はるか、ワンダリング
【Black】
いっぱい服を買ってしまった。その前に雑誌も買ってしまった。どんな服を着ればいいのか分からなかったので、とりあえず適当に選んだファッション誌の表紙の人っぽいコーディネートに挑戦してみた。白いシャツに黒のカーディガン、クリーム色のスカート。厚底の黒いブーツ、つば広の麦わらっぽい帽子。適当に選んだわりに、ばっちりキマっているとしか言いようがない。両手いっぱいに、ワンピースとかスカートとかジャケットとかシャツとかセーターとかいろいろな服を抱えて街を歩くのは謎の充実感があった。
財布の中身はまだたっぷり残っている。現金が少し減ったけれど、それでも十分なお金はあるし、クレジットカードもたくさんある。次はなにか美味しいものでも食べに行こう。
わたしは人間の流れにまかせて、大きな駅ビルのほうへ行くことにした。人がいっぱいいる。わたしと同じように、買い物袋を両手いっぱいに提げた人も大勢いた。すれ違う人たちの洋服は、どれもこれも、かわいい服ばかりだ。薄いシャツから、厚手のカーディガンまで。ジーンズからスカートまで。ブーツで足をがっちり固めている人もいれば、素足にサンダルの人もいる。みんな、思い思いの方向へと歩いていく。
駅ビルの中に入ると、もっと多くの人がいて、いろいろな所に色とりどりの看板や垂れ幕が下がっていて、とても綺麗だった。わたしは取りあえずいっぱい歩いて疲れたし、重い荷物をどこかにおいて休みたい気分だったので、ビルの案内板を確認した。
レストランや喫茶店の集まるエリアはどうやら地下にあるらしい。
エスカレーターで地下に降りると、ものすごくいい匂いがした。あちこちからお肉の匂い、コーヒーの香り、スパイシーな香辛料の匂い。そこかしこから漂ってくる。
「どれもおいしそう!」
こんなに美味しそうなもの、今まで見たことがない。
その中でもわたしが気になったのは、とある喫茶店だった。アンバーの照明と、コーヒーと砂糖の甘い香りが決め手だった。
「いらっしゃいませ。おひとり様ですか?」
「はい」
「では、こちらの席にどうぞ」
わたしはメニューを受け取り、そこにいろいろなものが載っているのにわくわくした。パスタ、ピザ、サラダ。それからケーキ。アイス。コーヒーだけじゃない、たくさんの飲み物。
どれもおいしそうで目移りしてしまう。
でも、全部を食べきることはきっとできないだろうと思った。どれかひとつに絞り切らなくっちゃいけない。
「どれにしようかな」
お金はいっぱいあるから、どれを頼んだっていい。
あちこちからおいしそうな匂いが漂ってくる。いろんな人の喋り声が聞こえる。パソコンの機械の音がする。小銭やお札のこすれ、ちゃらちゃらいう音がする。
「ご注文はお決まりですか?」
「この……パスタと、このサラダと、あとこのサンドイッチと、このワッフルとチョコレートケーキとバニラアイスと、それから飲み物はコーヒーと紅茶とアイスレモンティー」
「えと……」店員さんは困った顔で、「お一人でぜんぶ?」
「はい!」
「かしこまりました……少々お待ちください」
少々お待ちすると次々に料理が運ばれてくる。
「おいしいおいしいおいしい……!」
食べているとだんだん涙が出てくる。
こんなに美味しいものを食べたことは今までなかった。油っぽくて、味が濃くて、甘くて辛くて……それにいい匂いのするものを。いくらでも食べられる。お腹の中にどんどんたまっていく。
チョコレートケーキとコーヒーを口の中で嚙合わせる感覚がたまらなく幸せだ。
アイスレモンティーの風味はさわやかで気分が晴れるし、何より、お代わりとして運ばれてくるお水のおいしいことと言ったらない。こんなに綺麗で冷たくて、美味しい水を飲んだのは初めてだ。
くすくす、という声がしたので、そっちを見ると、年上の女性が数人でこっちをみて口元を抑えて笑っていた。ほかのひとは顔をしかめているか、露骨に目を逸らしているかだった。なんでそんな風にわたしを見るんだろう。とてもいやな気分だったけれど、食べ物の美味しさでその嫌な気分は幾分まぎれた。
「ごちそうさまでした」
お金を払ってお店を出るとき、わたしは堪らなく幸せだった。
両手の紙袋にはかわいいお洋服がたくさん入っている。お腹の中にはおいしい食べ物がたくさん入っている。こんな幸せなことがあるだろうか。さて、次はいったい何を買おうか迷ってしまう。お金ならまだまだたくさんあるのだ。
