序章
秋M3- 音系・メディアミックス同人即売会へ向けて、架空アニメのテーマ楽曲を作ろうという企画に参加することとなったDTMerの餅氏からお誘いを受けて一緒に作ったお話で、つまり合作となります。
私は関与してませんが、企画のURLはこちらです。
https://ka-ani.tumblr.com/
テーマ曲はトラック11 Flow となります。
序章
7/15
浴場を出て男子寮へと続く外の道を歩く。
辺りには誰もいない。
月明かりがスポットライトのように、閑散とした道を照らしている。
「♪♪♪」
(唄・・・?)
それは虫の鳴き声のように小さい鼻歌だった。
そして、その鼻歌は段々と大きくなっていったように感じた。
正確に言えば、音量自体は変わっていなくて、まるで耳元で囁かれたかのように音の発信源が近くなったように思えたのだった。
「♪♪♪♪♪♪」
しかし辺りを見回しても、誰の姿もなかった。
「ばかばかしい」
俺は、軽く自分の顔を叩き、早足で寮内へ入った。
7/16
耳元で鳴り響くアラームの音に軽い苛立ちを覚えながら、それを止める。
今日は特に寝覚めが悪い気がする。
身体がいつも以上に重くて、あるいは意識はちゃんとしているのに実際に起き上がることができない、そんな感じだった。
やっとの事でベッドから起き上がった俺は、のろのろと朝の支度を済ませ、ある場所へと向かう為に部屋を出る。
外へ出ると途端に蝉の鳴き声がジリジリとしきりに聞こえてきた。
言わずと知れた夏の風物詩。
「♪♪♪」
「!?」
昨日と同じ音?
「♪♪♪」
落ち着いて、よく耳を澄ませて、音を聞く。
「♪♪♪♪♪」
いや、ちがう、これは……。
それは明らかに昨夜とは違う音。
だってそれは……。
「ニャーニャー、ニャーニャー」
猫。
それも一匹ではない。
一匹、二匹、三匹、たくさん。
猫たちは奇妙なことに列を成して次々と俺の方へと向かってくる。
草に隠れた猫たちもいる。
じっとこちらを窺ってるのがわかる。
やがて、草陰から飛び出た猫たちも立て続けに俺にめがけて駆けていく。
気が付けば、五、六匹の猫が俺の周りをとり囲み、餌でも求めるかの如く立ち上がり……。
「いてっ」
彼らは、立て続けに俺の両足のふくらはぎのあたりをがりがりと引っ掻いた。
「くそっ」
俺は思いっきり足をけり上げると、彼らは一斉に飛び出し、通路の柵を越え、敷地を駆け抜けていった。
「なんなんだ、あいつら」
数分後、俺は、敷地を越えて、女子寮の裏手へ来ていた。
正直なところ、もうあの猫達と関わり合いにはなりたくなかったが、何故か妙な予感がして、引き寄せられるように、彼らが消えて行った方向へと足を進めてしまったのだった。
「あの」
「!?」
突然、背後から話しかけられる。
猫ではない、人だ。
「ほえ?」
振り返ると一人の少女が立っていた。
「アンタは!」
彼女の姿を見ると、俺は反射的に叫んでしまっていた。
何がそうさせたかはわからない。
ただ、その少女の姿を見て、得体のしれない何かが確かに俺に語りかけていたように感じたのだ。
意味が分からないかもしれないけど、そうとしか言いようがなかった。
同時に視界がぐらぐらと揺れるような感覚。
意識が飛んでしまうような感覚。
意識を保つためにもう一度、目の前の少女を見る。
「……」
一人の小柄な少女。
ここの寮生なのだろうか?
だとすれば俺と同じ学園に通う生徒だろう。
「ほらほらこっちこっち」
俺が見つめていると、少女はこっちへきてという身振りをしながら軽快な声を上げた。
当然それは俺へ向けられた言葉ではない。
ってことは、彼女の目線の先にいるものは……。
そして、今俺が感じている無数の視線は……。
「ニャー」
「!!」
完全に油断していた。
振り返ったときには時すでに遅く。
その群れ成す生物達は、俺の背中、顔、胸至る所へと飛び乗って、俺の身体は蹂躙されていく。
「いってえ!!」
災難だった。
「だいじょうぶ?」
「大丈夫じゃない」
俺はぶっきらぼうにそう答えた。
そして、あくまで第三者目線で労わる少女。
少なくとも自分が加害者の一人だという自覚はどこにもないらしい。
確かに彼女がやつらに俺を襲うよう命令したという確信めいた証拠はどこにもないわけだが、彼女の掛け声で俺が襲われたのは紛れもない事実だ。
「ごめんなさい」
しかし少女はあっけなく自分の非を認めた。
だけど俺の要求はそこではない。
「謝罪より説明が欲しいのだが」
「せつめい?」
「ああ、俺を猫に引っ掻かせ、ここまでおびき寄せ、襲うまでの綿密な計画の事だ。よく練られている」
ふくらはぎの傷に、顔、背中、胸部三か所の内出血。
俺の見立てでは全治三日、当然自然治癒。
まったくもって大層な怪我などではないが、ここは大げさに言って言い過ぎることはない。
これ以上ひどいことが起こらないために。
「そうなの?」
少女はとぼけたような声をあげる。
「あれはアンタの命令じゃないのか?」
二人の間に十数秒の沈黙が流れる。
そして彼女はようやく口を開いた。
「ちょっと怖い」
は?
