清瀬絢水、エントリー
「はじめまして。これをあなたにあげます」
それは一か月前のことだった。八月に入ったばかり、夏休みの夕焼けの日のことだった。図書館で宿題を終わらせた帰り道、その子は唐突に目の前に現れた。露草色のパーカーで、眼鏡をかけた小さな顔を隠し、脇に大きな分厚い本を抱えた、背の低い小柄な少女だった。
彼女は小さな手のひらに、ラベンダー色の透明な液体が詰まった、ライターのような道具を持っていた。
「誰?」
すると、少女は傍らの大きな本を広げ、滔々と語り出した。
「――『あなたはすべてを見通すひと』……『真実と嘘とを見抜き、見通し、見渡す力を秘めている』……『真実は時に心を傷つけ』……『やさしい嘘でその傷を癒す』……『まぶたを開くのも、閉じるのも』……『すべてはあなた次第』……『その扉が重く、錆びついた錠で出来ていて』……『それを開く鍵が、目の前に突然現れる』……」
頭のおかしい子だと思った。同い年か、少し年下くらいのこの女の子の言うことは、何一つ理解できなかった。
「さあ、それを手にとって。きっとあなたは、それを欲しているはず」
彼女は微笑んでいた。
「何を言ってるの……」
「あたしの名前は、八坂八宵」彼女は静かに微笑んだ。「魔法少女です」
○
「おかえりなさい、お嬢」
玄関の扉を開くと、真っ黒なスーツ姿の神崎がそこに立っていた。長い廊下は木目が光り輝くほど磨き上げられ、玄関マットは踏むのが躊躇われるほど真っ直ぐに敷かれている。
「ただいま」
「今日はどちらへ?」
「図書館で宿題してたの。家だとうるさくて集中できないから……」
と言いかけて、私は気が付いた。家の中は静まり返っている。
いつもはこの時間なら、若い衆が集まって来てどんちゃん騒ぎをしているころだ。だから私は出来るだけ家で宿題をせずに、外に出て、図書館や喫茶店のような静かなところで勉強をするようにしているのに……
「ねえ神崎。最近、どうして若い衆は、家に寄りつかないのかしら」
「みな、それぞれに忙しいのですよ。それに、せっかくお嬢が夏休みなのですから、気を遣っているんじゃないでしょうか?」
「別にそんなことしなくていいのに」
「さあ、夕食の時間まで、まだ少しあります。お部屋で休まれてはいかがです?」
神崎は私が小さいころからずっと、なぜかこの家にいる人だ。十四年間、ずっと姿かたちが変わらない不思議な男だった。オールバックの黒髪と真っ黒なスーツ、やたらと良い姿勢、それから足音が全然しない歩き方、やたらとスーツから香る謎のいい匂い。
「あんたは忙しくないの?」
「お嬢の面倒を見るのが、俺の仕事ですから」
「それは子どもの頃の話でしょ。もう大丈夫なのに」
「社長はそうだということでしょう」
テレビの音もしない。
少し気の早い鈴虫の声が、家の中まで響いてくるようだった。
「パパは?」
「社長は、書斎にいらっしゃいますよ」
「会っても大丈夫かな」
「お嬢なら大丈夫でしょう。まだ夕食までは、時間がありますよ」
私は廊下を曲がって、家の一番奥にある書斎へと向かった。
「パパ。入っていい?」
返事はなかった。扉を開くと、パパは書斎机に座って、難しそうな英語の本を読んでいた。甚平姿の背中が、薄暗い部屋の中にどんと浮かんでいた。
「絢水か」ようやくパパは億劫そうに振り返って、「帰ってたのか。ノックぐらいしなさい」
「したよ。返事がないから入ったの」
「返事がない時は入っちゃいかんだろう」
老眼鏡を外すと、パパは座布団からよいしょと立ち上がった。背中の広さから創造できるより、ずっとずっと大きな体だった。
「どうしたんだ。わざわざ」
「聞きたいことがあるの。『ライター』ってなに?」
パパの顔色が変わった。
傷だらけの顔に深いしわが刻まれた。
「どういう意味だ」
「とぼけても知ってるよ。パパや神崎や、それに若い衆の話を聞いていれば、嫌でも耳に入ってくるもの。それを私に隠そうとしていることだって知っている。だけど、ちょっと気になっちゃって」
