石上香苗、ペインフル-2
相変わらず電車は運行停止したままだ。私はひとまず、ひと目につかないような狭い路地裏に入り込んだ。そこはむっとするような湿気と熱気、それから何のものともつかない臭気が漂っていた。一刻も早くここを抜け出したい。
鞄の中には、ふたつのライターが入っている。東さんからもらった緑色のライター。そしてあの日、八坂八宵と名乗る少女から手渡された、透き通るライトグリーンのライター。淡く映えるその色は、パステルグリーンとでも呼ぶべきか。しかし、私はそれを見ないように小さなポケットへとしまい込んだ。
私は緑色のライターを握りしめ、スイッチを押し込んだ。
「変身」
身体が冷気のようなものに包まれ、いつもの黒ずくめのコスチュームを纏った姿に変わる。帽子と、外套。しかし、炎天下においてもこの姿では、不思議ととても涼しくて、幾分快適だ。吐き気や頭痛が、ふわっと一時的に解放されたような気分になる。手にしたランプの柄を伸ばしてその上に腰を乗せ、ふわっと上空高く浮かび上がっていく。
「それで、どういうこと? グローパーが電車に飛び込み自殺だなんて」
「さあ、そこまでは、知りませんが。その男から巨大な魔力を感じたこと、近くに魔法少女の気配があったこと、それが分かったのであなたを呼びました。男は電車にぶつかった後も、線路上を走って逃げているようです」
「線路を走って?」
「急ぎましょう。このままでは別な被害が出ます」
このクウはやたらとぶっきらぼうで表情がない。ぜんぜんこちらを見て話をしようとしない。生真面目な性格なのだろうか。
クウの案内で私は、いったん人目につかないような高さまで飛んだあと、線路の上をなぞっていくように飛んでいく。電車が遅延しているせいか、線路上はずっと空のままだ。
「どこ……?」
グローパーどころか、人間ひとり見つからない。少し高度を下げて、速度を落とす。万が一見落として、列車の運行が再開したら大惨事につながりかねない。
それでも、グローパーは影も形も見えなかった。
「あそこ!」
クウが大きな声を出したその先には、何十本もの線路が並立する車両基地があった。何本もの線路を飲み込む巨大な車庫と洗車機材、ずらっと並ぶ列車。枝分かれする線路の分岐点の辺りを、トラやチーターのような肉食獣の姿をした黒い怪物が這いまわっている。
「あれです!」
「行きましょう」
帽子を風に飛ばされないように、指でつばを掴んで急降下。グローパーはまだ、こちらに気付いた様子を見せない。つばを摘まんだ指先から、緑色の火花が散った。それは指から手のひらへと広がっていき、次第に大きな炎へ――やがて螺旋状に収斂し、巨大な槍へと変わる。熱は感じない。私の魔法の炎に、ごく一般的な物理法則は、何ら意味を成さない。
「噂にたがわぬ、凄まじい力ですね――石上香苗」
「見るのは、はじめてかしら」
少しだけめまいがする。クウは頷いた。
「わたしはクウの中でも、かなり早い時期に生まれました。けれど、あなたの魔法をじかに見るのは初めてです。これは――ほかのどの魔法少女よりも――」
右手に集めた炎の槍を放り投げる。
ゴミ箱に、丸めたティッシュを放るように。
槍は緩やかな放物線を描き、火花の尾を引きながらグローパーの方へ飛んでいく。その真っ黒で金属質な背中に向けて吸い込まれていく――瞬間だった。
「シッ!」
という、空を切り裂くような息がここまで聞こえた。グローパーは私の方を見上げると、獣のような俊敏さでもって、身をよじって飛びのいた。一瞬後、すぐそこに炎の槍が突き刺さって、霧散していく。
「外した!」
クウが叫んだ。
「意外とカンがいいわね」長い尻尾を逆立てて、身を沈めて警戒している。「クウ、降りるわよ。見つかった以上、もうコソコソする必要はないもの」
ランプの柄から腰を下ろし、地上へと降下する。すると、グローパーがそれを合図にしたように身をひるがえし、暗い車庫のほうへと逃げていく。
「逃げた!」
「逃がすもんですか」
地上に爪先が触れた瞬間、ランプを高く掲げる。中でくすぶっていた炎がぎゅるりと飛び出し、蛇のような俊敏さを持ってグローパーへあっという間に追いつくと、尻尾に食らいついてあっという間に身体を炎に包んだ。
グローパーは悲鳴を上げ、身体をもつれさせながらも、なお逃げ続ける。
「なかなか、しぶといわね」
薄暗い車庫の中に逃げ込んでも、緑色の火の粉が散って、その姿ははっきりと見て取れる。
「追いましょう」
「言われなくてもそのつもりよ」
車庫の中は薄暗い。陽の光がわずかに差し込んで、中にずらりと並ぶ車両たちを照らしている。一見して、グローパーのような黒い獣の姿は見えないが……よく見ると地面に、緑色に光る火の粉が落ちている。それが足跡のようになって、行方は容易に追跡できる。
それにしても静かだ。
もちろん、鉄道の車庫に入ったことなどないから分からないけれど、人間の気配がない。あのグローパーに既に食われてしまっているのだろうか?