「何?怖い?」
「今のお兄さん、ちょっと怖いよ」
「誰も、俺の態度の話は、していないんだが」
「おこっちゃった」
彼女はしょんぼりとした顔をする。
「いや待てっ、おこってはいない、ただ理由を知りたいだけだ」
「おこってないの?」
「ああ、おこってない、正確に言えばまともに相手をするのが阿保らしくなってきたというべきだが」
「あ、あほう?」
「ああ」
「私、あほう?」
「いや、そこまでは言ってない」
「えええ?」
「あほうが良かった」
「‥‥」
「あほうどり、ぱたぱた」
「‥‥」
「あほうどり、ぱたぱた」
だめだ、聞きたいことをなに一つとして聞き出せていない。
こいつの態度もわざとなのか、それとも何もわかってないのか。
おそらく後者。
どうやらこいつとまともに会話をするにはそれなりの訓練が必要なのかもしれない。
「はあ。そんなことよりもだ。アンタ、ルールは守れ」
「なんのこと?」
「とぼけるな、そもそも寮に動物の持ち込みは禁止だろうが」
彼女は黙る。何も言い返せない様子だ。
そしてこのことからやはり彼女は女子寮の学生だとわかった。こんな問題児がいたとは。
「うーんとね。ちがうんだよ、あのこたちは、えーとね、ともだちなんだよ?」
「そんなことは知らん」
「ひどい」
「話を逸らすんじゃない」
「わかった、わかったよ。だったらいうけどさ、私たちもさ、動物だよね?」
「それはそうだが?」
「にぱあ」
「にぱあじゃない」
「うふふ」
「うふふじゃない、まったくアンタと話してると時間がいくらあってもありすぎることはないくらいだ。とにかく次見かけたら容赦はしないぞ。まずはこのことを寮長に報告しなければなるまい」
「ふええ、容赦ないねえ、お兄さん」
「お兄さんではない」
「あっ、そういえば」
「どうした?大きな声出して」
「大変大変」
「お兄さんにここでお知らせがあります」
「……」
「ここでお知らせがあります」
「何だ?」
「にゃはっ、まあまあじっとしてなさいって。ここでお兄さんは選ぶことが出来ます」
「なんなんだ?」
「……」
「早く言え」
「お兄さん」
「お知らせがあります」
「だから何だ?」
「ここはね、実は女子寮の敷地」
「ああ」
「ああって」
「……」
「あのね、だから男の子は、きてはだめなの」
「何だって?」
そんな規則は俺の生活の範囲内では聞いたことがない。
「いや、まさか」
だがそもそもこんな所へ来ることがないので盲点かもしれない。
つまりその規則を俺には関係ないからと、甘く見ていてどこかで見落としていた可能性もある。
「大丈夫?」
「アンタ」
「?」
「それを早く言わないか」
「えっ」
「これは八つ当たりですねー」
「ああ八つ当たりだ、悪いか」
「開き直った」
「あっ……」
遠くの方から足音が聞こえる。
もしこいつの言う事が本当なら厄介なことになる。
「大変大変大変よー」
少女はそう言って、か細い腕で俺の頭を抱き寄せ、草木の陰に身を寄せる。
「よせ、隠れる気はない」
「だーめ、オニババに捕まったらいっぱい書かなきゃいけなくなる」
「始末書で済めば上等だ、これは俺の不始末だ。いちいち止めるなよ」
俺は身を乗り出そうとしたその矢先、一人の女子生徒の姿が目に入る。
すると、少女は俺の服を強引に引っ張る。
そして、体勢が崩れる。
「アンタ…」
お互いが逆の方向に寝返りを打った体勢、つまり俺と少女は向い合せ。
その距離およそ…30cmくらいか?
標準的な物差しの端から端くらい。
お互いの息遣いが聞こえてくるくらい。
すかさず離れようとする俺の動きを読み、少女は自分の両足を俺の脚に絡ませ動きをブロックする。
どことなく楽しげな笑みを浮かべながら。
「身体をくっつけるな」
そんな俺の訴えとほぼ同時に少女はそっと起き上がり、額に手を当てながら辺りを見渡す。
「これでおあいこ」
少女は言った。
女子生徒は通り過ぎたようだった。
「帰る」
「行っちゃうの?」
しゃがみ込んだ少女は潤んだ瞳で俺を見上げる。
(こいつは一体なにしにここへ来たんだ?)
少女は何か言いたげにしているが、一向に話始める気配はない。
俺も彼女に用はない。
いや、待て……?