「座りなさい」
パパはまた書斎机に座った。私は部屋の隅に積まれた座布団を一枚とって、机を挟んでパパと向き合うように正座した。
パパは長いひげを指でいじりながら、重い一言目を吐き出した。
「絢水。お前もこの清瀬の家のことは分かっているだろう。だが、お前にはこの世界のことを知ってほしくない。お前には真っ当で真っ直ぐな、堅気の道を歩んでほしいんだ。死んだ母さんもそれを望んでいた。お前が生まれた時から、ふたりで決めたことなんだ」
「つまり、そういう道具なのね。『ライター』っていうのは」
「そうだ」
すると、パパは書斎の引き出しから黒くて重たそうな塊を取り出し、書斎机の上にごとんと乗せた。手のひら大くらいのサイズのクリアケースの中に、スライムみたいな、どろどろの黒い塊が入っている。油ぎっててらてらして、見るからに気持ちの悪い質感……そのケースの上部には、金属製の金具がついていた。
「これが、『ライター』?」
「そうだ。少し前――数年前から、街に流れ始めたものだ。ありていに言っちまえば、質の悪い麻薬みたいなもんでな。サラリーマンだとか、チンピラ、学生にも広がっている。今、俺たちは、これを使っている連中や、売人たちを洗い出しているところなんだ」
「どうして? それは警察の仕事なんじゃないの」
パパはぐっと痛いところを突かれたように黙り込んだ。
「パパ、小さいころに言ってたよね。警察や、権力ではどうにもできないことをするのが、清瀬の家の役目なんだって」
「よく覚えてるな。そういうところ、母さんにそっくりだ」
「この『ライター』はとにかく、良くないもので、いま、若い衆や、神崎たちは、これを集めるために忙しそうにしてるんだね?」
「絢水」
背筋がぴりっとすくんだ。
パパが私のことをじっと睨みつけていた。
「そんなことを聞いてどうするんだ?」
「別に……ただ気になっただけ」
「本当か? 父親に、嘘をついたりしていないだろうな?」
「嘘なんてついてない」
そのまま三十秒、一分、数分と、目と目のにらみ合いが続いた。
私は負けなかった。だって嘘はついていないから。この『ライター』のことが気になっていることは本当だし、それ以上のことは何も言っていない。だから私には、やましいことなんて一つもないのだから。
たっぷり三分間、無言の時間が過ぎた。パパは、ようやく口を開いた。
「絢水……よく聞きなさい」
「はい」
「うちの若い衆も、俺も、神崎も、死んだ母さんも……みんながお前のことを心配して、思っている。誰も、お前を危険な目に遭わせたくはないんだ」
「でも、いつかはこの家を継がないといけないんでしょ?」
「清瀬の稼業は、俺の代で廃業にする」パパはきっぱりと言い切った。「もう、義理だの人情だので食っていける時代は終わった。堅気の人間が真面目に仕事をして、きれいな金でうまい飯を食っていく。それが、当たり前の幸せになる時代なんだ。絢水、家のことも、俺たちのことも、なにも気にすることはない。お前は、お前の好きなように生きていいんだ」
「――――、わかった。ありがとう、パパ」
「さあ、そろそろ夕食の時間だろ。たまには一緒に食べよう」
神崎お手製の夕食を終え、私は離れの自室で布団の上に寝ころびながら、あの少女に――八坂八宵に手渡された、紫色の『ライター』を眺めていた。
パパに見せてもらったものとは、見た目がぜんぜん違う。形は似ているけれど、中に詰まっているものがまるで別だ。この薄紫色の液体は、きらきらした蛍光色で、電灯の明かりに透かすと鮮やかに光る。中にラメのようなものが入っているのかもしれない。
「どうやって使うんだろう」
ライターというからには火を点ける道具なのだろうか。いや、ただそれだけなら危険なものとは言えないだろう。あるいは火炎放射器みたいな物凄い炎を吹き出す、改造ライターの様なものなのか?
