第一章
皆さん、こんにちは!
先々月に公開しました「序章」の方をお読みくださった方は、お久しぶりです。
今回もお忙しい中ご足労くださりありがとうございます。
ツイッターでの拡散のおかげか、すでに評価ポイント、ブックマークもいくつか付いているようで、びっくりしました。
こういったことはとても励みになります。
繰り返しとなりますが、この企画は知人のDTMer餅氏からお誘いをいただいて、曲のメロディを聴いてから作ったお話です。
曲名はその名の通り Flow で、下URLから試聴動画がご覧になれるかと思います。
https://ka-ani.tumblr.com/
トラック11
CDも販売しているようですよ~。
というわけで、いろいろと前置きが長くなってしまいましたが、私としましてはこの連載を末永く見守ってくださればそれだけで幸いです。
今回の「第一章」、、
少し長いですが、どうか宜しくお願い致します。。。
第一章
7/21
「そんなので隠れているつもりか!!」
校門を出てからバス停へ至るまでのいつもの通学路。
背後に感じる不穏な気配に痺れを切らして叫んだ。
つまり俺の声は俺の背後にいるであろう者へ向けられているはずだった。
しかし返事は無い。
念のため振り返る。
誰もいない、やはりそう簡単には行かないようだ。
「ばかばかしい」
歩調を強めても、背後の気配は消えることはない。
「やってられないな」
今度は引き返して、電柱の裏へ回った。
「……!!」
そこにいたのは見知らぬ女子生徒。
危うくぶつかるところだった。
「すまない」
女子生徒は不審そうな目で俺を見て、無言で通り過ぎて行った。
「…。………なるほど」
俺は状況を把握した。
つまり、こういうことだ。
今まで感じてきた背後の気配は、いま俺の後ろを歩いていたであろう女子生徒のものだったのかもしれなかった。
となると、今までの言葉は全て誰に向けられたのでもない俺の独り言ということになる。
逆にいま後ろを歩いていた女子生徒からすれば俺の言動は…。
(不審者そのもの、か)
「畜生」
「ニャー」
「??!」
電柱の陰からそっと一匹の猫が顔を見せた。
猫は俺の前を、ゆっくりと通り過ぎていく。
かと思えば俺の五メートルくらい前のところで止まった。
もしかして元凶はこいつか?
とはいえ、この猫は俺に対して一切の警戒心なく、襲いかかることもなく、かといって挑発するでもなく、まるでどこかへ俺を誘うかのように意味ありげに尻尾を揺らしていたのだった。
「ついていってみるか」
猫は港の方へ進んだ。
既に歩くこと十五分、結構な時間だ。
にもかかわらず俺と猫との間隔はほぼ一定であった。
そしてそれはきっと偶然ではない。
(やはりこの子は俺を案内したいようだな)
団地沿いの並木道を過ぎ、坂を上がると、自動車やら軽トラックの通り過ぎる音がしきりに聞こえてきた。
産業道路。
ここ学園都市から外へ抜けるための交通手段を一手に担っている大動脈だ。
海沿いを南北に横断しており、道路沿いには工場や大型倉庫、ショッピングモールなどが立ち並ぶ。
その幅およそ20メートル。
猫が渡るには中々骨が折れそうだった。
勿論彼らの身体能力を持ってすれば造作もないだろうが、交通量も並大抵ではない。ここを渡れるのはよほどの命知らずだ。
彼(あるいは彼女かもしれない)もこのことを熟知しているようで、慌てずに五十メートル先の歩道橋へ向かおうとしていた。
賢明な判断じゃないか。
産業道路を抜けると、彼はより一層勢いづいて、もはや俺がついてきているということすら忘れて、貨物倉庫の方へと走っていった。
(どこへ消えたのだろう?)
猫に取り残された俺は、特にこれといった目的もなく-というよりは目的が忽然と消えてしまったと言った方が正しいが-貨物倉庫の裏-そこは防波堤に面していた-へ回った。
倉庫周辺を歩いている最中、何度か薄汚れた作業服を着た従業員がせわしげに荷台を動かしているのとすれ違った。
平日だとここを訪れるたびにひどく場違いな気になる。
「笠原隼人じゃない」
突然、かすれた甲高い声が俺の名を呼んでいた。
聞き覚えのある声だった。
振り返れば案の定、顔見しりのジャージ姿の同級生がいた。
名は小嶋みう、俺が知る限りでは文句なしの学園一の不良少女。
学校での遅刻、無断欠席は勿論の事、学生寮においても門限破りの常習犯。
「アンタよく名前を覚えていたな」
しかもフルネームで。
俺は彼女を褒めてみた。
「ねえ、あんた馬鹿にしてんの?それに、あんたね、うちらの間では有名よ」
「他意はない。それに有名だと?不気味な事を言うのはやめろ」
「そうよ、知りたい?」
彼女はそう言って不敵な笑みを浮かべながら意味もなくにじり寄ってくる。
これといって特別な意図がない些細な言動がいちいち不愉快なのが、彼女の特徴なのだ。
「いや丁重にお断りしておこう。」
「なんなのよ、その言い方、そもそもあんたどうしてここにいるわけ?ストーカー?」
彼女はつまらなそうに言った。
「ある者を追ってここまで来た」
「あんた馬鹿?誰もこんなところに来やしないわよ」
「じゃあなぜアンタはここにいる」
「別に、あんたには関係ないでしょ」
「確かに」
その通りだ。
「あ~、もう、こんなことしてる場合じゃないんだったわ、まったく。あたしこれからアルバイトなのよ。」
彼女は独り言を吐いて倉庫の表へと去っていった。
「さて、と」
階段で防波堤の上まで上ると、ここから長さ五メートルほどのコンクリの地面が続き、その先には海が目に入る。
いつ来ても悪くない眺めだと思う。
気分転換によく足を運ぶ場所だ。
そしてちょうど五メートルほど先、すなわち陸と海の境界ともいえる地面に先客が立っていたことに気が付いた。
さっきの猫だった。
彼は陸の世界に背を向け、波の音と潮風につられ、心地よさそうに尻尾を動かしながら、停泊する船舶-あるいは地平線の彼方なのかもしれない-をじっと眺めているようだった。
俺は猫に近づき、もっと彼を近くから見てみたいと思ったが、それは彼にとって邪魔になるだろうとも思い、帰ることにした。
それにびっくりした拍子に海の方へでも飛びこまれたら怪我をしてしまうだろう。
振り返ると、貨物倉庫の方から二匹の猫がぞろぞろと飛び出てくるのが目に入った。
片方の猫は、左足を怪我したみたいで白い包帯が巻かれていた。
彼らは、こちらへ向かってよじ上ってきた。
(海を眺めている彼に会いに来たのだろうか?)
そして俺の前をするすると通り抜けて、陸に背を向ける彼の両脇に並んで三匹ともひどく落ち着いた感じで海を眺めた。
俺は戻って猫たちが出てきた貨物倉庫の中を覗いてみた。
倉庫の中は人の気配がなく、切れかけた蛍光ランプが何度か点滅しており、不気味な感じだった。
ここで猫に襲われたらひとたまりもない、と思い慎重に足を運んだ。
左手にはトラック、右手にコンテナが置かれ、それらの合間から猫が走り寄ってこないか注意深く見ていたが、こちらへ向かってくる猫はいないようだった。
倉庫の真ん中まで進んだ所で、コンテナの隙間に置かれたとある物体が目に入る。
(……段ボール?)