何かが俺の脳裏をよぎる。
そう、それは彼女の声を聞いた時に感じた不思議な感覚。
「そういえば、一つアンタに聞きたいことがある」
「?」
「アンタ、昨日の夜は何していた?」
「……。えっ?」
少女は驚き、戸惑い困ったような顔をした。
「……。いや、なんでもない、大丈夫だ、もう帰る、じゃあな」
そう言って、俺は逃げるようにその場を後にした。
「焦って行っちゃった……」
取り残された一人の少女は屈んだ姿勢で、草陰から出てきた猫の毛並みを何度かさする。
猫は、優しいからか無関心からかぴくりとも動かず彼女の手を受け入れる。
「いたずらされておこらないひとはじめてみた。でも、おかしいの。ちっとも笑わないの」
「不思議な人」
「でもわたし、昨日の夜なにしてたんだろう?」
7/20
あの朝の出来事から程なくして少女の正体は明らかになった。
その日の昼、校門に入るなり、周囲の生徒たちの不穏な目線を感じていた。
そして、遠くからの噂話。
「あれ、あいつ猫娘じゃないか?」
猫娘、俺ですら名前だけは聞いたことがあった。
学年で一、二を争う問題児。猫を持ち込むことで授業の妨害をするとんでもないやつ。
その他数々の奇行と、勝手気ままな性格からか、教師の目の敵、当然生徒からもまったく相手にされていない。
何故か寮から学校へ向かうまでずっと俺の横にへばりついてるこいつがよりにもよってあの猫娘だとは。
「しかもなんだか知らんが、男と一緒だぞ」
「嘘つけ。それは見間違いなんじゃないのか?」
「ねえお兄ちゃんの教室はどこ?」
当事者はそんな周囲のざわめきなど気にも留めずに笑顔で語りかける。
「……」
これは幻聴だ。誰も俺に語りかけてはいない。
「お兄ちゃん?あいつに兄貴がいたのか」
「……。」
放課後になると、噂は瞬く間に広がり、俺はあの問題児の兄貴ということになった。
勿論奴らもそんなことはあり得ないってわかっているから、余計に事態は悪い方向へ進む。
しまいには俺があの女に兄貴だと呼ばせている特殊性癖などという訳の分からぬ憶測で、「変態」という分かりやすくくだらないレッテルを貼る女子生徒まで出てくる始末だった。
ここまでが悲劇のはじまりの日の回想。
いや、数日経った今ですら事態は何一つ改善されていないから悠長に回想などしている場合じゃない。
現在進行中の悲劇ともいうべきか。
「アンタのおかげで俺は今日も酷い目にあってるよ」
「それは良かったよ」
「どの辺がだ」
「いいから、一緒に帰ろう?」
そして周囲の目線の中、彼女は俺の耳元で囁いた。
それに合わせて教室はざわつく。
「アンタ……」
もう我慢の限界だ。
「もう、ついてくるな」
「ええ?どうしてどうして?」
「俺はアンタと一緒にいるつもりはない」
「もしかして、先約がいらっしゃる?」
「そんなものはいない」
「おひとり様?」
「ああ」
「おともだちはいないの?」
「いらん」
友達というものは作った所でろくなことにはならない。
お友達ごっこは東京にいたころの中学時代で懲り懲りだった。
「私もおひとり様」
「そうか」
「ええ?終わり?」
「アンタの人間模様に興味は無いのでな」
「じゃあこうしましょう。お兄さんは一人で帰る。その後ろで私も一人で帰る」
「それなら、なんの問題もない」
少女は笑顔で俺の手をとる。
……。
「しまった」
忘れ物をした事に気づき、つい声をあげてしまった。
最近、どうも独り言が激しくなったような気がする。
「ふえ?どうしたの?」
「ねえねえ」
「……」
「おーい」
「…………」
「おーい」
「アンタ、さっきから俺に話してたのか?」
「え、知らなかったの?」
「さっきから虫が鳴いてるくらいにしか思わなかったぞ」
「ええっ、それは心配」
「もしかして、こころの病気?」
「は?」
「それとも変なお薬たくさん飲んだ?」
「……」
「あっもしかして天然さん?」
「……」
そのワードを最も言われたくないであろう人物に言われると中々心に来るものある。
しかし、大ここでムキになってはならない。忍耐、忍耐だ。
強靭な精神力と忍耐力こそが身を助けると聞く。
「待ってるから」
「あ?」
「バス停で待ってるから」
「……好きにしろ」
正直、この数日間は生きている心地がしなかった。
学年一の問題児、猫娘。
登下校中は勿論のこと昼休み、挙句の果ては授業中まで奴に付け回されるようになって、俺の一年半にも渡る平穏な学園生活は終焉を迎えた。
放課後に学校へ来るのは初めてだった。
こんな稀有な体験は今みたいに忘れ物でもしない限りはなかなかできないだろう。
なにしろ俺は普段教室の誰よりも早く下校するから放課後の校舎がどのようになっているかにおいて誰よりもわからぬ自信がある。
いざ入ってみると、放課後の校舎は想像していたよりずっと人が少ないと感じた。