質の悪い麻薬、と、パパはいった。
軽く匂いを嗅いでみる。別に臭くもないし、煙草やハーブのような匂いもしない。無臭だ。強いて言えば……ラベンダーのような香りがする。気がする。もしかしてこうやって使うのだろうか? お香のように火を点けて、煙を吸うための道具ということなのだろうか。そう言う風に偽装した麻薬を売りさばくという話も聞いたことがある。その話を聞いた日だけは、神崎のスーツが少し火薬臭かったので、よく覚えている。
この『ライター』、受け取ってしまったからには、どうするべきか私が決めないといけない。試しに使ってみよう、というにも、得体が知れないものを迂闊にはいじくれない。
「うーん」
「そんなに辛気臭い顔をして、何を躊躇っている」
聞いたことのない声がした。
振り返ると、そこに銀色の――妖精のような何かがいた。手のひらに乗るほどの大きさ。背中から翼が生えていて、長い前髪で左目が隠れている。
「な――」
「大きな声を出すな。家人に怪しまれる」知った風な感じで妖精はむんずと腕組みして、「俺はパロマ。お前のことをサポートするように、アホの親分から言いつけられてここまで来た」
「はあ?」
「訳の分からないことだらけで混乱しているんだろう? 俺が教えてやる」
そうしてパロマから私はいろいろなことを教わった。
いま、この街に起こっていること。
『ライター』のこと。
グローパーのこと。
魔法少女のこと。
そして、私が手にしたこの『パステル・パープル』のライターのこと……
「つまり……『黒いライター』は、人間を怪物に変えて、この『色のついたライター』を使えば、魔法少女になれるってこと?」
「そういうこと。魔法少女はグローパーと戦って、倒すための力がある。お前はそれに選ばれたんだ、素質があるからな」
「素質?」
「世の中の女がみんな、誰でも魔法少女になれるわけじゃない。仮になれたとしても、普通の人間と同じくらいの力しか出せないやつもいる。そんな中で、お前は稀な素質の持ち主だったんだよ――アホの親分と、その親分に目をつけられたんだ。かわいそうにな」
「つまり、私にそのグローパーと……怪物と戦えっていうのね。拒否したらどうなる?」
「さあ。そこまでは俺も知らない」
「下手に動くよりは、自分で潜ってみたほうが……」
「ちっとも驚かないのな。お前」パロマは拍子抜けしたように大仰な身振りで、「俺みたいな変なのを見たり、ライターだの、魔法少女だのって、そういう言葉を耳にしても、ぜんぜんケロッとしてる。珍しいタイプだよ」
「そんな時間、勿体ないでしょ。目の前に宇宙人が現れたら、存在や自我を疑うより、まず挨拶のしかたを考えたほうがいいと思わない?」
ともかく状況を把握した。私は魔法少女に変身することができる人間として、あの八坂八宵という魔法少女に選ばれたのだ。それは、パパたちの知っている『黒いライター』と関わっている。
「私、真実を知りたい」
握りしめたパステルパープルのライターが、ほのかに熱を帯びた。
「女だからって、子どもだからって、パパたちに除け者にされるのは嫌だ。私だって、清瀬の家に生まれたんだから、お嬢なんだから……ぜんぶを見届けたい」
「いいぞ、いいぞ。その調子で自分の願いを、そのライターに込めて……スイッチを押せば、お前は『変身』できるんだ。自分の望み通りの姿に、自分の理想を体現した『魔法少女』になれるんだ!」
パロマが楽しそうに笑う。
私はその声に後押しされるように、金属のスイッチに指をかけ、
○
――――そして、今に至る。
「だいぶ、その力の使い方にも慣れてきたみたいだな」
パロマがもぞもぞと、シャツの胸ポケットから顔をのぞかせた。そのまま羽を広げると、すいすいと私の周りへ飛び回る。
目の前で、私の放った矢を受けたグローパーが残した塵が、渦を巻いて私の左手の弓へと吸い込まれていく。正確には、弓に埋め込まれた『ライター』の中へ――減っていたオイルが、見る見るうちに充填されていく。
「どんな気分だ、絢水」
