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L-cone  作者: 王生らてぃ
第三章
81/93

石上香苗、ペインフル-1

   【Green】



 吐き気が凄い。頭が痛い。三半規管がぐらぐらする。今日に限ってついてない。おかしい。いつもはこんなにひどくない。夏バテ? 熱中症? そんな言葉じゃ、片付けられない。今日は化粧をするのもとてつもなく、体力がいる。眼球がぐるぐるして視界がおぼつかない。



 結局、最低限のケアだけして家を出た。

 会社に向かう道中の電車はいつも混みあっていて、いつもいつも嫌になる。時どき、どうして私はこんなに苦労をして働かないといけないんだろうと思うときもある。けど成人して社会人になって、ただ、寝て起きるだけでも金銭授受が発生するので、そのためのお金を私は働いて稼がないといけない。



 電車の音が、振動が、車窓から目まぐるしく飛び去って行く風景が、ぜんぶ私に重くのしかかってくる。今日は家で寝ていたい。アイスを食べてごろごろしていたい。でも行かなくちゃ、働かなくちゃ。

 いつもの駅で降り、キオスクでペットボトルのお茶を買って改札をくぐる。オフィス街は太陽の照り返しがひどく、歩いているだけで肌が焼けるような感覚に陥る。



「おはようございます」



 挨拶をしてオフィスに入った途端、聞きすぎた冷房が腹の底をきゅっと冷やした。



「おはようございます、石上さん」



 四月からの新入社員、草加透子が真っ先に挨拶した。



「すみません、この後、ちょっといいですか? 昨日の仕事で、ちょっと、分からないことがあって、教えてもらいたいんです。資料作成なんですけど、上手くまとめられないっていうか……」

「ええ。いいわよ」

「ありがとうございます!」



 彼女とは研修の時からの仲で、小柄な背と癖毛が特徴の、明るい女性だった。新入社員研修の時から、私と同じチームになることが多く、いまの部署でも私の隣の席になっている。彼女はお手洗いにでも行くのか、私と入れ違いにオフィスから小走りに出て行った。体育会系の癖なのか、彼女はいつも小走りで、よく事務員たちにどやされているが、逆に可愛らしいという人もいる。

 ちょっと出社が遅かったので、既にほかの社員も出社を済ませているようだった。



「おはようございます」「おはよう」

「おはようございます」「おはようございます」

「おはようございます」「お疲れでーす」



 ひと通り無難な挨拶を済ませたあと、給湯室でコーヒーを淹れて自分のデスクに座り、ひざ掛けを乗せてパソコンを起動する。さっきまであんなに暑かったのに、今度は寒い。机の上は、少し散らかっている。



 来週の初めには、大切な会議がある。今日はそのプレゼン資料をまとめなければいけない。といっても、七、八割がたは片付いていて、その後は今月の成果報告のレポートを作成する。どちらも、そんなに手間はかからない。

 しかしとにかく、気分が悪い。白色灯の明滅、デスクトップの明かり。ぜんぶ、とにかく、頭痛と吐き気を増長させる、悪意すら感じる。



「だいじょうぶですか、石上さん?」デスクに戻ってきた透子ちゃんが、「凄く、顔色が悪いです。なんていうか、真っ青で。気分でも悪いんですか?」

「ええ、まあ……でも、そんなに大変じゃないわよ」

「あの、私、新人ですけど、何か手伝えることがあったら言ってくださいね」

「そうね。ありがとう。それで、どこが分からないだっけ」

「あ、えっと……」



 どぎまぎしながら透子ちゃんは資料を取り出した。試し刷りということなのか、裏紙にプリントアウトされ、ところどころに赤や青のボールペンでチェックが入っている。かすれた文字とグラフ、半端にカラフルな紙の資料……頭痛と吐き気を増長させるような……



「石上さん?」

「いえ、ごめんなさい。どこが分からないの?」

「ここのグラフなんですけど、どういう風にまとめたらいいか分からなくて。いろいろ、試してみたんですけど、もう少し見やすくできる気がするんです」

「なるほどね、ちょっと、編集中の画面、出してもらってもいいかしら?」

「あ、はい! すぐ出します」



 と、透子ちゃんが開いたパソコンの画面をのぞき込もうと、テーブルに手をついて立ち上がった瞬間だった。すーっと、頭のてっぺんから徐々に血の気が引いて行って、意識が遠のいた。一瞬だけ身体じゅうの激痛がまったく消えた瞬間があったが、何かの割れるような音と、膝をついた衝撃で一気に我に返った。