廊下には誰もいないし、教室も全体数でみて十人いるかどうかだ。
各教室は多くともほんの数人が向かい合って談笑している姿が見られるくらいで、ほとんどの教室はもぬけの殻。
それは俺のクラスも例外ではなくて。
そこには誰一人としていなかった。
忘れ物をしたというのは嘘だった。
正確に言えば、半分、嘘。
本当はわざわざ取りに行くほどのものではなかったのだ。
数ⅡBの教科書に、地図帳。
そんなもの誰も盗みなどしないのだから、このままここに置いておいても良かったのだ。
それでもわざわざ戻ってきた理由、それは。
……。
「待ってるから」
さっきの顔が浮かぶ。
はっきり言えばげんなりだった。
どうして俺がよく素性を知らない問題児と下校しなくてはならないんだ、まったく鬱陶しい。
だから半分撒いてやろうという気で戻ったのに…。
「バス停で待ってるから」
最悪の結果に。
「ああ、困った」
俺は思わずつぶやいた。
「ん?」
足に何かちくちくしたものが刺さる。
「どうしてこんなところに?」
それはほうきだった。
当然ちくちくの原因はほうきの毛先。
しかし、こんなところに転がってるのはどう考えても不自然だ。
その時。
(ガンガンガンガンガン)
音が聞こえた。
それもかなり早いペースで壁のような固い何かをを叩きつける音。
「おい、誰かいるのか?」
すると俺の声に反応するかのように音が強まった。
テンポも上がった。
間違いない、この教室に誰かいる。
その時俺の視界にブツが映る。
ほうき。
俺はそれを握る。
そして向かう、そいつが収まるべき場所へ。
俺はそっと、たて長の棺桶のようなロッカーの扉を開けた。
白いテープで掃除用具一式と書かれた。
その中を見て、俺は愕然とした。
「きゃ、きゃああああああああ」
掃除用具入れの中には人がいた、それもすっかり青ざめた少女だった。
……。
「ごめんなさいありがとうございますなのです」
「どっちだ?」
「両方なのでございます。せっかく助けにきてくださいましたのに、ありがとうございますでして、でもでも、目の前に立っていたのが目つきが怖い男の人だったので思わず大声を上げてしまいまして、ご無礼をおかけしまして」
「目つきが怖い男の人、ねえ」
俺は少女の言葉を反復してわざとらしく頷いてみせた。
「あっ」
彼女は我に返ったような声を上げる。
「ご、ごごごめんなさい、け、決してそんなつもりじゃ、ほ、本当のことを言っただけでして、許してください許してくださいなのです??」
なんだこの子、ですます口調までは良いとして語尾が無茶苦茶。
しかも、言ってる事がいちいち失礼だ。
「それはそうと、何故こんな危険な真似をした」
「え?そ、それは、いつも私一人で掃除をしているのですけれど、今日だけはなんだか誰かが来るような気配がしまして、それで怖くなっちゃって気が付いたら籠っておりました」
今度は今までの焦りとは打って変わってゆっくりと、というか眠くなりそうな穏やかな声でそう言った。
「どういう思考回路で反射的にロッカーに入ろうと思うのかがわからないが」
俺は言った。
「そ、それはですね、習性でございます」
なんだそれは、小動物か?
「内側から開くと思ってついやってしまったわけだな」
「は、はいなのです」
「まったく呆れてものもいえないな。アンタのその習性とやらは極めて危険だぞ。」
「そうなのですか?」
少女は意外そうな顔をして言った。
「当たり前だ。今回はロッカーだからよかったものの、アレが冷蔵庫だったらどうなってた?」
「ふ、ふえええ?」
「酸素が足りなくなって死ぬだろうな、よく見ろ、あのロッカーには穴がついているだろう?だからまだマシなんだよ」
「本当ですね」
「わかればいいんだ、じゃあな」
「え、あ、あのそのあなたのお名前は?」
「別に名乗るほどのものではない、アンタこそ誰だ?このクラスの人間ではなさそうだが」
「わ、わたしは、ミルフィーといいますなのです。この校舎の掃除係を任されていますなのです」
「掃除係?そんなものあったか?」
「ありますよ?」
「掃除係は他には誰がいる?」
「誰もいませんよ?」
「では教師たちはお前が掃除していることを知っているのか?」
「いいえ、知らないと思います」
「ならば掃除係などないじゃないか」
「ふええ」
「だったらお前はそれをやる義務も義理もない、好きでやっているなら話は別だがな」
「そうなのです。これも私の習性なのです」
色々と習性が多いな。
「ご、ごめんなさい。忙しい所呼び止めてしまってこんなつまらないお話をして」
「気にするな」
「あ、あの私今日の事、か、必ず忘れませんから」
「いや忘れた方が良いぞ」
「さて、これで一件落着、と。いや待て」
俺は何しにここへ来たんだっけか?