7/22
音楽室、生徒たちの楽しげな笑い声の飽和したこの空間で、誰もが目もくれないオルガンの裏に佇む二人の生徒。
一人は笠原隼人。
ただ何をするでもなく壇に腰掛け、ぼんやりと窓の向こうのグラウンドを見つめている。
そしてもう一人は。
「あのお、何をしていらっしゃるのでしょう」
眠くなりそうな声で隼人に問いかける少女も、ずっと前からそこにすわりこんでいたのだった。
「何もしたくないからここにいる。ミルフィー、アンタこそ一人でいて大丈夫なのか?」
「はい」
「班は決まったのか?」
「いえ」
「ちっとも大丈夫じゃないな」
「笠原さんは決まりましたか?」
「当たり前だ。あと笠原でいい」
「そうですか」
この学園に通う全生徒の最終目標、高校生活3年間の集大成である来年の卒業論文へ向けての班分けを行うべく、第一音楽室、この校舎の中で最も広い教室に、一学年およそ100人余りの生徒が集められていた。
班が決まれば、夏休みの間に班ごとに話し合って卒業論文のテーマを選定する。
「あの、皆様と話し合いをしなくてよろしいのでしょうか?」
ミルフィーは心配そうな顔で俺を見た。
「話が通じるようには思えん」
「でもきちんと話し合ってグループを決めたのでしょう?」
「いや班の面々すらもよくわかっていない。ボードに勝手に俺の名前が書かれていただけだ」
彼女はくすっと笑った。
「アンタ、笑っている場合か?」
「大丈夫ですよ。私、一人でもやってみせますから」
「いや、一人では組ませてもらえないと思うが」
「え?」
「当たり前だろう。一人でいいなら、どんなに楽か」
自分の意志とは関係なくただ一方的に決められるグループとそこでのポジションは、隼人が少なくとも成績という面においては極めて優秀で、かつその点に関しては他の同級生からも信頼されているが故の代償であった。
彼と同じグループであれば俺たちは何もせずとも必ず卒業できるかもしれない。
そんな噂がまことしやかに囁かれてから、彼の周りには主に怠惰な不良学生が寄ってくるようになったのだ。
そして彼のグループは彼らの都合いい形で決まった。
しかし彼は不良学生に都合のいいように利用されることを拒んだのではない。
むしろ、複数で行動することで必然的に発生しうるであろうありとあらゆる障害に絶望を覚えていたのだった。
彼にしてみれば、一人ですべてをこなしたほうが明らかに効率がいいという話だった。
一方のミルフィー、彼女もまた彼と同様一切の協調性を持ちあわせておらず、孤立していた。
俺はあまりにも退屈であるがゆえに、どうにかミルフィーがどこかのグループに入れないものかと考えてみた。
もう既に出来上がっているところに彼女の入る余地はない。
俺は彼女と同様に周りになじめずに孤立してしまうであろう女子生徒の姿を勝手に思い浮かべた。
例えば、昨日の不良児、小嶋みう。
もっとも彼女の場合、いまこの場にすら来ていない可能性のほうが高そうなので論外かもしれない。
それにあれとは組まないほうが彼女のためだろう。
だとすれば…。
俺がもう一人の少女を思い浮かべているまさにそのとき、廊下に教師に連れられるその少女の姿が目に入った。
「あれは?」
「どうしたの?」
化学教師の小泉は、隼人をみるなり驚いて言った。
「あの、この子-小松さん-に用がありまして」
隼人がそう言うと小泉の表情は強張んだ。
一方の少女は、じっと彼を見つめるも、まるで心当たりがないといったそぶりを見せた。
「ねえ、笠原君は、班は決まったのかしら?」
「はい」
隼人は言った。
「決めたあとも話し合いがあるでしょう?」
「どこへ行く?」
隼人は、小泉の指摘には返さず、黙ってどこかへ向かおうとする少女へ向けて問いかけた。
「笠原君」
小泉は強い口調で言った。
「少し話があるわ」
「小松さんのことよ」彼女は耳打ちした。
「おかしいですよ」
放課後、予想外にも教室前で俺を待っていたミルフィーは俺を引っ張るように、あたかも学校から抜け出すみたいに急ぎ足で校舎を出て、周りに俺以外誰もいなくなるや否や、思い切り愚痴をもらしていた。
彼女はどうやら憂さ晴らしをするために俺を誘ったようだった。
「アンタな、もう少し冷静になれ」
俺はあえて突き放すように言った。
「いやです」
彼女は言った。
(それにしてもまさかあの場でミルフィーが立ち聞きしていたとは)
「たいしたお話でもないのだけれど、お友達のあなたには知らせるべきだわね。」
ざわめく音楽室の扉を締めて、静まり返った渡り廊下で小泉先生は言った。
「結論から言うとね、小松さんは卒業論文は書かないわ」
「書かないって、本学の特別必修科目でしょう。」
「だから特例よ、あの子だけ書かないのよ」
「…。差し使いなければ理由を教えていただけますか?」
「それは、」
「今のお話、いったいどういうことですか?」
気が付けば彼女の話を全て聞いていたであろうミルフィーがそこに立っていて、
小泉に問いたてていた。
「笠原さんもおかしいと思ったのでしょう?」
ミルフィーは言った。
「いいや、今の段階ではなんとも言えない。もう少し様子を見るべきだ」
「そうですか」
「それに教師の言うことにも一理ある。はっきりとはわからぬが、卒業論文は小松さん-猫娘-には少し荷が重いということなのかもしれん。例外のない規則は存在しないというだろう」
「あの、笠原さんは、小松さんと仲がよろしいのですよね」
「そう思うか?」
「だってこの間はあんなに一生懸命に探しておられましたし」
「別に仲がいいからではない」
「笠原さん、小松さんを笠原さんの班に入れてもらうわけにはいきませんか?」
「は?」
突拍子もない提案だった。
「小松さんももしかしたら、グループワークに参加したいのかもしれませんし」
「いや、参加したいって、そんなことどうしてわかるんだ?」
「どうしてって言われましても、それは推測ですけれど、でもでも、はじめから参加させてもらえないなんてひどいですよ」
「だからそう感情的になるな。何かしら事情があるのだろう。まあ仮に本人が参加したいとしても、教師の決定を覆してまで、こちらが引き入れる義理はない。そもそもこの班はただでさえ、何も考えぬ輩が多いというのにこれ以上問題児が増えた日には」
「そ、そんな言い方って」
「そもそもアンタは他人の前に自分の心配をするべきじゃないか。まだ自分の班すら決まっていないのに問題児に構っている暇はあるのか」
その時、ずっしりと地面にカバンが落ちる音が伝わった。
「??」
それは彼女の鞄だった。
話すことに夢中で思わず落としてしまったのだろうか。
俺はやれやれとつぶやきながら、彼女の鞄を拾い上げようとしたとき、はじめて異変に気が付く。
いや、気が付いた時にはすでに遅かった。
俺の手は思い切り叩かれるように払いのけられた。
それは他の誰でもないミルフィーの手だった。
その手は俺そのものを拒絶していたのだ。