「きゃっ!」と、悲鳴を上げたのは透子ちゃんだった。



 いつの間にか、私はオフィスに手をついて四つん這いで倒れ込んでいた。デスクの上のコーヒーカップが割れ、絨毯に染みを作っている。



「だいじょうぶですか?」

「ああ、うん。だいじょうぶ……」

「だいじょうぶ、じゃないでしょ、石上」向かいの席の上野さんが駆け寄って来て、「ほんとに顔色悪いよ? 今日は休んだ方がいいんじゃない?」

「いえ、それは」

「分かるけどさ。大変なのは。でも、夏風邪とかうつされたらみんなが困る訳よ。仕事があったら草加さんに任せてさ、うちらもサポートするから。そんなに大変な仕事、残ってないでしょ? 引継ぎだけして今日は帰んなよ、明日、土曜日だし。有給消化ってことにしておくから。溜まってるんでしょ、どうせ」



 まくしたてるように上野さんは言って、手早く割れたカップを片付けると、そのまま自分のデスクに戻ってパソコンに向かった。彼女は、私より五年先輩で、大学が同じだということでよく面倒を見てもらっていた。ぶっきらぼうで早口な所は苦手だけれど、心根は心配性な人だということは知っていた。



「じゃあ、そうします。ごめんなさい」

「いいから。早く帰んなよ」

「透子ちゃん、それじゃあ、お願い。ごめんなさい、資料、見てあげられなくて」

「は、はい。なんとか、やってみます!」



 仕事の引継ぎと説明、そしてマニュアルだけ教えて、結局その日は事実上の欠勤となった。

 朝の九時。ほんとに嫌な気分になる。こんなことなら、ヒールなんて履くんじゃなかった。







 妙にばつが悪くて、出来るだけ人目を避けるように早足で帰ることにした。さっき乗ったばかりの電車、向かい側のホームに乗る。こんな中途半端な時間の下り電車は当然空いていて、学生やお年寄りの姿がよく目立つ。家の最寄り駅までの数十分が、異常に長く感じる。

 冷房が効きすぎていて、気持ちが悪い。



 おかしい。いくら何でも異常だった。いつもはこんなに悪くはない。少なくとも、仕事に支障を出すなんて、それは私らしくはない。



 ――ひとつ、思い当たることはある。身体から力と、血の気とがすっと抜けていくような感覚。それは魔力切れを起こしたときと、よく似ていた。頭痛、吐き気、めまい。症状も共通するものがあるような気がする。それにしても、今日のは異常だった。程度がひどすぎる。



 通過する駅のホームに電車が滑り込み、緩やかに減速していく瞬間、ガクン! という衝撃で一気に吐き気がこみ上げてきた。乗客たちが、ざわざわと噂をする。



『お客様に申し上げます』車内アナウンスが、ざわつく乗客をにわかに静かにした。『ただいまホーム付近で、お客様の線路への立ち入りがあったため、この電車は急停車いたしました。なお、安全確認のため、この駅で少々停車いたします。お急ぎのところ、ご迷惑をおかけして大変申し訳ございません。中野・新宿方面、お急ぎの方は……』



 ざわつきは、一気に非難と不満の色を帯びた。ぶつぶつ、ぶつぶつ、ぶつぶつとした文句や苛立ちが、呟きとなって、各々の口から漏れ出る。

 ぶつぶつ。

 ぶつぶつ、ぶつぶつ、ぶつぶつ、ぶつぶつ。



「やめて……」



 限界だった。それを感じるのと同時に、電車のドアが開いた。



『ただいまホームの安全確認が取れましたので、ドアを開けさせていただきました……』



 というアナウンスを後ろに、よろめく足で必死に駆け出して、一番近い女子トイレに飛び込んだ。個室に鍵をかけて、思いっきり吐いた。吐いて、吐いて、中身がぜんぶ無くなっても、まだ胃と腸がぎゅーっとしめつけられて何かを出そうとする。食堂がうねる。その度に脳の血管がずきずきと痛む。

 そのまま数十分はじっとしていたかもしれない。しかし、腕時計をみると、たったの三分くらいしか経っていないみたいだった。その事実に打ちのめされるように、また蹲って吐いた。その後、指先が震えているせいでなんども指を滑らせながら、這うように扉を開いた。