……。
俺は今何も持っていない。数ⅡBの教科書も地図帳も。
「畜生」
まだミルフィーという子はあそこにいるだろう。
どうにか気づかれないように入れないものか。
そっと教室の扉へ手をかける。
そして中をそっと見渡す。
「……!!」
そこには夕日で赤く染まった誰もいない教室で、一生懸命床を掃く一人の少女の姿があった。
塵1つ残っていないくらいに綺麗な床を何度も何度も夢中で掃いていた少女の姿が。
陽気な鼻歌を響かせながら。
その唄声はどこか楽しげで、だけどその姿は寂しげで、どことなく健気で。
「るんるんるんるん♪」
「るっるっるー♪」
まるで時が止まったような気がした。
その儚げな光景はなんだかとても美しかった。
そして俺は一瞬どうしてここへ戻ってきたのかという理由すら忘れかけていた。
その時、プツリと教室に響き渡る陽気な鼻歌が止まった。
それはテープが突然壊れたみたいな不気味な断絶だった。
「誰かいますか?」
俺はその声をはっきりと聞いた。
とても小さかったけれど、鋭い声だった。
そこには恐れと焦りがあった。
気が付けば俺はダッシュで教室の中へと駆け込み、彼女の手首を掴んでいた。
足元には箒が落ちていた、さっきとほとんど同じ場所に。
そして、この少女はさっきと同じ過ちを繰り返そうとしていた。
「や、やめてっ」
彼女は力の限り俺をはねのけた。
「わ、悪かった」
俺は彼女に謝った。
そして俺は自分の行いを悔いた。
この子がさっきみたいにロッカーに籠ってしまうのを止めるにせよ、少し強引にやり過ぎたと。
もっと優しく声をかけるなりなんなりの方法があったのではないだろうか。
「ごめんなさい。つ、ついこれも私の習性でして、えへへ」
そう言って、彼女は微笑む、人の表情の動きに疎い俺でも分かるくらいの歪な作り笑いで。
「気にすることはない。俺は忘れ物を取りに来たことを忘れて戻っただけだ、すぐに帰る」
そう言って彼女に背を向けた。
その時だった。
今度は逆だった。
それはとても小さな感触だった。
少しでも動けば消えてしまうようなそんな小さな力だった。
その小さな手は俺の制服を摘むように引っ張っていて。
「あ、あの、私あなたのこと全然嫌いじゃないんです。だ、だから私のことも嫌いにならないでください」
「ああ、大丈夫だ」
その後、俺は胸に残る気まずさを払うように急いで教室から立ち去った。
バス停に着くも猫娘の姿は見当たらなかった。
俺にとっては好都合だ。
そしてやはり奴にとって俺はいわば都合の良い玩具のようなものだったのかもしれない。
ただ問題児が余り者に引っ付いてきただけ、友達でもなんでもない、当然の話だった。
(バス停で待ってるから)
寮へと戻り、今日の授業の予習と復習を始めようとするも、未だにあの時の声が頭に浮かんでくる。
この状態で勉強を続けても意味がないだろう。
「くそが……」
俺はまず女子寮へ向かうことにした。
ちなみに、女子寮の敷地が男子禁制というのはまったくの嘘。
というより禁制区域はあまりにも限られていた。
敷地はどこも立ち入り可能だし、寮内も入口の受付までは入れるとのこと。その先の廊下は男子禁制だが、そもそもセキュリティが厳重で物理的に立ち位置不可能なのだ。
つまり猫娘にまんまと騙されていたというわけだ。
単にあいつが詳しい規則を知らずに勘違いしていただけのような気もするが。
行く途中の敷地で、同じく寮へ入る女子生徒に何度か睨まれたが、もう今更気にならない。
俺は女子寮の受付の窓口の女性職員に猫娘が戻ってきているか訊ねた。
「少しお待ちください」
彼女はそう言って、奥のパネルを確認しに行った。
その先のゲートをくぐるには生徒情報の書かれたIDカードをかざす必要があるが、そのゲートは不審者の侵入を防ぐだけでなく、寮生が寮に戻ってきているかどうかも同時に確認できるという仕組みだ。
「あの子は戻っておりませんね。」
「そうですか」
「あの、伝言を預かりましょうか?」
「いえ結構です。そのかわり、もし彼女が戻ってきたら私に連絡してくださればと思うのですが、宜しいでしょうか?」
「あっはい。大丈夫です。あの、何かありましたか?」
「大したことではないです。あの子と帰る約束をしていたのですが、途中でいなくなってしまったもので」
「ああなるほど。それでは戻られたら連絡しますね」
職員の女性は笑って頷いた。
「よろしくお願いします」
バスに乗ること15分程度。
彼女が待ってると言ったはずの学校最寄のバス停に辿り着く。
あいつがいなくなっても俺には何の不都合もないのだが、どうしても気になってしまっていた。
ベンチの下、木陰、自動販売機の裏、バス停付近の隠れられる場所を一通り探したがやはり彼女の姿は見られなかった。
「どうしたのですか?」
その時突然背後から声がかかる。
声だけですぐに誰だかわかった。ついさっき聞いた声だ。
「アンタ、まだ学校にいたのか?」
つい1時間ほど前別れたミルフィーと名乗る少女がそこにいた。
「俺に用か?」
「いえいえ、何かお探し物をされているみたいだったので大丈夫かなって」
「まあちょっとした暇つぶしだ」
「?」
「……」
「……」
そして、沈黙。
そうこうしている内に寮へと戻るバスが止まる。
「来たようだが?」
「どうか教えてくださいませんか」
彼女は俺の言葉を遮るように言った。
「は?」
「乗らないんですかー?」
運転手は俺たちを見つめながら半ば怒り気味で言った。
隣の少女はぴたりとも動かない。
俺も乗るつもりはない。
「乗りません。すみませんでした。」
「はいはい」
運転手はそう言ってドアを閉め、バスは去っていった。
再びの沈黙が、立ち込める排気の匂いと共に訪れる。
「アンタ、乗らなくて良かったのか?」
「あっはい。私は実家に住んでいますのでバスは使いません」
「なるほど」
「それで、さっきは何をしていたのですか?」
またその話か。
「アンタには関係のない事だ」
「そんなことないですよ。だってあなたは私の命の恩人ですから」
「……」
「ずっとあそこにいたら今頃、どうなっていたでしょうか」
「さあね。あそこにしばらく入っていたって別に死ぬことはない」
「でも恐ろしいです」
「そうか」
俺はおもむろに歩き始める。
「ちょっとどこへ行くのです?」
「帰る」
「バスを使うんですよね」