恐る恐る顔を上げる。
少女の表情からは俺への軽蔑が見て取れた。
「見損ないました」
そのただひとことを呟くと自分のカバンを拾い上げて、俺の前を足早に通り過ぎようとする。
「馬鹿じゃない?」
その時、甲高い声が路上に響き渡る。
そして、その声に聞き覚えがあり、明確に俺たちあるいは俺に向けられたものであったと気が付いた時には、その声の主は、俺を素通りして、足早に去ろうとするミルフィーを挑発するように嘲笑っていた。
小嶋みう。
(しかし、どうして彼女がここに……)
嫌な予感がした。
「さっきからあんたたちの話聞こえてたんだけどさ。っていうか特にあんた」
そう言って小嶋みうはミルフィーを指さした。
ミルフィーはほんの少しだけ動揺しているように思えた。
「あんたの台詞とか発言がねえ、うざいというか、痛いというか、気持ち悪いのよ」
「気持ち悪い?私、ですか?あなたは誰ですか?」
小嶋みうは呆れるようにため息をついた。
「それに、あなたのおっしゃることの意味が理解できません。」
「あんた、小松さんって子を、どうにかして参加させたいだとかなんとか言ってたでしょう?」
「小嶋みう。ミルフィーは、教師の言い方に違和感を覚えただけだ。そもそもアンタには関係ないだろう」
「あんたは黙ってて」
「続けてください」
ミルフィーは言った。
「この際だからはっきり言うけどあんたのやってることって、教師たちにも小松さんにも鬱陶しいっていうか、偽善っていうの?自己満足なのよね」
「偽善、ですか?」
「そうよ、わかる?」
このままではだめ、だ。 俺は理性からでなく直感的に悟った。
そして、ふいに激しい鼓動が訪れる。
俺の中で何かが確かに悲鳴を上げている。
「それではあなたは小松さんのお知り合いなのですか?」
「…あんた何言ってるの?そんなわけないじゃん」
「だったらあなたにそんなこと言われる義務はどこにもないかと」
そう、今起きていることは本来あってはならないことなのだ。
脳から熱く燃え滾る赤い液体がこみあげてくるような激しい情動に襲われ、それは明確に目の前の映像を拒絶する。
「その言葉、そっくりそのままあんたにお返ししたいんだけど」
やめろ、やめてくれ、と、何度も何度も脳内でささやかれる言葉は、確かに俺の口からも漏れ出ていたけれど、諍いを続ける二人の耳には届いていない様子だった。
「いつあなたに言いましたか?」
「あんた馬鹿なの?笠原に向かって同じこと言ってるじゃん」
「やめろ」
その声を初めて聞いたとき、それが実際に俺自身から発せられた声であることと、確かに二人に向けられた声であったということが理解できなくて、たまらなく恐ろしかった。
俺は気が付けば、二人へ向けて大声で怒鳴りつけていたのだ。
二人の動きはピタリと止まり、まるでこれまでの諍いが茶番劇であったかのように、圧倒的な怒りに身を任せる一人の男への驚きと恐怖を隠せずにいたように思えた。
「笠原隼人、あんた…どうしたの?」
小嶋みうは俺の豹変ぶりに驚いていた。
(…。……。………。俺は。俺はいったい何をしているんだ?)
「すまない」
それ以外に言葉が出てこなかった。
小嶋みうはただ疑わしく俺の目をじっと見つめる。まるで俺の中にあるけがれた何かを見定めているようだった。
「ほんっとばかばかしい」
小嶋みうはしばらく俺を見て、飽きたように言って去っていった。
ミルフィーも、ぶるぶると手を震わせながら速足で去っていった。
「待ってくれ」
俺は言った。
それはほとんど呟きに等しいもので、当然二人に届くことはなかった。
学校からバス停までの一キロ余りの距離がひどく長い道のりに思えた。
俺の言動が原因で起こった少女たちの諍い。
その諍いが見ていられなくて感情を抑えきれず怒鳴りつけたこと。
二人の少女に怒鳴りつけたこと。 明確な怒りの矛先すら定まらないままに。
何かの手違いのように思えてならなかった、あるいはそう思いたかった。
今俺を支配している感情、それは彼女たちへの申し訳なさとか、不甲斐なさとも違う。
それは俺が実際に二人の少女に怒鳴りつけうる人間であったということへの強い絶望感と失望だったように思う。
『人前で不快な感情をさらけ出すのは馬鹿のすることだ。
感情などというものはくだらぬ、災いの原因になるだけなのだ。
だから少なくとも俺は今後、そういった感情を晒すことなく生きていく。 』
俺は五年前、小学六年生の夏の終わりに確かに骨に刻んだはずのその言葉を一瞬たりとも忘れることなく自身の血に染み込ませ、この五年間を過ごしていたのだ。
だからこそ人々の諍い、喧嘩、暴力、もっといえば嘆き、悲痛すらもすべて目に入れず排除して生きてきた。
そのはずのなのに、最も皮肉なことに今度は俺自身が獣になっている。
そう、今の俺は人間ではなく、獣だった。
「ねこさん」
「?」
電柱の陰から発せられるその声を俺は確かに聞いた。
「ねこさんがいるの」
その声は続けた。
「…………」
俺は歩くでもなく、その声に反応するでもなく足を止める。
「ねえ、聞いてる?」
「誰に話しかけている」
振り返るまでもなく、猫娘だとわかった。
随分久しぶりに見た気分だ。
「良かった、生きてた」
「……………」
「ああ、また死んじゃった」
「アンタ、今までどこにいた?」
「あたし?」
「アンタ以外誰がいるんだ」
「ねこさんとかくれんぼ」
「猫はどこにもいないが」
「だってかくれんぼだもん」
彼女は言った。
「ねえ、大丈夫?」
バス停についてしばらくして、猫娘は言った。
夕日に染められた彼女の横顔はまるで俺自身に起こった出来事を見透かしているかのようで、その表情といい仕草といい、これまでの彼女とは似ても似つかないほどで思わず視線をそらす。
「………何のことだ」
「お兄さん、少し元気がなさそうだなって」
「そうか」
「そうかってお兄さんのことなのに」
俺から見れば猫娘もいつもと違っているように思えた。
いつもみたいに意味のない馬鹿騒ぎはなく、ここに来るまでも何回か沈黙が続いていた。
「アンタも少し変だぞ、いつもみたいに変な暗号は言わないのか」
「暗号?暗号って何?」
彼女はクスリと笑った。
「暗号というよりは呪文か」
「魔法使い?」
「これで箒があれば完璧じゃないか」
「とってきてほしいの?」
通ってきた道の方を指さす。
「校則違反だ」
「うふふ」
「とにかくだ。アンタはアンタのしたいようにしていろ」
「え?」
バスが来た。
バスは他にも何人かの学生が乗っていたが、皆一人一人携帯電話を弄ったり読書をしたりしていた。会話しているのは俺たちだけだ。
「猫娘、そういえば、一昨日の夜は何をしていた?」
静まり返ったバスの中で猫娘に問いかけた。
「え?」
「うーん」
しばらく考え込む仕草をする。言えない事情でもあるのだろうか。
「言いたくないならいいんだ。帰りが夜遅くなることは多いのか」
