鷺宮千夏、ラウンドアバウト
【White】
図書館で課題をやっていたら、思ったよりも捗った。冷房はちょっぴり寒かったけれど、静かで落ち着いた場所、ヘッドホンで音楽を聴きながら進める宿題も悪くない。疲れたり、飽きたりした時は、適当に好きな本を読んでリラックスできる。
気が付くと、正午を少し過ぎたところだった。私はいったん荷物をまとめて図書館を出て、どこかで昼食を摂ろうと適当にぶらつくことにした。八月も中旬に差し掛かり、猛暑はますます勢いを増していく。東京の夏はじめっとして、いつになっても慣れない。周りがアスファルトやコンクリートだらけで、風通しも悪いし、照り返しもひどい。
ずっと机に向かっていたので、思ったよりお腹が空いていた。今日はお父さんにもらったお小遣いがあるので、ちょっと贅沢なランチだって食べられる。十分ほど大通りに沿って歩いた先にある、小さな喫茶店に入った。駅近くの雑居ビルの二階に作られたお店で、前に大和に連れられてきたことがあった。中は大学生くらいの人や、スーツを着たサラリーマンたちでにぎわっている。
「いらっしゃいませ」髪の長い、背の高い店員さんがにっこりと笑いかけ、「おひとり様ですか? 窓側の席が空いておりますよ」
「ありがとうございます」
私はトマトソースのスパゲティとグリーンサラダを注文し、更に食後のコーヒーとケーキも一緒に頼んでしまった。ちょっと羽目を外しすぎたかもしれない。お店の窓からは、駅前の大通りの様子を見ることができる。こんなに暑い、夏休みのど真ん中でも、忙しそうに歩きまわっているスーツ姿の人はたくさんいるし、レストランの客引きをしている外国人や、ティッシュ配りをする若い女性、それからよく分からない団体の宣伝活動でビラを配っている男の人もいっぱいいる。注文を待つ私のところに、氷で冷やされたコップに入った水が運ばれてきた。もうあちこち結露してしまって、コースターがびしょびしょに濡れていた。
エアコンもまあまあ効いているし、午後はここで課題をすることにした。このままのペースで進めていけば、夕方にはほとんど片付けてしまえるだろう。その後、駅前のスーパーで夕飯の買い物をして帰る。今日はなんとなくカレーが食べたい。野菜を煮込んでいる間にざっとシャワーを浴びて、夜はのんびりと、バラエティの特番でも見ながら……
完璧だ。
ちょっとにやにやしてしまうくらい完璧な夏休みだった。
「お待たせいたしました~」
さっきの店員さんが運んできてくれたスパゲティは、血のように真っ赤なソースと、トマトの香ばしい匂いが立ち込めていた。一緒に運ばれてきたグリーンサラダの青々としたレタスと、ちょうど正反対のカラーリングで、見ているだけで食欲をそそる。
フォークを回して、ひとくち口に運んだ。普通の、トマトソースのスパゲティだ。普通の美味しい、お店のスパゲティ。
「うん、」
グリーンサラダも少しずつ口に運んだ。少し酸味のあるドレッシングがかけられた、普通のグリーンサラダだった。
「うん……、」普通においしかった。
フォークに巻きつけたスパゲティを食べ、グリーンサラダを食べ、水を飲んでまたスパゲティを食べる。その繰り返し。もくもくと食べていくと、あっという間にお皿とボウルは空になってしまった。
美味しかった。なかなか、家では作ることのない味だ。お父さんが和食が好きだということもあって、私も家では和食を作ることが多い。でも、たまには洋食も悪くないかも知れない。テーブルに備え付けのペーパーナプキンで口を拭うと、真っ赤なソースがそこにこびりついた。
「失礼します」と、さっきの店員さんがやって来て、「お済のお皿、お下げします。食後のコーヒーとケーキをお持ちしますね」
「はい、あの、お水のお代わり、お願いします」
「はい、ただいまお持ちします」
「あと、お手洗いってどこですか?」
「そちらの奥の扉にございます」
喫茶店のお手洗いは、ペンキの褪せた扉とは裏腹に、きちんと男女別に分けられていて中のタイルや洗面器も驚くほどきれいだった。幸いにして誰も入っていなかった。
私は個室に入り鍵をしっかりと閉めると、テーブルからこっそりと拝借したナイフを取り出した。しっかりと右手で持つと、指先の震えが銀色の刃まで伝わり、橙色の電球の光をぎらぎらと反射させた。やっぱり、刃物を右手で持つのは落ち着かない。手が震えて、うまく力が伝わらないのだ。家ではわざわざ、「お父さん用」の鋏と、「千夏用」の左利き用の鋏が用意してある。
それでもテーブル用のナイフは、右手で持つのがマナーだ。
