椎名翼:パラドックス-1
【Red】
目覚まし時計の音で目が覚める。
部屋にかかっているピンク色のカーテンの隙間から、朝日が漏れ入ってくる。無理を言って買ってもらった水色のパジャマも、だんだん小さくなってきた。僕の身体は、少しずつ大きくなっていく。まだ小学生なんだから、当たり前だ。
ベッドから起き上がってリビングに行くと、もうお父さんとお母さんはいなかった。テーブルの上には小さな書置きと、千円札が二枚、残されている。
『夜遅くなります。夕飯は自分で食べなさい。お母さんより』
僕の部屋の隣には、もう一つ部屋がある。固く閉じられているが、鍵がかかっているわけではない。ノブをひねって開くと、そこには四角い簡素な作りの部屋がある。隣にある僕の部屋と、全く同じ大きさの四角い部屋だ。
色やけのない白い壁紙。何年もつけていない蛍光灯、カーテンのかかっていない窓。クローゼットを開くと、ハンガーには二、三歳の女の子が着るような小さな洋服がいくつか掛けられている。だけどほかに家具は置かれていない。
ここは妹の部屋だ。
生まれてくるはずだった僕の妹。お母さんのお腹の中で、確かに僕と妹は一緒にいた。だけど、生まれてきたのは僕だけで、妹はいつの間にか、どこかへ消えてしまったらしい。もちろん僕はお母さんのお腹の中にいた時のことなんて覚えていないけれど、お父さんやお母さんの態度や、この空き部屋のことを思えば、その事実と、その事実がどれだけ二人にとってショックなことだったか分かる。
お母さんたちが僕をおじいちゃんやおばあちゃんにかたくなに会わせようとしないことも、きっと理由があるのだろう。クラスメイトや、周りのみんなは、お盆の時期になると田舎に行って、おじいちゃんやおばあちゃんに会いに行ったり、お墓参りをしたりするらしい。だけど、僕はずっと家にいる。最後に会ったのは三歳か、四歳か、それ以来、おじいちゃんやおばあちゃんには会わせてもらえない。お父さんもお母さんも、その話をしたがらないので、僕もその話をしないことにしている。
僕は時どき、無性にこの部屋にいたい気分になるときがある。小さいころは、お母さんと喧嘩したり、お父さんに小言をいわれたりすると、なにもないはずのこの部屋に閉じこもって、窓からぼうっと外の景色を見たり、本を読んだりする。この部屋はひっそりとして、とても静かだ。そして、クーラーもないのに夏も涼しい。
だけど最近、この部屋を毎日のように覗くのは、もうひとつ理由がある。
「おはよう」
窓に移った僕の姿が、にっこりと笑った。
「うん。おはよう」
「夏休みなのに早起きだね。もうラジオ体操はした? 昨日のぶん、絵日記は書いた?」
「うるさいな。ちゃんとやってるよ」
この間の、大きな戦いのとき――
ひばりさんの声と一緒に、僕の耳に届いたあの声。僕に呼びかけてくる、女の子のような声が、この部屋でははっきりと聴こえる。頭の中で、じゃない。その声の主は、いつも僕のそばにいるかのように語り掛けてくる。
窓に移った僕の顔。
だけど、喋っているのは僕じゃない。僕の顔をした誰かだ。
「自由研究、まだ残っているんじゃないの? 何するの? 気になるなあ。朝顔とか育ててみる? それとも――」
「いちいち言わなくてもいいよ」
「ボクのぶんまで、しっかり宿題、やるんだよ。先生に怒られたりしないようにね」
「分かってるって」
もうひとりの僕。
こいつと喋っているのは、とても楽しい。だけど、身体の奥のほうからむずがゆい不思議な感覚が這いあがって来て、僕はだんだん落ち着かない気持ちになってしまう。
「ごめん、もう行かなくちゃ」僕は寝癖のついた髪の毛をむしるように引っ張りながら、「今日も図書館に行くんだ。残った課題をぜんぶ終わらせなくちゃ。それで、残りの日は、また何かをして遊ぶんだ」