そう聞くなり、彼女は吹き出した。
「なにがおかしい」
「なんか、お姉さんみたいだなって」
「お姉さん?なんだそりゃ?」
「……」
猫娘に言われてみて、確かに自分の発した言葉のおかしさに気が付いた。
まるで帰りを待つ者の台詞。
俺と猫娘は赤の他人、こいつがいつどこへ帰ろうと俺には関係のない話のはずだ。
しかし、お父さんでもお母さんでもなく、お姉さんとは。
(そもそも猫娘の家族について俺は何も知らないな。まあ、寮という時点で俺と同じように生まれはこのあたりではないだろうが)
「お姉さんって呼んでもいい?」
「いいわけあるか、というかお兄さんもやめろ」
「うふふ。あたしねえ、夕方まで子供たちと遊んでるよ、あとねこさんとも」
「……そうか」
「どうしたの?いけなかった?」
「いや、逆に何がだめなんだ?門限さえ守っていれば問題ないだろう」
「だよね~」
猫娘はわざとらしく微笑んだ。
7/23
「二人だけじゃ寂しいと思って、今日は特別にお友達を連れてきました」
放課後の教室、猫娘は俺の帰ろうとするのを妨げて言った。
「帰る」
「どうして?」
「そもそも何故二人で帰るのが前提だ。」
「いいから、いいから。呼んでくるね~」
ドアが開く。
「……!!」
現れたのはミルフィーだった。
いまここにくるまで猫娘に引っ張られて、笑っていた彼女は、俺の顔を見た途端何かを思い出したみたいに表情が固まる。
猫娘が俺と合わせようとしていたとは露とも知らずといった様子だった。
「二人ともどうしたの?」
猫娘は俺たちの間のムードを察したのか驚きの声をあげる。
「なんでもない」
「なんでもないです」
同時だった。
「……」
「……」
「うふふ二人とも息ぴったり」
猫娘は俺たちを見比べながら言った。
「夫婦?」
「……」
「……」
俺は無言で猫娘を睨みつけた。
猫娘は少し変なことを言ってしまったという申し訳なさそうな仕草をしていた。
彼女なりに反省しているようだ。大いに反省してほしい。
一方ミルフィーはどちらかというと猫娘でなく俺の方を睨んでいるように思えた。
「あっ」
猫娘は何かを思い出したように言った。
「ちょっと待ってて」
すると突然、教室を飛び出してどこかへ行ってしまった。
俺とミルフィーを残して。
「今あいつが言ったこと」
「忘れてください」
ミルフィーは言った。
「ああ」
「……」
「……」
沈黙。
「昨日は悪かった」
俺は言った。
「……なにを謝っているのですか?」
「え?」
「小松さんが戻ってきました。帰りましょう」
彼女は笑顔で手を振る猫娘を見ながら淡々と言った。
ミルフィーと別れ、昨日と同じ二人だけの通学路だった。
「ねえお兄ちゃん、もうすぐ夏休みだね」
猫娘は言った。
「ああ」
「どこかへ行きたいなあ」
「海でも行くつもりか」
「うん、あたし海にいきたい。海にさわったことない」
「お兄ちゃんは?」
「まあ、ないことはないが」
「………」
「お兄ちゃんどうしたの?」
「アンタさ、どうでもいいが、そろそろそのお兄ちゃんとかいう呼び方はよせ」
「えっ?」
「お兄ちゃんと呼ぶのはやめろと言ったんだ。だって俺はアンタとは赤の他人じゃないか」
「じゃあ、るみちゃんみたいに『笠原さん』って?」
「ああ」
るみ、田井ノ瀬るみ、それがミルフィーの本名だ。
「かさはらさんは?」
「何?」
「かさはらさんはあたしのことどう呼んでくれるのかな?」
「…どう呼べばいい?」
「うんとね」
「ねねって呼んで?」
「…なるほど」
「そのかわりはやとさんって呼んでいい?」
「ああ。さん、は余計だけどな」
「え?呼び捨て。いいんですか?」
「いいも悪いもアンタとは同級生だろ、敬称はおかしい」
「あー、またアンタって」
猫娘は俺に名前を呼ぶように促す。
俺の目をじっと見つめながら、自分の名前を呼んでくれるのを待っているみたいに。
「悪かった……ねね」
「隼人さん合格で~す。おめでとう~」
随分簡単な試験だな。
いや、待て。隼人さん?
「ねねよ、さんは要らぬ、ねねの方は五十点だな」
「むむむ、ちゃんと気づくとは」
「無理に呼ぶことはないぞ」
「やってやれないことはないさ~」
「いや、なんかこう、これからまずいものでも食うみたいに言われるとね」
とはいえ下の名前で呼ぶのに抵抗があるのは仕方がない事なのかもしれない。
「ええ、まさに恥辱というやつね」
「何?」
「隼人君ならご存知でしょう?、、ふふふふ」
猫娘の表情に違和感があった。
顔は真っ赤で、今にも意識を失いそうな危うさと、妙な高揚感が混ざり合い少し不気味な感じだった。
「どうした?」
「え?」
まるで、突然我に返ったみたいな声を上げる。
「なぜ疲れたような顔をしている」
「うんと、ね。少しのぼせたみたいなのよー」
元気さを装いつつも、彼女の声からはさっきまでの活気がやや失われているようにも思える。
それに、『恥辱』。
彼女の口からそんな言葉が出るとは。
熱中症にやられたのかもしれない。
「さっきの質問なんだけどね」
猫娘は言った。
「隼人君、夏休みは何するの?」
「夏休みだからとていつもと何ら変わらぬ」
「そうなんだ」
「……。しいて言うなら卒業論文へ向けた実習で忙しいだろうがな」
「え?」
「……ああ、ねねには関係ないのだろうが、俺たちは本年度から卒業論文に向けた実習をやることになっている。夏休みは暑い中この町-学園都市-の外へまで出向いてな」
「………」
「ねえ、それって楽しい、のかな」
「…決して楽しいものではない。楽しいものではないが、海へは行けるだろうな」
「え?お勉強はしないの?」
「お勉強とやらをしに海へ行く機会があるかもしれん」
「………」
「難しい事をやるんだよね?」
「それはやってみるまではわからん。それに一人でなくグループでやるからな」
「ねえ」
猫娘は言った。
「無理、しないで」
「何?」
「隼人君、無理してる」
「なぜ、そう思う?」
「あたしに振り回されないでほしいんだ」
「あたしは、隼人君と、で海に行きたいだけなんだ~」
彼女は途切れ途切れに言って、鶏でも追いかけるみたいに追い風に向かって楽しげに小走りした。
その夜、俺は猫娘を見た気がした。
あるいはそれは猫娘にひどく良く似た小柄な少女なのかもしれなかった。
どのみちあの時あの場所で、彼女が本当に猫娘であったかということを確かめるすべはなかったように思う。
その猫娘にひどく良く似た少女は、黒塗りの外車に乗ろうとしていた。
黒塗りの外車はエナメルのバックのように黒光りしているわけでもなかったのに暗い夜、遠目からでもわかるほどの明確な黒だった。
カラスみたいな不気味な黒だ。
嫌な予感がした。
おそらく少女は助手席に座っていて、その隣には当然車を回す何者かがいるはずだった。
そしてもしあの少女が猫娘であるならば、彼女を車に乗せ、運転している者はいったい何者なのだろう?