火の粉は車庫の奥へ、奥へと続いている。線路に鎮座し、眠ったような塊と化している車両と車両の間をすり抜けていくと、そこに開けた場所があった。線路だけが敷き詰められ、車両も何もない場所だ。そのど真ん中に、あの黒い獣が蹲っていた。緑色の炎は健在で、身体じゅうにまとわりついて、黒い鱗を貪るように燃え広がっている。食いつかれたそばから、食べかすの様に黒い粉が落ちていく。もうあのグローパーは長くない。
それでも、念には念を入れて、ランプを構えた。
弱っている猫のような目で見られても、ぜんぜん、良心の呵責を感じない。私は頭が痛いのだ。
ランプから炎が噴き出す。グローパーの身体を、風のように包み込んで、一瞬あとにはその姿は既に消えていた。残ったのは、中身がわずかばかりしか残っていない黒のライターだけ……ほんとうにわずかばかりの……
「ちょっと、消耗させ過ぎたのがいけなかったのかしら」
ランプの根元に埋め込まれていた、緑色のライターを取り外す。するとランプの中に灯っていた炎が一時的に消え、冷たい、黒いアンティークと化す。僅かばかりでも貴重な魔力だ、黒いライターの中に残っていた淀みだらけの液体を注ぎ込んでいく。少しだけでも、気分が安らいだ気が……
「しない、わね」
足りないものは足りない。
緑のライターの中身は、六、七割といったところだ。心なしか、オイルもいつもより濁っているような気がする。透明度が低く、澱のようなものがいくつも浮かんでいるように見えた。それを見ていると、視界がちかちかして、頭痛を加速させるようだった。
「さて、ここに長居するのは良くないわね。鉄道会社の施設だし、見つかると面倒だわ」
緑のライターを再びランプの根元に差し込むと、緑色の炎が噴き出した。
「クウ、行きましょう。グローパーも倒したことだし、一件落着ってことで……」
「待ってください。まだ……!」
クウの言葉に振り返った。
風が唸っているのかと思ったら、そうではなかった。電車の影から、機材の後ろから、大きくかかった鉄骨梁の上から――大量のグローパーが、私を睨みつけていた。姿かたちは、様々だ。四足歩行の肉食獣、二本足で立つ類人猿、それから十本近くの脚をうごめかせる虫……それぞれ共通しているのは、鈍い光沢を放つ黒い身体と、ぎらつく赤い瞳。新宿の時より、数は少ないが――それでも、この狭い場所にここまでの数が潜んでいるのは、異常だった。
「いつの間に、こんなに……!」
「――好都合ね。失った魔力をここで補給させてもらうわ」
ランプの柄を伸ばし、高く掲げる。グローパーたちはこの炎に何かを感じたのか、身構えたり、襲い掛かってきたり、あるいは逃げ出そうとしたりするが、どちらにしたって関係ない。まとめて焼き払ってしまえばいいだけだ。
「クウ、私の帽子の中に隠れなさい。あなたも灼かれるわよ」
「まさか! この車庫ごと焼き払うつもりですか?」
「グローパーを倒すのが、魔法少女の使命よ」
炎がランプの中で蠢く。
私はクウを帽子の中に押し込めると、渦を巻く炎を掲げ、グローパーたちを見据えた。渦は、倍々に大きくなっていく。
「ふふ、うふふ」
せっかくだ。今日のむしゃくしゃ、苛立ち、ぜんぶこいつらにぶつけてやる。
「そこまでですッ!」
突然、耳を打つ甲高い声。
私の目の前、車庫にずらりと並ぶ車両の屋根に、小さな人影があった。低い身長、たぶん小学生くらいの、小柄な身体。それにぴったりと合わせた、黒いセーラー服とスカートに、鮮やかな黄色の襟がよく映えていた。
首に巻いた長いストールのような布をはためかせ、彼女は底に立っている。
風通しの悪い、この車庫の中で――布をはためかせている。
「だれ……?」
見覚えのない子だ。聞いたことのない声だ。
だが、はっきりと分かる。奇抜な衣装、感じる魔力、そして――軽々と右手で持ち上げた、二メートル近い巨大な槍。
「魔法少女……!」
クウが、帽子のつばの影から息を呑むのが聞こえた。
彼女は周囲のグローパーたちの敵意と警戒を一身に受けながら、流線型の穂先を私へと真っ直ぐに向けた。
「黒い化け物を操る、悪い魔女め! この日高麗が、魔法少女の名に誓って――あなたを成敗して差し上げます!」