「歩いて帰る」
「だったら私も行きます」
「なんだってついてくる?」
「だって、嘘ですよね?バスと逆方向に進んでます」
彼女の言うとおりだった。
「それに気が済まないのです。困っている人をみるのが放っておけなくて、それっておかしいですか?」
「習性、か」
彼女は快く頷いた。
「そうか、人を探している」
俺は正直に打ち明けた。
「迷子さんですか?」
「ああ、そんなところだ」
迷子の仔猫。言い得て妙なり。
「そんな大切な事を、どうしてもっと早く言ってくれなかったのです?」
「こうなると思ったからな」
「一人で探すより、二人の方が良いに決まってます」
「ミイラ取りがミイラになるケースもある」
「……。どうしてそういうことを言うんですか?」
「さあね、アンタのいう習性ってやつだろう」
「とにかく、心配いりませんよ。だってそれならここのことをよく知ってる人に探してもらうのが一番ですから」
「あてがあるのか?」
「お任せを」
彼女は得意げに言った。
「その子のコード番号はわかるかい?」
男は優しい口調で言った。
「申し訳ございませんが、それはちょっとわからなくて」
「それじゃ名前を教えてくれるかい?」
俺は猫娘の名前を告げた。
「ありがとう。こちらでその子の居所を調べてみるよ、少し座って待っていてくれ」
「お父様、お仕事中にありがとうございますなのです」
彼女は言った。
「君の大切なお友達の頼みとあればな」
男はそう言ってわははと笑って彼女の頭をわしわしと撫でた。
研究センター。
さっきの学校最寄りのバス停からだと寮とは反対方面のバスで十五分程度。この町のコアともいえる研究施設。
俺はそのエントランスに彼女に連れられてきていた。
ここはホテルのロビーのような大広場だが、ホテルと違うのは無駄なものはほとんど何一つ置かれていないということ。
あるのは長いソファに、大きなゲート、その向こう側には施設内部へ向かうための四台の大型エレベーターが並んでいる。
ゲートのセキュリティは全て機械が厳重にチェックしているため、受付も含めて人は誰もいない。
というより受付窓口が存在しない。
その男は彼女の言うとおり、いやむしろ彼女の言い方から想像できるよりも遥かに強力なあてだった。
それが彼女の父。
おそらくこの施設の研究職員なのだろうか。あるいは研究者か。
しかし俺の見る限り口調といい見た目と言い、高校生の父とは思えないほどに若かった。
父親と言うよりは、兄と言った方がしっくりくるくらいだ。
「アンタの親がここで働いていたとはな。なんにせよとても助かる。」
「いえいえ」
しばらくの沈黙。
「父親のことを尊敬しているんだな」
「ですです。私の自慢のお父様なのですよ」
「………」
「あの、おかしいでしょうか?」
「いいや、その逆だ」
誰かに尊敬される人間というのは言うまでもなく偉大だ。だけど誰かを尊敬できる人間というのもそうそういやしない。
しかもそれが自分の父親、身内ともなれば。
現に俺には身内は勿論だがこれまで尊敬できる人間に出会っていない。
というよりは、尊敬しようとしなかったというのが本当のところだろう。
五分ほど経って再び彼は戻ってきた。
「結果から言うとね、かなり難しいことになった」
この町において名前から居場所を特定できないというのはかなりの異常事態とみていい。
何故ならこの町の全ての住民にはほぼ例外なく五ケタのコードが与えられているからだ。
先頭が英字で残りは数字。
そしてそのコードと住民との対応関係は彼のような研究職員が調べればすぐにわかることだろう。
そしてコードは生徒たちの持つIDカードに印字されており、IDカードにはGPS機能が搭載されているので普通にただ生活しているだけで彼らの居場所を知ることができるという仕組みだ。
勿論プライバシー保護の観点から、今みたいに生徒の居場所をサーチすることは通常は禁止されてはいるが。
ともあれ、居場所がわからないとなれば考えられる可能性は三つある。
一つは、カードが破棄されたか壊れたか。
二つ目はどこかに置き忘れたままの可能性。
破棄することは現実的な線だが、それがよほど意図的でない限りGPS機能のようなカードに備わる機能を壊すことは出来ない、それこそ海にでも落とさない限り。
そして二つ目は、カードの場所はわかるが、そこに肝心の所有者がいないというケース。
しかしカードを置き忘れることは、この街で生活が出来ないことと同じであるので現実的ではない。
カードなくしては当然バスにも乗れないし、買い物もできない。寮に入ることも出来ない。
とすれば、残るは三つ目。
「カードの電源が落ちていたという事ですか?」
「うん、まあそれはそういうことなのだけどちょっと不可解なんだな」
俺の辿り着く程度の推論はもうとうにわかっているといった調子だった。
彼は頭をごしごしと掻きながら悩ましそうな様子でぶつくさと言った。
「まあいいや、後は僕に任せなさい。」
「もう夜になるし、今から君らが捜しても見つからないと思う。君らが迷子になっては元も子もないからね」
「お父様はまだ帰らないのですか?」
彼女は言った。
「申し訳ないが、今日も結構遅くなるよ。」
「ところで君の家はどこだい?」
「学生寮です。バスで十五分くらいで帰れます」
「あああそこね。それなら、少し彼女と付き合ってもらえないか?」
「……」
「へ、へ変なこと言わないでください」
「なに言ってるんだ?お買いものの話だよ。良かったら彼に付き合ってもらえばと思ってね。まあ僕が一人で行ってきてもいいのだけど」
「は、はあ」
「朝冷蔵庫をみたら食材もあまり残っていなかったからね」
「それなら自分一人でできますよ」と彼女は言った。
「まあそれはそうだが」と父親。
「大丈夫ですよ」と彼女。
「いや、でも」と父親。
「……」
「……」
ここで沈黙。いくら仲良さげな親子といえどこうも会話が円滑に進まないとは。
俺も人の事は言えないが。
勿論彼らの場合はお互いがお互いの事を気にかけているからなのだろうけど。
この雰囲気を良い意味で壊してやれるのは第三者しかいないだろう、すなわち俺。
「よければ買い出しを手伝いますが」
「決まりだな」
彼はここぞとばかりに俺に乗っかるように言った。
我が子の前で詰まってたのとは雲泥の差。
もしかして俺がこれを言うのを待っていたのか?