少なくとも彼女の保護者ではない、あるはずがない。
なぜなら彼女は寮から通っている。
「っ!!」
外車は俺が近づこうと言うときに、まるで俺から逃げるかのように豪快なエンジン音を立てて動き出す。
俺は、走って外車を力の限り追跡した。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
二つ目の曲がり角を曲がるころには車は視界から消えてしまっていて、
同時に俺の体力も限界を迎えた。
息を吐き出すごとに言い表しようもない不安が体中にうずまく。
そして走ったこととは別な理由で嫌な汗をかいていた。
諦めて道を引き返し、歩いてさっきの公園まで戻った。
それ以外にはどうしようもなかった。いまできる最善の策だ。
公園の中は木々がやたらめったら植えられ、下草はふくらはぎに届くまで伸び切っていた。
このとき俺は背後から何者かの視線を感じた。
同時に土と草木の匂いが、鼻を鋭くさす。
そしてその匂いが脳へと到達するとき、周りの光景が俺の意識から切り離され、何かがフラッシュバックするような感覚を必死に押さえつける自分がいる。
眩暈が訪れた時に意識を保とうとするのに似ている。
しかし、結局はどうにもならないことを知っている。
背後からの視線は歩み寄る足音へと変わる。
その足音にも心当たりがあった。
全てが偶然ではない、そんな気がした。
それはいついかなるときも凪のように強くどこまでも、俺の胸をしばりつけるものだ。
歩み寄る足音が、明確な存在へと変わったとき、俺は声を聞く。
子供の声を。
それは俺がもっともよく知る子供の声。
「お姉ちゃんどこ?」
子供の声に応じるものはなく、夜風がいたずらに木々を揺らす音だけが響いている。
「怖いよお、お母ちゃん、お父ちゃん」
「お姉ちゃん、オネえちゃん、オネエチャン」
その名を縋るように呼ぶ子供。
『オネエチャンはもういない』
「え?」
『とぼけるな』
『オネエチャンはもういない。いないのだ』
やめろ、やめてくれ。
あ、あああああ、ああああああああああ。
「うっ」
意識を取り戻した時、俺は芝生に嘔吐し、何度か咳をしていた。
喉元にへばりついた胃液が呼吸を阻害する。
全身からは汗がどっと噴き出ていた。
あまりにも大量の汗だった。
日々のランニング1セット20KMを走り終えたあとだってこんな汗が噴き出たためしがない。
その後、激しい悪寒が俺を襲った。
身体の震える中、俺は俺自身がどうなっているかということよりも、いまこの場に俺自身の意識を留めておくための努力をした。
闇に取り込まれないように。
(考えるな、何も考えるな、もう終わったことじゃないか…)
「ニャー」
猫?
そのとき不意に何者かに肩を叩かれた。
「!!」
「なに、やってるの?」
「え?」
「笠原隼人、いったいどうしたのよ?あんた」
小嶋みうだった。どうして彼女がそこにいるのかわからない。
まるでまどろみの中にいるかのようだ。
だけど、これは幸いにも現実だった。
「すまない」
「え?」
「本当にすまない」
「なに?なんなのよ、どうしたのよ」
「ちょっとあんた落ち着いてよ」
次、意識を取り戻した時、ぬくもりを感じた。
汗で濡れた俺の腕を強く握りしめているその手は、思っていたより小さくて温かい。
「小嶋みう、まだいたのか」
「少しは楽になった?」
そう言って彼女は俺の腕から手を離し、背中を何度かさすった。
「ああ、ありがとう」
「あっそ」
みうは気のない返事をした。
「……どうして俺を助けたんだ?」
「あんたねえ、こんなときに何言っちゃてるわけ?あんた本当に今にも死にそうな感じだったのよ。やばめな感じよ。芝生に吐いてるところまで見て、最初はだれかと思ったけど」
「…………」
みうはまるで自分自身に起こっていたことのように、俺に訴えかけた。
「ああ、アンタは正しい。俺が間違っていた。」
「は?」
「今も、そして昨日の事も」
「昨日?」
「ああ、昨日アンタに怒鳴ったことだ。すまなかったな……」
「あんた何言ってるの?会話に参加出来ないあんたが勝手にキレちゃったアレ?どちらかというとあの後うけちゃったんだけど。」
「あれはあんたにとって会話なのか?」
「会話にはなってないわね、でもそれは私のせいじゃないわ、だって相手が相手だもの」
「……そうか」
「あの能天気な娘、次会ったら仕返ししてやるんだから」
「ところで買い出しの途中だったのか?」
俺は、さっきから芝生に転がっていた買い物袋が気になってたずねた。
彼女は動揺して袋から漏れた紙パックを拾った。
「牛乳、か」
「そうよ」
「ねえ、あんた私のこと笑ったでしょ」
「何?」
「いいのよ、でも、あたしはね、飲まないわ、飲む必要がないもの、というか嫌いだし」
彼女はぶつぶつと独り言を言った。
「猫ならさっきそこにいたぞ。俺などにかまけていないでさっさとあげてくればいい」
「あんた、どうして猫にあげようとしていることを」
「この前アンタと別れたあと貨物倉庫の中に入ったら偶然にも彼らの家を見つけた。いったい誰があの段ボールを置いたのだろうな」
「あんた、やっぱり、むかつくわ」
そう言ってみうは芝生を駆け巡っているであろう猫を探しに行った。
それから俺は小嶋みうと彼女の連れる猫と共に港までやってきた。
俺は倉庫で猫の世話をするみうに防波堤で風に浴びに行くと告げた。
「隣いい?」
「ああ、もちろん」
みうが来た。
とうやら猫の世話を終えたらしい。
いつもはおしゃべりなみうも、めずらしく黙り込んでいた。
「どうしてここ-学園都市-へ来ることにしたんだ?」
俺は灯台の赤いランプを見つめながら、そんなことを訊ねていた。
「そんなの決まってるじゃない。親がうるさいからよ」
彼女はぼんやりと海をみながら言った。
「そういうものか」
「ほとんどそうじゃない?ってかあんたは違うわけ?」
と、初めて俺の方を見て言った。
「確かに一つのきっかけではあったのかもしれない……」
「なにかっこつけてんのよ」
「ねえ、あんた泳げるの?」
「なんだって?」
「向こう岸まで泳げるかって聞いてるのよ」
「島のことか?ここから少なくとも五キロは離れているぞ、現実的ではない」
「ほら、ね」彼女は立ち上がって海をじっと睨むように眺めた。
猫はスルスルと俺を通り過ぎ、振り返り、俺と目を合わせた。
その目は月のように煌々と輝いていた。
「みんな偉そうにいうけど、結局なあんにもできやしないのよ」
みうはそう言って石ころを海へ飛ばした。
「もう帰るか?」
ここから去ろうとするみうへ向けて言った。
「帰らないわよ、これから倉庫で夜勤なの」
「門限を破る気か」
「あんた馬鹿ねえ、そんなものはどうにでもなるのよ」
「小嶋みう」
気が付けば俺は彼女のことを引き留めていた。
「ま、だ、な、に、か?」
「いや、アンタといたら少し気分が楽になった、ありがとう」
「ばーか」
彼女は小馬鹿にするようなポーズを向けてから、倉庫へとかけ下りて行った。
7/25
少女は険しい表情で堅く閉ざされた扉の前で固唾をのむ。
そして、自分は何一つ間違っていないのだと今一度強く言い聞かせる。
だから、あとは踏み出すだけなのだと。
少女は自分の性格を熟知しているつもりだった。
それは、一度自分が正しいと思って突き進んだ道は、人からなんといわれようと曲げられない、曲げることが出来ないというものだった。
教室が常に綺麗であることが正しいと教えられていた彼女は、入学して早々クラスメイトの掃除当番を毎日のように交代し、幾度とモップをかけた。