「いい気持ち。とても――頭がすっきりしている」
「まだ、この駅ビルには、グローパーがわんさといるぞ」
「うん――」
弓を真っ直ぐ目の前に立てる。
すると、その遠く、はるか遠くまで、視界が届くような気がする――
「この七階には、もういない――人も残ってないみたい。この上のフロアにも。六階に一体、五階に二体。さらに下に何体か……」黒い影が、視界に蠢くのを感じる。「ねえ、グローパーっていうのは、こんなにたくさん出てくるものなの? それも、街のど真ん中の駅ビルに。とんでもない騒ぎじゃない」
「いや、こういう事態は異常だ。でも、最近はこれが当たり前になって来てるな」
「なんで今までニュースにならなかったのかしら」
「誰かが魔法をかけているんだよ」
パロマが真面目腐った顔で言う。
「魔法……」
「そうだ。この街の全員に魔法をかけて、記憶から消しているんだ。グローパーのこと、壊れた街や道路、それからグローパーに喰われて殺された人間のこと。だから街の連中は、誰も魔法少女たちの戦いに気が付かない」
「もう、なにがなんだか」ともかく、分かったことはひとつある。「魔法少女に変身して暴れても、私がその、いわゆる、『身バレ』する心配はないってことね」
「だからって、あんまり派手に暴れるなよ」
「大丈夫」
フロアの床面に向けて、弦を引く。手の中に勝手に光の矢が現れて、遠く――床面、天井を挟んだ、ひとつ下のフロアで蠢くグローパーの姿がはっきりと見える。黒曜石のような鱗、巨大な蜥蜴のような四本足と長い尻尾、ワニのような牙。
「はっきり見えるよ」
これが私の力。
弓を放つ。光の矢は床や天井を飛び越えて、ひとつ先のフロアのグローパーの心臓を射抜いた。脈動する『黒いライター』が砕けて散り、黒い鱗が霧散して消えていく。
「仕留めたのか」
パロマが私の目を覗き込んだ。
「ちょっと。いきなり視界に入ってこないで、集中しているんだから」
「俺にはお前の『魔法の目』がないからな。で、どうなんだ」
「せいぜい一個下のフロアが精いっぱいよ。これから順繰りに下に行きながら、グローパーを倒していくわ」
その時、突然地鳴りのような音と共に、ビル全体がかすかに震えた。周囲に散らばったガラス片や、ラックに吊り下げられた洋服が音を立てて揺れ、マネキンが倒れる。
「下のグローパーが随分暴れてるみたいだな。とっとと行こうぜ」
「違う――」私には見えていた。「視界に飛び込んでくる。何か、ものすごく大きな何かが――グローパーたちを轢き潰しながら、こっちに向かってくる!」
それは私の『目』には、煌々とオレンジ色の光を放ち燃え盛る炎のように見えた。もっと言えば、炎を身にまとった人型のように……それは猛烈な破壊音を伴って、とうとう私たちの目の前に現れた。
エスカレーターのステップを破壊し、踏み潰し、砕き、熱風と閃光とを振りまきながら。
燃えるバイクと、同じように燃え盛る人間。全容は燃え盛る炎に包まれて、細部までは伺い知れない。
黒いライダースーツのように身を包んで、頭はいかつい形状のヘルメットの様なものに覆われている。相当に背が高く、そして線の細い身体。まるで、女性のように見えるシルエットだ。
「おお……『ゴーストライダー』だな」
パロマが溜息をついた。
「なにそれ?」
「親分の親分が好きなんだよ。そういう、荒唐無稽な映画が」
「あれもグローパー?」
「いや――」パロマが眉を顰めて、「信じられないが、あれでも魔法少女だ。話し合いの出来る雰囲気じゃあ、ないけどな。どうする?」
相手のライダーは、エンジンをふかし、炎と煙とをフロア中に撒き散らす。スプリンクラーが作動し、けたたましい警報ベルの音が鳴り響く。
「どうする? って、決まってるよね。そんなこと」
私は弓を構えた。
「向かってくるなら、叩き潰す。どこかに行くなら、放っておく。それだけよ」
バイクの車輪が激しく回転を始めると、激しい火柱が立ち、バイクはこちらに向かって突っ込んでくる。私は弓を真っ直ぐ構える。矢を放つ。