「楽しそう。ボクの分までお願いね」
「うん」
「行ってらっしゃい――■■■■■」
「行ってきます」
Tシャツとズボンに着替えて、鞄にまだちょっと残っている宿題と、読みかけの本を入れて肩から斜めに下げる。それからお母さんの置いていった二千円を財布に入れたあと、勉強机の上に置かれていた最後の荷物を手に取った。
真っ赤なオイルがなみなみと注ぎ込まれた、『ライター』。
僕を魔法少女に『変身』させる、魔法の道具だ。スイッチを押して、変身する。すると僕は、ものすごい力を手に入れて、街で暴れる黒い怪物――グローパーと戦ってやっつけることができる。今の僕にとっては、いちばん大切なものと言ってもいいかもしれない。
玄関から出て鍵を閉める。
「いたっ! いた、いた!」
裏にしまってある自転車を取りに行こうとした時、やけに甲高い声が響いた。振り返ると、ばたばたと翼をはためかせてふらふら飛び回る光る妖精がいた。クウだ。やたらと袖の長い服を着て、眼鏡をかけている。
「きみ! 魔法少女だよね?」
「そうだけど――もしかして、グローパーが出た?」
「その通り! すぐそこだから、お願い、変身してあいつをやっつけて!」
「もちろん」
さっそく鞄からライターを取り出し、右手で握るとスイッチを押した。
「変身」
僕の身体が、風と熱に包まれる。
手に握っていたはずのライターは、巨大な剣に変わっている。
「行くよ、クウ」
「はいっ、」クウは僕の肩に乗った。「グローパーはあっちの方向! お願い、魔法少女!」
「任せて!」
地面を蹴ると、身体がものすごい勢いで浮かび上がった。僕は家の屋根を飛び越えて、周りの家やマンションの屋根伝いに駆け出した。
「あそこっ!」
本当にすぐ近く、道を何本か挟んだ向こう側にグローパーがいた。戦隊ヒーローの番組に出てくる、ドラゴン型のロボットみたいな姿をしている。長い尻尾と三角形の翼、赤くギラギラ光る眼。なにより――
「ずいぶんでっかいな!」
二階建ての家が立ち並ぶ住宅街の屋根の上に、頭が抜け出て見える。ほんとうにロボットみたいだ。僕は近くの屋根の上に立つと、剣を両手で構えた。
「クウ、しっかりつかまってなよ」
「はいっ」
クウが服の裾にしがみつくのと、ほぼ同時に、巨大なグローパーがこちらに顔を向けた。気付かれたのだ。牙の生えそろった巨大な口を開けて、咆哮した。とんでもない衝撃が僕の身体を叩く。
「よっ、でっかいの! ぶっ飛ばしてやるぞ――おわっ、」
グローパーが巨大な翼を広げた。
よく見るとそれは、小さな岩のような鱗が折り重なって作られている。その岩のひとつ、ひとつが、クリスマスツリーの電飾のように色とりどりに光り輝くと、ばっと弾けた。
打ち上げ花火が上がったのかと思った。
激しい光。真っ昼間なのに、一瞬目の前が眩んだ。そして、周りからざわざわと騒がしいようなうめき声が聴こえてきた。
「なんだ……?」まだ視界がおぼつかない。
「魔法少女さんっ、周りを見て!」
「見てって、まだ目がくらんで……」
だけど、だんだんはっきりと見えてきた。
いつの間にか、さっきまで目の前にいた巨大なグローパーが消えている。代わりに、僕の周囲に――家の屋根、マンションの廊下、路地、道路、標識の上――無数のグローパーがうごめいている。大きさは一メートルくらい、四つの短い脚と、黒い鱗に包まれた長い尻尾、それから赤い眼。トカゲや、ワニに近い姿だった。見渡す限り、無数にそれらはばら撒かれていた。
十や二十じゃきかない。百、二百……もっといるかもしれない。見渡す限り、無数にいるのである。
「こんなにたくさん……!」
クウが息を呑んだ。何匹かが屋根伝いに、僕らへとにじり寄ってくる。
「面倒臭いな……!」
「どうするの?」
「どうするって、やるしかないだろ!」
右手に剣を構えて僕は駆け出した。