「うわっ!」
曲がり角を曲がったとき、どしんと何かにぶつかった。
思わずよろけて尻餅をついてしまった。
「いったぁ」
お尻がじんじんする。
「ごめんなさい。だいじょうぶ?」
目の前にはすごく背の高い女の人がいた。わたしはこの人にぶつかってしまったのだ。
「立てる?」
差し出された手にわたしは捕まった。ぐいっと、まるで機械みたいなすごい力でわたしは持ち上げられた。立って並んで見るとそのひとの背の高さがよく分かった。私の頭頂部にそのまま顎を乗せられそうなほどだ。その人は青いデニム地のベストに黒いシャツ、タイトな黒のパンツを身に着けていた。色合いは地味だけど、ものすごく派手な出で立ちに思えた。
その人はわたしを立たせると、すぐに身をかがめて、辺りに散らばった紙袋をせっせと集め始めた。わたしが両手いっぱいに抱えていたものだ。
「わわっ、すみません」
「いいの。ぶつかったのはあたしのせいだから」
女の人は紙袋をわたしに押し付けるようにして手渡すと、
「ケガ、ない? 大丈夫?」
「大丈夫です。元気です」
「そう。ならよかった。ぶつかってごめんなさいね」
そう言って歩き去ろうとする女の人を見送ろうとした時、わたしは、まだ床に落ちているものがあることに気が付いた。わたしの持っているものの中には無かったものだ。
「あの、これ、落としました!」
慌てて拾い上げ、そのひとのことを呼び止めた。
透明な容器だった。手のひらに収まるくらいのサイズ。中にはオレンジ色の、オイルみたいな液体が入っている。だけどかなり中身は少なくなっていて、ふるとちゃぽちゃぽと音がした。それに、なんだかいい匂いがする。まるで果物のような……
「返して!」
血相を変えて戻ってきた女の人が、叫ぶようにわたしに言った。
わたしの手からそれをばっと乱暴に奪い取ると、ぎゅっと大事そうに握った。表情はこわばっていて、すっかり顔が青くなっている。
「あの……」
すると、ハッとしたように、ぎこちない笑顔を浮かべた。
「ご、ごめんなさい。ありがとう、拾ってくれて」
「あ、いえ」
「それじゃあね!」
そして、脚をもつれさせながら、慌てて走っていった。
女の人はどこか様子がおかしかった。さっきまでの、余裕がある、おとなっぽい感じとは裏腹に、優しさや
「なんだったんだろう」
ふいに、ふわっと良い香りがした。
食べ物の匂いかと思ったけれど、違った。それはどこでもない、さっきまで女の人の落とした『ライター』を握っていて、その女の人に触られた、わたしの手から香っていた。
さっきの甘い香り。『ライター』の中から香っていた、あのにおい。
「『ライター』?」
なんでわたしは、あの透明な容器が『ライター』だって分かったのだろう。
その甘い匂いは、わたしの手の中からはじまって――あの女の人が歩いて行った方向へと、かすかに続いているのが分かった。わたしはそれを辿って、自然と足を動かしていた。
この甘い匂い。
さっき食べたケーキよりも、なによりもおいしそうな、いい匂いがする。
わたしの足は勝手に動いていた。頭がぼうっとしてくるようなおいしい匂いだ。
「こっちかな……」
すんすんすん。
匂いで分かる。あの人はこっちのほうへ歩いて行ったらしい。
地下から、エスカレーターをのぼって地上へと向かう。ステップのひとつひとつ、手すりからも、だんだんと強い香りがする。思わず、さっきまで食べたものが胃の中から戻って来そうになるくらい濃厚な香りだ。
「うっ……」
エスカレーターを降りた時、とうとう我慢できなくなってきた。意識が飛びそうになる。
地上には既に人がほとんどいなかった。駅の中はしんと静まり返っている。
甘ったるいにおいは、もっと上のフロアから漂ってきている。
行かなくちゃ。
強い義務感にかられた。行かなくちゃ。あの女の人を追いかけなくちゃ。追いかけて、それで……
ずん、とビル全体が揺れた。
けたたましいサイレンが鳴る。それと同時に、猛烈な熱気が天井のほうからわたしに叩きつけた。上のほうに何かがいる。あの女の人だけじゃない、もっと他にも……いっぱい、いっぱいの何かがいる……
おいしそうな匂い。
おいしそうな匂い。
おいしそうな匂い。
おいしそうな匂い。
おいしそうな匂い――――




