここでなにをするきだ、ねえ」と彼女は反復した。


「君が期待しているようなことは何も起こらないと思うけど」


「何も期待してはいない、どちらかといえば早く戻って眠りにつきたい。今引き返せばここで起きたことはなかったことにしてやるぞ、多分」


「なにそれ?立場を弁えてよ」と彼女は不機嫌そうに言った。


「突然だけどお兄ちゃん、今から君に二つのことを要求したい」


「まず一つ目、もう私に何も聞かないでほしい。二つ目、私の言うとおりにしてほしい」


とマシンガンを連射するように、立て続けに言った。何かの呪文でも唱えているみたいな決まり文句にも思えた。


「断ると言ったら?」俺がそう言うと、彼女はにやりと不敵な笑みを浮かべて、無邪気な子供のように勢いよく俺の前から飛び出す。彼女の向かう先は、(まさか、)。


気が付いた時にはもう遅かった。ぞくりと悪寒が走る。この屋上、四方どこにも気の利いたフェンスがかけられていないことに今更気づくことになるとは。


「やめろ!!」俺は叫んだ。時間が止まった気がした。彼女はそこにいた。そこからそのまま飛び降りるのには造作もないところに。彼女はまるで俺の叫び声など聞いていなかったというようなそぶりで、わざとらしく時間差で振り返って、今度は向こうがこちらに聞こえるような大きな声で言う。


(岩山の時と同じだ、自傷じみた行動に見せかけて、最終的に俺を嘲笑うつもりかもしれぬ。そう楽観せずにはおれない。しかしねねはいったい何を考えている?いや違う。彼女は、誰だ?)


「想像もつかないくらい高い所だよ、ここはね」


「本気で言ってるのか?死ぬぞ?はやく戻ってこい」


岩山とはわけが違う。四階分、高さ20メートル、落下したら文句なく即死だ。


「うふふ。だよねえ、さすがにこの身体この高さから落ちたら、無事では済まないんじゃないかなあ」


「よせ」


「時間がないと言ってるじゃない、はやく決めてよ、僕の言う事を聞く?それともそのまま落ちる?」


そのまま落ちる?いったい何を言っているんだ。


しかし冷静にならなければならない。どうにかしてこの狂人が足場から向こう側の世界へ踏み入れてしまうのを防がなければ。


「脅迫というやつか、感心しないな。そもそもだ。落下したら彼女はもちろん、アンタも無事では済まないだろうが」


手探りで会話を進める。俺の立てた仮説をもとに。


彼女の中で蠢いている存在はねねとは異なる実体であるという。


「うーん、まあそれはそうなんだけど、それがどうかしたの?」


否定はなかった。


「やっぱり思った通りか」と俺は言った。


彼女は疑問を浮かべたような顔をした。


「アンタ何者だ?ねねに何をした?」


「ああ、もしかして僕を騙した?」


鎌をかけられたことに今まで気がつかなかったのか。いや、違う。そのことに気づく必要がなかったといったほうが適切だろうか。


「うっかりしていた。これくらいのことは頭の良い君なら見抜いているものだと。なんにせよ面白いよ、うん、ここにきて正解だった」


これくらいのこと、不穏な響きだった。何はともあれ俺の直感は当たったのだろうか。


ねねの身体にねね本人以外の別な人格が入り込んでいるという現実離れした仮説が。


彼女が嘘をついていなければ、だが。


「だってあいつらときたら僕の事をいろいろ弄り回してくれてるくせに、肝心の僕のこととなるとなあんにも聞いてくれないんだから」何を言っているのか理解できない。あいつら?、それが誰を意味しているのかすら。


「いいから早く戻ってこい」「無理だよ。」


と彼女は即座に言った。終焉のチャイムでも鳴ったみたいに。


「だって君はもう僕との約束を破ってしまったから」


「何だと?」


「言ったじゃないか。僕に質問してはいけないはずでしょ?」


つまりそれはタイムリミットを意味していた。交渉決裂。


つまり話し合いをする必要がないということでもある。


それなら仕方がない、実力行使だ。


(この距離なら間に合う。)


危険な賭けではあるが、やむを得ない。


俺は足を踏み出し、今にも闇の中に飛び込まんとする少女の手を強引に掴んだ。


「きゃっ、ちょっと、やめ」彼女もろとも体勢を崩して落ちる。もちろん安全な方に。


こちら側の世界に。


そしてその後は、俺が彼女を押し倒したみたいな感心できない体勢に。


その刹那、胸がざわめく。俺の中で何か名状しがたい違和感を覚える。


違和感というよりは、違う、なんだ?この感覚は。もっと壮大な現象のはずだ。人が地上を離れ、満天の夜空に輝く星の一部になったようなそんな。あるいは世界が刻々と変容しつつある映像を外側から見ているあるいは見させられているような。雲が時間を早回ししたみたいに動き、風が絶え間なく吹き続け、太陽が何度も登っては沈み、北極星の周りを星座が凄まじい速さで回っていくような、そんな歴史の断片を見せられているような感覚。


その真ん中には空洞があり、それが仰向けになっている彼女の眼だとわかったときに俺はかろうじて意識を得る。これまで夢と疑わなかった現実が浮かび上がった。


「アンタ」俺は確信していた。むしろどうして今まで気が付かなかったのか?


その姿は、あの夜に見たものとまったく同じだということに。満月の夜。屋上で月明かりを浴びる一人の少女(そしてその映像は夢ではなく、現実の世界で俺が知覚していた記憶だったのだ。そうだ。しかしそもそも現実の世界とは何だろう?今ここで知覚している風景はそもそも現実のものなのだろうか?)


その虚ろな目、それはビー玉のようにいまにも崩れてしまいそうなほど脆弱であり、何も語ろうとはしていない。答えはいつの日もそこに与えられてはいない。自分で見つけなければならない。俺は一つの決意を固める。


「わかった」と俺はその目へ向けて言っていた。


「一応アンタに従おう。だがもう二度とこんな馬鹿の事は考えるな」そう言って俺は彼女に手を差し伸べた。彼女はおそらく、ねね本人ではない謎の少女だ。少女はやれやれといった顔で俺の手をとり、立ち上がる。


「わかった。君を信用してみるよ、ただ」その時ふいに背後から何者かの気配に見舞われ少女は言葉を遮る。その背後の気配を悟ったとき俺はここが現実の世界で起こった本当のことであるという確証を得た。そしてその確証を得るということは、現実の中で最も非現実であるとされる物事の一部が崩壊することを示唆してもいた。空き瓶に残った水滴が蒸発して大気へ吸い込まれていくような転移だ。少女は消えた蝋燭の炎のように意識を失っていた。


「あなたたちは?」背後の声は心配そうな声で言った。その声には当然聞き覚えがあった。























読んでくださりありがとうございました。


もし万が一ここまで読んで下さった方がいるのだとすれば、これだけの駄文を一応は不快感なく読んで下さった(?本当にそうだろうか?)ということなので、、それはほとんど奇跡といってもよいような気もします

是非お声をかけてくだされば幸いです。

それでは。

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