それから一週間後にはクラスメイトは全ての掃除を彼女一人に任せるようになっていた。
エンドレス掃除係。
傍から見れば損な役回りと思われても仕方がないけれど、彼女からすれば自分の意志を曲げてまで他の人たちと同じようなこと、つまり適当にクラスメイトと話しながら効率の悪い掃除をすることの方がよほど苦しいことなのだ。
掃除にしてもクラスメイト数人に任せるよりも自分一人がきっかり一時間かけてやったほうが必ず綺麗になることは自明の理だった。
だとすれば問題となるのは、自分の判断が正しいという確かな証拠と、それを実行するための勇気。
だけれど、それらの困難を自分一人で乗り超えるに彼女はあまりにもか弱い存在だった。
彼女はそのことを強く自覚しているからこそ、それらを保証してくれる存在にのみ耳を傾ける。
今となってはクラスメイトは勿論、教師でさえ誰一人として信用できなかった。
耳をかすべきはただ一人彼女の尊敬する人物。
そしてそれは今ここ-学校-にはいない人物で。
「お父さん」
思わず言葉が漏れる。
勿論、そんな言葉を呟いたところで彼がやってくるということはあり得ないことくらいわかっていた。
だからそれは彼女にとってあくまで気休めという名の祈りだった。
「頼りないな」
「え?」
その瞬間、まさに後ろから男の人の声がかかる。
自分の痛切な祈りが神様に通じたのかもしれないと一瞬、ほころぶもその男の人の声が明らかに自分の待ち望んでいた人物-お父さん-のものからかけ離れたものであることがわかり、溜息をもらす。
「どうしてここにいるのですか?」
彼女は言った。
「ややこしい話はあとにしよう。時間もないし結論だけ言う。俺はミルフィーの意見に賛成だ。」
そこにあらわれたのは笠原隼人。
「帰ってください」
ミルフィーは彼を拒絶する。
「ミルフィーが俺の事をどう思おうがかまわない。ただ俺は猫娘、いやねねに卒業論文に参加してほしいと思っている」
「そんなことを今言われても、もう信用できません」
「そっか」
彼は溜息をついた。
「ならば好きにしろ」
「はい?」
「もしあんたがその気なら、俺の事など無視してとっととその扉を開ければいい、そのあとはどうなるかはわからないが、中に魔物がいるというわけではないんだ。とって食われるという事はないだろう。それとも、一歩踏み出す勇気がないか?」
「茶々を入れないでください。あれこれと考えを巡らせているのです。考えなしになんでもかんでも冷たい事を言える人と一緒にしないで」
「冷たい事?俺が、いつ、どこで、言った?」
「覚えておられないのですか?でしたらこの前、謝っていたのはやはり嘘なのですか?」
「いや、俺はあんたを傷付けるような発言をした覚えはない。
喧嘩が見ていられなくなって怒鳴ってしまったことは深く反省しているがな」
「そっちのほうがどうでもいいです。」
彼女は怒って言ったが、なぜかそれを聞いた彼は意外そうな顔を向けた。
それがかえって彼女の気をいらだたせているとも知らずに。
「物言いは悪かったかもしれんが、基本的に事実しか言っていない。傷ついたのなら謝ろう」
「そんなとってつけたような弁明は求めていません。」
「弁明するつもりはない」
「あなたは思ったことをなんでもかんでも言うんですね」
「まあ、基本的にはな。感情的になることは愚かだが、言いたいことを黙っていてはかえって関係性がこじれるだけだからな」
「そんなことよりも、昼休みはあと十五分しかない、つまりアンタはもうすでに-五十分の昼休みの内-三十五分も校長室の前で拝んでいるわけだ」
「帰ってください」
「いや違うな。正確には、昨日の五十分と合わせて、八十五分か」
「いいから帰って」
「ああ、帰る。アンタが自分の手でこの扉を開けたらな」
「そしたら帰ってくれるのですね?」
「ああ」
そのとき、まるで彼らの一連のやりとりを聞いていたかのようにちょうど向こう側から扉が開く。
「あなたたちね、もう少し静かにしなさい」
あらわれたのはこの学園の副理事長。物腰が柔らかな三十代半ばの女性で生徒からも親しまれている。
「あなたは?笠原君?それにえっとあなたは」
「田井ノ瀬です」
今まで彼と言い争いをしていたときとは一変し、まるで蚊の鳴くようなか細い声で副理事長に言った。
「ああ、ごめんなさい、田井ノ瀬さんね」
「騒いでしまって申し訳ございません」
隼人は謝った。
「え?いやいいのいいの、ただ、もう少しボリュームを下げてお話頂けたら助かるかなって」
「副理事長」
隼人は言った。
「突然すみませんが、少しお時間よろしいでしょうか?」
「え?もしかして理事長に御用で?」
「はい」
「えーと多分大丈夫です。それならここで少しお待ちくださいね」
ミルフィーは隼人と目を合わせる。
さっきまで隼人へ向いていた敵意はそこにはなく、というよりはそれどころではなくひどく緊張している様子だった。まず立って歩くのが困難と思えるくらい足がぶるぶると震えていた。
こんなのでよく一人で抗議しに行こうと考えたものだ、と隼人は思った。
「入る前に一ついいか」
「え?」
「とにかく自分に自信を持ってくれ。それに扉の向こうにいるのは校長とは言われているが、なんてことはない、一人の人間のはずだ、多分」
「は、はい」
扉があいて副理事長が出てきた。
「どうぞお入りください」
扉を開けると、さっき俺たちが言い合っていた、あるいは考えていたであろうありとあらゆることがばかばかしくなった。
同時に俺はミルフィーへの発言を今すぐ撤回したいと思った。
なぜなら校長室のなか、そこは到底人間のいるべき部屋とは思えなかったからだ。
魔物の住まう城、いや魔境だろう。
試練はまず、扉を開けて入口に立った瞬間に起きた。
それは歩くための足場がほとんどないという試練だった。
部屋の両端に並ぶ天井まで届くくらいの巨大戸棚の間の空間は一言で言えばゴミ置き場。
床は普通の教室とは異なる豪華そうな赤地の絨毯が敷いてある、ように見える。
断定できないのは、それが本当に赤地の絨毯であるかどうかすらも定かではないのだ。
その絨毯であろうものの上に置かれた数々の段ボールと、その他の大量のチリ紙のおかげで。
段ボールの中は、未開封の書籍に、遠い親戚からもらうようなお土産の品、健康用具まで置いてある。
ゴミは生ごみこそビニール袋できつく縛っておかれてあるものの、無数のプリント類や、大事そうな書類までもが一面に散らばっており、中にはくしゃくしゃに丸められたものや、引き裂かれたものまで置いてあり、それらがゴミ山を形成していた。
もはや学園の理事長の部屋などではないと思った。
この部屋が理事長の部屋であってはならないとも。
中学生でももっとまともに片づけるだろう。
俺たちは、もはや相談/抗議しにきた二人の生徒ではなく、ごみ部屋探索隊のように思えた。
実際、俺たちは隊列を組むことを余儀なくされて、俺を先頭とし、後ろがミルフィー。
歩くスペースがないためとても並んでなど歩いてはいられない。
書類を踏むのも失礼と思い、書類のないとびとびの足場を一歩ずつ踏んでは進んでいく。
本当に足の筋肉と頭を使う至難の業だ。上にのぼりこそしないが、やっていることはロッククライミングみたいなものだろう。ミルフィーも見よう見まねで俺の後をついていこうとしている。
「散らかっていて申し訳ございません。ちょうど今からゴミだしをしようかと」
副理事長は謝った。