「あの、だいじょうぶですか?」



 ひどい顔をした自分を見ながら鏡の前で手を洗っていると、高校生くらいの女の子が声をかけてきた。眼鏡に長袖のパーカーを着て、大きなリュックを背負っている。どこかで、見たことのあるような……



「あ……凄く顔色が悪そうだったので、つい。ごめんなさい」

「ああ、ごめんなさい。大丈夫ですから、ありがとう」

「気分が悪いようでしたら、駅員さん、お呼びしましょうか?」

「いいえ、お構いなく」



 けれど、その子は私に付き添ってくれた。ホームの待合室まで私を連れてくると、ペットボトルの麦茶を寄越して、背中をさすってくれたりした。



「ありがとう」

「いえ。そんな」すると、その子はおずおずと、「あの。ひょっとして、この間のライブに来てくださっていた方……ですよね?」

「ライブ?」



 それではっと、気が付いた。この子に抱いていた既視感。知り合いではないけれど、どこかで見たことのあるような顔。



「あなた、明日架の……」

「あ、はい。ドラムの寺川瑞穂です」








 話していると少しだけ気分が和らいでくる気がした。彼女は、電車の中でたまたま気分悪そうにしている私を見つけ、それがたまたま、あの時のライブにいた客だと分かったので、声をかけたということだった。



「よく、分かったわね。お客さんは他にもいっぱいいたのに」

「ドラムって、ステージの一番奥にいるじゃないですか、あ、いるんですけど……ほかのメンバーの演奏とか、様子とかを見ながらリズムを打たないといけないので……その時、明日架さんがずごく、あなたの方に意識を向けていた気がして」

「ああ」



 きっとそれは私じゃなくて、私と一緒にいたひばりさんの方を見ていたのだ。



「あっ、その、ありがとうございました。ライブ、来てくれて」

「いえ、素敵なライブだったと思うわ」

「なんか嬉しいです。私たちのファンって、学生とかが多いから……社会人の方にも聴いてもらえてるんだと思うと……」



 確かに、明日架の――というか、明日架のバンドの曲は、いくつかスマートフォンにも保存していて、休みの日にはたまに聴いたりすることもある。正直ロックやポップスはそんなに好きじゃなくて、ゆったりしたジャズや、オーケストラの方が好きなのだけど、それでも明日架の歌声は、定期的に聴きたくなってしまう。

 身内贔屓じゃない。

 そういう不思議な魅力が、確かに彼女にはあるのだと思う。



「気分、どうですか?」

「そうね……だいぶ、楽になった気がする。ありがとう」

「よかったです」瑞穂ちゃんはほっと溜息をついた。「でも、遅いですね。電車、まだ止まったままで」



 確かにホームには、いつまでも人があふれかえっていて、動く気配が感じられない。列は列として意味を成さず、もはやただ、無秩序な群衆だ。



「そうね。どうしたのかしら」

「人身らしいですよ。さっき、車内アナウンスで言ってたじゃないですか。飛び込みですよ」

「飛び込み……」



 瑞穂ちゃんはスマートフォンを取り出し、手慣れた仕草でエゴサーチを始めた。



「ウワサですけどね。飛び降りたサラリーマン、確かに電車に跳ね飛ばされたらしいんですけど、その後、どこにも見つからないって。それで捜索が難航してて、いつまでたっても電車が動かないって……あ、ごめんなさい。気分悪いっていうのに、こんな話して」

「いえ、平気よ。だいじょうぶ」



 私は瑞穂ちゃんに努めて笑顔を向けながら立ち上がり、



「バスで行くことにするわ。ありがとう、瑞穂ちゃん。あなたのおかげでだいぶ楽になった、ありがとう」

「あ、いいえ。とんでもない!」

「助かったわ」








 半分以上は嘘だ。電車に飛び込んで、確かにはねられた女の子が見つからない。それは怪談だ、でも、私たちはそういうことに多少は経験がある。

 一歩一歩階段を踏みしめるたびに激しくなる動悸と頭痛をこらえながら、改札を出て、高架下へと入り込んだ。むっとするほど暑い炎天下でも、そこは特に湿気と熱気がこもって余計に暑い。



「やっぱり、近くに魔法少女の気配を感じていたんです」



 私の予想通りだ。三つ編みをふたつ垂らしたクウが、私の元へすっと飛んできた。



「クウ、あなたがここに居るということは……さっきの事故は……」

「はい。さっき線路に飛び込んだ男はグローパーです」

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