モスグリーンの屋根に飛び移りながら、剣を振り下ろしてトカゲを叩き潰す。雨樋を伝って登ってきたグローパーの首をはね飛ばし、そのまま次の屋根へと飛び移る。今度は四方から囲むように口を開いて噛みつきにくる。剣を大きく一回転させて、口を切り裂いて真っ二つにする。
その時、突然、屋根が音を立てて崩れた。
「うわっ!」
背中から地面に落下する。げほっと咳き込むと、右足を熱いお風呂に突っ込んだ時のような痛みが走った。見ると、グローパーが僕の脚にかじりついている。
「っ、この、この!」
左足で蹴りつけてもびくともしない、すごい力だ――視界の端でちらりと見えたのは、古びた平屋の屋根に群がっているグローパーだった。まるでアリの大群のように屋根の根元と、柱に牙を突き立てて、ぼろぼろに崩してしまっている。さっき屋根が崩れたのはこれが原因だろう。
「ったいな!」
右足に食らいついた牙がどんどんめり込んでくるのを感じる。熱が痛みに変わっていく。
「このっ、いい加減に……しろっ!」
剣を振り下ろすと、鱗が真っ黒な血を吹き出して割れ、ようやく右足が解放された。起き上がろうとする間にも、どんどんトカゲのようなグローパーは集まってくる。
「大丈夫!?」
「だいじょうぶだよ、こんな傷……!」
ブロック塀に手をつき、何とか立ち上がった。
見ると、右足は思ったよりもずたずたになっていて、もうほとんど感覚が無かった。血がものすごい勢いで地面に流れていって、土を赤く染めている。
周りに群がってくるグローパーの大群。
僕の目に移ったのは、半壊した平屋の家。潰れて、扉が外れた玄関がちらりと見えた――靴がひとつもない。つまり、この家には人はいないのだろう。
「この――」
剣に力を込める。
根元のライターがぶくぶくと沸騰し、刀身が赤く染まった。大きく振りかぶって、切っ先を地面に突き立てる。
「まとめて吹っ飛べ――!」
「っつ……」
グローパーたちが吹き飛んだあと、ひび割れてぼろぼろになった地面に蹲る。
「どうしたの?」クウが僕の右足を覗き込む。「これは――! すぐに魔力で修復しないと!」
「やってるよ……」
魔法少女に変身すると、普通、傷はすぐに治るはずだ。代わりに『ライター』の中の魔力が減っていく。だけど、いつまでたっても右足の傷が治る気配がない。だんだん感覚が戻って来て、痛みがより激しく伝わるようになってきた。
「っ痛……!」
「これはひどい……! すぐご主人様に見てもらった方がいいです」
クウの虚しい声は、無数のうめき声によって掻き消された。
グローパーたちが群がってくる。痛みに霞む視界で、必死に剣を振りかざした。ブロック塀に背をつけたまま、襲い掛かってくるグローパーを何とか振り払う。
「このままじゃジリ貧だよ!」
「うるっさいな、分かってるって……!」
「後ろ! 後ろ!」
クウの叫び声に半ばやけくそになって剣を振り回す。
「このっ!」
剣に光が纏わりつき、思い切り振り回す。すると、魔力は巨大な赤い竜巻になって、ブロック塀、瓦礫、石ころもろとも、周囲のグローパーたちを吹き飛ばした。グローパーは跡形もなく塵になって消えさる。後には何も残らない、なにも……
「そういえば……」
ない。
グローパーが落とすはずの、『黒いライター』がどこにもない。
右足の痛みがどんどん増していく。身体から力が抜けていく。
「あれ……」
気が付いたら――
僕は元に戻っていた。変身が解けて、僕はもう魔法少女じゃなくなっていた。
「ちょっと! しっかり!」
意識がもうろうとしてくる。頭がくらくらする。
まだグローパーは周りにいる。戦わなくちゃ。僕が戦わなくちゃいけないのに……
「しょうがないなあ、■■■■■」
あの声がぼんやりと、聞こえた。
「ボクが力を貸してあげるよ。■■■■■は、ちょっと休んでいて」