散らかっているとかゴミだしをするとかそういう次元じゃないと思う。
部屋全体の火葬を始めないことには何一つ解決されない。
「あの~理事長」
歩きづらそうにする俺たちを見兼ねたのか、副理事長は理事長に俺たちの来訪を知らせる。
理事長は今俺たちと同じ部屋にいるにも関わらず、回転いすに腰掛けながら、呑気に窓の方を向いているようで俺たちの存在にちっとも気が付いていない。
副理事長の呼びかけも聞こえていない様子だった。
「ちょっとここでお待ちください」
副理事長はそう言って、原っぱのウサギの如く、巧みにゴミ山を回避して進んでいき、何度か理事長と思われる人物の肩を何度か叩いた。
さすがに慣れた足取りだった。そして当の理事長はご就寝中だったようだ。
肩を叩かれたゴミ部屋の主は、凄く健康的な伸びをしながら椅子をくるりと回して、俺たちのいる方へ顔を向けた。
「え?」
ミルフィーは思わず声をあげていた。
俺も目の前の光景を疑った。
そう。
そこにいたのは、理事長ではない。
正確には到底理事長ではないはずの人間の姿だった。
いたのはサングラスをかけ、カラスのような真黒いコートを羽織った一人の女性だった。
(どういうことだ?この学園の理事長は女性ではなかったような…)
少なくともこの春の始業式にあらわれた校長と名乗る男は、「平野」という五十半ばの穏やかな男性だったはずだ。
彼が何かの気の迷いで女装をしているという線も否めないが、年齢と体型からしてさすがに無理がある。
その女性はおそらく二十代半ば、副理事長よりもはるかに若そうな恰好だった。
原宿あたりに歩いていそうなファッションモデルのような恰好をしていたし、髪は艶があり、化粧品のCMに出ている女優を彷彿とさせる。
両耳にはピアスをしている。銀座にいそうなお洒落な婦人を彷彿させる。
「お二人が理事長に折り入ってご相談したいことがあるそうです」
副理事長は俺たちに目配せしながら理事長に言った。
「ソファに座って」
理事長と呼ばれた一人の女性は口を開いた。
煙草で喉をやられたようながらがらとした声だった。
副理事長は急いでゴミ山に埋もれたソファを発掘した。
「ああ、ソファの上の書類は床に置いといて」
理事長は副理事長に言った。
書類ではなくちり紙、置いておくと言うよりは捨てると言う表現の方がしっくりくる。
何もかもが常識外の人間に思える。
「散らかっててごめんね」
理事長は言った。本当ごめんなさいと副理事長もお辞儀した。
「こちらこそ事前に連絡もとらずに来てしまって申し訳ございませんでした」
俺も突然の来訪を謝った。
「はいはい」
理事長は気のなさそうな返事をして、立ち上がり、書類棚と思われる扉を開ける。
そこから豆乳1.5リットルと菓子パンを出して、菓子パン袋をびりびりと破った。
「ほんでいったいどうひたの?」
理事長は菓子パンを口に入れながら言った。
「あの」
ミルフィーは言った。
「あの、その、小松さんって生徒をご存知でしょうか?」
「?」
ミルフィーの蚊の鳴くような声は理事長の耳に届いていない様子だった。
「2年C組の小松ねねさんですね」
副理事長は理事長に伝えた。
「ああ、あの子ね。知ってるよ、ほんで?」
理事長はストローに口をつけた。
「私たちの学年は、卒業論文がありますよね」
ミルフィーがそういうなり、目の前の副理事長の顔色が変わったように思えた。
今までの優しそうな顔つきから一変して、びっくりしたような感じだった。
ストローで豆乳を運ぼうとしていた理事長も、彼女の言葉を聞いて、ピタリと動きを止めはじめて真剣に俺たちの方を見た気がする。
「この前、偶然お聞きしたところによると、小松さんは卒業論文に取り組ませてもらえないとのことで」
「でも、それっておかしいと思うんです」
「ミルフィー」俺は彼女のやや喧嘩腰な物言いを改めようとした。
しかし理事長の方は全く気にせず、むしろさも彼女の言葉の意味がよく理解できるという風にうんうんと頷いている。
そう、ミルフィーは不器用なりにも彼女の意を伝えようと努力し、その真剣さがなんだかやる気のなさそうな理事長にも伝播しているように思えた。
「そこで理事長様、副理事長様にお尋ねしたいのですが、どういった経緯で他の生徒さんと区別し、小松さんを外すに至ったのでしょうか?」
ミルフィーは声に力を込めて訊ねた。
「なるほどね」
理事長は言った。
「田井ノ瀬さんといったね」
ミルフィーは頷いた。
「えっとね、小松さんの件は、色々と特殊な事情があって私が決めたことだ。かなり特殊な子だよ。勿論決してあの子、いや彼女が他の子と違うから差別とか、彼女では力足らずとかいう理由ではないけどね。」
「その事情ですが、私たちには言えないことなのですか?どうにかしてお聞かせ願いませんか?」
俺は言った。
「そして、ご事情がご説明できないのであれば、私は皆様のご決定に反対します」
ミルフィーはきっぱりと言った。
副理事長は声をあげた。
サングラスをしているので明瞭ではないが理事長もおそらくかなり驚いたような様子だった。
「田井ノ瀬さん、えっとね、この案件は他の学校の色々な先生たちや、大学の職員の方々までもみんな集まる大切な委員会を通して決めたことなのよ。だから本当に申し訳ないんだけど」と副理事長はなさめるように言った。
「わかったよ」
そのとき、理事長が口を開く。
「えっ?」
副理事長は思わず声を上げる。
「申し訳ないが、2つに1つだ」
「2つに1つ?」
ミルフィーは反復した。
「うん。まず一つ目、小松さんが卒業論文に取り組まないと決定してしまった経緯については、今君たちに話すことはできない。大変申し訳ないけどね。だけど問題の2つ目、その決定を覆すという田井ノ瀬さんの要望は聞き入れてやってもいい」
「それって理事長、つまりこの子たちの言ったように、小松さんを参加させると?」
「もちろんそうそう」
理事長は何を言ってるんだと言う目で副理事長を見た。
「えええ?」
「いや、っていうかあたしとしてもこんな反対意見がでるとは思いもよらなかったからさ。始めから君たちの意見聞いとけばよかったな」
理事長はそう言って机からライターを取りだし、煙草を吸った。
「ですけど今から変更となれば、会議も必要ですし、いろいろなお手続きが、というより一度決まってしまったことなのに、そんなことできるんでしょうか?」
副理事長はかなり動揺している様子だ。
「出来るかじゃなくてやるのよ。こういうの面倒くさがってちゃだめだよ」
「……」
副理事長の唾を飲み込む声がここまで聞こえてきた。
「そんなことより副理事長、あたしの印鑑と例の書類もってきて」
「……。はい」
副理事長は気のなさそうな返事をした。
「笠原隼人じゃない」
校長室を出た後の階段で小嶋美みうとばったりとすれ違った。
彼女は決まりの悪そうな顔でこちらを見ていた。
ミルフィーも同じような顔をしていた。
「どこへ向かってる?」
俺はあえて訊ねてみた。
「校長室」
彼女は不機嫌そうな声で言った。
「だろうな」
「もしかしてあんたら、何か知ってるの?」
俺たちは頷いた。
「ほんと最低」
彼女は吐き捨てるように言った。
一人の中年女性は、生徒たちを見送ると、一息つく。
誰もいなくなった廊下で一人校庭を眺めながら思い切り頭を抱えた。
「まったく、面倒くさがってるのはどこのどいつよ。」
「アンタは座ってるだけかもしれないけどね、こっちは会議が増えるたびに雑用だのセッティングだの大変なんだっちゅーの。」