これは刃物じゃないから、そんなに簡単にいろいろなものが切れるわけじゃない。それでも、刃を左の人差し指の先に押し当てると、やがて鈍い痛みと共に、真っ赤な血が滲んできた。――さっきのトマトソースとは、比べ物にならないくらいの真っ赤な血だ。指を口にくわえて、キャンディを舐めるように舌を絡ませる、ちゅうちゅう、音を立てて吸ってみる。
「うん……うん……、」
血の味がする。
普通の血の味だ。
最近、自分でもあまり口にしていなかった、自分の血の味。けれど、これではっきりした。私の舌がおかしくなったわけではない。
再びポケットにナイフを忍ばせて、テーブルに戻ると、それを待ち構えていたように店員さんがコーヒーとケーキを運んできてくれた。
「ごゆっくり、どうぞ」
にこっと笑いかけてくれたその女性に軽く頭を下げて、コーヒーをひとくち啜った。美味しい。普通のコーヒーだ。でも――普通に飲めてしまう。今まで、ブラックコーヒーは砂糖とミルクを入れないと、飲めなかったのに。
ケーキはシンプルな生クリームのミルフィーユを頼んだ。コーヒーや紅茶によく合いそうな、甘ったるいものを選んだつもりだった。フォークでざっくり切り分け、口に運ぶ――美味しい。クリームのもったりした感じが、やたらと口の中に残った。
美味しいけれど――
味が少し、薄いような気がする。
コーヒーを飲み干して、意味もなくお代わりをもう一杯頼んだ後、私は課題のノートを開いた。なぜか頭がぼーっとする。まだ昼過ぎなのに、なぜか異様に眠い。いくら濃いコーヒーを飲んでも、欠伸がとまらない。頭の中に靄がかかったみたいに、ぼうっとして、指先に力が入らない。数学の教科書を一ページめくったかと思うと、次の瞬間には新しいページをめくっている。さっきまで読んでいたはずのページがどこにもない。落としたペンが、からん、とコーヒーカップに当たる音で目が覚める。知らない間に時間が飛んでいるみたいに、私の意識は途切れ途切れになる。
この感覚は、何度か経験したことがある。思い当たる節はひとつしかない。私が、あのライターを手放したせいだ。魔法少女に変身せずにいたときの、あの感覚とそっくりだった。虚脱――喪失――貧血――そういう感じ。
勉強にはちっとも集中できなかった。午前中のペースが嘘のように思考が淀む。ノートをしまって早々に私は喫茶店を出ることにした。レジでお釣りを受け取ったとき、さっき指先につけたナイフの切り傷がわずかに開いて、じわっと血が滲んだ。
今日はおとなしく買い物だけして帰ろう。
外に出てみれば、もう太陽はだいぶ傾いていて、暑さはますます増していた。頭痛がひどくなりそうだった。私が思っているよりも、早く帰った方がよさそうだった。駅前の二十四時間営業のスーパーまで、そんなに遠くない。
「あっ! 千夏ちゃんじゃない?」
という、聞きなれた声に振り返ると、リサさんが車道を挟んだ反対側で大きく手を振っていた。パステルカラーの涼しげなワンピースを着た彼女の隣には、とても背の高い男の人が立っていた。二人は車道を横切って私のほうへと駆け寄ってきた。
「偶然! 何してるの?」
「ちょっと、買い物を。今日の夕飯」
「へえ、千夏ちゃんが作ってるんだ? 凄いね」
するとリサさんは、きょとんとした表情の隣の男の人に向けて私を手で示して、
「千夏ちゃん。バイト先の……えと、常連さんなの! たまたま見かけたから声かけちゃった、ごめんね」
そう言いながら、私に軽く目配せした。私はなんとなく、クラスの女子がよくやり合っている「話を合わせて!」というサインと似た意味を感じた。
「どうも……」
「どうも、」とその人は爽やかな笑顔であいさつした。「中学生? でも、リサより身長高いんじゃないか?」
「怒るよ。最近、ちょっと気にしてるんだから」
「はは。ごめんって」
「人の身体的特徴を揶揄するのって良くないよ!」
「分かったから。ほら、またどっか行くんだろ?」
「あ、うん。そうだね」歩き出した男の人の後ろをついていきながら、「千夏ちゃん、突然ごめんね! 今度一緒にお茶でもしよう!」
「さようなら」
ふたりの後ろ姿は、歩幅も目線もぜんぜん違うのになぜかきちんと噛み合っていて、とても不思議だった。
あれは、リサさんの――
「恋人なのかな?」
中学生だけど、私のクラスでも、彼氏がどうの、恋人がどうのという話はよく飛び交っている。そう言うとき、私にもなぜか話が飛んでくることはある。学年の男子で誰がいいとか、先生の中で誰がいいとか、誰と誰が付き合っているとか――
くだらない。
そういうことは、別に誰が口を挟むことではないはずだ。誰かが誰かを好きになったり、恋人を作ったりすることを、とやかく言われる筋は誰にもないはずだ。でも、時どき聞かれることがある。
鷺宮さんは彼氏とかいないの?
「恋人って……」もう、リサさんたちの姿は見えなくなっていた。「なんだろう?」