研究センターを出るとすっかり日が暮れていた。
夕闇に染まる街、こうして誰かと並んで歩くのはいつ以来だろう。
馬鹿みたいにうるさかった蝉の音も静まり、夏場とは思えないほどに海風が心地よかった。
「あの、お買いものなのですが、やっぱり一人でできますから」
「俺もそうしたいのはやまやまだが、一度約束してしまったことを破るのは後味が悪くてな」
「大丈夫ですよ、お父様に伝えておきますから」
「それに俺にもメリットがある。もしかしたら案外道中でやつが見つかるかもしれない」
「ないと思います。それに心配いりません、お父様がきちんとやってくれていますから」
「よほど信頼しているのだな」
「当たり前です。お父様は本当に凄い方なんです。迷子ちゃんを捜すなんてちょちょいのちょいなのです」
「そうか」
「あなたにも信じてほしいです」
「ああ」
「いつもこれくらい買っているのか?」
「はい、いつもより少し多めですけど」
1.5リットルのペットボトルが三本に、野菜、冷凍食品の類、麺類、醤油。おまけに洗剤とシャンプーまで。
『ウリエール 学園都市中央店』
ここら一帯に展開する、業務用スーパー。
学園都市はただでさえ物価が安いが、ウリエールは特別だ。
それに品揃いもよく、何から何まで手にはいる。
ちなみにここ中央店以外にも学園都市北店と学園都市南店がそれぞれある。
「大変申し訳ないのですが、もしよろしければこれを運んでくださいますでしょうか?」
ミルフィーは弱々しい蚊の鳴くくらいの声でそう言って明らかに軽いほうの袋を差し出す。
「気にするな、俺が全部運ぶ」
そう言って二つのビニール袋を持つ。
「や、や、やめてください。」
慌てて俺から片方の袋を奪い取ろうとする。
「うるさい。アンタはただ俺の横にいればいい」
「だめですよ」
どうやら運ぶ気でいた袋があっけなくとられてしまったのが不満のようだ。
しかしそんなことは関係ない。
「返してください」
「バス停についたらな」
「それでは意味がないのです~」
無駄な抵抗だ。
それにこのスーパーは最寄りのバス停まで五分程歩けばたどり着く。
大した距離ではない。
「もうどうなっても知りません」
最終的に向こうが折れて、半ば拗ね気味に。
外に出るとすっかり日は沈み、辺りは暗くなっていた。
学校最寄のバス停で降りてそこから三分ほどで彼女の実家へとたどり着いた。
「ここがアンタの家か」
「どうしたのですか?」
「どうもこうも俺の役目は終わった。俺は帰る」
「ふええ」
そう言いながら彼女はどういっていいか困ったような顔をした。
「あ、あ、あのあの良かったら上がりませんか?」
思い切ったように言った。
「いや、だから帰ると言ったのだが」
「で、でも」
「寮の門限まで時間がないからな」
「そうですか…」
そして沈黙。
「今日は本当にありがとうございましたなのです。」
「いやお互い様だ。父親にも改めてよろしく伝えておいてくれ」
彼女は快く頷いて、何度かお辞儀をしながら俺を見送った。
夜道に風が吹き付けてくる。
夏真っ盛りとは思えないほどに涼しい風だった。
海風だろう。
風は、電線をゆっくりと揺り動かし、ざわざわと草木を揺らし、この静けさに包まれた人気のない夜の街に幻想的な旋律を届けている。
俺は思わず空を見上げていた。
そこには一点の曇りもない空と、一欠けらほども欠けていない丸い月が浮かんでいた。
こうやって空を見上げたのは何年ぶりだろうか。
避けていたわけではない。
だけど今となっては、俺の見る空はもはや窮屈で頼りないものに思えた。
一年前、確かに俺はこれまでとは違う何かを求めて、確かな期待を抱いてここへ来たはずだった。
何もかもがわからないまま、過ぎ去った記憶に怯える一人の人間と、そんな人間とは裏腹に楽しげに未来図を語る者達を呪いながら、ただ時間だけが流れていく東京での吐き気がするような毎日を塗りつぶしたくて。
なのに、俺はここでの学園生活のおよそ半分が過ぎようとしているいまでさえも、次の問いにすら満足に答えることが出来ないだろう。
お前はいったい何を学んでいる?