「だ、け、ど、田井ノ瀬さんだっけ?あの穏やかそうな子に、あんな過激な一面があったなんてやっぱりここは恐ろしいわね。それにあの理事長があんなにも早く折れるなんて、思わなかったわ。ちょっぴりし、あ、わ、せ」
「何をしている?副理事長」
突然扉が開いて、顔を覗かせるのは自分より一回りも若い女性。
どうにも納得がいかないが、彼女が学園の理事長なのだ。
「え、う、うわあ、あ、あの、あの子たちと少々お話を」
副理事長は慌てて言った。
「もういないじゃん。早くこっち来てくださいよ」
「は、は~い」
「あの~もしかして何か聞いてました?」
「何を?」
「い、いえなんでもないです」
「変なの」
そう言う理事長の口元はかすかに笑っていた。
ねねは俺たちが来るまで退屈そうにフェンスに手を当てていた。
フェンスの向こう側には五メートルほどの鉄格子、その先には港と海が見えた。
「みんな、いったいどうしたの?」
ねねは言った。
「ねねよ、俺たちはまずアンタに謝らねばならないことがある」
ミルフィーは頷いた。
「ええ?」
「突然だがアンタは来年へ向けての卒業論文をグループで書くことになった」
「えええ?」
「いったい、どうして?」
ねねは驚いていた。喜ぶわけでも、悲しむわけでも、怒るわけでも、失望するでもなくただ俺から発せられた言葉に驚いている様子だった。
俺が事の成り行きを説明しようとした時、ミルフィーが口を開く。
「私、実は班が決まっていなかったのですよ」
「私、お友達もいないし、人見知りだし、みんなと一緒に何かやるのも本当はあんまり好きじゃなくて。でも、ずっと前ねねちゃんが話しかけてくれてから、ねねちゃんのことずっと見てて、そしたら一緒に色々な事やりたいなって思って、お友達になりたくて……ねねちゃんと仲の良い笠原さんに相談して…」
「だから、結局アンタの班を、いや俺たちのグループを一方的に作らせてもらったのだ」俺はそう言ってねねに頭を下げた。
「ごめんなさい」
ミルフィーも続けた。
「やめてやめて」ねねは困ったような顔をした。
「私たちの班?私たち三人?」
俺とミルフィーは頷いた。
「違うでしょ、なに頷いてるのよ、アンタたち本当馬鹿じゃないの?」
背後から声が聞こえた。
「何が俺たち三人のグループよ、ばか。大事な班員の名前が、一人抜けてるでしょうが、アンタたちは理事長からなに聞いていたのよ?」
「小嶋みう、あんたをすっかり忘れていた、これは不可抗力だ」
小嶋みうは俺の足を思い切り蹴りあげた。
「あ~も~どうして私みたいな人気者が、こんな寄せ集めの余り者みたいなどうしようもないグループにいれられるわけ?、ねえねえ、ねえねえ」
ヒステリックになりながら俺の脚とフェンスを交互に何度も蹴る。
「寄せ集めの余り者、ですか」
ミルフィーは何故か笑ったような顔をして反復した。
「私たち、寄せ集めの余り者、ですね」
「あたしたち~?」みうは怪訝そうな顔でミルフィーを見つめる。
この前の諍いが嘘のように、二人の距離感は自然に縮まっているように思えた。
いや、距離間が縮まるごとに関係性は悪化しているかもしれない。
「とりあえずミルフィーよ。開き直るのはよせ、聞いているこちらが悲しくなる」
俺は二人をなだめるように言った。
「笠原さんにはわからないでしょう?既に決まっていたグループを解消してまでわざわざこっちに出向いてやったそうですから」
「いつ俺がそのような嫌味な事を言った、それではまるで性根の腐った奴みたいじゃないか」
「実際そうだし」
みうは呟いた。
「よしよし」
ねねは俺の頭を撫でる。
「異論なし、ですね」
ミルフィーは民意をまとめた。到底民主的とは言えない。
「どうしてそうなる」
小嶋みうが俺たちの班の最後の一人として選ばれたのは、学校側からすれば極めて自然な成り行きだった。
「あー、そういえば小松さんは君たちが来ていることを知ってるの?」
理事長は、副理事長から手渡された書類を持ち、印鑑を咥えながら思い出したように俺たちに言った。
「いや、ね。まさか彼女に聞かないで決めようとしていたんじゃないかなって気がしてね」
ミルフィーはとまどいを隠せずしばらく黙り込んだ。
「はい、彼女は知ってます」俺は嘘をついた。
ミルフィーは俺の方を心配そうに見る。
大丈夫だと、頷いた。
「そうか、それなら問題ない」
「となれば、これで決まりなのだが、そのうえで、こちら側からお願いがある。グループの班のことだ」
「もちろん、俺たち二人と小松さんの三人でやります」
「こちらが言うまでもなかったか」
理事長は笑った。
「さらにもう一人だけ追加したいのだが、どうかな?」
「もちろん大丈夫です」
「小嶋さんですね?」
副理事長は言った。
「?小嶋みう、ですか」俺は言った。
「うむ、あの子、このままだと進級できなさそうなんで少し心配でね」
「せっかくだから、四人でどこかへ行きませんか?」
ねねは主にみうの方を向いて言った。
「え~面倒くさい、どうせ夏休みの実習で集まるんだからいいじゃん」
みうは言った。
「ねねちゃんに賛成です、まずは親睦を深めるのが先決かと、特にみうさんとは」
「何よ、そのいかにも私が厄介者みたいな言い方。笠原隼人はどうしたいの?」
「確かに面倒ではあるがミルフィーのいう事も的を得ている」
「というわけでミルフィーに賛成だ」
三人が全会一致の傍ら、みうだけ一人納得のいかないような顔つきをする。
「そんな顔をするな、もう決まったことだ」
「なによ~」
ミルフィーは一人うなだれてフェンスをぼこぼこと叩いた。
男は、墓石の前に花束を置いた。
あるいはそれは丘の斜面から白く突き出た石灰岩の欠片かもしれなかった。
小動物の頭骨のようにも見える。
男は墓石の前で黙祷をささげた。
「君がここに眠ってからもね、世界中、実にいろいろな所を見て回ったものだ。
意味もなく色々な所をやたらめったらね。だけれど、やはりここより美しい場所は他のどこにもないよ」
風が吹いた。風は砂丘を削り、岬の発電所のプロペラを回し、辺りには砂埃が舞った。
男は墓石に付いた一輪の花を手に取って、意味ありげに花をかざしたり、いろんな角度から回して見たりして、再びそれを墓石の上に戻した。
「また会う日まで」男は言った。
男は去り際までずっと神妙そうな顔つきでその墓石の上の一輪の花を見つめていた。
二度目の風が吹いた。一輪の花は墓石から離れ、男の頭上を飛び、海の方へと旅立っていった。
男は停めていた車の、運転座席でなく、外に女がいることに違和感を覚える。
「鳳学園から緊急のご連絡です」女は男に言った。
男は受話器を取った。
「問題はなかった。」
男は受話器を戻して女に言った。
「と、いいますと?」
「シナリオ通りということだ」
「何らかの不確定要素があったことは確かだろうが、事は順調に進んでいる。
まさかあの子から斯様な連絡が来るとは思ってもみなかったが」
「詳細をご確認したほうがよろしいのでは」
「すぐにわかる」
男は少し苛立った口調で女の声に被せて言った。
「風さ」
しばらくしてから男は言った。
「?」
「不確定要素の話だ。アレは世界の運命をも変えうる存在だ。そして必ず僕の前に姿を現すだろう。どのような形であれ、な」
最後までお読みくださり本当にありがとうございました。
次回、第二章は新年の1月中頃の公開を予定しています。
皆さん、どうかお体にはお気を付けてお過ごしくださいませ。
それではよい年末を~