部屋の時計は丁度、午後十時を指していた。
それはこの寮の就寝時間だった。
いつものように参考書を閉じて、灯りを消した。
そして、ふと思い出したかのように伸びをしながら窓を眺めた。
はるか遠いところに夜空に浮かぶ丸い月が見えた。
窓に映るのは真向いの女子寮。なんの変哲もないここ男子寮と同じ鉄筋コンクリート四階建ての。
それはここからテニスコート二面分はゆうに入るほどの敷地を越えて建てられている。
何も変わり映えのない景色に思えた。
いつもなら向かいの景色など気にもせずに寝てしまう。
実際、向かいのほとんどの部屋はもう就寝の時間ということで消えている。
これもいつもと変わらない光景だ。
いつもと違うのは、建物のなかではなくて。
そこは本来誰も入ってはいけない場所で。
というより物理的に決して立ち入りできないはずの場所で。
そんな人が入れるはずのない場所にいたのは一人の少女だった。
いつもなら暗くて見えるはずもない場所が煌々と照らされていて、屋上にいる少女の姿が浮かび上がっていた。
澄んだ夜空に浮かぶ丸い月のおかげで。
だけどここからでは、少女が何をやっているのかまではわからない。
普通なら。
少なくとも寮生であれば半年余りの停学処分が確定するというリスクを冒してまでやるべきことであるということ以外は。
どんな目的で、そこへ来たのかだってまるっきり見当がつかないはずだった。
だけど今夜、今この瞬間に限っては、話は別。
俺はすぐにわかった。
だって彼女もそれをみていたから。
あまりにも明確な仕草だったから。
あの建物で最も夜空に近い場所から、この世界から最も遠い場所を眺めていたから。
そして俺は、そんな少女の姿に、いや俺の目に映っているであろう光景全てに釘付けになっていた。
それは美しかった。同時に現実のものとは思えなかった。
まるで不思議な夢を見せられているかのような、目を離せばすぐにでも消えてしまうようなそんな幻想的な光景だった。
同時刻。
「今日は遅くまでお疲れ様でした」
女は鋭く小さな声で言った。
「なんのことはない、簡単な施術だよ。月ごとに定期的にメンテナンスを行わねばならぬのが、欠点ではあるがな」
女は男がぶつくさと語る脇で、せわしげに帰る支度をしていた。
「ああ、君もお疲れ様。帰り際夜空を眺めてみるといい。今宵は月が綺麗だ」
「ええ、それではお先に失礼致します」
女はそう言って直ぐにエレベーターの扉が閉まった。
とある施設の機械室、四方、大小関係なくせわしげに回り続ける歯車の音だけがこの空間には鳴り響いていた。
「さて、と」
男は言った。
そして男はくだけた言い方をすれば所謂、未確認飛行物体、のような形状をした手のひらくらいにおさまる物体を何度か右に回した。
すると施設に埋め込まれた鼠色の無機質な両開きドアがゆっくりと開き、地下から大型のゴンドラが姿を見せる。見た目は金属の床に会議室の机がくっついたオブジェクトといった方が適切かもしれない。
「長い旅」
男はゴンドラに乗って、そう呟いた。
まるで何かの合言葉のように。
実際、ゴンドラはその男の言葉に応えるようにゆっくりと下降をはじめた。
機械室を支配していたありとあらゆるノイズは下降を重ねるごとにつれて闇に溶けるように、遠ざかり、やがて頭上の扉が閉められた。
こうして完全な闇と無音の世界が男の周りを支配した。
「……」
「不可解だ」
男は言った。
「どうして聞こえてくる?」
「風、か。風なのか。」
男は暗闇に問いかけた。
「風よ。おまえはここをどこと心得る?」
「……」
「そうか、君はなお記憶を、魂を欲するというのか」
「……」
「哀れな子よ。だがね、心配することは何もない。君が何を求めようとも、私は君を苦しめる全てのことから守ってあげられるのだから。」
「せめて眠りなさい。悠久の時の中で何者にも支配されずに、安らかにお眠りなさい」
7/21
窓の向こうの空き地に一人の少女の姿が目に入ったのは早朝、五時半。
寮の定めた起床時間より一時間も前。
まだどの学生も眠っているはずの時間に、その少女は既に制服に着替え、誰かと待ち合わせをしているようだった。
いや正確には、何かをじっと待ち続けているような姿勢だった。
そっと風が吹いた。
ほのかに潮の香りがした。
俺は気が付けば、早々に制服に着替え、朝食もとらずにそこへ足を運んでいた。
窓の向こうにあった場所。
風は、目の前の少女のスカートを揺らした。教室のカーテンみたいだった。
「ここで何をしている」
俺は言った。
「おはよう、お兄ちゃん」
その少女は俺の顔をみるなり笑顔で言った。
読んで下さりありがとうございます。
本編にご期待くだされば幸いです。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
また本文の校正・校閲をしてくれた餅氏にこの場を借りて感謝申し上げます。